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「本音」について思うこと

経営者の本音。
女の本音。
現場の本音。
移住者の本音…

本音という言葉に、惹かれる人は多いと思う。それは日本の社会に、本音と建前という文化があって、空気を読むことをよしとされ、自分の胸の内をぐぐっと押し込める機会を経験する人が多いからだろうか。

一方で、今の私の周りには、本音全開で生きている人たちが多いのだけれど。それはそれは潔く、とても心地がよい。

◯◯の本音と銘打った情報は、たいていの場合想像しうる内容で、ググったらインターネットの海にぷかぷか浮かんでいそう…。本音とは言ってるけれど、より具体的な情報(事実)だったり、感想だったりすることが多いんじゃないか。

ふと、そんなことを思った。(そんな中でも、有料noteにはリアルな本音が書かれているように感じているけれど)

というのも、本音って、話す相手が大事だと思うからだ。

例えば、経営者の本音に関して言えば、聞き手が経営者である方がよりリアルな内容を話しているんじゃないだろうか。

「似たような環境にいるからこそ、分かり合えるかもしれない」という思いが話し手の本音を引き出し、話してしまうのだと思う。そして、自分が本音として用意した内容ではなく、自分でも想像しなかったこと、できなかったことが、言語化されたもの、それがまぎれもない本音なんじゃないか。そんな気がしている。

そして、本当に知りたい本音とは、話すぞー!と思って語られるものではなく、自然と出てしまうものなんだと思う。

本音で話せる人たちを大切にしたいし、本音で生きていきたいなあ。

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