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窮屈な時代に狭い自由を選んだ人


特別に罪悪感などないし、だからと言って優しい思い出や涙を流すほどの美談があるわけではないが、棘のようにずっと私の胸に刺さったまま抜けない人がいる。片時も忘れないとか、会いたくてたまらないとか、そういう感情とも違う存在だ。
刺さったままの棘はどうしたら抜けるのか。抜いたあとのキズはどうなるのかわからなけれど、私は今それを抜こうとしている。
私の名前は佐藤ちひろ。これは、私の母康子の弟、武文おじさんの話。それを話すにあたり、どうしても武文おじさんの生まれ育った背景を知っておいてほしい。でもそれは、私の生まれるすごく前のことだから、ここから先、少しの間物語調に書くことにする。

クニ子という人


康子の実家森田家は、山梨県と長野県の県境付近にある、とても古い由緒あるお寺だ。そして、話は今よりずっとずっと前、昭和初期まで遡る。
康子の父親はこの寺の住職をしている。森田家の母屋は、本堂から東側へ向かう長い渡り廊下の奥にある。広い土間、居間、父母の寝室と2つの子供部屋がある。風呂と厠は母屋の裏手あって、竹藪に囲まれている。
康子には、武明、武弘という二人の兄と、信子という姉がいた。康子たちの母親が康子を産んですぐに病死して、「寺には女手が必要だ」と、おせっかいな檀家さんが母親の納骨後すぐに後妻となるクニ子を連れてきた。
クニ子は嫁ぐとすぐに父母の部屋を占領した。母の遺品はすべて燃やし、森田家に康子たちの母の面影は消えた。
再婚から半年後にはクニ子が妊娠して、康子には武尚という弟ができた。武尚出産のあと、クニ子はさらに3人の子供を産んだ。
プライドの高いクニ子は「先妻の血は森田として認めない」と突っぱねて一切の世話を放棄した。
それでも、血のつながった武明と武弘、信子が幼い康子を守り育ててくれたおかげで康子は生きられた。しかし、康子11歳の夏、一番上の武明は19歳でこの世を去った。武明の死から2年して、武弘は、先妻の実家石山家の養子となり森田を捨てた。それから3年後、信子は10代で隣町の寺へと嫁いでいった。次々と居なくなる兄姉たち、高校生の康子の生活は一変した。
「家政婦をやるならここい居させてやる、金は払わない、ここにおいてやる代わりだ」クニ子から康子に課せられた課題。しかし、康子には当時不治の病と言われていた心臓弁膜症という持病があった。
檀家さんの薦める病院で心臓弁膜症の治療をしながら、康子は高校生活と家事、寺の手伝いもした。母屋から離れた風呂を焚くには薪が必要で、焚いたら全員が終わるまで火についていないとならなかった。早朝から井戸の水を国汲み、竈に火をつけてごはんを焚く。真冬の風呂焚きとご飯炊きはとてもしんどいものだったが、康子は耐えた。高校を卒業して就職をしても、早朝から家と寺の無償の家政婦をしてから、近くの金属工場で経理をした。
「ようやくお金が貯められる」
康子は家を出ることを考えたが、その給料はすべてクニ子に取り上げられた。
武尚は静岡の大学へ進学して沼津へ行き、大学卒業と同時に沼津市役所へ就職、一度も寺へ戻ることなく沼津に家を買った。武政は高校卒業後、品川にあるホテルに就職、数年後には海外の系列ホテルを渡り歩いた。海外を転々としてオーストラリアで出会った日本人女性と結婚し、福島県で旅館を営む妻の実家に身を寄せた。高校しっがくをしくじった道子は、中学卒業後「花嫁修業」と称して家に引きこもった。
一番下の弟武文は、康子にとても懐いていた。康子も自分を慕う武文を格別可愛がった。武文が都内の大学へ進学し家を出た。それを期に康子は、当時同じ会社で働いていた正雄との結婚を決めた。
康子に結婚されては困ると、結婚に猛反対のクニ子。正雄は康子の複雑な家庭環境を十分に理解していたから、クニ子の猛反対は想定内だ。正雄が武文卒業までの学費を工面するという約束で、どうにか結婚を承諾してもらった。
愛する正雄と二人きりの生活は、康子にとって初めて体験する幸せの連続だった。そんな幸せ絶頂の新婚生活のなか、住職をしていた父が体調を崩したという知らせが入る。
家に残っているのは、クニ子と道子。誰かが寺を仕切らねばならないが、ふたりには難しい。武弘には養子先の寺がある。家を出た武尚と武政からの音信はない。武文はまだ学生だ。
困り果てた檀家さんたちが、白羽の矢を立てたのは康子だった。学生時代から文句ひとつ言うことなく、弱音も吐かず、ひたむきに尽くす康子の評判はすこぶる良い。武文が大学を卒業する中継ぎとして康子は尼に、道子はすぐに見合い結婚で家を出た。
正雄との新婚生活の傍ら、康子は住職代理を務め、クニ子と実父の面倒を見た。4年が過ぎ、武文は約束通り住職になった。ようやく寺から解放されたとき、康子のお腹に命が宿り、康子は二人の子を産んだ。孝雄とちひろだ。孫二人の誕生を見届けると、康子の父は息を引き取った。
幸せは束の間、今度は心臓弁膜症が牙を剥いた。康子は、幼い子どもたちを育てながら入退院を繰り返す。そんなときでさえ、頼まれると檀家さんにご詠歌を教えに行った。ご詠歌を教える康子にちひろはよく付き添った。ご詠歌をうたう女性たちの後ろにちょこんと座るちひろ。お線香の香りとご詠歌のリズムが心地よく居眠りをした。それでも、クニ子がちひろをあやすことはなかった。
孝雄8歳、ちひろ6歳の時、康子は他界した。
康子が他界したあとも、武文は正雄を呼び出した。ちひろと孝雄は、武文のことを「ふみおじちゃん」と呼んでいた。正雄が「ふみちゃん」と呼んでいたからだ。康子の兄弟はみんな武が付くから、それを省いて下の文字だけで呼ぶ習慣があった。武弘は「ひろさん」、武尚は「なおさん」、武政は「まささん」、武文は「ふみさん」だ。
ご詠歌ができるわけでもないサラリーマンの正雄が、なぜそんなに慕われていたのか。

ふみさんの生き方

さて、ここからは私ちひろの視点で書いていく。

母が他界したあとも、ふみおじちゃんは父を慕っていた。
当時の私は、ふみおじちゃんが私たち家族との交流を大切にしているのは、私たちが可愛いからだと思い込んでいた。今思えば、私たちは母と父というフィルターの向こう側の存在、大好きな姉康子と彼女を愛した父だから心を開き、好いていたように思う。
私たち兄弟は、寺にいる「おばあちゃん」と母の関係を知らない。先妻とか、後妻とか、聞いたことがない。全く持って愛想のない、怖いおばあちゃん。それだけだ。当時私の暮らす町では、どこの家に遊びに行っても大抵おじいちゃんやおばあちゃんがいて、その誰もが優しくてニコニコしていたが、私のおばあちゃんは違う。笑った顔なんて見たことがない。居間にはおばあちゃんがいつも定位置に座り、すぐ横に火鉢がある。への字をした口にキセルを加えながら、ひとつも笑うことなく笑点を見ているのが私のおばあちゃんだ。
毎年お正月に森田家では、親族が寺へ集まる。全員集まるのは、年に一度この日だけ。誰かの法事で何度か集まったことがあるが、全員はいないから、私にとってこれは恒例の大イベントだった。
ところが、おばあちゃんも、集まったおじさんおばさんも、私たち兄妹にだけお年玉をくれない。いとこたちが大勢集まって、居間でキセルを吸うおばあちゃんの前に列ができる。私たちもその列に混ざって並ぶ。順番におばあちゃんに新年のあいさつをしてからお年玉をもらう。そんなときでもおばあちゃんは笑わない、ずっとへの字。
私と兄の番になると、おばあちゃんはそっぽを向く。何か言うわけでも、睨みつけるわけでもなく、だたそっぽを向くのだ。きっと、ほかの親せきは遠くに住んでいて、滅多に会うことがないからなんだと都合よく解釈した。普段からお小遣いなどもらったことがないが、何故だかそう信じた。
唯一ふみおじちゃんだけが、ポチ袋を半分の半分まで折り曲げて、こっそりと私と兄のポケットに入れてくれる。私と兄は大袈裟に喜ぶこともせず、ただふみおじちゃんの顔を見た。
おじいさんの法事で親戚が集まるとき、決まって私たちは別のところに招かれる。いとこたちが座る席とはずっと離れたその場所。それは檀家さんの席だということを知るのはずっと後のことだ。正月以外に集まることのない親戚一同が、真っ黒い服で集まる。袈裟を着た人たちが何人もいるのは、うちがお寺だから特別なのだ。いとこたちも全員真っ黒い服装。子供だからって省略をしない礼装。私は、不謹慎ながら毎回人の多さにワクワクした。福島のおじさんに赤ちゃんが生まれて、この時は赤ちゃんが主役になった。私も触りたい。なんとも言い難い優しいミルクの匂いがする赤ちゃんを抱っこしてみたい。いとこたちが順番に赤ちゃんに触れる。
いよいよ私の番、ドキドキした。手を伸ばした先に赤ちゃんがいない。「お前には触らせないよ」抱き上げたのは道子おばさんだった。
この時初めて孤独を味わった。こんなに大勢の人がいる中での孤独。ぎゅっと抱きしめてくれるはずの母はいない。その瞬間、耳の中にキーンという音が響き、周囲の音が消えた。初めて味わった恐怖体験だった。

全く結婚する気のないふみおじちゃんを心配した檀家さんが、時々見合い話を持ってくる。ふみおじちゃんは私の家へやってきて、愚痴をつらつらと喋って散々吐き出し、すっきりした顔で帰る。必ず最後にこう言って笑う。
「あんな意地悪なばあさんがいる寺に嫁ぎたい女がいるはずないだろ?」
子供心に「そりゃそうだ」と思ったものだ。
ふみおじちゃんのルックスはかなり良い。男性にしては華奢な体つき、小顔で透明な白い肌、頭は坊主だけど鼻筋が通り、キラキラの瞳、美しい顔をしてる。実年齢は知らないが、若くてきれいな人だ。洒落たスーツでも着ればアイドルに見えそうなほど。しかも、その容姿からは想像できない渋くて太い声でお経を読むギャップ。小さいころからアイドルオタクな私にとって、ふみおじちゃんはかなり上ランクのイケメンだ。
私が小学5年生の時、おばあちゃんが亡くなった。息を引き取る前に、ふみおじちゃんがみんなを呼んだが、おばあちゃんのそばにはふみおじちゃんと父、兄と私だけ。寝室に敷いた布団におばあちゃんが眠っていて、横一列に並んで座った。
「死んだらみんな仏様になる。どう生きてもみんな仏様なんだよ」
ふみおじちゃんの言葉は「意地悪は全部忘れてやってくれ」という意味だと思った。
ふみおじちゃんはずっと独身を貫いた。私は大きくなるにつれ、寺への足が遠のいた。それでも父は、毎週末寺へ行く。
私が成人式を迎える少し前、道子おばさんが私を訪ねてきた。「寺を継ぐために見合いを」と、唐突に言われる。「寺を継ぐ気などない」と、はっきり断った。「ふみおじちゃんが嫌なら無理しなくていい」と言ってくれたと、伝えると、おばあちゃんそっくりなへの字で「ほんっと、かわいくない子」と吐き捨て、道子おばさんは帰っていった。

突然、ふみおじちゃんは住職を辞めた。後を継ぐ人はもちろんいない。
檀家さんはこぞって父を訪ね、住職に戻るよう説得してほしいという。しかし、父は一度も首を縦には振らない。業を煮やした檀家さんの目は、今度は私へと向く。「今すぐ見合いを」多くの人がそう言った。ふみおじちゃんのことを責める人もたくさんいたが、父は悪口を言わない。巻き込まれた私はたまったものじゃないが、父が悪く言わないから私も悪く言えない。姪は私一人ではない。沼津のおじさんには私より年上の3人娘がいるし、福島のおじさんにも娘が2人いる。私以外にも寺を継ぐ候補は5人もいるのだ。
ところが、檀家さんたちは沼津も福島も気に入らない。娘たちではなく、ふみおじちゃんの兄であるおじさんたちのことが気に入らない。ここは古い町だから、檀家さんたちは生まれも育ちも地元が多い。言ってみたら、母のことも、ふみおじちゃんのことも、それ以外の兄弟姉妹のことも子供のころから知ってる人ばかり。幼馴染がたくさんいるから、その「ヒトトナリ」をよく知っている。
「あいつらの子供なんてろくでもないに決まっている」
檀家さんたちはこの寺で起きた騒動の一部始終を知っている。ふみおじちゃんの面倒を母一人に押し付けて、寺の住職をふみおじちゃんに押し付けて、親の介護を母とふみおじちゃんに押し付けて、好き勝手に出て行った酷い奴らだと思っている。
おじさんたちの評判が悪ければ悪いほど、その反動で母の評価が上がる。最後まで辛抱強く寺を支え続けたと、伝説のように称賛された。「だからちひろちゃんなのだ」と、多くの檀家さんが言う。
たとえ、ふみおじちゃんが住職に戻ったとしても、独身のふみおじちゃんに跡取りはない。だから、どっちにしても私の前に「寺を継ぐ」という線路が勝手に敷かれている。
ふみおじちゃんの様子はどうなのか、私が父に尋ねると「一緒に行ってみるか」と、家を訪ねることになった。家と言っても、本堂へ続く母屋にはもういない。そこから目と鼻の先に建てられた真っ白の平屋がふみおじちゃんの今の住まいだと聞いた。
呼び鈴を押すと、耳の下まで髪を伸ばし、細身のデニムにボディラインのはっきりわかるピタッとした白いTシャツを着たふみおじちゃんが出てきた。袈裟か作務衣のふみおじちゃんしか知らない私は、その美しさと見事なスタイルに驚いた。
家の中は、まるでお城のように洒落ている。高い天井に吊るされたキラキラのシャンデリア、大理石のテーブル、真っ白な革張りのソファー。ほぼ木造と和紙からできていたあの母屋とは全くの別世界だった。
ほっそりとした白い手で、ストロベリー柄のティーポットを持つ手は、まさしく女性の手。なんとも美しくて、私は見惚れた。
「悪かったね、僕の自由の代償がみんなちいちゃんにいってしまって」
渋くて太いあの声を聴いて、目の前の美しい人はふみおじちゃんだと我に返った。
「あの、もしも私がお寺を継がないと言ったらどうなるの?」
ふみおじちゃんは、優しく私の頭を撫でた。
「寺はね、血縁だからって継げるもんじゃないし、血縁が絶対条件じゃない。檀家さんが決めるんだ。檀家さんに認めてもらえないと住職はできない。ちいちゃんは修業を積んだわけじゃない、そういう学校へ行ったわけでもない。檀家さんが住職候補を連れてくる、ただそれだけのことだ。ちいちゃんが見合いをしてもしなくても、檀家さんが選んで連れてきた人が寺の住職になる」
そうなんだ、私は少し気が楽になった。
「人はみんな自由に生きていい。もしもそれが、誰かの迷惑になったとしても、自由でいい。迷惑を恐れて自分を殺して生きちゃだめだ。ちいちゃんのお母さんは、僕の大好きだった姉さんは、いつも誰かのために生きていた。それが苦しそうでね、でも僕は救えなかった。救い出すどころか、僕のためにも生きさせちゃった。正雄さんが姉さんを救い出してくれた時、僕は心から感謝したよ」
ふみおじちゃんは、そういって少しだけ泣いているように見えた。
「僕のために生きてくれた姉さんのように、僕も檀家さんのために生きようとしたんだけどね、自分の中の本当の自分を閉じ込めていたら、体を壊したよ。そうしたらね、ちいちゃんのお父さんが僕に教えてくれたんだ。自由に生きて良いんだってね」
私が父の方を見ると、父は小さく頷いた。結局、何のために住職を辞めたのか、やめて何をして生きるのかを聞くことなく、私は先に家へ帰った。
ふみおじちゃんは、誰のどんな説得にも応じることなく住職へは戻らない。その姿は頑なで清々しさを覚えたが、沼津のおじさんや福島のおじさんの怒りは、次第に寺を継ごうとしない私の方へと向けられた。その度ふみおじちゃんがやってきて「自由に生きていい」と言ってくれた。
ある時、親族一同が武弘おじさんの寺に集められ、そこで「今後どうするべきか」という話し合いの場が設けられた。母の兄弟姉妹とその連れ合い、私の父、そして私。私以外のいとこたちは一人も呼ばれてはいない。もちろん兄も呼ばれていない。もうこの時点で寺を継がせることが目的の会議だということは明白だから、私は気合を入れて臨んだ。
武弘おじさんは、感情を一切出すことなく、淡々と議長を務める。最初に口火を切ったのは、沼津のおじさんだった。
「勝手なことをしやがって!今すぐ寺へ戻れ」
便乗するように、福島のおじさんが続く。
「そうだよ、俺たちがわざわざ身を引いてやったにも関わらず何やってる」
道子おばさんが私の方を見ながらぼそぼそと歯切れの悪い言葉を並べた。
「まったくね、康子さんが散々甘やかすからこんなことになるのよ」
ここにいない母の悪口、私はとても不快だった。でも父とふみおじちゃんが何も言わないから黙っている。ただ黙ってそこに座っていたら、福島のおじさんが私の顔を覗きながらすごい圧で囁いた。
「ちひろは何故寺を継がない?」
一斉に私の方へと視線が集まる。直後、詰めいるように私の周りに「なあ、なあ」と人が集まり揉みくちゃになった。私は肩をすぼめてこれ以上は無理という程小さくかがむ。恐ろしかった。「うわー!」と大きな声で叫びたいが声が出ないし、体が動かない。
議長をしている武弘おじさんが机をバンバンと2回叩き、その音にみんなが怯んだ隙にふみおじちゃんが私を抱きかかえた。ふみおじちゃんの腕は折れそうなほどか細くて、包まれた胸の中は柔らかくて温かく、とてもいい匂いがした。懐かしい母の匂いに似た、優しいお香の香りだった。その時私は、何となくうっすらと色々なことに気づいてしまった。ふみおじちゃんは仏門が嫌で寺を住職を捨てたのではないと思った。でなければ、こんなに優しいお香の香りを纏わない。自分が仏の道を生きてはいけないと身を引いたのではないのか。一瞬だったはずのその時間、私の頭の中にものすごくたくさんのことが浮かんだ。
隣町の寺へ嫁いだ母の姉の信子おばさんが大きな声を出した。
「さっきから黙って聞いていれば。勝手なのはあなた方のほうでしょう?クニ子さんと一緒になって私たちを次々と追い出して、散々康子を顎で使って、康子とふみちゃんに寺も親もみんな押し付けて。今度はちひろにまで。自分たちの勝手を正当化してどこまで恥ずかしい生き方をすれば気が済むの?」
核心を突いた言葉にみんなが黙った。
「お願いだから、ちいちゃんを責めないでください。僕に自由をください」
いつも大人しいふみおじちゃんが私を抱きかかえながら、真っ赤な顔をして叫んだ。
「もういいでしょう?武尚も武政も道子も。ふみちゃんとちひろを開放してやりなさいな。正雄くん、君から檀家さんたちに新しい住職を探すように言ってくれないか。信子は旦那に協力してもらって檀家さんの住職探しを手伝ってやってもらえるか?」
武弘おじさんががそう言って、話し合いを強制的に終えた。
帰り道、父とふみおじちゃんが並ぶ少し後ろを私は歩いた。さっき気付いた色々なことを聞きたいとは何故だか思わなかった。ふみおじちゃんも父も何も言わないから。ただこの日、ふみおじちゃんは本当の自由をようやく手に入れたんだということははっきりと判った。
いつの間にか、兄の呼び方が「ふみおじちゃん」から「ふみさん」に変わった。兄は幼いころからずっとふみおじちゃんを随分と慕っていたが、住職を辞めてからのほうがそれが顕著に表れているように見えた。
父や兄は、時々ふみおじちゃんのところへ出かけて行ったが、私はあの日以来ふみおじちゃんの家に行っていない。ただ、時々うちにやって来るので顔は合わせるし、避けることもない。何気ない会話はするが、数分もすれば忘れてしまう程他愛ない、全く中身のない会話をただするだけだった。ふみおじちゃんを避けたかったわけではないが、あの日感じた色々を根掘り葉掘り聞きいて、むやみに傷つけてしまいそうな自分に蓋をしたかった。
そんなふみおじちゃんが他界したと聞いたのは、あの日から5年ほどが過ぎた時だった。一人暮らしのふみおじちゃんの遺体の第一発見者は、父と兄だった。すぐに救急車と警察を呼んだが、時すでに遅く死後数日が経過していたそうだ。死因はくも膜下出血。リビングの真っ白い革張りソファーで眠るように亡くなっていたと聞いた。
父は、沼津のおじさんに連絡をして、あとのことはすべておじさんに任せた。葬儀は密葬、私はもちろん、父も兄もそこへは呼ばれなかった。最後の別れをできないまま、私たち家族は途方に暮れた。父と兄は、心にぽっかりと穴が開いたように、時折ぼんやりとしている。私にはそんな二人にかけてあげられる優しい言葉が見つからない。

ふみおじちゃんが残したものは、広い庭付き3LDKの平屋建ての美しい洋館と、6畳ほどの広々したウオークインクローゼットにきれいに仕舞われた色とりどりのドレスや毛皮、ブランドバッグとシューズ、宝石の数々、高級な香水、化粧品、カツラなどと数千万の現金だった。
それらの存在は、父と兄しか知らない。ふみおじちゃんが亡くなってから、おじさんたちは多くの事実と一緒にふみおじちゃんが求めた本当の自由を知ることになった。そこに残る一つ一つが、ふみおじちゃんが本当の自分を生きた証の大切な遺品だったが、家以外はすべて現金化して沼津のおじさんと福島のおじさんと道子おばさんで分けたと聞いた。
父も兄も現金が欲しいわけでも、高価な品物が欲しいわけでもなく、形見を一つずつ分けてほしいと懇願したが、それが叶うことはなかった。私ももちろん悲しかったが、父と兄の焦燥感は計り知れないほどのものだったのだろうということだけは想像がついた。四十九日の法要を終えたふみおじちゃんの遺骨は、母の墓の斜向かいに埋葬されたと新しい住職さんから連絡が入り、私は父と兄と一緒に墓参へ行った。線香と花を抱えて、ふみおじちゃんの平屋の前を通り、黙って墓前まで行き手を合わせた。
その夜、私は父と兄から、ふみおじちゃんが住職を辞めて女性として生きるという選択をしたこと、海外で手術をしようとしていたこと、女性の姿で夜の仕事をしていたこと、兄は時々その店へ顔を出していたこと、父と母はずっと前から苦悩を知っていたことを初めて打ち明けられた。何となくわかっていたから、特に衝撃はなかった。
日本にまだ「トランスジェンダー」という言葉がない昭和30年代からずっと、ふみおじちゃんは人知れず悩み苦しんで生きていた。
密葬にしたのは、沼津のおじさんたちがウォークインクローゼットを覗き絶句したからだということも知った。兄は「ふみさんの仕事仲間たちにも知らせるべきだ」と訴えたが「みっともない」と拒絶されたという。「死んだら誰もが仏様だ。ふみさんが自分に正直に生きたことを誇りに思ってほしい」と父が諭したが、受け入れてはもらえなかった。それどころか、父と兄は「変人と過ごした変人」というレッテルを貼られた。
沼津のおじさんは、本当のところふみおじちゃんの家も処分してしまおうと売りに出したが、その家に買い手がつくことはなかったのだった。
それ以来、あの家は数年ほど放置されていたが、その間に沼津のおじさんが出席した同窓会の席で「ふみちゃんのことを本当に考えてやったらあの家をどうするべきかわかるはずだ」と詰め寄られたそうだ。
そしてそれを考えた結果、父と兄に「買い取ってほしい」と相談に来た。父も兄もあっさりと断り「彼が彼らしく生きたあの家を大事にしてやってほしい、亡くなってしまった後からでも遅くはない、認めてやってほしい。そのためには武尚さんが所有しておくべきだ」と言ったそうだ。
その後父は、沼津のおじさんにお願いしてあの家の庭の一部を借り、菜園を作った。週末になると、朝からそこへ出かけて行った。父の足腰が弱くなると、今度は兄が代わって菜園へと出向いた。素人の作る不格好な旬の野菜は、130キロ離れた私と私の子供たちの食卓へも届けられた。
どんな偏見も持たず、特別扱いすることもなく、ふみおじちゃんとごく普通に接し続けた父と母と兄。それを私は誇りに思う。もしもふみおじちゃんが平成や令和に生まれていたら、もう少し生きやすかったのだろうか。
窮屈な人生から解放され、理解してもらえる僅かな仲間たちと寄り添って生きた晩年は、本当に幸せだったのだろうか。
自分が自分らしく生きることは、本来難しいことでなくていいはず。
死んだら誰もが仏様になるように、生きていれば誰も人だ。人は人らしく生きればいい。ココロに正直に、それぞれの幸せに続く自分の道を生きればいいと思う。



#創作大賞2023 #エッセイ部門

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