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旅の空気

北極圏の凛とした空気。熱帯雨林の息苦しいくらい湿った空気。黄砂の混じった埃っぽい空気。真夏のカラリと乾燥した空気。結局のところ、旅で一番印象に残って懐かしむのはその土地の空気だ。写真や映像、本などで、世界中のいろいろな場所を疑似体験することができる。だけど、空気だけは、リアルにその場所に行かないと体験できない。

旅先に着く。まずは飛行機のボーディング・ブリッジやタラップ。空港の到着ロビー。空港の空気感は世界各国共通の、「どこでもない空気」が漂っている。ざわざわと多国籍の人々が集い、仕事だったり遊びだったり、幸福な気持ちだったり不安な気持ちだったり、さまざまな用事でさまざまな世代の人たちが行き交う。

以前は空港にいるとハイな気分になって、なんとなく落ち着かない気持ちだったが、旅の回数を重ねるにつれ、その「どこでもない空気」を心地良く感じるようになった。そこでは時差を経て、さまざまな体内時間で時間を刻む人たちがいる。寝ぼけた人、疲れた人、元気いっぱいの人、忙しそうな人が混在し、時間の流れさえ外界と異なる。この独特な空港の時間は、旅の始まりと終わりに必ずあるインターバル。新しい土地の空気に順応するために、自分の中の空気を、薄い濃度の「外国」に、空港の「どこでもない空気」で徐々に慣らすような時間。高い山に登る時、身体を徐々に高地の薄い酸素に順応させていく高地順応のようなイメージ。

いよいよ空港の外に出る。暑くても、寒くても、まずは胸いっぱいに空気を吸い込む。それが到着の儀式。その瞬間は、狭い機内からの解放感や、これからその国で起る楽しいことを思いワクワクして晴れ晴れした気持ち。到着はできれば明るい時間が良い。その方が外の景色とあわせて空気を実感することができるから。

電車やバス、タクシーなどの交通機関で街中に出る。大体どこの国でも空港から街中までは20分〜90分程度。この間は、できれば一人で静かに景色を見ていたい。周りの音や会話には耳をそばだてる。その国の空気に自分を馴染ませるのに時間が必要。
天気や温度、人や車(時にはさまざまな動物、たとえば、牛とか羊とか象とか)の数、風の有無、音やざわめき、食べ物や生活の発するにおい、そういうものが織り込まれて、その国の空気は出来上がっている。どんなに詳しいガイドブックでも、映像の美しいテレビ番組でも伝えられないもの。その国を後にする時も、空港の建物に入る前に深呼吸をする。最後に「その国の空気」を目一杯吸い込みたいからだ。旅の最後の儀式。

旅から日本に帰国しても、「あ、日本の空気」と感じる。それが具体的に何なのかは説明できないけれど、それは確かに「帰って来た」という実感を伴う空気。
日常生活の中で、ふ、と、「あれ、この空気はロンドンの秋の空気みたいだな」とか、「もわっと蒸し暑くて香港みたいだな」などと思うことがある。気候のせいだったり、その国出身の人とすれ違った時であったり、その国の空気感を再現したような場所に行った時だったり。そんな時、たまらなく、旅心が刺激され、旅に出たくてたまらなくなるのだ。

<了>

#旅 , #旅エッセイ



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