「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」の補足」への感想

これは、「「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」の補足」を読んだ感想です。

「「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」の補足」の結びはこうなっています。

今回のこの文章は(略)本来意図していたのはこういうことですということの釈明(書き方によって意図とは異なる受け取られ方をしていると感じることは嫌なので釈明してしまう……)であって、僕は(勝手に推測しているだけかもしれないけれど)先のnoteについての言及のなかで対立してしまっている考え方はないのではないか、ないとうれしいな、と思っています。

読んでいくと、わたしの疑問点について丁寧な補足がされており、納得のいく部分も多く、考え方が対立していないとわかる点もあり、うれしかったです。

この結びの前に、「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」に対する山階基の「短歌はだれのものでもない」という投稿に対して、以下の反応があります。

新人賞で複数回次席を獲得し、また歌集を刊行し、既に「歌壇」に発掘されていると言ってもいいであろう側に立つ人物が、そうではない人物の発言を(おそらく)受けて「短歌は誰のものでもない」と言及する際に発生する効果についても思います。

「新人賞で〜立つ人物」が山階基を指しています。

「短歌は誰のものでもない」という極めて正しく見える言及に、ここでは「(だから短歌を誰かのものとして語ってはいけない)」という主張を補うことができます。

書いていないことは補わないほうがいいと思いました。どんなに想像力をはたらかせても、推測できるのはせいぜい「投稿者は短歌を誰かのものとして語るのは好ましくないと思っている」くらいのことかなと思うのですが。他人の発言のしかたを制限したり発言を禁じる意図はどこにもありません。

さておき、こう続きます。

歌人全員がそのような倫理的な態度を身につけたとして、その結果待っているのは結局、より「歌壇」の中心に近づいている人間、あるいはより読者を獲得している人間の言説(この短歌がよい、といったような)が読まれ、残るという状況ではないでしょうか。

岐阜さんは、ふたつ前の引用部で言うように、岐阜亮司と山階基とを異なる「側」に属している者として区別し、岐阜亮司より山階基のほうが「より「歌壇」の中心に近づいている人間、あるいはより読者を獲得している人間」であるとして、山階基から距離をとっている、あるいは遠ざけていると感じました。そして

別に僕は誰かと喧嘩したいわけではないです……

と続きます。

これは本当にそう思っていて、僕が無自覚に誰かの価値観をないがしろにしてしまっていたとしたらそれに対する反論、異議申し立てなどは当然為された方がうれしいしそれに対して僕は反応をするべきなのだろうと思います。

と言いつつも。

その結果なされる喧嘩というのは、宗教戦争のようなものなのかもしれないと思うし、当人たちにとってなされなければならない喧嘩であると思います。

と言いつつも。

岐阜さんはそもそも岐阜と山階は同じ土俵に立っていないと考えているようです。岐阜亮司と山階基は対等に意見をやりとりできる関係ではない、ということ。

「子供の喧嘩に大人が口出しをするな」という言い回しが成立しているとすれば、それは子供どうしが対等であるとみなされているからでしょう。

つまり、岐阜さんの言うように「なされなければならない喧嘩」があるとしても、山階基は岐阜亮司と「喧嘩」ができない。

対等に意見をやりとりできる関係ではない、というメッセージを受け取りながらこういうことを書くのは、ほんとうに胃がおかしくなるほどに苦しいです。でも書かないといけないと思った。

より「歌壇」の中心に近づいている人間、あるいはより読者を獲得している人間の言説(この短歌がよい、といったような)が読まれ、残るという状況

岐阜さんは《より「歌壇」の中心に近づいている人間、あるいはより読者を獲得している人間》を仮想した。でもそれは誰かから見た岐阜さんのことでもあるんです。

岐阜さんには、
・学生短歌会という活動の場がある
・機関誌という定期的な発表媒体がある

…例示をするのもつらいので、ここまでにします。きりがないんです。自分の持たないものを持つ人物を、その人物の持つものを挙げ連ねても。

そして、《より「歌壇」の中心に近づいている人間、あるいはより読者を獲得している人間》を仮想することそれ自体、岐阜さんが「歌壇」、そして読者を獲得するということが権力であると信じているということです。権力が権力であるのは、それに足るほど権力であるということを一定の数の人々に信じられているからです。

だからわたしは口を噤むことが多くなった。権力の話を持ち出さずにわたしが何かを伝えることは、そのまま権力の構造を強めてしまうかもしれない。

個人的なスタンスとしては僕も「短歌は誰のものでもない」と思いたい/半ば信じている

岐阜さんもそう思っているんだなと、補足を読んでいちばん安心した部分です。

わたしは、「短歌はだれのものでもない」と信じているし、信じていきたい。その考えを口に出す方法はこれからずっと考えていきます。

この機会にいちど強く考えることができてうれしく思いました。