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子どもに寄り添うことで、差し出しているもの

先日、義母の一回忌の法要があった。私の母も上京し、法要が終わった後、うちへ立ち寄って娘たちと遊び、一緒に夕飯を食べて帰って行った。

その次の日のこと。翌日は月曜日で学校だった。毎日自分で起きてくる長女が起きてこない。起こしに行くと、泣いて学校に行きたくないという。理由は「ばぁばに会いたい」。やれやれ。でもどんなに泣いたって、ばぁばには会えない。さすがにそのことは理解しているようで、だんだんと「ママと離れたくない」に理由がすり替わっていった。

こんなとき、どうしたらいいのだろう。初めての法事に、大好きなばぁばとの再会。特別なことがたくさんあって疲れているのはわかる。でも、休むほどかと言えば、そうならないように気をつけてスケジュールを組んだ。今日は私も予定があって出かけなければならない。夫はリモートワークなのでいるけれど、そもそも休ませていいのだろうか。休ませてあげたら、子どもの気持ちを尊重することになるのだろうか。でもそれって後々のために、本当にいいこと?

頭の中でいろんな思いが交差しながら、結局この日は学校に行かせた。最近の様子を見て、休みが必要な状態には見えなかったからだ。本人の口から出る理由はどうあれ、日常にSOSを感じることはなかったかどうか、そこから判断するしかない。

忙しい朝、大幅に遅刻した長女を学校まで送りながら、朝にやるはずだった家事や仕事のことが頭をよぎった。この時間にやるはずだったことを、代わりにやってくれる人はいない。行き場のないモヤモヤがうっすら心に積もっていく。

夜、一人の時間に長女の気持ちにも思いを馳せた。もともと分離不安が強めの子。「ママと離れたくない」という理由はあながち嘘でもないのだろう。普段楽しく学校に通ってはいるけれど、彼女は彼女で、猛スピードで内面が成長している過程で、たくさんのことを感じ、揺れ動きながら生きているのだ。そう思うと少しだけ、朝のドタバタも愛おしく思える。

これまでも毎日の小さな躓きにどれだけ振り回されてきたか分からない。そして、これからもこうしたことはまだ続くのだろう。その度に子どもに寄り添ってきたこと、そのものに価値はある。

だけど時々、その代わりに何かを差し出した気持ちになる。いわゆる自己犠牲ってやつだ。今回も遅刻したしわ寄せは私にくるわけで。自分の時間やキャパを「差し出す」。誰に?子どもに?分からないけど、そんなふうに思わなくなればいい。子どもに寄り添えた。それだけで自分にマルがつけれるようになるといい。

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