その手にはのらん
「私のおかげでしょ」と感謝を強要する人に時々出会う。こういう善意の強要については私のそもそも持っている業のようなものと関係していることで、けっこう大きなテーマだ。でも、それがわからなかった時は「いやー、頼んでもいないことなのに、感謝を強要されるって一体この人、なんなのかしらー」と激しく反応したものだった。
こういうことが起きるのは自分自身の問題なのだと気がついた時から、そういう人が現れても「でたー」と三歩のけぞってスルーできるようになった。スルーするということは、相手の欲しいものを与えないということである。
修行のかいあって(?)ここのところこういったクレクレの人の欲求をスルーして露骨に一方的に嫌われるということはめっきり減った。相変わらず嫌われるけど、お互いに笑いながら距離を空けるという円満離婚みたいな感じで離れることができるようになった。
最後にそういうことがあったのは何年か前のことだ。ある出来事があり、それがきっかけで小さなコミュニティが作られ、その中の中心人物でもあったその人が、私を「家族」と言った。まず、それが不思議だった。なぜならば私はその人と本音で話したことが一度もなかったからだ。顔見知りではあったし、何度かお酒も一緒に飲んだし不愉快な気持ちになったことはなかったけれど、家族というほど濃密な関係ではなかった。
そこからアドバイスのような「あなたのために」「あなたを思って」が始まった。何かにつけてプレゼントもくれる。色々と誘ってもくれる。共通の知人との関係について「2人が幸せになってくれたらうれしい」と言われたこともあり、言われるたびに「私たちがつきあうかどうかは私たちで決めることなのでは?」と思ったのだけど、最初はお見合いさせるのが好きな人なのかなぁくらいに思っていてやんわり断っていた。
けれど、ある時、これはマウンティングなのだということに気がついた。「あなたのために」「あなたを思って」という言動の中には「私を認めなさい」があり「崇めなさい」があり「すごいでしょ」がかなり濃厚に含まれていることにきがついた。
それが私の中の違和感としてずっとあったから「私たちは家族みたいなものだから」と言われるたびに何とも言えない違和感に居心地が悪くなったのだ。そこに気がついて、もうその手にはのらんと心に決めた。
それから、私は自分がその人に対して本当に感謝した時だけ、感謝の気持ちを表すようにした。
そうしているうちに私はその人の「家族」という枠から外された。家族どころか、その人が仕切るあらゆる場所から追い出された。最初は突然のことのような気がしてびっくりしたが、そもそも私が相手に対して「これはちょっと違うだろう」と距離をあけたのだから当然のこととも言える。相手にとってみれば、私の方が「突然感じの悪い態度をとるようになった」人であり、不愉快極まりない人なのだ。話し合いということが一切できない人だからこうなることは当たり前っちゃ当たり前。でも、おかげで私を取り巻く環境はすっきりとシンプルになったのだから感謝すべきことでもあった。
誰かの「私を気持ち良くしなさい」という手には乗りたくないし、誰かに「私を気持ち良くして〜」とも言いたくない。
ただ、そう言いたくなってしまう気持ちの底にある寂しさや悲しさには寄り添いたいと思うし、そう思って欲しがってしまうことを否定はしない。なぜなら私の中にもそういう気持ちはあるからだ。あるからこそ、嫌悪感や違和感が出るわけで、なかったらそもそも何とも思わないはずだから。けれど、その気持ちがわかることと、クレクレと欲しがる人の手に乗ることは別。
私は「気持ちはわからないでもないけれど、その手にはのらん」と相手に向き合える自分でいたい
感謝を強要する人から私が学ぶべきことはいくつかあるが、そのひとつが「共感と理解、そしてNOという毅然とした態度」だ
ここさえ忘れなければ、一生理解しあえないかもしれないし、一生嫌われたままだとしても相手を恨むことはない
幸せを願うことだってできる
誰かに対して恨みながら生きるより、遠くから届かなくても幸せを願えるほうが人生ははるかに幸せだと思う
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