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聖徳太子信仰のタテヨコその1  渋沢栄一は太子が大嫌いだった?

 今年2021年は、聖徳太子(574〜622)の1400回忌。そこで、新聞にはこんな記事が登場した。3月29日の朝日新聞夕刊(関西版)は「聖徳太子遠忌 渋沢つなぐ」と題し、100年前、1921(大正10)年に奈良・法隆寺で営まれた1300回忌法要について記している。大河ドラマの主人公にもなっている渋沢栄一(1840〜1931)がこの法要の実現に尽力したというのだ。

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【2021年3月29日朝日新聞夕刊(関西版)一面】

 渋沢は1918(大正7)年、法隆寺管主・佐伯定胤(1867〜1952)らの要請を受けて「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」の副会長に就任している。

 しかし、これがなかなか決まらなかったらしい。その点は記事も少し触れているのだが、ここは法隆寺史研究の第一人者だった同寺の故髙田良信長老(1941〜2017)の著書から紹介しよう。

 ところが、どうしたことか渋沢がなかなか承諾をしなかったのである。それは渋沢が若いころに国学を学んでいたことに原因があった。
 国学では太子が日本固有の神道を軽視して仏教を興隆したこと、592年に崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたときに太子はそれを傍観していたこと、として太子を「不忠不孝の代表」のように非難していたのである。
 とくに江戸時代にはそのように太子を非難する風潮が武士や知識人の間に蔓延をしていたという。そのために渋沢は「余は水戸学派の徒なり、聖徳太子は嫌いなり」と自己の所信を述べて断固拒否をしたのであった。
(『私の法隆寺物語』)

 その渋沢も、文部官僚や東京美術学校長などを務めた正木直彦(1862〜1940)や歴史学者・黒板勝美(1874〜1946)が太子の業績を説明するのを聞いて翻意したという。

 佐伯管主が渋沢に面談後法隆寺に送った手紙には、渋沢がこう話したとある。

 余は青年時代に思料せし聖徳太子論は大いに誤解なることを発見せんと云様話もあり、来春好時期には是非御寺に参詣致度(髙田『聖徳太子渇仰』)

 結局、渋沢は「私などより、もっとえらい人を」と主張して一歩引き、副会長になった。そして会長には、紀州徳川家15代徳川頼倫公爵(1872〜1925)が就いた。その時徳川家から示されたのは、

一、奉賛会の会議に公爵の出席を必要とするときは必ず昼間に行い夜会は避けること(公爵の健康上)。
二、徳川一門に寄付金などで迷惑をかけないこと。
(髙田『聖徳太子渇仰』)

という条件だった。有名な聖徳太子、すんなり「法隆寺のことだから良きに計らえ」とはいかず、それなりに気を遣う事業だったことがうかがえる。

 ところで、渋沢が大正期に入ってもなお、聖徳太子を嫌っていたというのは本当だろうか。

 実は、水戸市にある浄土真宗大谷派の寺院、善重寺が1897(明治30)年に太子堂を再建した時の「賛襄」名簿には、渋沢の名前も記されている。「一千三百年御忌奉賛会」が1918(大正7)年に発足する21年も前のことだ。

 善重寺への協力は周囲におされて仕方なくのことだったのだろうか。それとも法隆寺の依頼を一度断ろうとしたのに別の理由があったのだろうか。

 本当のところは渋沢にしかわからない。しかし、こんなところにも謎が転がっているのが聖徳太子をめぐる歴史らしいところだ。

 これからしばらく、1400回忌を迎えた聖徳太子をめぐる信仰を追ってみたいと思う。時の流れを縦糸、各地の信仰を横糸としてめぐる「聖徳太子信仰のタテヨコ」である。

 その中で、善重寺の太子堂については再度触れたい。まず次回は、法隆寺のお話。太子に捧げられる「謎」の供物についての物語を書こう。


引用資料
髙田良信『私の法隆寺物語』(東方出版、2020年)p212-213
髙田良信『聖徳太子渇仰』(小学館スクウェア、2001年)p 62-63 p68

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