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「見張らない」でも「目を逸らさない」

先日、血液検査をした。けっこうあれこれとオプションをつけて細かく検査してもらったのだが、そのオプションの中に甲状腺ホルモンの検査を入れた。うちの叔母が甲状腺機能低下になったので(もう治っている)私も念の為と思ったのだ。

担当の医師からは「甲状腺はそんなに遺伝的要素はないですよ」と言われたが、私としては自分の甲状腺について調べたことがなかったので、どうなってるのか1回知っておきたいと思ったのだ。
まぁ、軽い気持ちでね。どんな感じなんだろって思って。


調べてみたら、結果、正常範囲よりもわりと低かった(笑)。
正確には「潜在性甲状腺機能低下」という状態で、現時点では治療するほどではないがこのまま下がり続けたら治療必須という状態。お医者さんからは「疲れやすいとか決断できないとか、物忘れが激しいとかありませんか?」と言われたが、「うーん、心あたりない」。
唯一、思い当たるとすれば、物忘れがあるということだが、これも高校生くらいの頃からそうなので、そういう質だと思っているので、体調不良とは全く思っていなかった。

「疲れやすい」も小さい頃、自律神経失調症で寝込んでばかりいたので、その頃から比べたら今の方がよっぽど元気だ。心理的にも大学時代の毎晩背中からさされて殺される悪夢と色を失っていた暗黒時代から比べたらはるかに自分との関係はよい。

大学時代の闇期についてはこちら↑で少し話しています


そんなわけで自分の中では潜在性甲状腺機能低下状態である自覚がまったくなかった。


しかし不思議なもので、「甲状腺機能が低下している」と知ったとたんになんだか疲れやすいような気がしてくる。重いものを持つのがしんどいとか、肩が張っていて辛いなとか、検査が出たあとからやたらと自分の中の不調が気になるようになる。なんというかわざわざ不調を探しては「やっぱり、甲状腺が…」みたいな気持ちがうっすらと心の中に湧き上がってくるのだ。

そんな自分と何日かすごしていて「ああ、このフォーカスの仕方は流さないと病気になるな」と思った。自分の体の感覚に敏感になることは大切だけれど、わざわざ不調を探して見張っている。不調のスタンプをわざわざ押しにいってるわけで、スタンプが溜まれば病気の引き寄せ完了になる。

不調をなかったことにしろということではない。疲れを感じているのに「疲れてない疲れてない」と自分に言い聞かせてふたをしてもどうにもならない。っていうか、蓋をしたらしたで行き着く先は病気である。

そうではなくて「疲れ」を感じた時に「やっぱり甲状腺が」なんてグジグジと思い悩まずに、寝るとか休憩するとか、スケジュールをリスケするとかして、疲れを取る対策を淡々と取ればいいのだ。もしくは病院に行って相談すればよいのだ。

そもそもの話、昔は正常値で、最近になって低下したみたいに勝手に思い込んでいるけれど、今まで測ったことがないのだから、そう思うことに根拠がない。可能性は低いかもしれないが、小さい頃から低かったのかもしれない。だとしたら、自律神経失調症も収まって、心も穏やかでむしろ今の自分はよくなっているとも言える。甲状腺低めの自分なりに人生を享受しているとも言えるわけで、この先も低め安定を保ちながら自分ができることをし、定期的に検査しながら過ごしていけばいいわけだ。
自分に寄り添いながら生きるということは、そういう肉体を持った自分と生きるということでもある。


心のことも同じなのだけど、自分の弱点を把握するということと自分の弱点を責めるというのは似ているようでまったく違う。

この違いが理解できないと不幸な引き寄せを繰り返すことになる。「やっぱり甲状腺が」と思うのと一緒で「きっと嫌われた」とか「やっぱりダメ出しをされた」「あれは私のことなんだ」と思い悩むことにエネルギーを使って消耗するか、「疲れてない疲れてない」と言わんばかりに「私は大丈夫」と自分の弱さに蓋をしてコーティングすることにエネルギーを費やして消耗する。消耗することにおいては同じなので、いつまだたっても負の引き寄せというスパイラルから逃れられない。

見張らない
けれども目を逸らさない
そんな塩梅で自分を見ていく
肉体というものとの付き合い方も心という付き合い方もそういう点では同じだ




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