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置きっぱなしの避難用バッグを整理しながら

「ああ、そういえば震災の後に準備したんだ」
先日、不用品の整理をしていたら、避難用具が入ったバッグが出てきた。
東北の大震災の後しばらくして、組んだ避難用バッグ。玄関のとろこに置きっぱにしたまますっかり忘れていた。
 中には懐中電灯、薬、ティッシュ、ストール、ホッカイロ、歯ブラシ、ハサミ、飴、紙皿に紙コップ、サランラップ、各種電池にライターなどなど。

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そしてペット用シーツにレトルトの餌、消臭剤などなどペット関連グッズ。
そうだった。この緊急避難用バッグを作った時には、まだ猫が二匹元気だった時だった。
 あの当時はいざとなった時、興奮した猫を二匹、ゲージに詰め込んで逃げられるかどうかということと、連れて逃げられたとして避難所で一緒にいられない可能性も高く、車を持たない私はどうしたらよいのだろうか?ということが最大の懸念事項だった。
 そうそう、災害時にペットが避難所に入れず、ペットとともに車で避難生活をしていて体調を崩す人や亡くなる人がいたように記憶している。
今は災害時のペット問題、どうなっているのだろうか?

 今、二匹の猫は天寿をまっとうしてこの世にはいない。避難用グッズの中からペット用品を除いて捨てた。
他にも飴だの薬だのはすべて捨て新しいものにかえた。
その他のものも、あの当時自分にとって必要だと思ったもののほとんどが必要なくなっていた。薬ひとつとってみても、基本の痛み止めとか解熱剤とかはおいといても、当時と今とでは選ぶものも違っている。

 また携帯の予備コードとかも当時とは端子が全然違うし、避難先によっては電池よりもUSBコードのほうが重宝するかもしれない。
コロナのことを考えれば、また準備するものは違ってくるだろうしね

 なんてことを終えた数日後、東京で震度5の地震があった。震度5という大きさもさることながら、縦に揺れたことのほうが個人的には怖かった。あのスンと下に下がる感じが子供の頃に体験した宮城沖地震の体感を思い出す。東北の震災の時は東京にいたがあの時も一瞬スンと体が下に落ちたような記憶がある。

 この間の地震の時は心の隅で「この間、避難グッズ整理しといてよかった」と思ったけれど、心のどこかであの品揃えで大丈夫なのか?とも不安になった。

その不安とはつきつめていけば本当に必要なものがわからないという不安だ。今の自分にとって最低限必要なもの、これさえあればなんとかなるもの。非日常の中ではそれが大事になってくる。

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避難グッズを見直した時、私はちょっとだけ「まぁ、いらないものだけ捨てたからとりあえずこれでいいか」で終わらせてしまった。そのことが尾を引いて「いざ」となった時にもやっと不安になったのだ。

どれだけ用意周到に準備しても、何がどうなるかわからない。通常であってもそうなのに非常時となったらなおさらだ。考え出したらキリがない。あれもそれとも「あったほうがいい」ような気がしてしまう。不安を軽減するための避難用バッグではあるけれど、不安の沼にハマったらズブズブにバッグに引き摺り込まれる。



結局は「これで何とかする」という覚悟が必要で、その覚悟を持った結果がバッグの中身となって物質化しているだけなのだ

これって何事に対しても必要な意識なのだと改めて思う。

非常事態とは変化のことだ。これまでとは違うことが起きた時、これまでのやり方では通用しなくなった時、これまでとは違う環境になった時などなど、避難道具ともいうべき自分にとって最低限必要なものは何か?何を大事にし、何を捨て何に希望を見出すのか?

失ってから気がつくのもまた大事な経験かもしれないし、「これだけは」と思ったそのこと自体が実は単なる執着だったということももちろんある。
でも、「自分にとって大事なもの」が明確であることは避難バックを備えているようなもので安心の確保なのではないか?
時々見直して、違うなと思えば必要なものと入れ替えていけばいいだけ。
大事なのは「今の自分」にとっての必需品(大事なこと)が自分の中で明確であることだ

それが自分を知るということだから


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