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「自分を生きよ」今日も自分に声をかける

「小田急線の電車内で殺傷事件があったらしいよ」
ニュースに疎い私はたいていの事件や出来事は友達に教えてもらって耳にする。
件の殺傷事件も最初に知ったのは友達のそんな言葉だった。
その後、友達がネットニュースに流れた動画を送ってくれてざっと概要を知る。
「幸せそうにしている女性を殺してやりたいと思った」
報道によればそれが犯行の動機だったそうだ。


誤解しないでほしいのだけど、この犯人がしたことを肯定するつもりはない。
ただ、誰かを妬む気持ち、恨む気持ち、そんなものは私の中にだってある。そう「あの犯人は私」であってもおかしくない。

私は医歯薬系の大学に通っていたことがあって、その時に人体解剖をした。
授業のカリキュラムの一環だったけど、それでも当時の私は相当ショックを受けた。それは解剖がえぐいとか肉体がホラーとかそういうことではなくて人を解剖できてしまう自分にショックを受けたのだ。「これ、犯罪と何が違うの?」当時の私の頭の中はその疑問でいっぱいになった。

合法的な環境であるから法は犯していない。でも法は犯していないってことが自分の行為を是と裏付けるものであるとしたら、それはあまりにもあいまいだ。だって法って国や時間とともにどんどん変わる

人は自分がそうすることが正しいと思えば、どんなことでもやれるのだと思い知った。戦争だってそうだ。とすれば、自分の正しいって何? それまで対岸の火事のようにただ眺めるだけだった、殺人者や戦争や独裁者や色々が「あの人は私」になった。もう「あんなことするなんて信じられない」とは思えなかった。

人体解剖ができてしまう私は
私は自分が正しいと思えば人を殺してしまうかもしれない
切り刻むことだって平気やってしまうのかもしれない
自分が怖くなった
自分の正しさを信じていいのか?
うっかり自分を信じて地獄に落ちるのではないだろうか?

20歳になったばかりのチャラチャラした女子だった私に訪れた初めての人生の混乱期。ご飯が食べられなくなって、眠れなくなった。眠ると人に殺される夢ばかりみるようにもなった。体重も10キロ近く落ちた。何よりも自分が信用できなくなった私は「絶対的な正しさ」を自分の外側に探すようになった。

うーむ、当時は「調子悪い」くらいにしか思ってなかったけど、完全に闇堕ちしている。


祖師ヶ谷大蔵の事件の犯人も私にとっては「あなたは私」である。
ただ、あの20代の闇堕ちした私と今の私では決定的に違う点がある

それは「私は人を殺してしまうかもしれない可能性をうちに秘めている」が
「そうすることで自分を損なうことを知っている」という点だ

たぶんだけど、あの犯人も「ああ、幸せそうな女性が減って幸せ」とは思えていないのじゃないだろうか?

まぁ、犯人のことはわからないけれども、私は誰かを妬み、僻み、不当な思いを抱き続け、他人を呪い、そのつぐないを人に求めても自分がひとつもすっきりしないし、幸せを感じることはないということを知った。犯罪はおかしていないけれど、自分のうちにある不安に振り回されるあまり状況を俯瞰的にみる余裕をなくし、ことの本質を見失い世界を嘆き呪ったことは何度もある。そしてその度に世界を呪った自分を責め、自分を嫌いになった。


世界を呪いたくなった時に見るべきは自分自身だ。どうして「幸せそうな人」を見るのが辛いのか?その部分だ。自分の中の内面の荒れている部分を見つけ出す。その荒れとは、たいていは自分の何かを責めているのだ。それを責めて否定し、自分の中にあるその側面をなきものにしようとして我慢していることがある。その裏にあるのは自分への不信感と一人ぼっちになる恐怖だ。それを避けるために誰かの基準を採用し、誰かのようになろうして自分を損なっていく。自分を傷つけているのは誰よりも自分なのだ。孤独になるまいとしてかえって自分を孤独にしているのだ。究極の自虐プレイ
自分を生きよ。今日も自分に声をかける


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