優しさと自立心
コロナとか戦争とかをはじめ、物騒な事件も起きる様になり、社会そのものが荒れているせいなのか、私の身近でも「優しくないな」と思うことが増えている気がする。
私はテレビをみないし、ネット上でもニュースを毎日チェックするわけでもないので、浮世離れしている自覚はある。でも、先日、知人から「安倍さんの事件、知ってる?」と聞かれた時には驚いた。
いや、そこまで社会と距離をとっているつもりはない(笑)
そんなふうに見えるんだなぁ。20代の頃から「霞を食って生きている」と言われてきたが、その完成度はどんどん上がっているのか?(笑)
自分のことは自分ではわからないものだ。
とはいえ、安倍さんの事件は知っていますよ。感傷的にはならなかったけれども、人並みには驚きました。
そんなわけで、社会を語るつもりはないし、語るほど知らないのだけれども。
それでも日常を暮らしていると肌感として「荒れてるな」と感じることはある。「優しくないな」と思う発言を街中で、あるいは実際のやり取りの中で目にすることが増えた。
私が優しくないなと思うことはいくつかあるが、今日はそのうちのひとつについて書いておこうと思う。
それは、例えば、目の前で生理痛で苦しむ人に「生理痛は病気じゃない」と言うようなことだ。(病気により生理痛がひどくなる場合もあるけれど、病名がつく疾患がない場合においても生理痛は起きる)
それがいかに正論だとしても、痛みを抱えている人に対して、それを言ったところでなんになるのだろう?
病気じゃないからなんなのだ?
生理痛の話はあくまでも例えだけど、こういうタイプのやりとりを聞くと優しくないなと思う。
過剰な慰めや不自然な共感は必要ないし、慰めや共感の言葉を言いたくないのならいわなくてもいいと思うけれど、苦しんでいる人に対して、「黙っておく」優しさぐらい持っていてもいいのではないか?
しんどい思いをしている人の耳元で、なんの解決にもならない持論をぶつける人というのは昔からいた。「妊娠は病気じゃない」なんてのも、そういうもののひとつかもしれない。今ならコロナ関係でありそうだ。
このタイプの人に多く見られるのが攻撃性を抱えていることだ。(一部、悪気なくそれを言う人もいるけどね)その攻撃性とは「自分は正しく、あなたは無知である」という妙な選民意識だったり、「あなただけ得をして、自分は損をしている」という妬みだったり「自分と同じ苦しみを味わいなさい」という呪いだったり、「私は愛されない」という劣等感というか、不当な扱いを受けていると言う思い込みによる怒りだったり。
正論・持論を振りかざす人は本当の気持ちを隠していることが多い。それが言えないがための正論であり持論なのだ。だから、よ〜く聞くとその正論なり持論が破綻していたりすることもある。「本当の気持ちを言わずに相手をコントロールする」ことで自分を満たしたいわけだが、その「言えない気持ち」を弱きものにぶつけるという八つ当たりが、優しくない態度になる。
持論を持つことそのものが悪いとは思わない。自分が大切にすること、大事に思うこと、信じることがあるのは素敵なことだ。ただ、それがどんな素晴らしいものであったとしても、それを、いつ、どこで、どのような状況で言うのか?あるいは言わないのか?を見極める視点(センス)は身につけておきたい。それは言い換えれば、相手の立場にたって考える視点とも言える。そしてそれを身につけるには自分の本当の気持ちとの付き合い方が大事になる。自分の気持ちとうまくつきあえず、八つ当たりしてしまうのはどこかに依存心があるからだ。そういう意味では、優しさとは自立心の表れなのかもしれない。
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