「そんなのありですか?」

短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……
おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海
青松輝「フィクサー」『第三滑走路』7号

岐阜亮司「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」に引用されたこの詞書について、廣野翔一がツイッターで以下のように発言しました(現在は該当ツイートは削除され、廣野翔一の作成した記事に内容が復元されています)。

こういうなめくさった詞書を書く奴を短歌はなんで飽きさせたらあかんのって思うんやけど。勝手に出てけや。

対するやりとりのなかで、青松輝はツイッターで以下の発言をしています。

よく知らない歌人(僕)の歌を一首だけ引いて(しかも孫引き!)、「勝手に出てけや」ってそんなのありですか?それも「現代短歌」の編集までしてる立場の人が…

まず「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」は僕の文章ではないし、僕は一回も出て行くなんて言ってないです
一言の「お詫びします」のリプライだけで、あなたの「誠実さを欠いた言動」によって傷付いた僕の歌人としての風評が回復するのでしょうか?
いったい何人、僕のことをまだ知らない人がツイートを見たのかという話ですよね。

また、佐々木朔が同記事に引用された同じ詞書について、ツイッター

言い忘れていたけれど記事で引用されている「短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……」という詞書がついている歌については「いやいいわけないしそんなこと言うならやらなきゃいいのに」と思いました(作者ではなく作品への評価ですが)
孫引きだし連作? 全体を読めていないので私の知らない趣向があるのかもしれないが

と発言して、青松さんはツイッター

わざわざこんなこと作者が言うのもバカらしいですけど、この詞書自体は最後の歌についていて、ネットプリントで短歌を書いてるくせに「短歌、これくらいでいいですか?」とか言って締めてくるおふざけ、みたいなニュアンスのつもりで書いてるしそう読めると思います。
この記事だと僕が自分のことを有能だと思ってて調子に乗って短歌をナメてるから「このくらいでも良いですか」と言ってる、と読めるかもですが、意図としてはツッコミ待ちのおふざけというか。それでもなお「言わなくて良くない?」と思われる人はいてもいいですが、変に受け取られたくないので一応。

と返答しました。佐々木さんは「ご説明ありがとうございます。私の意図を簡潔に表現すると「ツッコミ待ちっぽいからツッコんだ」というあたりでしょうか、後出しでこのようなことを言うのは卑怯と受け取られるかもしれませんが。」とこたえています。


岐阜さんの文章については思うところがあって

このふたつの記事を書いたわけですが、青松さんの発言について違和感がぬぐえなくなったのでこの記事を書いています。前置きが長くなりました。


青松さんの意見は、「短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……」という詞書は「ツッコミ待ちのおふざけ」のつもりだった、ということに尽きると思います。その結果、「いやいいわけないしそんなこと言うならやらなきゃいいのに」「なめくさった詞書」という反応が出た。そりゃそうだよな、と思いました。

それに対する青松さんの反応について。

よく知らない歌人(僕)の歌を一首だけ引いて(しかも孫引き!)、「勝手に出てけや」ってそんなのありですか? それも「現代短歌」の編集までしてる立場の人が…

まず「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」は僕の文章ではないし、僕は一回も出て行くなんて言ってないです

まずはここから。

まず「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」は僕の文章ではないし、僕は一回も出て行くなんて言ってないです

その通りです。廣野さんはあくまで、岐阜さんの文章をうけてそれに対する違和感を口にしたのだろうと思いました。

岐阜さんは「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」のなかで

短歌(をやっている人々)の怠慢によって青松輝が短歌に飽きて見切りをつけてしまったり、そこまで行かなくてもクイズ9割に対して短歌1割くらいの配分でいいやってなってしまったりしたらそれは短歌にとって思ったよりも凄い損失になってしまうのではないかということだ。

と言うけれども、「こういうなめくさった詞書を書く奴を短歌はなんで飽きさせたらあかんのって思う」。むしろ「勝手に出てけや」とすら思う、と。

よく知らない歌人(僕)の歌を一首だけ引いて(しかも孫引き!)、「勝手に出てけや」ってそんなのありですか?

だから、青松さんはこう言いますが、なしである理由はないです。ある歌に対する意見を述べるにあたって作者を「よく知らない」ことは問題にはならないはずだし、どこからが「よく知っている歌人」なのかは曖昧です。「一首だけ」引くことにも問題があるとは思えない。「勝手に出てけや」は岐阜さんの文章に対する意見だから、青松さんの詞書についての言及とおなじ一言におさめてしまったのは適切でなかったという旨を廣野さんは前述の記事で書いています。わたしも同感ですが、そもそも「なめくさった詞書」という反応については自分のまいた種というか、ツッコミ待ちに対してツッコミが入ったという点では佐々木さんの反応と同様のものです。

それも「現代短歌」の編集までしてる立場の人が…

立場は関係ないと思ってしまうのは、ここに書いた問題にもからんできてしまいますが……岐阜さんがわたしに対してそうだったように、青松さんも廣野さんのことを対等に話す相手だと思っていないのでしょうか。

そんなこと言うならやらなきゃいいのに(佐々木)
勝手に出てけや(廣野)

どちらも大差ない反応に思えます。

青松さんは、なぜ廣野さんの立場をいきなり持ち出したのでしょうか(そして、なぜ佐々木さんの立場を持ち出さなかったのでしょうか)。もしかして、相手に立場があったほうが文句をつけやすいからでしょうか。もしそう思って佐々木さんと廣野さんに対する態度を変えていたのだとしたら、それは佐々木さんに対しても廣野さんに対してもすごく無礼なのではないかと思ってしまいます。わたしの想像にすぎないので、それはさておき。

青松さんの反応は端的にダサい。

まず廣野さんに対して。

一言の「お詫びします」のリプライだけで、あなたの「誠実さを欠いた言動」によって傷付いた僕の歌人としての風評が回復するのでしょうか?
いったい何人、僕のことをまだ知らない人がツイートを見たのかという話ですよね。

この「誠実さを欠いた言動」というのは、青松さんが陽動作戦によって廣野さんから引き出した言わば「言質」のようなものだと思います。わたしは、先に書いたように、廣野さんの発言が「ありですか?」と問われるいわれはないと思う。口が悪かった、語調が荒かった、ことに対する「お詫び」くらいはあってしかるべきかもしれないけど、それを言ったら「これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……」もどっこいどっこいだろうし。

そして佐々木さんに対して。

わざわざこんなこと作者が言うのもバカらしいですけど、(中略)のつもりで書いてるしそう読めると思います。
この記事だと(中略)と読めるかもですが、意図としては(中略)。それでもなお「言わなくて良くない?」と思われる人はいてもいいですが、変に受け取られたくないので一応。

廣野さんには「僕の歌人としての風評」が「傷付いた」と言い、佐々木さんには「変に受け取られたくない」と言う。これは同じことを言っていると思います。雑にまとめると「いらんこと言うな」という感じでしょうか。

つまり、青松さんは、廣野さんに対しても佐々木さんに対しても、(もっというと、おそらく「読者」に対して、)自作に対する意見をコントロールしようとしているように感じます。その手段として相手の立場を利用したり、こういう「つもりで書いてる」という「意図」を後出しで説明したりする。

青松さんはおそらく、自作や自身に対してマイナスの印象を生じさせる意見がこわい。でも、最初に「ツッコミ待ちのおふざけ」という挑発を読者に投げつけたのは青松さんです。「わざわざこんなこと作者が言うのもバカらしい」とわたしも思います。そんなのありですか?