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ちいの海の真ん中で出逢った "ひとたち" 。








だんだん、寒くなってきた。




いや違う。
全然だんだんじゃなかったな。


本当に突然、
異常にあつい夏がやっっっと終わって、
景色以外が秋をとびこして、
温度はもう10度を下回るようになった。




今年も冬が来るんだ。




冬は好きだ。
夏も最近好きになったけど。
でもあっついのはやっぱり嫌いだった。
冬は空気が綺麗だから、大好きだ。


冬の空気は澄んでいて、
透明で、
鋭いのにまあるいから好き。
星も毎日綺麗だし。






前回記事を書いてから、
少しあいだがあいてしまった。

こういう時は、言葉にする力が少し衰えて、
かき始めるのがむずかしい。
だからこのままもう書けなくなってしまうのかなと発想することが多い。




この記事をかきはじめて、だいぶ時間が経ったのだけど、今、言葉があふれてきて止まらないところにいる。
このままではおぼれてしまう。
こんなになるまで記事をかかなかったのは久しぶりだ、と、思ったところで、
「文章を書く」という表現方法に出逢う前のことを思い出して、不思議な気持ちになった。
4年前、はじめて文章をちゃんと書くまで、
ちいは本当に自分の中にあふれる言葉の海におぼれていた。


おぼれていた、と言っても、
全て自分の言葉なので、おぼれていること自体は苦しくなくて、
なんというか息ができる海の中みたいな感覚だった。
ちいはその中で生きているのが好きだったし、
誰にも言わずに内緒にしていた。ひみつの海だ。




だけど海は、広い。
そして深い。どこまでも。




それを知り始めてからちいの海は、
ただ綺麗なだけじゃない、
危険をたくさん持った海になった。
というよりは、海には危険がたくさんあることを、知った。




それがいつだったんだろう。
ほんとうに小さい時だったとおもう。
それからは苦しかったり、痛かったりすることもどんどん増えていった。
首を絞められて息ができなかったり、鋭いもので何度も刺されて血が止まらなくなったりした。


首を絞めてくるのも、
鋭いもので刺してくるのも、
全部自分の言葉なのだけど。




苦しいのや痛いのに我慢できなくなったとき、
逆に楽しくて嬉しくて飛び上がりそうなときは、
自分にしか見えない場所に言葉をぶつけるようになった。
はじめは手書きでノートにかき殴っていた。
今はほとんどスマホのメモの中。
大きめのまっしろななんでもノートとスマホのメモ機能は、ちいが生きるための必需品になった。





言葉の海を人に公開しはじめて、
ちいの人生は変わっていった。

初めはすごくこわかった。
ひみつの海を人に見せるんだ。
今まで自分しか知らなかった、自分しかいなかった、自分そのものがつまった海を。

何がこわいというとむずかしいけれど、
全部がこわかった。



海を公開すると、いろんなことが起こった。

体の中に海を持つ人は、そんなに多くないということを知った。
ちいは海から言葉をひろいあげて並べるのが好きで、そしてちょっとだけ得意だったんだということも知った。
ちいのひみつの海を見ることを、なんと喜んでくれる人があらわれたり。
それが誰かの心を動かしたり、温めたりすることがあることを知った。
自分の海の中の言葉と、同じものを浮かべた海を持っている人がいることも知った。



ちいがちいだけのひみつの海を公開するのがこわかった理由のひとつに、
「海に誰かが勝手に入ってくるようになったらどうしよう、」
というのがあった。
というか、これが一番こわかった。
自分の一番大切なものが壊れていってしまったらどうしようという不安だ。
こんなことを不安におもうことも、悪いことのような気がして、ただただこわかった。


だけど、そんなことは起こらなかった。
正しく言うと、
そんなことは起こらせないくらい、ちいの
”海を守る壁” は強く頑丈につくられていた。
知らないうちに。


実を言うと入ってこようとする人はいた。
だけど入ってこれなかった。
ぜんっぜん入ってこれなかった。

ほとんどの人は、
ちっぽけなちいの広い海が公開されたことなんか興味がなくて、気づきもしなくて、
でも、
波が少しずつ届いて、
届いて欲しい人は気づいて、
そうじゃない人には波は当たらなかった。
もし当たっても、その人が返す波は全然ちいまで届かなかった。
ちいの海は、そんなに弱くなかった。



そんなことは初めて知った。
ちいは、初めて自分を守る方法を手に入れたんだ。




海を公開して、波を届けはじめたからといって、
ちいの中の海は小さくなることも、波が低くなることもなかった。
むしろ、もっともっとあふれて広がって、波はどんどん強くなって、
もっともっと止まらなくなった。
もっともっと遠くまで届いていくようになった。



そうすると反対に、
「ちいの海に入ってこれる人」
という存在がいることも知った。

ちいは海を、記事にするだけじゃなくて、
だんだん口で公開する力もついていった。
それができるようになっていったら、
ちいの周りは、
「ちいが自分からひみつの海を案内したい人」であふれていった。


これが本当に幸福なことで、
ちいはちいでいることを、
こんな海を持っていると公開することを
こわがる必要がなくなっていった。
これでちいは本当に、本当に生きやすくなった。



出逢うひとは基本的に、海を案内したいひと。
一緒に泳ぎたくなってしまうような人もいる。
船で一緒に旅をしたくなる人も出てきたり、
出逢ったときからちいの海のまんなかに近い人たちが、どんどん増えていった。






そして最近、初めて会った時から、
ちいの広い海のまんなかの真ん中。
一番深く、一番暗いところにある
小さな小さなちいの家のベルを、
鳴らしてくれるひとたちに、出逢ったんだ。


今日話したいのは、そのひとたちの話だ。
(ここからやっと本題)











ところで。(道がそれる予感)

ちいが使う言葉が、
ひらがなだったり、漢字だったりするのには
とんでもなくめんどくさく細かい理由がある。
感覚で決めすぎているので、これについて言葉で説明するのはすごくむずかしいのだけど、
でも理由はある。


例えば、一番多いのは、
「思う」「想う」「おもう」
だと思うのだけど、
なんとなくひらがなの方が、やわらかかったり、あいまいであったり、優しかったり丁寧であるようなイメージ。なんとなくもなんとなく。
想うは、心を使っている感じ。その先に相手がいたりするような、なんとなくそんな感じだ。
思うは、自分の思いつきであったり、自分の中で完結している想いであることが多い。

説明中に別のおもうを使ったりするから、
わけがわからないと思うけれど、
そんな感じで理由があるよということだけわかってもらえたら、今はそれでいい。





ここで、
ちいの海の一番深く暗いところで最近出逢った、
”ひとたち” について。

どうしてこの ”ひと" が、漢字ではなくてひらがななのかという理由である。


出逢ったのが、猫だからだ。
猫にも出逢ったから。
”ひとたち” には猫が入っているのだ。
(どうでもいいことを無駄につらつらすみません)





そう。最近、猫をひろった。
家の近くで二日間必死で泣き続けていた猫。
泣いている。
そうおもった。
二日間は我慢した。
本当のお母さんが迎えにくるかもしれない。
もしそうだったら、
たとえその先の人生、猫生か、
それがどれだけ短くても、本当のお母さんといる方が幸せだろうとおもったから、だから我慢した。
本当に今すぐ触れて、あたたかいところに連れて行きたかったけれど、我慢した。
お母さんはこなかった。
ちいは猫と生きることにした。


抱き上げて家の中に入った時、安心して腕の中で丸くなった小さな黒い影の姿をちいは忘れないとおもう。
寒かったろう。
ひとつの手のひらに収まってしまうくらいの小さな影。
ミルクをたくさん飲んで、ふかふかタオルをしいた段ボールの中でぐっすり眠った。
そのあと2日間、
猫はのどがかれてしまって声が一切出なかった。
死にものぐるいで泣いていたんだな、とおもった。



次の日、小さな影にちいは『青』と名前をつけた。
空も海も青いから、青。
すっごくしっくりきた。
今も呼んでいてとてもしっくりきている。
(はじめに入れた段ボールが青汁の段ボールだったことから着想を得たことは、ここだけの秘密にしたい。)




青をひろったとき、
珍しいことに、ちいはとんでもなく忙しい日々の中にいた。
寝る時間も取れない、明日は頑張れるだろうか、
間に合うだろうかと、毎日不安になっているときだった。

青をひろって3日間くらいは、ほぼ青のために過ごした。
必要なものを買いに出かけたり、病院に行ったり。どこかにいくのにもとりあえず連れていって、さみしくないようにできるだけ一緒にいた。

体を動かさなければならない作業がたまっていて、本当に時間がなかったのだけど、青のための時間はそのときちいにとっては一番大切だった。
青は命だ。
正直まだ、ひろっただけでは安心できない。



数時間離れるだけでさみしいと感じる日々が始まった。
毎日早く帰りたかった。
早く青に会いたい。
(今も早く青に会いたいなとおもいながら、スタバでこの記事を書いている。)



青にその時あえたおかげで、
ちいは残りの作業をなんとか頑張って、眠れないほど忙しい日々を終えた。






ここでさらっと言うことなのかわからないけれど、実は、ちいは来年の1月から東京に住むことになった。
東京に住んで、新しい表現の形に挑戦することになった。

それもあって、青をひろうことを心配する声もあった。

でもちいは初めから、東京に一緒に連れていくつもりだった。
わざわざ考えることもしないほど、当たり前のようにそういうことにしていた感覚があった。
だって青と生きるということはそういうことだ。


東京で暮らす部屋を探すことを、ただでさえ大変だろうなあと思っていたけれど、
青をひろったことでそのハードルは一気に上がった。
東京、できるだけいい立地で、できるだけ安い固定費。さらに猫付きときた。
だけどちいはこの時、
この状況にわくわくしている自分がいるのを感じていた。


もともとむずかしいと思っていたことが、
さらに難しくなる状況に出会うことが時々ある。
だけどこの出会いはだいたい正解で、
それを乗り越える覚悟をすると、絶対に解決する。
想像していたよりもずっとたやすく。
しかも、その先はもっとおもしろいことになるということを、知っていた。


ちいが猫つき物件をネットの検索で見つけるのは、無理だろうなと思っていた。
たぶん人の繋がりで、ちいと青を受け入れてくれる場所を見つけるしかないなと思った。
そうやって見つかるだろうなという確信があった。

そのあと、住んでいるシェハウスにたまたま宿泊しに来て、友達になった人と話しているときに、
「条件に合いそうな家がある!」と友達を紹介してくれた。
ちいと青の家は、その家に決まった。










それから、大切な大切な出逢いはまだ続いた。


この出逢いがあまりにも、
自分にとって大切で、大切で、
大切ってもっとなんか言葉ないのかな
大切じゃたりない。
だからなんて書き始めればいいのか、ずっとわかっていない。




2人とは、出逢った日に飲みながら朝までしゃべり倒した。
お互い、ものすごく疲れているはずなのに、一度も止まらずまさにしゃべり倒した。


その時間がまるごとあまりにも心地よくて、
特別で、
とても尊かった。



出逢いというのはどれも等しく尊い。
本当にそうおもっている。
とてもとても特別なことで、
本当に奇跡みたいなことなんだって、
もっとたくさんの人に感じてほしいとなんともおこがましく、でも本当にそう心からおもっているくらいだ。
だって人生は短い。
そこで出逢える人は本当に限られていて、とても貴重だ。
だから。





2人は、
出逢ったときからちいの部屋の中にいた。
ちいの海の、一番深く暗い、
誰も気が付かないような、暗闇の一番はしっこにあるちいの部屋。
そんなことは今まで一度もなかった。
誰かを案内したことがあるかどうかさえわからない。
多分ないんじゃないか、?
2人がそこにいることを感じて、ちい自身その部屋の存在に気づいたくらいだ。
だけど2人は、最初からその部屋の中にいた。

びっくりしたけど、
びっくりしていなかった。(どういうこと)



2人がそこにいて、何も変じゃなかった。
何も嫌じゃなかったし、違和感もなかった。
むしろその状態が自分にとって一番心地よくて、安心して、
だけどそんなことは今まで起こったことがなかったから、なんとなく不思議で、
でも不思議じゃなくて。
なんだこれ???とおもいながら、
そんなことを考える暇もなくずっと話していた。


2人とは、その一週間後にもう一度会うことになった。
元々2人は東京でその日会う予定があって、
なんとちいもその日たまたま用事があって、東京に行く予定だった。
当たり前のように2人は、「ちいもきなよ!!!」と誘ってくれた。



2人と一度離れてからの一週間、ちいは自分の中のこの不思議さと向き合うことになった。
あまりにも感情と頭の中が心地よくて、
2人と出逢えたことが本当に、本当に嬉しくて、
ほんとに自分に起こったことなのか????
と、何度も思った。
何度も考え直した。

なんでもない自分が2人の友達になって、
心地いいとか言ってずっと話していて、
そしてまた会う予定まで立っちゃって、
連絡先も交換して。
なんだこりゃいいのだろうか。
そうおもいながらも、
全体的に自分でも「それでいい」とおもっているところがあった。(ずっとどういうこと)



そう、本当に説明できない。
こんなに自分の感じたことや心の中のことを言葉にできないこと、あったっけとおもっている。





会っていない一週間の間に、一瞬不安になった。
こんなふうに舞い上がっているのは自分だけで、
いや別にそれでもいいし2人と出逢えたことの嬉しさは変わらないのだけど、でも、
あまりに自分だけがふわふわしていて違う温度感の中にいたらどうしよう。
次に会ったときに迷惑をかけてしまう、と、少しだけ心配した。

でも少しだけ。
これがちいの中ではかなり大きなポイントだった。





誰かと何かをするとき、
それが決まりそうなとき、
ちいが戸惑わなかったことなんて、多分今まで生きてきて一度もなかったのではないかな。


いつも必ず、誰にでも、どんなときも、
「いいのだろうか、」とおもっている。

本当にいいのかな、大丈夫かな、
嫌だとおもっていないかな、
思い上がりじゃないだろうか。
それを休みなくチェックしている。
相手が提案してくれたことでも必ず。

本当は嫌だけど気を遣ってくれたのかもとか、
だからなくなるかもしれないということを必ず考える。
自分に都合のいいことは、絶対にまっすぐは受け取れない。
期待してしまわないようにしている。


そんなことを言うと疲れそうに聞こえるし、気を使いすぎなのではというふうに時々言ってもらうことがあるけれど、
自分自身では全然そうは思わなくて、
あまりに自分にそのくせがなじんでいるので、
もう疲れるとか、そういうことは無い。
自分ではもうそこには気がつかない。 
そのくらい自然なことで、ある意味ちいには必要なことだった。



だけど2人に対しては、それがない。
初めから。
これをしていいのかな?本当に大丈夫かな??
といういつもの心配ではなくて、
なんかちい2人に全然そういう気を遣ってないんだけど大丈夫かな???なんで????
が最初だった。

朝まで語り合っていたあの日も、
一週間後の予定に誘ってくれたときも、
「友達だ」と言ってくれたときも、
肩を並べて地べたに座っているときも、

自分がここにいて、2人といることをふと不思議に感じても、
そんなことよりも圧倒的に2人が自分を受け入れてくれているのを感じていて、
だからずっと安心していた。


なんだこりゃ。
こんな幸せ知らないぞ。


2人にもう一度会うまで、全部嘘なんじゃないかとおもった。
ほんとはあの日、なんにもなかったりしてって。
そのくらいじゃないともう消せないくらい強い出逢いだった。

でも連絡先には2人がいて、
出逢った日、家に帰ってから改めてこみあげた想いをぶつけた自分の文章と、それに対して2人が返してくれた言葉が並ぶグループが存在していて。
そこで次に会う予定の話をしている。




東京の駅で、遅れて参加するちいを迎えにきてくれた友達の片方を探す。
相手が先に見つけてくれて、ちいも見つけて、
それだけでめっちゃくちゃ嬉しかった。また会えた。
「会いたかったーーーー」
先に相手が言った。
おんなじだ、
ちいも会いたかった。
お店で2人の片割れとも再会。
それだけで本当に嬉しくて、相手もそう感じているのもわかって、それをちいはいつものようにねじ曲げることはせず、まっすぐ受け取る。
自分がそれを自然とできる不思議も一緒に、心地よく受け取った。


この日は2人の友達も1人参加してくれて、
また友達が増えた。
なんだこりゃ。
次の日早いから〜〜って最初に言っていたのに、
結局4人で夜中まで語り倒した。
こんなに美味い酒は知らない。
ずっと時間が足りない。




2人とはそのあと、
それぞれとゆっくり時間を過ごすことができて、
知らなかった新しいこともたくさん知って、
もう自分が安心しきっていることを不思議におもわなくなっていた。




それから毎日、何度も2人に連絡しようとおもうタイミングがある。
一日に何度も何度も。

普段は誰かに伝えようともおもわないようなことが多くて、
でもふたりには伝えたくて、
でもあまりにも多いから、かなり我慢している。(しかしかなり漏れている。)
言いたいことが多すぎてすごくむずむずする。
だけど、
なんだか全部を伝えてしまうのは、野暮な気がするのだ。ふたりには。
次に会って話すとき、きっとほとんどは忘れてしまっているかもしれない。
だけどその時はまたきっと、ずっと笑いながら、たまーに真面目な顔にもなったりして、違う話をたっくさんするから、
それが大好きだから、
だから言わない。
野暮なことはしないんだ2人とは。
する必要がないんだ。











青と、2人と出逢って、
ちいは東京に行くのが全くこわくなくなった。
もともと、前からやってみたかった表現にきちんとした形で挑戦できることになって、それにすごくわくわくしていたのだけれど、
だけど暮らしは別だ。
不安もあったし、新しいことでもある。

学生の寮も合わせたら
シェアハウス歴8年のちいだけれど、
今回ははじめから一人暮らしをするつもりだった。
ここで話を広げるととんでもないことになってしまうので、ここにはちゃんとは書かないけれど、
自分が表現をするのであれば、自分にとって「孤独」というものはとても大切な存在であると考えていたからだ。


単純に1人の時間が必要ということではなくて、
独りにならなければいけない。
そうしなければ、表すことができないものがあることを知っていた。
いつかの記事に書いた、あの夜。田んぼ道の中。
ちいは間違いなく孤独だった。
それまでも、それからも、今も
自分の中にいる孤独とまっすぐ向き合い続けている。
恨んだこともあった。
なんでこんな、っておもった。
何度も。

だけど

自分にはこれが必要で、
間違いなくこの存在に支えられていて、
そしてこれがあるから、
ちいはちいでいられているんだということを知った。


だから、東京に住むなら、表現をするなら
絶対に1人で住むと決めていた。



だけど現実、
絶対にさみしい。
絶対にさみしいだろ。
毎日帰ったら誰かがいて、
それも自分が愛を持てる人間しかいない家で、
「おかえり」「ただいま」「行ってきます」「気をつけてね」
毎日言い合った。

特にこの3年間住んだ家は、
世界中が孤独で包まれたあの時期に見つけた、
日本中で唯一の自分の居場所だと感じた場所だ。
本当にここしかなかった。
ここで愛を知った。
みんながいなかったら、この家がなかったら大袈裟ではなく、自分なんかとっくに消えてなくなっていただろうと言える。
本当に。




そこに青が現れた。
突然だったけれど、
青には勝手で申し訳ないけれど、必然に感じていた。
これか。とおもった。
だからちいは安心して東京に行けるんだな。
とおもった。
ちいにはあまり突然ではなかった。
青と生きることに、迷いなんて少しもなかった。



そして2人に出逢った。
これはびっくりした。
1人は大学の時から東京に住んでいて、
もう1人は10月の頭に九州から上京してきた。
ちいは1月から東京に住む。

3人は同い年。表現者。
なんだこりゃ。



ちいは今毎日、2人の作品を摂取して、そしてそれに支えられて日々を過ごしている。
この記事も、2人の歌を聴きながらかいている。
2人の作品が、今も、これからも
ずっとちいを助けてくれる。
ずっと一緒にいてくれる。
ずっと支えてくれて、
ずっと勇気と希望を与え続けてくれる。


ちいは今そういうものを持ってない。
でも絶対に、2人をそばで支える作品を作る。
それでしか返せない。

「ちいはいるだけでいい!」
「いるだけで花なんだよ。」
って言ってくれる2人に、
ちいはちゃんと作品で返したい。
2人が見ようとしなくても、見えるほど
大きくて強い希望と勇気を届けたい。


だけどやっぱり本当に元気をもらっているのは、
会って話した時間や、話したこと、
その時の動画や写真だったりする。
作品だけ摂取していると、急に遠くに感じてすっと寂しくなる時がまだある。
動いている、ちいが知っている2人を見るととても安心する。
出逢えたから、そんなことが起こっている。
一日に3回くらいはそれを噛み締めて、その度に幸せを満たんに感じるんだ。










ひとに出逢うということは、
「やめられなくなる」ってことだな、とおもう。


何かを諦めてしまったり、
途中で投げ出してしまったりできなくなる。
そういうときに、おもい浮かぶ顔が増えるってことなんだ。
みんなの顔がどんどん浮かんできて、そしてやめられなくなる。
やめるわけにいかなくなる。


少し休みたいなとおもったときに
浮かんだ顔にそれを止められる。
みんなは笑ってるのに、
なぜか自分は涙が出てきたり。




だけどその一つ一つを、
ちいは自分で選択してきたなあとおもう。
意志を持って、みんなと出逢うことを、やめられなくなることを、選択してきた。

一つ一つを選択することは大変じゃなかった。
ちいでいて、ちいとして考えたら、いつも答えは決まっていた。
ちいは納得できないことは絶対にできないから。
選んだあとはいつも大変だったけれど、
でも自分で選んだのだから、
何よりその先にはみんながいたから、
それを選んだ自分を大事にして、頑張ることが、みんなを大事にすることになるって教えてもらったから。
だから全部選んで、そして全部生きてこれたんだなとおもう。







東京に行っても、
ちいがやることはなにも変わらない。

「学校」という小さな小さな箱から飛び出して、
自分で人間関係を選択できるようになったあの時から、
ちいに出逢ってくれた人にどうやったら返していけるのか、考えたあの時から。
ずっと変わっていない。


ちいに出逢ったことの価値をあげに行く。
ちいの価値をあげて、今まで出逢った人の人生の価値を丸ごと底上げする。
だから大きくないといけない。

一番大きくて一番強い、
希望と勇気を、
世界中どこにいても、
見ようとしなくても、
探さなくても見える、
出逢えるくらいのそれを。
だから世界で一番大きくないといけない。
そこまでいかないと、死ねない。







新宿駅の、ホームに続く階段でふと立ち止まったあの日。
自分以外の人間が全員下を向いて、ただ自分を避けて進み続けた。
この中の1人にはなりたくない。とおもった。
だからちいは東京に住まない。と決めた。


それから時間が経って、ちいは東京で生きることになった。
だけどあの中の1人には絶対にならない。




世界はそんなに簡単じゃないし、
いいことばっかりじゃ、ぜんっぜんない。
もうぜんっっっぜんにない。
生まれてきたことを後悔してしまうような
深く黒い夜があること、知ってる。


だけどこんなに幸せな出逢いをしてしまったら、
こんなに素敵な人間がいることを知ってしまったら、
人間に希望があると、おもうしかないじゃないか。
世界は捨てたもんじゃないって、信じるしかないじゃないか。



いつだってちいはそうやって、
人生に、命に
この世界にしてやられて生きてきている。

この世界のすべての人の孤独を愛せる人間になる。
ちいが人間であるという事実が変えられないのなら、これはずっと変わらないちいの命のつかい方だ。



青が持っている、
2人が持っている孤独を、
心から愛している。
出逢ったみんなの持っている孤独、
ちいはまるごと愛しているよ。
自分の孤独を愛することはまだむずかしいけれど、それならもうできる。
出逢ってくれて本当にありがとう。







待ってろ東京。
うそだ。
そんなふうにはもうおもってない。

待っててくれてありがとう。
きっとちいはこれからも出逢い続けるんだろう。
そのたびに、やめられなくなっていくんだろう。




だけどそれが、
やめられなくなってまた頑張れるってことが、
どんなに大きく、強く、幸せなことなのか、
知ってしまったから、
それがどれだけ尊くて、かけがえのない、幸せなことなのか、
知ってしまったから
もうちいは止まれない。
止まらない。


止まりたくない。



ちいは、大きくなる。
もっともっともっと。
だけどずっとここにいる。
だからもう止まらない。







誰からでも、どこからでも見つけられる
星になるまで。


















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