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自分を好きになる方法:2 好きとはなにか。

「好きとはなにか?」

自分が好きは例えば趣味が好きの好きと同じだろうか。ワインを考えてみよう。ぼくはワインが好きである。その複雑な香りが好ましいと感じるし、味わいが美味しいと感じる。ぼくはアルコールは強くないから他の酒はほとんど飲めないが、ワインはボトル1本飲んでも平気だ。だからぼくにとってもっとも親和性の高い酒類になる。飲めるから当然好きになる。それだけではない。ワインがぼくを惹き付ける要因はほかにもある。葡萄の種類、生産地、生産者、栽培方法、醸造方法、歴史、アッサンブラージュ、造り手の理念、ヴィンテージ、年月による変化、抜栓後の変化、グラスの種類、グラスの透明度、グラスの薄さ、工芸品のようなワインオープナー(ぼくは妻がプレゼントしてくれたシャトーラギオールを愛用している)。こうしたいちいちがぼくを惹きつけてやまないし、一本のワインを通じて奥深い世界に飛び込んでいくことが楽しくて仕方がない。そして、それをぼくは「好きだ」と感じている。これは揺るぎない真実味をもってぼくの中に存在し、ぼくはそれを自然に受け止めている。ぼくはワインが好きだ。

やはり機械式腕時計においても同じように言えるのではないか。繰り返しになるが、ここでは好きの定義をしっかり刻んでおきたいのでメカニカルウォッチの好きを上げてみたい。時計の歴史、ムーブメントの個性、デザイン、サイズ、針の長さ、針の形状、インデックスの種類、メーカーの歴史、メーカーの理念、ストラップの種類、ストラップの素材。これらの組み合わせによりひとつの時計が出来上がっている。逆にいえば、ひとつの時計を好きという側面で分解すれば上記のことを追求していることになる。そして追求は探求であり、ワインと同じくぼくを惹き付ける大きな要因になって、ぼくは機械式腕時計が好きになっている。

ワインと機械式腕時計の好きに共通するのは知らないことを探求する喜びである。その喜びは楽しみであり、楽しいことをしているというのはすなわちそれが好きということでいいと思う。ワインは飲まなければわからない。時計は所有してみないとわからない。これは真実であるが、全部ではない。実際にそのワインを飲まなくても、その時計を所有しなくても書物をめくることで好奇心を満たすことは可能であるし、しばしばそれが飲むことや所有することで満たされる満足感を上回ることもある。また書物や様々なリソースから得た知識が実際に飲んだり所有するときにより深い理解が伴い、さらなる高い満足度に貢献する。世の中には詳しい書物があり、その道に通じた人がいて、ぼくの興味は尽きるところがない。

ぼくのもう一つの趣味であるロードバイクは上記二つと少し性格が異なるだろう。当然ワインや時計のように物語としての側面を分解しそれぞれが興味深いのはもちろんであるが、ロードバイクには体を動かす喜び、つまりスポーツとしての楽しみがあって、これはワインにも時計にもない要素だから検討しなければならない。自転車に乗ると気持ちがいい。ただ街なかを走っても気持ちいいが、できれば山の中を走るとこの気持ちよさは筆舌に尽くしがたい。例えば三つの峠を越えてぐるっと一周70キロの行程を考えてみよう。峠の登りはほかに通行者がいなければ人工的な音がなくなる無音世界となる。春ならば鳥が囀り、夏ならばセミや昆虫の声が林間に響き、秋になると木々の葉のさざめく音、そして冬は本当の無音。ペダルを踏む時のシューズが軋むギュッギュッという音と自分の息遣いだけが存在する音の全てとなる。ぼくはとりあえずのゴールである山頂を目指す。汗が顎の先から絶え間なく地面に落ち続けている。

自然に身を置くことでしか得られない安らぎと激しい運動による爽快感を同時に体感する。ロードバイクというスポーツの醍醐味である。心拍数は170に達し、今すぐにでも足をついてしまいたいと思いながらもそうしない。いつの間にかはるか遠くに街が見える。もう少しだ。もう少しに違いない。このカーブを曲がれば。次のカーブの先に。なんど期待を裏切られながらそれでも足をとめずに漕ぎ続ける。そしてついに山頂だ。道が平坦になり、そのすぐ先は下り坂が始まっている。ぼくが先頭で到着することもあるし、友人が先に待っていることもある。ぼくはペダルから足を外して地面に足を下ろす。達成感と爽快感。もってきた補給食を頬張り、しばし風に耳を澄まして体を休めるひとときののち、今度はものすごいスピードで峠を下る。1時間以上かけて登ってきた道も下りなら数分だ。夏なら爽快だが冬は寒すぎてスピードが出せないこともある。そして次の峠を目指す。そんなふうにして日暮れ前には出発地に帰還する。その日の夕食は何を食べても美味い。まさに空腹は最高のスパイスである。こうした一連の体験は途中に尋常ならざる辛さを伴いながらもやはり好きと言わざるを得ない。ロードバイクは知識の探求に加えて、精神的な安定(山へ行けばだが)と運動による爽快感がぼくに喜びをもたらす。前述したように、喜びは好きということだ。

こうして趣味における好きを書き出してみればみるほど、自分が好きとは好きの種類が違うような気がしてならない。自分が好きは知識の探求ではないだろうし、爽快感を得る喜びでもないと思うからだ。つまり、趣味の好きを分解してもそこに自分好きとの接点は見いだせないということである。そんなの当たり前じゃんとか言わないように。

わりと耳にする言葉で、自分が好きなひとは自己肯定感が高いというのがある。自己肯定感とはなにか。肯定:そのとおりだと判断すること。価値があると認めること。という辞書的意味に揺るぎのないところであるが、自己肯定感となるととたんにその意味合いが複合的になる。各々ウィキペディアで自己肯定感をご参照ください。その中で「自己肯定感が高い」とはつまり「自分が好き」という概念が投入されている。自己肯定感が新しい造語であるがゆえにそれが示す意味が広く漠然と印象だけで語られがちになる。しかしおそらくほとんどの人にとっての自己肯定感とは、ポジティブな自己評価という意味ではないかと思う。俺って駄目、俺って最低、俺ってひどい人間だ。そういうネガティブな自己評価を卑屈と呼び前回ぼくの心性を明らかにしたが、その反対の、俺はイケてる、俺最高、俺っていいヤツ!という評価を持てればそれは自己肯定感が高い証拠であり、イコールであるところの自分が好きに到達するのかもしれない。

なるほどこれだとぼくが思っていたよりもずっとはやく自分が好きに辿り着けそうである。問題は俺最高!を声に出して言うは易しであるが、骨身にしみてそう感じるのはまるで易しそうでないという点にあるが。

ではどうすればただ言うだけにとどまらず自分の一部にすることができるのか。それにはやはり自分自身と向き合わなくてはならないだろう。それはダークサイドと向き合うことを意味するが、以前のぼくならそれを対決と呼んだはずだ。抜刀こそが唯一の解決策だと思っていた時代があった。今は違う。剣を鞘から抜かず向き合い対話したいと思う自分がいる。今頃になってようやくそこに気がついたから、今頃になって自分を好きになりたいなどと思いはじめたのだと思う。ともかく実感を得るためには「過去の暗黒面」の振り返りは不可避であるだけでなく、不可欠なものであると考える。さしあたって考えられるところはそこしかないからである。だがそれは次章にゆずることにして、ここでは好きとはなにか、すなわちポジティブな自己評価を心の底から持てることという定義を得たところで終わりにしたい。

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