短歌は青松輝を飽きさせてはならない

 言いたいことは大体タイトルに尽きる。このことについて最近は漠然と考えていた。

短歌、これくらいでいいですか?こっちも忙しいんで……
おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海
青松輝「フィクサー」『第三滑走路』7号

 そもそも青松輝が短歌をやっていること自体不思議な感じがする。アルファツイッタラーで東大理三でクイズやっててしかも短歌? どんなエネルギー配分の仕方をしているんだと傍から見てて思っていたのだけれど、短歌に対してもブログで歌集評や歌人評を書いていたり、大学短歌会合同合宿に来ていたり、月に一度くらいのペースで山梨学生短歌会の丸田洋渡、Q短歌会の森慎太郎の両名と『第三滑走路』というネットプリントを出していたり、Q短歌会の鈴木えてと『ポストシェアハウス』という同人誌を編集していたりととても活発だし鋭い活動を行っている。

 僕が観測できる範囲だけに絞っても上記のような内容が出てくるし、『第三滑走路』の最新7号ではメンバー三人がそれぞれ「うたの日」という「ネット上で題詠の歌会ができるサイト」に一週間連続で短歌と評を提出するという企画を行っていた。第三滑走路の人々はとても精力的だな、とツイートなどで見かける度に間抜けなことを思っていたのでコンビニでネットプリントを印刷して「短歌、これくらいでいいですか?」という詞書を見たときに「ヤバい、青松輝を短歌以外に取られる」と思ったし、QuizKnockのライターになったということをTwitterで見かけて「取られた!」と思った。

 ここで僕が言いたいのはみんな短歌を辞めないでほしいみたいな感傷ではなくて(寺山修司も石井僚一も短歌に対して勝ち逃げしてずるいくらいの印象さえ持っている)、短歌(をやっている人々)の怠慢によって青松輝が短歌に飽きて見切りをつけてしまったり、そこまで行かなくてもクイズ9割に対して短歌1割くらいの配分でいいやってなってしまったりしたらそれは短歌にとって思ったよりも凄い損失になってしまうのではないかということだ。

 だから問題は短歌の側がちゃんとディグる、応答するみたいなことを(賞とかの外においても)していかなきゃならないのではないかということだ。凄い奴どんどん引き抜かれて行ってしまうのでは? みたいな。本当はTwitterでちょろっと「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」とか言及するくらいに留めておこうと思って一週間くらい前(注:七月十一日当時)からネタを温めておいたのだけれど多分みんなこのタイプの言及をしないのではないかと思っていて、かつ青松輝は短歌以外にも行くところがたくさんありそうだという勝手な危機感から僕はこれを書いています。書けば書くほどに青松輝の仕掛けた罠にはまっていってしまっている気がして嫌だけれど。自分にとって100%の文章しか出したくないみたいな欲望もあります。

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ブレイクタイム
 ここまで書いてみて、もしかしたらこの焦りは別に必要ではない種類のそれかもしれないと思った。なぜなら青松輝はQuizKnockのライターとして現代短歌の記事を担当するらしいし、むしろ今まで現代短歌なんて興味がないよみたいに思っていた人々に対して「面白そう」と思わせてくれるような記事を書いてくれると思う。知名度が上がれば、それにふさわしいだけの依頼なども増えていってくれるかもしれないとも。それにQuizKnockのライターは40人くらいいるっぽいので第三滑走路の方がチームとしてかっこいいなと個人的には思ったりしています。
 これまで全然Twitterなど更新してこなかったのに急に便乗じみたことをしだした理由として、大学で指導教員に「君はただでさえ難しいことを説明しようとしているんだから言葉を尽くしてわかるようにしていかなきゃだめだ」と半ば人生レベルでのアドバイスを受けたということがあります。つまりアウトプットの練習の一環です。
 最初noteでは初谷むいの歌集の話をしようと思っていた。今更だけどね。3000字くらいのやつももう用意してあるので近日中に公開します。

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 ここまで「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」という主張を表面だけなぞるようなやり方で書いてきたのだけれど、彼の作品や評論について何も述べないまま終わってしまうのはあまりにも酷いと思うのでそのことについても書く。でも実際のところ青松輝がブログで公開している評論や作品を読んだ方が絶対にいいです。

 「【歌論】佐久間慧と「人称派」」における人物のセレクト、半ば自身の作歌方法の開示であるようにも思える記事。

 「【歌論】瀬戸夏子・水泳・わたくし」における語りづらいものに対する語り方。真っ向から論じることも重要だけれど傍流として語るテクニックもあるのだな、というタイプの驚きがありました。彼の記事の紹介を終え、短歌に入っていきます。

 手持ちの『第三滑走路』を軽く探してみたところ、3号、5号、7号と奇数号ばかりが見つかった。タイミングを逃してしまい手に入れられていない号もいくつかあるが、ネットプリントという媒体の性質上このなかからいくつかを引用してとりあえず済ませることにしたい。

ビリーヴ・イン・ラングウェーッジ 問題はまだたくさん控えてるとはいえ
理由なら本当にないぜ 生まれてから死ぬまで僕は筆記具として
(「ぼくたちのラングウェーッジ」『第三滑走路 3号』) ドリームランドという遊園地が昔あって、今は限りなく廃墟に近い
誕生日みたいな一日だったな 本棚を買っただけなんだけど
(「テーブル」『第三滑走路 5号』)
限りなく零に近づく関数の、あれ?なんか声が出てこない
オンラインゲームの果てに悲しみの極致があるといいね ファッキュー
(「フィクサー」『第三滑走路 7号』)

 これらの短歌の僕の面白がり方として、コンテクストのずらしを楽しむというものがある。短歌をいくつかずつまとめて引用していくので青松輝の短歌だけ読みたいよという方は適宜飛ばしてください。このずらしについては彼自身が短歌とお笑いについて書いた文章の方が上手いし、そのパターン分析も行っている。ここではただ単にその文章をヒントにしながら、ずらしの種類についてもあまり込み入った分析は行わないままに進んでいきたいと思う。

 上記「M1を見て お笑いと短歌の「おもしろさ」」で青松輝は「おもしろさって①「既存の体系を少しずらす」っていう方向性と、②「新しい未知の体系を提示する」っていう方向性に分かれるんじゃないか」という分類の提示を行っている。この文章の発想の根っこみたいなものは主にここからきています。

 「コンテクストのずらし」という僕の言い方はおそらく半分くらい「短歌的な文脈の破壊」というものに換言できると思う。一首目、「ビリーヴ・イン・ラングウェーッジ」から入るこの歌は、われわれに馴染み深い感覚を呼び起こす(だろう)。言語に対する信仰を一切持たない人間はきっと短歌はおろかインターネットもしない。そういったある種の快さを感じさせる上句から、これがそのまま続くのだろうかと半ば予想しつつ目を向けてみると、下句では「問題はまだたくさん控えてるとはいえ」と急に身を引いてみせる。言ってみれば、はしごを外された形だ。そういった見方をしてみると、上句の「ラングウェーッジ」の長音符もからかいを含んだものであるように見えてくる。” language” という単語の音写としては「ラングウィジ」などの方が自然であるように思う。

 この、短歌的な文脈に一度乗っかった後でそこから身を引く構造を指して僕は「コンテクストのズレ」だの「短歌的な文脈の破壊」だのと分析して、あるいは言い立ててみたいと思う。

 二首目、分けるなら「理由なら本当にないぜ 生まれてから死ぬまで僕は/筆記具として」だろう。四句目までのいかにもありそうなかっこよさ(「ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら/加藤治郎」が思いだされた)のなかで「筆記具」が明らかに浮いている。文脈の外にあるものが急に飛び込んできた感じだ。しかしこれは語の選択によるもので、たとえば「筆記具」でなく「ペン」という言い方をしてみるとかなり腑に落ちる表現になるだろう。それはともすればベタすぎるくらいに。

 三首目、この文章には僕の手元にあるなかで好きな短歌を引用しているが、そのなかでもかなりよい歌だと思う。なんというか、親戚の叔父さんがサラッと告げる冗談みたいな感じがする。「ドリームランドという遊園地が昔あって、今は限りなく廃墟に近い」と告げられた側——上句は、強いて言えば「ドリームランドという/遊園地が/昔あって、」くらいのゆるやかな区切りで読みたい。告げられてる感?——の反応としては、まず第一に「へえ、そんな遊園地が昔あったんだ、良いところだろうな」というもの、そしてその次に「『今は限りなく廃墟に近い』ってことは閑散とはしているだろうけどまだ潰れてないじゃん!」と続く。「昔あって、」とつなぐこと、そして一首全体の追憶するような語り口から一瞬、シリアスな雰囲気をまとった歌であるように思ってしまうが、違和感に立ち止まってみると実は冗談を言っているにすぎない。自然なタイミングでこちらの読み方を操ってくれるこの歌は意図的なものであると思うし落とすところに落としてくる感覚がとても上手い。ずらしという点に関連付けるならここでは語り口・文体とその内容との間にもずらしが存在していると言える。

 四首目、「誕生日みたいな一日だったな」で下句に何が来るのだろうと思わせてからの「本棚を買っただけなんだけど」の落差。これもよい歌で、でも結構言及されているイメージがあるので詳しくは触れないことにする。

 五首目、xを無限に飛ばすことで「限りなく零に近づく関数」と、「あれ?なんか声が出てこない」という自らの状態とが重ねあわせられたイメージとして想起させられる。上句で「零に近づく関数」を提示することで、下句の声が出なくなる過程は気がついたらといったものではなく、話している最中にだんだんと出なくなっていき、しかもわかっているのにそれを止められないといった印象を持つ。

 六首目、「悲しみの極致」への適当な「いいね」と、その直後の「ファッキュー」。かっこいい。

 また、今までに引用してきたネットプリント上として発表されたものの他に、『Q短歌会 機関誌創刊号』と『ポストシェアハウス 1号』がいま僕の手元にはある。これらからも引用をするので、半分は資料価値あるなあくらいの感覚で見てもらえると嬉しいです。

生まれてくるタイミングが悪かったすね 湖 はるか遠い湖
ロシアには24時間営業の花屋があるという それが何?
3月の空気の透明さに 速い車が突っ込んでくるイメージ
すみやかな自己投影を愛そうよ川の水から首だけ出して
遠距離の恋愛すべてつまらない 心のなかにワニ飼えよ ええよ
(「VS松永・VS世界」『Q短歌会 機関誌創刊号』)

 『Q短歌会 機関誌創刊号』の青松輝はかなり挑発的に「短歌的な文脈のずらし/破壊」を試みている。「ロシアには24時間営業の花屋がある」ことに対して良い感じの言葉はいくらでも続けられるだろう。嬉しい、ロシアの人々は優しい、余裕がある、日本にはほとんどない等。その事実を知った、あるいは思いついた時点でこの歌の勝利は約束されている感があるのだが、二首目では穏当な終わり方を許さずストイックに「それが何?」とわれわれの文脈を切って捨てる。

 あるいは三首目、「3月の空気の透明さに」で形づくられた雰囲気が「速い車が突っ込んでくるイメージ」で破壊されていること。「速い車が突っ込んでくる」、そして「透明」であることからガラスが想起させられる。

 「生まれてくるタイミングが悪かったすね」の半ば吐き捨てる感じと「遠距離の恋愛すべてつまらない」という不満がそれでは何を、そしてどのような文脈を志向し提示しているかと言えば「川の水から首だけ出して」であり「心のなかにワニ飼えよ ええよ」であろう。いや、実際にはそんなことは全然なくてただ単に僕自身が、挑発的な文脈のずらしの先に見えるちょっとかわいい描写やテーゼを好きなだけかもしれない。文脈をずらす方法自体の破壊的な感覚と、ずらした先にあるかわいさとが青松輝のなかで短歌とお笑いをつないでいるのかもしれないというそれっぽい提言をしておくに留めます。

 上述してきたような青松輝の短歌のテイストは『ポストシェアハウス 1号』になるとすこし違った趣きを見せる。

自己主張くりだすあいだじゅうずっと金糸を浴びせかけられている
あれ、それは空間芸術 ゆっくりと停止と発進を繰り返す
つまり、その目を伏せることのあかるさ 押し寄せて 押し寄せて離れる
(「弛緩して遅延される」『ポストシェアハウス 1号』)

 一ヶ月ほど前にこの文章を半分くらい書いていて、そのときのメモに「点・線・面」「共鳴と反発」「時間」と残されている。そのときの意図を正確に思いだすことは難しいが、流れとしては青松輝の作風が最初期の「(短歌的な文脈の)破壊」からここでの「利用と破壊」へと変化しつつある(共鳴と反発)ということ、そしてその際に重要なモチーフとして「点・線・面」という「空間」や「時間」が存在するのではないかということだったと思う。

 この連作では「空間」と「時間」が繰り返し描写される。「くりだすあいだじゅうずっと」、「空間芸術」、「停止と発進を繰り返す」、「押し寄せて 押し寄せて離れる」のように。一首目に引用した歌は「金糸(=禁止?)を浴びせかけられ」る動作だが、二首目と三首目では「停止と発進」や「押し寄せて離れる」ことの動作主がはっきりと明かされないために、運動モデルのように、動作だけが抜き出された形で思い浮かぶ。

 そしてそこで行われるのは「停止/発進」「押し寄せる/離れる」といった反復的な動作だ。この、連作で直接的に描かれるモチーフとしての反復的な動作が、短歌的な文脈の「受容/ずらし」といった両義的なテーマ・試みに近接していっているのではないか。しかしこの部分の説得的な架橋は、おそらく僕が思っている以上に、慎重に行わなければ単なる作家論で終わってしまうように思う。

 最後に。

始めたら最後まで終えないとって強迫観念捨てろ
(「VS松永・VS世界」『Q短歌会 機関誌創刊号』)

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