構造主義と酒場

酒場では宗教と野球と政治の話はタブー。
よく言われる話だ。

この暗黙のルールに以前から違和感を覚えていた。当店では率先して宗教や政治の話をする。店主が野球には明るくないが、贔屓のスポーツチームの話も歓迎だ。

ではそんな三大タブー。誰が言い出したのだろうか?
各方面から調べて見たが第一次情報にはたどり着かなかった。

この謎の酒場の決まりを私なりに分析して解釈をしてみようと思う。

そもそもタブーとは?
「タブー」とはしてはならない行動的規範の事を指し、ポリネシア語の「強く徴づけられたもの」という意味が語源だ。本来は文化人類学用語であり世界各国に見られるインセストタブーや死生観に対する共通タブーがある事から“概念”として生まれた。文化人類学者のレヴィ・ストロースはフィールドワークを通じて当時は未開とされた民族の「タブー」に対する構造を見出した。
「酒場」という場所を文化の共同体、あるいは一民族として解釈すると「宗教、政治、野球」のタブーはそれ自体に意味を持つのではなく変換可能な属性をはらんでいる仮説が浮かぶ。

酒場を形作るものは何か。
上記の仮説に基づき「酒場」を単なる店では無く文化共同体として考えると、その「ハコ」自体の意味は希薄であるかもしれない。酒場が酒場として存在する意義は店主や常連たちの各々のパーソナリティやキャラクター、その場で繰り広げられる会話など目に見えないものだ。

ある店では毎日店主と客が明日の波の高さについて話している。またある店ではオススメのゴルフ場について、別の店では不倫をした芸能人の話や薬物で捕まった有名人の話を肴に夜を明かす店もあるだろう。各々の店の「色」を我々呑み人達は無意識か意識的かクラスター分けしカテゴライズする。約束の地を求めるユダヤ人の如く、梯子酒を続けるのだ。酒場は常に流動的であり、店主がその運命に抗う事は傲慢だ。

構造主義で酒場を見てみる。

しかし、少し視点を変えてレヴィ=ストロース的知見から「酒場」を見てみよう。
構造主義の観点から、酒場を野生的なコミュニティの最小単位として見てみるのだ。
するとその場で繰り広げられている会話の内容、トピックそのものの意味や優越の価値は
途端に剥ぎ取られてしまう。どんな店主がいるか、お客様の社会的、文化的レベルなんてものは全く意味を成さないのです。南米やアフリカを「未開」と見下し、文化的優越がある事自体を否定したレヴィ・ストロースの考えを街の酒場まで落とし込むと、酒場の実存の主体が人間であると言うことさえも疑って見えてくる。
これはサルトルの実存主義を敢えて否定したレヴィ・ストロースと同じ構造だ。
酒場の主体も実存も否定し、そのものの「構造」に着目すると酒場でありながら酒も会話も人もそれ自体には意味を持たないパラドックスが発生する。
もっと大きな構造の中に私たちは存在しているのかもしれない。

酒場のタブーの構造とは
では、改めて上記の酒場の三大タブーを構造主義的な観点から考えて見ましょう。
野球、宗教、政治の三つの構造と変換可能なものとはなんでしょうか。

まず、考えられることはこれらには「正解がない」という理由がある。宗教は抽象的であり、野球は流動的で、政治は主観的だ。全て実態も普遍性もないが、それらに没入した人は人生の大きなウェイトを経済的にも時間的にもそれらに投じる。
他方で、それらに興味がない人間からすれば嘲笑の対象に最適である事も共通している。時に命をかけてでも守る何かがあるが、理解の範疇を超えている事も多い。
宗教、野球、政治を普遍性や絶対性で語ることは不可能に近いのだ。

交換可能なタブーとして、
私は上記三つにラーメンと目玉焼きも加えたい。
男同士の「あのラーメン屋が美味い話」は実に厄介だ。ラーメンの美味しさと優越はあらゆる料理の中で最も主観的かつ、流動的だ。「ラーメン」そのものの実態はもはや崩壊しプラトンで言う所のラーメンのイデアは不明瞭になっている。
だからこそ人はラーメンについて語りたがるし、対立構造も生まれやすい。

もう一つが「目玉焼きに何かける?」だ。これは例えば餃子でもいいかもしれない。

育ってきた環境が違うから夏がダメだったりセロリが好きだったり。という歌があるように、調味料の選択は、幾重にも連なった条件が交錯する。
家庭環境、生まれた地域、家族構成、従事している職種、一つの目玉焼きが出た時に何をかけて(あるいはかけずに)どのように食すかは、レヴィ・ストロースがかつて行った以上に研究しすべき文化人類学だと考えている。

余談だが、アニメ美味しんぼでも世界中から目玉焼き愛好家が集まり、焼き方や調味料に対して議論する「世界目玉焼き会議」という突飛なイベントが開催されたエピソードがあった。

上記に共通することは圧倒的主観が含まれる点。

なぜ圧倒的主観が酒場ではタブーなのか。

「圧倒的主観」と表裏一体に潜むものは「排除の思想」だ。
最も美味しい目玉焼きの食べ方や、野球チームの優越の前で客観的事実とデータは意味を成さない。主観と主観の対立にこそ、面白さがあると私は考えるが、それは「正解が出るはずのない不毛な議論」だと一蹴する人も多い。

新型コロナウィルスの連日の報道により心が貧しくなり「コロナ鬱」「コロナ疲れ」と言った言葉さえも生まれている昨今。
何よりも怖いのは「排除の思想」が蔓延ることだ。
自身も例に漏れず知識武装する癖が染み付いたタイプの人間は、有事の際に冷静を装い
「正しい情報」を得ようとする。しかし現在進行形で進行する未知なるウィルスに「正しさ」は存在しない。正誤についてのファクトチェックは全て結果論にならざるを得ない。

ならば何が必要か。
それは想定外の意見を受容する力と心の余裕と平穏ではないか。

為政者や、特定のモラルに反する職種に対して、奴はけしからん。こんな時に不謹慎だ。と糾弾する事は、有識者のふりをするにはもってこいだがとても恐ろしい。

我々が所属する国家が声高に「緊急事態」を宣言したのだ。
あらゆる当たり前が通用しない今。今までの常識がある側面から見れば不謹慎となり、
自分にとっての日常がとっても卑しく後ろめたくなってしまう。

だから私は「タブー」の実存は否定する。

お店を営業しているだけで後ろめたい。
そんな時代が戦後にあっただろうか。
だからこそ私は実存を否定してみる。
「店を開ける」という行動自体の実存は離れ、「酒場」の構造を考える。すると場所を超越したもっと大きな普遍的な場所が必ずある。

敢えてタブーを否定しよう。
構造主義で物を見れば、場所も人も意味はない。
我々酒飲みが求める本来の構造はもっと普遍的なはずなのだ。

20/4/10

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