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川端千帆は、差別の教育をしたい

彼女は差別をしないと謳いつつ、差別する人を差別している。矛盾だ。

でも、世の中に差別があっていいとはどうしても思えないのだ。

差別って言うと、日本に生まれ育った人は「ああ、今アメリカでデモとかやってるよね。人種差別ってひどいよね」と遠いもののように感じるかもしれない。

でも差別って、言い換えるとただの『いじめ』ですから。

多くのいじめがそうであるように、理由なんてほんとにくだらないものだ。

「なんかあの子ってちょっと変」

ぶっちゃけ9割これに尽きると思う。

味方の数の多さ。マジョリティこそが正義だという日本の教育は差別の温床に他ならないよなと。

例えば幼児などは何かが気に入らなくて、もしくは特に理由がなくても誰かを突き飛ばす。その時、まだ善悪の判断もつかないような子どもに突き飛ばされた側の痛みを教えてあげられるのは『教育』の他にならない。

教育といえば、日本の教育ってつくづく『諦め』を育てるところだよなぁと思う。

制服を着崩すな、みたいな全く意味のないことに必死になってる教育者って何なんだろう。

そういう事になってるから、そうしてください。決まりなんで。

要はそう言いたいんよね。やれやれ、社畜を育てるのが上手な国です。笑

「同じ服を同じように着ていても個性は滲み出る」って? ちゃんちゃらおかしい。

同じ服を好きに着るのが個性だわ。きっちりかっちり着たければそうすればいいし、ネクタイ手首に巻いたってええやん。たかが服ぐらい好きに着させろぃ、てやんでぃばーろーめ。って、今なら断言できるのに。

彼女だってスカートは膝上で履きたかったさ。だってそっちの方が当然、脚長くスタイル良く見えるやん。でも色々面倒くさいから戻したわ。考えるのを放棄するって点では、その規則の思惑の通りになってしまっていたんだな。

逆に制服を皆が同様に着るメリットって何だろう?

正しく着る事は美しい事です? じゃあ何で世間に「あえて外して抜け感を演出」なんて言葉が出てくるんだ。服ひとつに取っても着る意味なんて人それぞれ違うものを、どうして押し付けようとするんだ。

皆と同じが正しい。違ったら『駄目』、『反抗的』。日本の倫理観が発展してかんのも、イノベーションが絶たれるのも自然の流れなんよな。他人に対する寛容さが、戦時くらいの意識で止まってるねんもん。

だからこそ教育にもっと、選択肢を。

多様性を尊重しなければ、個性の発見は生まれない。誰が何を好きなのか、何が得意なのかも。自己の成長が阻まれるのだ。これは社会の成長を止めるのと同じこと。

日本人は他人と己を比較して不幸になりがちだけれど、こういう教育背景は少なからず影響を与えていると思う。

いい加減、政府が、率先して『善いこと』を刷り込んでいってほしい。

未だに夫婦別姓が可決されないなんて恥ずかしい事だよ。目に見える数で「同姓にデメリットがある」「同姓じゃなくてもいいと思う人はいると思う」と唱える人がいるのに、なぜその流れに逆らうんだろう? 民主主義ってなあに?

今の社会に合わせて『税金』『年金』や『働き方』は変えます。でも、肝心の『生き方』はどうしたって変わらないまま。厳格な割にリベラルな国、ドイツに住む彼女は、もう半ば日本のことを諦めつつある。

人格形成に最も大事な時期、その後の人生を恐らく一番に左右するのは未就学時代だ。だからこそ、保育士が低賃金でオーバーワーク故に人手が足りないなんてあってはならない事だし、むしろ彼らへの人権教育こそを徹底的にすべきではないか。そうして初めて、子どもに人権のことを丁寧に伝えることが可能なのではないだろうか。

『差別』は価値の競合であり、優劣をつけること。

それを『人が人を裁く理由』にしてはならないこと。人を裁けるのは、法だけだ。

『差異』は、2つあればその2つが同じである必要はどこにもないということ。

そして『あなた』は、あなただけの領域だということ。

そろそろ皆、人は生まれた瞬間からそれぞれ違う個体だって受け入れよう。『世界に一つだけの花』みたいなあっっったりまえの歌詞に沢山の人が感動してたみたいやけど、あれは意味なかったの?

隣人が同じ国籍だろうがそうでなかろうが、肌の色がどうだろうが、血が繋がっていようがいまいが。そもそもが他人なんですよ。

上記を踏まえてアメリカの話をしよう。

その昔、たまたま風土に恵まれて発展を遂げた欧州の者たちは(この辺りは『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド著を参考にして)たまたまアメリカ大陸を発見し、その土地の人々を人間としてではなく道具として扱った。

長い長い年月をかけて白人は、黒人を使い怨恨の土壌を耕してきたというわけだ。

そりゃあたった数十年でその歪みが修正されるはずもない。高慢ちきはその優越感を未だ忘れられないのだろうし、気弱な者には「復讐されて当然だ」という恐怖を植え付けた。

それが時に過剰な正当防衛を引き起こし、またある時は異常な暴力をも生んでいる。哀しみが爆発する人を見てあなたは「平和的な解決を」とこれ以上の我慢を強いるのだろうか。「いじめられる側にも問題がある」などと平気でのたまうのか。

『差別』も『いじめ』も、謝ってゼロになる問題じゃない。ひとりひとりの内側が変わらなければならない時代がもうすぐそこまで来ている。(ぺこぱ大好きマン)

今一度、身近なものとして考えてほしい。

差別の正体とはいったい何か。組織でいじめが起こる本当の原因とは。

あなたが過去にどんな仕打ちを受けたか知れない。我慢しろ、とは言わない。けれどそれと今から生まれてくる子どもには何の関係もないのもまた事実。

国の腰は重くとも、自分ひとりの意識が変わることで良い連鎖が生まれるかもしれないから。

『差別』と『多様性』の教育を。

せめて次の世代あたりには、もう少し生きやすい世界になっているように。


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