喋れない母の話①
こんにちは、兄弟ユニットNEW CINEMA WEEKEND 81のベースボーカルの智啓です。
いきなりですが、僕の母は喋れません。
喋れないと聞くと「どういうこと?」と思うかもしれないが、喋れないどころか、寝返りをうつ、排泄をする、歩くこともできません。
約10年前に脳の病気を患ったことから、ゆっくりゆっくり身体の機能を失っていきました。
まず歩けなくなり、車椅子生活になりました。
次に右手(利き手)の自由を失い、次に左手・・・、そして喋ることを失いました。
母は学校教員をしていたのですが、2011年のある日学校で倒れました。
倒れたものの、意識は残っていたようで、父へ送ったメールが残っています。
「お父さん、なんか身体が変で動かん、迎えにきて。」
当初ちょっと肥満気味だった母はよく右手の痺れを訴えており、時には食事中にお箸を落としたりしていたようで、父は何度かそれを目撃していたそうですが、そこまで重要視していませんでした。
もちろん、その頃東京にいた僕や兄は「運動不足やろ」とか「痩せんといかんで」など何も考えずに発言していました。(今ならすぐに検査をうけるように言っただろうし、今ならコトの重大さは理解していますが・・・)
結局、救急車で運ばれ検査をし、病気が見つかった時には「余命3ヶ月」と言われる状態で緊急で県外の国立大学へ連れて行き緊急手術となりました。
手術の前、母は病室で僕と兄、父に言ったセリフは強がりだったのかもしれませんが、母らしいものでした。
「あんたら帰省も全然せんかったし、なんかここ数年寂しかったけど、今回の私の病気がきっかけで家族の絆が強くなった気がして、それは嬉しいわ。はよ手術終わらせて仕事復帰するし、車も運転したいわ。」
あの日からおよそ10年経過し、同じ病気で苦しんでいる人の平均値より長生きしている母ですが、先ほどお伝えしたように身体の機能をほとんど奪われてしまったため、目標としていた仕事復帰はできず、車の運転もできませんでした。
どれだけ、無念であったでしょうか。
時折、母は大声で泣きます。
言葉にできない思いがどれだけあるのか・・・、身体のどこかが痒い場合も言えない。
喉が乾いても言えない。
おむつの中に漏らしてしまってもそれを伝えられない。
実は当初、僕と兄が地元の高知で音楽活動を始めた理由は、母の在宅介護する父を助けるため、そして何より母に会うためでした。
その結果、本当に今たくさんの方に応援してもらい、助けられてなんとか活動ができていることを感謝しています。
ただ、残念なのは母は僕らの音楽を生で聴いたことが一回もないこと。
その一点だけがとても残念。
というのも癲癇(てんかん)を患っており、長時間の外出や疲れで発症することがあるのでライブハウスや、イベントにて大きな音を聴くことができないのです。
母は、僕と兄の一番の音楽の理解者だったし、応援者でもありました。いえ・・・、過去形ではなく今も一番の応援者だと思っています。
喋れない母ですが、人の目は時に言葉よりも多くを語ります。
喋れないからこそ、母の目からそれを感じることも多い。
僕は結婚もしておらず、もちろん子どももいませんが、母に食事を食べさせたり、歯磨きをしたり、おむつを変えたりと介護をする中で、自分に子どもがいたらこんな感じなのかなと感じます。
そして僕を産んでくれた母が、僕が赤ちゃんの頃してくれたことをそのまま返しているような不思議な気持ちになります。
全然まとまらない文章になってしまった。
あまり、表に出して来なかった介護の話ですが、ブログにもなかな書けなかったのでnoteでこっそりと書いていけたらと思います。
日々のこと等、色々書いていきますので、もしよかったら「いいね」や「フォロー」お願いします♪( ´θ`)ノ
では。
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