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足引きの~「百首正解」より

柿本人麻呂
足引の山どりのをのしだりをのながながしよをひとりかもねむ
万葉集   【頭書】物を寄せて思いを陳べるとあり

「足引」は、枕詞である。「しだりを」は水垂尾で、水が垂れるように真っ直ぐな尾ということである。「をの」というのは、如(「言霊秘書」より…其二つ離れずして、又一つに搦(から)み與(くむ)ことを「如」と云)ということである。
「ナガナガシヨ」というのは、最初の「ナガ」は鳥の尾が長いことを言う。後の「ナガ」は夜が長いことを言う。「シ」は助言である。
この歌の中に「尾」が二つあるのは、山鳥の「尾」と、山の尾根を示す尾との、二つかかっているからである。
山鳥という鳥は、雌雄が尾根を隔てて寝る。そのため、わざと尾を二つ詠んだのである。
「独カモネム」の「カ」は、如是(かくのごとく)ということ。「モ」は亦ということで、如是亦寝、つまりこのようにまた寝よう、という意味である。

ヤマドリの画像(Wikipediaより)

一首の心。山鳥の尾が長いように、その長い今宵を私独り寝る。山鳥も、自分の尾が長いように、長い今宵を尾上を隔てて同様に寝るのだろう、ということで、故郷の妻と私(柿本人麻呂)を隔てて長い夜を明かすことを思いやった心である。
この歌、後世の説に、万葉集には「読み人知れず」とあり、殊に一首の内に「尾」ということ二つ、「長」ということ二つあって、人麿の歌ではないなどという人がいるが、それは歌のことが分かっていないためにそう言うのである。
前に言ったように、二つずつ詠み込んでいるからこそ人麻呂の歌なのである。この歌は誰もが詠める歌ではない。

それにしても、山鳥の尾上を隔てて寝るということについて、詳細は、先ず山を尾上ということの真実から言うべきだろう。山を「ヲ」ということは、五十連ワ行の「ウ」より言い、これはウロコの反(かえし)「ヲ」を指す。その鱗の形、すなわち△(山の形)、これによって山を「ヲ」と言うのである。
また、阿(ア)行のウより言うと、「ウロコ」の反(かえし)は「オ」である。その鱗の形は△である。すでに於(オ)の字を「ウヘ」と訓むのは是である(「言霊秘書」より…於(ウヘ)は、「ウ」は浮き昇ること。「へ」はふくれること。起る物は浮かび、脹れる故に、オをウへと云。故に、敬って、オ人(例父さんとか)と云、オ使(おつかい)と云時は、ウヘの(人の)つかひ、ウヘの人と云こと故に、今起るの義(意味)は下に居らず、上に秀るものゆへに、オコルのオに於也とあるなり。)
併せて「ヲウヘ」となるのを、ウを省いて尾上(おのへ)という。故に尾上とは、ウロコの並んだ形で、

△が二つ並んでいる画

である。

すなわち高い方は男山、低い方は女山である。 その男山に雄鳥は寝、女山に雌鳥は寝るのである。山鳥というものは、雌雄互いに山を隔てて寝ることが正しい鳥なのである。諸鳥山に棲むと言うけれども、名前はこの鳥である。万葉集などにも読んでいる歌である。頭書(あたまがき)にある。


山口志道は、柿本人麻呂のこの歌を非常に評価していることが分かりました。確かに一般的な修辞法は枕詞くらいですが、トンチというかシャレの効いた詠み方で、なおかつ「の」の繰り返しが、これも言霊秘書に書かれていましたが、回(めぐ)る水を表していて、水が流れるように見事に流麗な歌になっています。
山鳥は、調べてみると一般的に雄雌が同じ場所で眠ることが多いとされる鳥だとありましたが、山口志道は雌雄互いに山を隔てて寝ることが正しいと言っています。
今回は、鱗△の反の部分が難解でしたが、「言霊秘書」の於(ウヘ)の解説と併せてみると理解ができました。
百人一首もやはり「言霊秘書」がないと正しく理解することはできません。

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