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自分を好きになる方法:5 自分好きの共通点に学ぶ

劣等感と優越感はどうやら同意語らしい。
結局のところ、優越感にひたるということは劣等意識の表れにすぎない。或いは劣等感を感じているがゆえにそれをひた隠すための飾りが優越感なのだろう。劣等感も優越感もどちらも他人との比較から生まれる。だから他人と比較しなければいいと言うは易し行うは難し。こうした感情はその強弱こそあれだれでも持っているものだと思っていたが、「自分好き」を自他ともに認めるひとたちにはもしかしてないのではないかという想像を最近するようになった。

だれだってあるでしょ。なに嘯いちゃって。カッコつけちゃって。無理しちゃって。だれにもあるという前提に固執し、そもそもないという人間の存在を否定してきたのは一重にぼくの劣等感と卑屈に原因がある。みんなにあるというのは最低でもみんなと同じを求めた劣等感と卑屈の主因であり、それが他者へ向けば同調圧力となる。ぼくは同調圧力を忌み嫌ってやまない。昔からみんな一緒を求めてくる態度に対して強い嫌悪感を示していた。どのくらい昔だろう。気がついた頃から。なぜ同じにしないといけないのか。なぜみんなそうしているからが理由になるのか。完全に矛盾している。が、矛盾こそ自分の中での戦いだった。今こうして書きながらなるほどと一番腑に落ちているのはぼく自身である。なぜあれほど他者からの同調圧力に強い不快感を感じ、抵抗せずにはいられなかったのか今とてもよくわかる。それが一般的には同調圧力と呼ばないような弱い誘いのようなものであっても全力で拒否したことは一度や二度ではない。なにがそこまでぼくに強い態度をとらせるのか今まで考えたこともなかったが、こうして機会を作って考えてみるとぼくは見えない原因に苛立ち目の前の本当は敵ではない人に対して牙を向いていたのである。

劣等感と卑屈こそが、同調圧力の源泉だった。ぼくは自分を好きになるとかそんな以前から心の奥底に隠れた劣等感と卑屈を嫌っていたのである。ただ今の今までこやつらはその姿を隠し、様々は形でぼくを操作していた。ぼくの同調圧力への反抗はその表現の仕方はときに間違っていることもあったが、内面的には劣等感と卑屈が繰り出す長距離攻撃への抵抗だった。もっとも雨あられと降り注ぐ爆弾をすべて撃墜することは不可能だったし、今までその本陣を見つけようとしたこともなかったのである。今回自分を好きになると決めたことで、嫌いの原因だった劣等感と卑屈を探し当てることができたのはまさに思わぬ発見であった。

では劣等感と卑屈をどうすれば感じないでいられるのか。ぼくはすでにこれに対する答えをなんとなく持ちはじめているのであるが、その前に自分好きのひとの態度を少しみてみたい。ぼくの身近にいる人間で自分好き筆頭は息子である。彼に劣等感や卑屈さは微塵も感じられない。五歳という年齢ゆえに妹ばっかりとか自分のことなんてといった態度を出すことはよくあるがそれは甘えであって劣等感ではない。彼は誰もが自分のことを好きだと思っているし、それは人間にとどまらず鳥や昆虫でさえ「ぼくのことが好き」だといって憚らない。オレ大好きを軽々と言ってのける彼はいつも自然体だ。五歳の息子にどうして自分が好きなのと聞くことに意味はない。おそらく大人であっても自分が好きというひとに、なぜ自分が好きか説明を求めても明快に答えられるひとはあまりいないのではないか。

ただ自分好きのひとをみていて感じるのは、自然体で気負うところが見受けられないということである。腰が座っているとでも言おうか。芯が一本通っている安定感を感じる。いいな。ぼくもあんなふうになりたいな、と思う。自分が上か下かでやきもきしないでいられたらどんなに楽だろうな、と思う。

さて劣等感と卑屈にまみれた四十余年を過ごしてきた人間が、それらとオサラバして自分を好きになるために必要なこととはなにか。それは、そうした感情が湧き上がってきたとき、都度抗い、都度姿勢を正して自分を立て直し、都度意識して自分の自信を確認し、都度主観的に捉えすぎるのをやめ客観的にその事態を眺められるように努力しつづけるのだ。最初は大変だろうし、意識するのを忘れて苦しむこともあるだろう。しかし続けることで習慣化して、そう考えるのが当たり前というところまでくればゴールは近い。やがて意識していない自分に気が付き、そしてついには劣等感と卑屈を感じていない自分を発見するのだ。

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