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運動会に思う、長女と私の限界突破

先週末は長女の小学校の運動会だった。

コロナ禍を経て、運動会はお弁当なしの半日に。そこは変えずに、今年は応援合戦が復活し、全学年参加の団体競技が始まるなど、学校が新しい運動会をつくろうとしていることが伝わってくる内容だった。

ちなみに、時間短縮でなくなったは、玉入れや大玉転がしなど、学年ごとの団体競技。ないことに慣れていたけど、団体競技にしかないハラハラドキドキはやっぱり楽しい。全学年対抗っていいな。

運動会の雰囲気も、私が子どもの頃に比べると全然違う。
一言で言えば、ゆるい。

私の小学校の運動会の練習は、さながら軍隊の訓練のようだった。
「気をつけ」「やすめ」「前にならえ」
全員が揃うまで何度も何度もやり直しをさせられた。
団体演技だって言わずもがな。笑顔で踊った記憶などない。

今年の長女の団体演技は、一人ずつフラッグを持ってのダンスだった。
ゆっくり旗を上げる子も、バサッと大きな音を立てて素早く上げる子もいろいろ。「揃うときれいなんだよなぁ」と思わないこともない。

「子どもたちが伸び伸びとやってていいなぁ」という思いと、団体演技としての完成度を求めてしまう思い。2つの矛盾した思いが交錯した。

自分の経験を振り返っても、あんなしんどい練習をするべきとは思わない。団体演技としての完成度は低くても、笑顔で一生懸命がんばってる姿を見てると、それでいいと思う。

でも、うっすら漂うモヤモヤは、何だろう。

「私のしんどい経験はなんだったの」
「子どものうちにしんどい経験をすべき」
みたいな感情が私の中にあるからなのかな。

そこまでは思わなくても、何かしらの負荷があることで、自分の限界を超えてきた経験が下敷きにある気はする。

ただ、運動会をその機会にするかどうかは、結局自分次第。もっと言えば、親や先生が誘導できないものなので、モヤっとするのはおかしい。

それは頭では理解しつつ、このnoteを書いている横で、youtubeをダラダラ見て、代休を過ごしている我が子を見ていると、「のびのび」ばかりでいいのだろうか、とも思えてくる。子育てって難しい。

それでも最初のモヤモヤに立ち返ると、「負荷をかけることで成長できる」という視線は、自分自身に向けられるべきだと思う。

自分は最近限界に挑んだことがあるか?
何かで成長したか?
負荷をかけることに、何かのバイアスが掛かっていないか?
そもそも成長って必要?
などなど、思いつく問いは多い。

少なくとも、運動会で我が子は成長してる姿を見せてくれた。
運動会はそれで十分だ。

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