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宿題から学びの本質を考える

小学校2年生の宿題に、自主学習というものがある。自主学習用のノートがあって、そこに自分で決めた宿題を書いていくようだ。例えば、国語の教科書を書き写したり、漢字の練習をしたり。計算をしたり、空想のお話を書いたりすることもある。

ちょっと前に出た自主学習の宿題で、長女は最近音読している文章を書き写すことにした。「音読を書写するね~」と聞いた後、私は自分の仕事を粛々と進めていた。

すると、1時間くらいして長女が半べそをかきながらやってきた。

自主学習のノートは左から始まる。でも、国語は右から始まる(縦書き)。だから、4ページくらい先から縦書きで書き写していたのだけど、ページが足りなくなってしまった。どうすればいいん??ということだった。

はじめから見てあげればよかったんだろうけど、時すでに遅し。後の祭り。

「続きはまた数ページ先から書いて、分かるようにしておいたらいいんじゃない?番号とかふってさ。」

とアドバイスしてみたが、首を横に振られた。

長女はかなり几帳面な性格で、自分のペースや自分の基準みたいなものをもっている。だから、自分の基準を満たしていない状態が嫌なのだ。はじめから最後まで収まりきらず、また別のページから書き始めるということが納得できなかったらしい。

長女「全部消して、またはじめから書く!」涙
私「またページが足りなくなるかもしれんよ。」
長女「じゃあ、一番最後から書く!」涙
私「・・・・。これ、音読でも読んどる文章やから、最初から順番に書き写した方が勉強になると思うよ。」
長女「いやなんよ、最後から書くんよ!」涙・怒

そんなやりとりをしながら、正直、私自身も逃げ出したくなりつつ、そもそも自主学習ってなんだっけ?学ぶってなんだっけ?と考え始めずにはいられなかった。

自分で決めたことを自分でやる
自分の考えでやってみる

それでいいのでは?順番に書き写した方が勉強になるというアドバイスも、今さらながら野暮すぎる。そもそも、自分のやりたくないやり方で勉強しても全然身にならない。どう勉強するかを自分で選んでいく過程も大事なのに、その過程をスキップさせて、効率よく勉強する方法を教えようとしてしいた。

何を勉強するか、どう勉強するか、自主学習のノートには全く形跡の残らない自分で考えて決めるプロセスも大事だ。

ということで、長女はそれから何度かの中断を繰り返し、4時間くらいかけて、音読の文章を最後から書き写した。途中、空白や重複があったりしたけれど、なんとかやり遂げた。時間は夜の9時を過ぎていた。ノートはそのまま持って行った。私の仕事は、自主学習を正確に直すことではなく、自主学習を進める過程で何があったのかを連絡帳に書くことだった。

その日は先生といろいろ話したらしい。

本人が選んだ方法で無理してやらなくてもよかったこととか、もっとこうした方がよかったかもとか、自分なりに頑張ったこととか。先生も、もっとこんな風に教えればよかったねということを話してくれたようで、ノートには書かれていない、自主学習に向かうプロセスをしっかり受け止めてくれていた。

子どもの宿題を見ていると、気が遠くなったり、私の方が逃げ出したくなったりすることもしばしばだ。学童の先生など、他者の時にはぶつけられないような生々しい感情が、親だということで容赦なく浴びせられることもある。そんな時間は、なかなかの忍耐が必要だ。だからこそ、”そもそも”みたいなところをしっかり考えて見守りたいと思う。

たまには逃げると思うけど!

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