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その、スタバで涙ぐんでる女はわたしです。

昨日は、20年来の友人の結婚式に。
中高を共に過ごした15人の仲間と共に、
非常に楽しいひとときを過ごしました。

結婚式が、それはそれは愛に溢れた素敵なもので、
大笑いしていたかと思ったら涙する、
情緒不安定な三十路オババたちとの時間は、
今思い出してもニヤニヤしてしまいます。

と、いうことは大大大前提の上で、

旧友と過ごす時間の中で、
私の内側がとても喜んだことがありました。


それは
「何も変わらないね〜笑」の一言。

その一言が、ただ、ただ、嬉しかったんです。

言われたときは、
「え〜ほんと〜!!!!?」
と笑って、とりとめもない会話が続いたのですが、

その直後から、
「変わってないって嬉しいな、、」
「中高の時の私ってどんな子だったんだっけな、、」
「今の私と当時の私って、ほんとに変わってないのかな、、」
と、思考が急速回転。

自分迷子になりがちな私に、
とても大切な何かを思い出させてくれた気がしました。


ウェルカムドリンクを楽しむスペースで談笑中に、
見知った顔が受付に見えると、その度に飛び上がっては
走り駆け寄って、
「きゃー!!!久しぶり〜!!!」なんて甲高い声で叫ぶ。

弾丸トークで口数は増える一方。

私がオトした一言で、笑いが起きると、とても嬉しい。

みんなが、目を見て、うんうん話を聞いてくれて、
オチがなくても心地よく拾ってくれる。

そんなひと時を過ごして、
「ほんと、何も変わらないね〜笑」
と、笑い合う。

なんで、その一言が、
無性に嬉しかったのか、
昨日の時点ではモヤがかかっていたのですが、

ついさっき、
ジャーナリングをしている最中に
ハッ!と降りてきました。

それは、
「認められた感」
「承認感」

を、私に感じさせる言葉だったのです。

誰かを喜ばせようとも、
相手がこういう行動をしたら喜ぶかな?とも、
考える隙もなく、
旧友を見た途端に、体が走り出し、
「きゃー!会えるのほんと楽しみだったんだよー!!!」と叫ぶ。

それは、誰かのためでも、
誰かに認められたいからでも、
好かれたいからでもなく、
単純に、私がそうしたかったから、
しただけ。

私が心からやりたい!ということを、
頭が感知するよりも前に体が動いて、
その喜びを表現したまでのこと。

これって本当に大切なことで、
大人になると、上司の評価や、周りの目を気にするようになって、
自分の本能が渇望している、
やりたいことってのが見えてこなくなっちゃうんです。

いつの間にか、誰かに認められる自分を演じ、
部下の私、上司の私、母親の私、妻の私、嫁の私など、
仮面がどんどん増えてきて、
「私がわたしで在る時間」が、気づかない間に、
なくなっていってしまうんです。

そうすると、閉塞感や、物足りなさ、日々に忙殺されて、
本当に私の人生これでいいのか?
って問いがぐるぐるしてくるんです。

でもね、私が誰かに求められる私でなく、
私が、「あるがままのわたし」として行動した結果、
「変わらないね〜笑」と、言われたということは、
私には、「あるがままのわたし」で生きていた時期(中高時代)があって、

その時に、私と時間を共にし、
遊んだり勉強したりいろんな話をしてくれていた、ということは、
「わたし」と一緒にいてくれたってことなんです。

誰かを喜ばせようとか、好かれようとか、気に入られようとか、
考えてぐるぐるぐるぐるしている「私」ではなく、
「わたし」とただ単に、一緒にいてくれたんです。

(”私”、多っ笑)

つまりは、
私が「在るがままのわたし」で居ていいんだ!って思えた瞬間だった。
だから、無性に嬉しかった。

気づいた途端、スタバで一人涙ぐむくらいに笑、
本当に嬉しかった。

いろんな役割を持っているけど、
私が「わたし」でいられる時間を過ごすことが
イキイキにつながるんだろうな。

それこそ、今の生活の24時間を占めている
「母親としての私」を、
「(あるがままの)わたし」で過ごせたのなら、
最強にハッピー説。笑

この2ヶ月間は、長女の4歳の壁にぶち当たり、
「母親やめたい、、」と思うくらいの日々が続いていましたが、
一筋の光が見えてきた気がします。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
素敵な日曜日の夜をお過ごしください(^^)

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