見出し画像

これまでの経験では太刀打ちできないほど、まったく歯が立たないことをやってみようと思った時のこと

「これまでの経験では太刀打ちできないほど、まったく歯が立たないことをやってみよう」その時、なぜかそう思ったのだった。「その時」というのは20代の後半、そろそろ30歳に手が届くくらいの時のことだ。

 当時の私は雑誌のライターという仕事にだいぶ慣れてきていた時期だった。21歳でライターとか編集がどのような仕事なのかもわからぬままにライターになり「オマエの原稿など100gで100円だ!」とからかわれ、「君はなんでそんなに『てにをは』にクセがあるのだ」と驚かれ、気持ちが乗った順番に原稿を上げていたら、「まずは4C(カラーページ)から原稿を書くこと!1C(モノクロ)は後!!!編集の常識!」(紙の時代はこうだった)と非常識っぷりをあきれられ怒られる。
そんなことが日常茶飯事だった。
 そこから数年、無知ゆえの無鉄砲な行動もおさまり、慎重さもそこそこ身につけ、仕事もだいぶ任せてもらえるようになって一人前とは言わないまでも0.8人前くらいにはなったんじゃないか?と「自分で」思えるようになったのが20代の後半だった。

そんな時に叔母からお箏を習ってみないか?と声をかけられた。その時に「やってみよう」と思ったのだ。そう思ったのには、いくつかの理由があるのだが、冒頭に書いた「これまでの経験では太刀打ちできないほど、まったく歯が立たないことをやってみよう」というのがその理由のひとつだった。

画像1

ふと魔がさした

なぜそう思ったのか正直わからない。ふと「まったく何にもできない自分というものをこのタイミングで体験するべきである」そんな気持ちがむくむく湧いた。
正直、お箏に興味があったわけでもないし、むしろコミュ障には色々めんどくさい人間関係が山盛りありそうで(えらい先生にお酌してまわらきゃいけないとか)断ろうかとさえ思ったのだけれども、自分の中の深いところにある「これは絶対に自分にとって意味がある」という断固とした思いというか、決定事項には抗えずに、私は箏曲という世界に足を踏み込んだ。

で、踏み込んでみたら案の定、なにもできなかった。期待はしていなかったとはいえ、本当にできなかった。できることといったら正座くらいのものだ。でも、その正座も楽器をまともに弾ける姿勢や腕の角度などがあり、ただ座っていればいいというものでもない。厳密には正座すらできなかったのだ。それでどうなったかといえば、3歳や5歳の子供たちと一緒に童曲からやることになった。習い始めて半年くらいで発表会という名の舞台にもあがったが、その時も子供たちと一緒だった。なぜか、30歳目前であるにもかかわらず、振袖をきなさいと言われて中振袖を着て『私しゃ、都はるみか?」と思ったたことと、子供達の方がはるかに上手だったことだけを覚えている。

ちっぽけな自分がもたらしたもの

 できない自分との対面において私にもたらせれたのは出来ないことの清々しさだった。バカにされたとか、出来ない自分に落ち込んだとかいうのは、ある一定のレベルに達して思うことである。「出来ない」も振り切れば自分に対するへんな期待がなくなるぶん大声で「出来ません!」と屈託なく言えるし堂々としていられるものである。
 と、同時に自分が「出来る」という感覚が持てる世界というのは、世界全体からみればごく小さな一部でしかないということも実感した。その世界から外に出てしまえば、その「出来る」も肩書きも過去の経歴も今の実力もなんの役にもたたない。「その程度」のことなのだ。
 その程度というちっぽけな自分。それは私にとっては世界は広くあらゆる可能性が残されているということを示すものだった。だからちっぽけな自分が今持っている肩書きや経歴やそんなものに執着する必要はないし、失敗もつまずくことも、時には人に嫌われたり、うまくいかないことが起きたとしても、そこで人生が終わるわけではないということだった。

世界はそんなにケチじゃない

 私は怖かったのだ。なんとなーく人並みに社会というものと関われるようになって、仕事も楽しくそれなりに毎日充実している。そんな場所から弾き飛ばされて居場所がなくなることが。なんの経験もなく体当たりで働き始めていた時は失うものはなにもなかった。信用も経験も人間関係もなにひとつとして持たずに飛び込んだけれど、時間が立ってささやかではあっても信用も経験も人間関係もその世界の中で出来上がった時、今度は失うことが怖くなったのだ。どんなに楽しくやっているつもりでも、心の奥の深いところで失うことを恐れていた。その自分に対して「そうじゃないよ」「世界はそんなにケチじゃない」そこに気が付くことが、このミッションだったのだと思う

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?