豊かな時代に育った私たち世代
生まれは1969年。
団塊ジュニア世代ど真ん中で
バブル期に青春時代を過ごした
新人類と呼ばれた世代です。
きっと、すごく恵まれた時代背景です。
自覚はないけれど。
団塊ジュニア世代ってなんだ?
両親は太平洋戦争が始まった1941年生まれで
成人した頃は昭和30年代?
社会人になったころから世の中に
テレビをはじめ
掃除機冷蔵庫など白物家電と言われるものが普及し始めて
戦後復旧に伴って、働けば給料が上がっていく時代。
がむしゃらに働くことが
その人の価値を決める
世間の目、他人の目、が
物事の基準
だから、よく
世間体、とかね
みんなが、とかね
子どもにもそう言う価値観を
植え付けてきた世代
かな、なんて思ってます。
そんな時代の後に育った新人類は?
あんまり意識してなかったなぁ…
自覚はないけでど、景気が良かったから?
適当に生きてるように見えたのかな?
『新人類』なんて呼称が付いてましたね。
今で言うところの『Z世代』でしょうか?
世の中が勝手に付けた年代を総称して呼ぶ言葉ですね。
あの頃も今も、
当事者になった当人からしたら
(一括りにするんじゃないわよ💢)
と、これまた勝手にプンスカしてたもんです。
自分は違う!
と、思いたかったのかもしれません。
まぁ、これに関しては、親世代が言われた「団塊世代」もそう思ってたかも?ですけどね。
そして、プレシニア世代
もう直ぐ55歳。
もしかしたら、これまでの人生で一番「わたし」で生きているのが、今かもしれません。
人によっては
そりゃぁ、子どもたち成人して家にいなけりゃ、そんな余裕もあるよね。
親の介護がないからそんなこと言えるんでしょ?
どこも具合悪くないから、そんなにお気楽なんでしょ?
という見方をすることもあるかと思いますが、
わたしもつい数ヶ月前まで義母と同居介護してましたし、
一昨年は子宮全摘手術もしました。
子どもたちに関しても、二人とも少し心が不安定で、定期的にカウンセラーにお世話になってます。
でも、だからってそれを理由に「わたし」を諦めなくてもいいんじゃないか?と思うんですよね。
私は私の人生を生きる。
そんな気持ちで日々を過ごしてます。
だから、若かりし頃、親から言われた
「やめとけ。どうせやったところでこうなるんだから。」
と言う呪詛のような、
子どもが傷つかないために、と口にしたであろう言葉により、
自分の内側に芽生えた(やりたい)の気持ちを封印する癖がついてしまったわたしを卒業して
今は、少しでも興味が出たものは体験してみたり
学びの場に身を置いたりして
心を育てていってます。
どうもこの状態のことも、一説によると
マズローの欲求5段階説に準えて
「自己実現欲求の段階なんだね。」
なんて括られることもあるようですが、
それならそれで良いのじゃないか?
と最近は思ってます。
私にとって自己実現欲求を満たす、とは
自分の人生だから、
自分で変容することを楽しみながら、
自分が行ったことのないところへ自分を連れていってあげる。
そんな感じ。
とは言え、
私と同じ年代で、
老後を生きるように、自分の人生を諦めている
今のままでいい、と現状維持でいることが老後は安泰だと思っている
親の介護や孫の面倒をみなきゃいけないから、と、いつかは手放すことなのに、それがずっと続くと思っている
ずっと今のまま変わらないと思っている人が、
まぁまぁいることも確かです。
同じ状態が続く保証なんてどこにもないのに、です。
本当に、それでいいの?
強制するつもりは全くないのです。
そこに留まる、と言う選択肢が悪いとか良いとか、ジャッジできることではないから。
ただ、もし、一瞬でも、今置かれている状況に
不平不満
誰かに対する文句
を持っているなら、
過去に関わった人への恨みが消えない
と言う自分がいるのなら、
気づいた今がチャンスですよ!
と伝えたい。
自らチャンスを掴みにいって
変化変容をしていったら、
その先には誰かを基準にすることなく
本当の意味でわたしが主体の「私の人生を生きる」が実感できるようになるんじゃないかと思うから。
わたしの経験上、わたしが主体の毎日を過ごせるようになると、
これまで目についていた、些細な、自分を苛立たせることが、だんだん気にならなくなるのでね。
ご機嫌な人でいっぱいの世の中。
なんか、いいと思いませんか?