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「違うレイヤーに立って話をしている」ことが理解できれば、人間関係はもっとシンプルになるのではないだろうか?

さて、ちょっと時間が空いてしまったけれど、前回の続き

前回の記事の最後に「そんなわけで定期的なメンテナンスのひとつとして、かかりつけ医に血液検査をしてもらっているのだけど、それがね、コミュニケーションについて考えさせられるおもしろい人体実験になっている」と書いた。
そう、先生とのコミュニケーションの話を書きたかったのだ。ということは、前回の記事、読まなくても大丈夫な気がする、たぶん。(じゃ、書く必要はあったのか?)


私は自分が「元気だな、調子いいな」と思う基準は「心地よくお酒が飲めること」である。さらに、心地よくという状態は、私の心身が共に安定していることだ。で心で言えば悩みやうまくいかないことがあったとしても、そこそこ安定していること。身体で言えば年齢的な衰えがあったとしても不快感がなく、日常を過ごす上で支障がない程度には元気であること。

そのためにかかりつけ医の先生にサポートしてもらっているわけだ

では、先生からみた私はどうかと言うと、本人は特に困っていないようだけれども血液検査をしてみると、本人が思うほど健康ではない。このままでは何年後かには病気になることも考えられる。今のうちに生活習慣を見直し改善すべきである。年齢的にみても可及的速やかにそれが必要と認識されている。

こう判断されることについて不服はない。エピデンスに裏付けられたプロの見立てだ。間違っているとは思わない。

問題は改善すべき点。先生はお酒は貧血にもなりやすいし、内臓にも悪いし、ろくなことはないのでやめるべきであると考えている。すべての酒が不健康に通ずる派だ。

ところで、最初にも書いた通り、私の健康の指針が「心地よくお酒を飲めること」である。

ということは、私が心地よくお酒が飲める状態であるためには、お酒をやめることであるという結論に至る

なにこれ、禅問答かなにかかい?

ことわっておきますが、先生との険悪な関係ではありません。先生がおっしゃるアドバイスの多くを私は完璧にできないまでも自分なりに取り入れているし、再診のたびに「これはできたけど、これは途中で挫折してしまった。でも仕切り直してこれは続けようと思う。でも、この件は私には難易度が高すぎて続けられない」など、振り返りを報告し自分の意志も伝えている。その上で、先生もこれならどうかしら、こうしたらいいのでは?というアドバイスをくれる。その関係になんら不服はない。

ただ、毎回、「でもねー、お酒が飲んでるのよね」(あ、女医さんです)となる。
「前回よりは量が減ったと思います」といっても「飲んでるのよねぇ」と遠い目になる(笑)お酒、ダメ、絶対!なのだ

いやー
私はお酒を心地よく飲みたいだけなのだ。
心身の調子が悪かったり、環境(主につきあい系のやつ)が悪かったりして、心地よく飲めさそうだなと思ったら飲まない。その結果、1年に1回になるならそれでいいし、3年に1回になるのならそれもいい。ただ、やめない。それだけ。でも、先生にはこの点を説明しても伝わらない。

これはもう「気持ち」の問題。お酒という見えるものがキーワードになっているけれど、「心地よく飲める状態で生きていきたい」という私の気持ち。
でも、先生には、この気持ちは伝わらない。それは先生がお酒をまったく飲まない(飲めない)せいだからなのか、そもそも何事に対しても見えること、結果、成果を信じるタイプだからなのか(医師だしね、エピデンス大事)

そこは私にはわからないけれど、先生にとっては、例え、私の血液検査の結果に何の問題もなかったとしても、「今は問題ないですけど、これから先飲み続ければ、問題が出てくると思うからやめたほうがいいですよ」と言う気がする(笑)

この視点の違いによるすれ違い。
「お酒という言葉を共通言語にしているけれど、全然、違うレイヤーにたってやりとりしているのだなぁ」と思った時に、「これって誰とでも起きうることだし、実際、これまでもあったなぁ」と改めて思う。

過去においては、その度に腹が立ったり、相手に悪意を感じたりしていたけれど、ただ、視点が違うだけ。そのことがわかっていれば、あんなに拗れなかっただろう。相手を説得(変えよう)しようと躍起にならなくてよかったし、いつまでもラチのあかない共依存的な関係(主に恋愛)を続けることなく、さっさと別れて立ち直るのも早かったかもしれない。

そう思うと、コミュニケーションがうまくいかないとか、苦手だという人の多くがこの「そもそも違うレイヤーにいる」の部分がわからないだけなのではないか?と思う。
ここを理解できると、多くの人間関係はすっきりシンプルになる気がするし、コミュニケーションに対する苦手意識も少しは薄らぐのではないだろうか?

私は先生に「私と同じレイヤーに立ってください」」と説得しようは思わないし、逆に先生に対していい患者になろうとも思わない。

先生のほうも「お酒、ダメ絶対!」というスタンスはこれからも崩れそうにはないだろうし、そうであれば、私は「言うことを聞かない患者」扱いされながら、時に呆れられ、時に心配され、ため息をつかれ続けるだろう。

けれど、先生との関わりが嫌いではないし、重荷でもない。この距離感で関われることがむしろ楽しい。

私たちはどちらも悪くない
人間関係においては、そういうことが多い(もちろん、例外はある)
何年か前だったら、それがわかっていても心の隅に
「悪気がないことを相手にわかってもらわないと誤解され嫌われる」という気持ちが残っていた。
でも、今は「分かり合えたら嬉しいけれど、それが叶わなかったとしても恐ることなどなく、心地よいコミュニケーションは一緒に作り上げていけるのだ」と思えるようになった。そして、この感覚を得て生きる上での安心感が一段深まった。

もちろん、誰とでもそんなふうに思えるわけではないだろう。どんな人となら、あるいはどういう環境、どんな距離感ならそれが可能なのかは今後の経験で明らかにしていこうと思っている


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