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自分を癒すために今日は書く

ここニ週間ほど、精神の調子がわるい。頭がうまく働かないし、意識の輪郭がいつもよりボヤけている感覚がある。普段はぴったりと密着している身体と意識がうまく馴染まない。風邪をひくと頭がボーッとして自分の声が自分の口から出た音じゃないみたいに感じられるけど、同じ感じで、なんとなく肉体が「自分の身体」じゃないような気分になる。

まあこれは本当に風邪みたいなものなので、大まかには原因も分かっているし、あと数日間安静にしておけば回復するだろうから、一旦悩むのをやめる。

それより、調子が悪いときの文章は後から見直すと面白いことが多いので、今日は調子が悪いなりに書きたいことを書いてみようと思う。

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体調が下り坂になり始めて「いやだなー崩れるのいやだなー」と抵抗してお酒を飲んでいた。最近は全然お酒を飲まなかったから、こんなに飲んだのはちょっと久しぶりだった。アルコールを飲むと、身体と意識のズレみたいなものが分からなくなる。自分の身体に精神がぴったり収まっているような気がして、気にせず振る舞えるようになる。

いま少し思ったのだけど、文章を書くのにも同じような効用がある気がする。ちゃんと「自分」が書いているときは、一時的に(うまくいけば中期的に)自分の精神があるべき場所に「収まる」みたいな気分になる。自分の深い部分を誰かに話すと癒されることがあるけど、それと同じなのかもしれない。自己完結型のカウンセリングなのか、これは。(しかもアルコールと違って翌日の反動がない。)

どうして、こんなに生きることは難しいのだろうか。別に答えは求めていないし、誰かに「若いから繊細なんじゃない?」とか言われたら思わず無視しちゃいそうだけど、多分私にとっては「問いを抱えている」ことが大切なのだ。最近気付いたのだけれど、こうやって「なぜ生きることは難しいのか」みたいな「自分にとって本当に重要な問い」を立てて、考えて、抱えて生きることで自分を保っているのだ。

抽象的な話が好きで、「愛ってなんだ」とか「幸せってなんだ」とか「なぜ生きるのか」とか、そういう大きなテーマばかり自分は考えているなと不思議に思うこともあったけれど、これで私は自分を保っているんだなと思う。これでやっと地に足をつけている感覚になる

社会にはあまりにもくだらない問題が多すぎて、本当に意味がない(と思ってしまう)茶番が多すぎて。人間が偶然的に考えついたフィールドの中で、どんどん(本質から離れて)細分化していくルールの中で、必死で点を取り合っていたら頭がおかしくなってしまう。

そういえば昔から、スポーツに熱中する人の気持ちが分からなくて、プロのスポーツ選手も熱狂的なファンも、一体なにを考えてるんだろうと思っていた。なんで人間が考えたルールの中で、しかも商業色が強すぎて既に「純粋なスポーツ」的なものが失われた場所で、「体を動かす楽しさ」的なことからかけ離れた場所で、そんなに本気になれるの?みたいな。気を抜くとすごく冷めた視点に戻ってきてしまう。

でも、いつの間にか、社会の中で、自分も「プロのスポーツ選手」的な立場になっていた。それに気づいたときから、どうしようもなく気持ち悪くて、色んなことに熱が入らなくなってしまった。自分がいる「立場」の足元に積み重なった偶然性が大きければ大きいほど、嫌になってしまう。なんこれ、つついたら崩れちゃいそう。本質から離れすぎている。茶番すぎるだろ。

このような感じで、巷に溢れている「頑張らなきゃいけない」「考えなきゃいけない」とされている事柄は(信じられない量の恣意に支えられて、あまりに偶然的に存在しているので)冷静になるとだいたいが茶番だと思ってしまう。それで、気持ち悪くなって(調子が悪いと、わりと本気で)発狂しそうになる。だから、自分で考えた「ほんとうに重要だと思う問い」をああでもない、こうでもないと考えることで地に足をつけている感覚になれる。こんな感じで「自分を保っている」わけだ。

ちなみに「すべてが茶番」は我ながら過激だと思っていて、ちゃんと本質的なことが含まれている場合もあるし、その「茶番」で楽しく生きている人にとってはそこが「本質」なんだと思う。それに、人と一緒に生きていくなら、社会で生きていくなら、どこかの段階で諦めて思考を止める、つまり「有限化」をする必要があるんだろうなって、それくらいは思っている。でも、なんか「みんな、本気…?」って思ってしまうのです、今はまだ。練習が足りないかな。

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先日、読書会を通じて仲良くなった人たちと飲みに行って「哲学やる人って精神的にやばい人が多いですよねー」という話をした(わたし然り)。そしたら「哲学者は(日常世界がグラグラだから)言語の世界だけでも秩序を保とうとする」的な発言があって、その言葉がとにかく深く刺さった。傷ついたって感じでは全くなくて、核心をつかれたって感じ。「え、わたしじゃん」と。

わたしは、グラグラの視界が辛くて、仮定に仮定を積み重ね続けた上に成り立つこの社会の「当たり前」とか「成功」が気持ち悪くて、せめて言語の世界には平穏を作り出したいのか。だから、雑で広い言葉を使う人が許せないのかなぁ、自分の言語世界だけは精緻に組み立てたいんだろうな。きっと自分の生活に満足する人は、こんなプラモデルを組み立てる作業みたいなことしないんだろうな、プラモデルは作ったことないけど。ゥチのこの感覚は、自分的には天才だと思っているというか、開花したらすごいと思うんだけど、ちなみに「苦しい天才」と「苦しくない凡人」ってどっちにの人生になりたい?ゥチはとりあえず、このまま苦しいだけで死ぬのは嫌だな。

うーん、めんどくさいね、やっぱり、めんどくさい。こんなにめんどくさくさい文章を最後まで読んでくれた人がいたら、だいすきです…。

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