男子アナが全番組を降板して、1年間の“育休”をとる3つの理由
7月19日、「大下容子ワイド!スクランブル」の放送内で“育休”を1年とると発表した。直後、ネットニュースに掲載されると、中高大学時代の同級生から連絡があったり、SNSを通じて応援のメッセージをいただいたり、長男の通う保育園の先生から「記事よみましたよ」と言われたりと、大きな反響があった。
個人的な事柄を取り上げていただき大変ありがたいのだが、男性が長期的に育休を取得して仕事から離れること、ガッツリ育児家事に関わることが、まだまだ日本では一般的ではないのだなと現状を俯瞰して見てしまっている。
驚きをもって受け止められることが多い今回の選択は、自分にとって割りと自然なことだった。
第二子の誕生までいくばくか時間があるので、なぜ1年間“育休”をとることにしたのか。その理由をまとめておきたい。
1.誰よりも近い距離で子どもの成長を見守りたい
まず生まれてきた子どものどんなに小さな成長や変化も逃さず、誰よりも近くで見守っていたいという強い想いがある。
正直、初めからそうだったわけではない。
むしろ独身の頃は子ども好きというタイプではなく、子どもを見て感じる「カワイイ」は単なる視覚的なものでしかなかった。
結婚式をあげた年の暮れに第一子を授かったことがわかったときも、妻が大喜びで報告してくるのに対して、当初は父親になるという実感が追いついておらず他人事で、妻との間に温度差を感じてしまっていたのも事実だ。
こんなんで父親になって大丈夫かな…
と不安があったのだが、とんでもない。
完全に杞憂に終わった。
んぎょわあああうぃいいいい!!!!(可愛い)
ぷにっぷにのほっぺた、
まだ声にもならないか細い泣き声、
濃厚なミルクのようなあまーい香り。
生まれてきた我が子のすべてが愛おしく、存在そのものがあまりにも尊い。
目に入れても痛くないとはこういうことかと実感した。
「カワイイ」ではなく「可愛い」のだ。
愛おしい、愛くるしいという文字を入れないと物足りなさを感じる。曲がりなりにも言葉を生業にする身としてここは譲れない。
実は、この愛愛しい(←しつこい)長男が誕生したときにも3週間の育休をとった。しかし全然足りなかった。もう終わりかと。
もっともっと子どもに伴走したい!!と強い後悔が残り、次こそはフルマラソン並みに走りぬけてやるぞと心に秘めていたのだ。
ただ今回の約1年という期間に関しては少し迷いもあった。“キャリアに穴”が空いてしまうわけだし、復職したときにどこまでブランクを感じるのか。1年が適切な長さかどうかは正直まだわからない。(育休明けのキャリアについてはいずれ書こうと思っているが…)
しかし想像以上に子どもはあっという間に育つし、気づいたときには親元から巣立ってしまう。伴走したいと言っておきながら、中途半端な期間ではエイドステーションで紙コップと一緒に放り投げられてしまうだろう。
後悔だけはしないようにと考えた結果、生まれてきた子が自らの足で立ち上がる頃である、1 年という節目の数字にたどり着いた。
2.徹底的に産後の妻をサポートしたい
立ち会った第一子の出産がとにかく衝撃的だった。
それはそれはもうおびただしい量の出血。血液を受け止める医療用の布ペーパーがやや黒みを帯びるほど赤く染まり、目の前でこんもりと盛り上がっている。
血の海ならぬ血の山と化していたのだ。
つい先日、料理中にピーラーで指を切ってしまい「ひーーー血が出てる!しみるからしばらく洗い物はむり」などと、妻にほざいていた自分があらためて情けない。
全人類が同時にピーラーで指を切ったとしても、あの量には達しないだろう。
…いや、さすがに達するかも。例えが壮大すぎた。だがそんなことはどうでもいい。
出産時の身体へのダメージは全治数ヶ月の交通事故に相当すると聞いたことがあるが、あれを見れば納得だ。
仮に出産の身代わりができるとしても、ピーラーひーひー男ではまったくもって務まらない。
そんな姿を見ているだけに、妻が第二子を無事に出産し自宅に戻ってきたときには、全身全霊で労わってあげたいのだ。
出血した分を取り戻すためにタンパク質や鉄分が豊富な食事を作り、おっぱいをあげるとき以外はとにかく横にさせ、じっくり回復できる安らぐ空間にしたい。
また産後うつの心配もある。
うちの妻はもともと明るいし抱え込むタイプじゃないから大丈夫だろー、なんて思っている読者がいたとしたら危ない。
産後は神経伝達物質やホルモンバランスの変化が激しいので、普段とは別人になるんだくらいの感覚で妻のケアを考えたほうがいいと聞く。
これまで家事の分担は、料理は自分、洗濯全般は妻、買い物は2人で一緒になどと、それぞれの得意分野をもとに自然と進んでいたが、細々とした名もなき家事は妻に任せてしまっていた。
我が家は上の子がちょうど2歳になったばかりで、絶賛イヤイヤ期。
まだ手がかかる段階なのに2人目がやってくるなんて恐ろしい。あまりにも未知の領域すぎる。そんなときに戦力が単純に2倍になれば心強いはず。
育休中はもちろん、育休が明けたあとも100%フルの戦闘力を保てるよう、妻がいるうちに家事育児スキルを磨いている。
3.母の涙
中学校に上がった頃だったか。
事務などの仕事を転々としていた母が、唐突に「とある大学の研究職に就きたいから単身赴任で関西に行きたい」と言い出したのだ。
しかもすでに最終選考まで残っているとのこと。
いやいや、いつのまに。
我々のご飯はどうなるのよ。
泥だらけになった野球のユニフォームは誰が洗うのさ。
なんだか勝手だなぁ。
当時はまだ子どもの感覚でそう思っていた。
どうやら母は大学院生の頃から研究職に就きたいという夢があったらしい。
記憶を辿ると、たしか関連する仕事についていたこともある。
しかし次男である自分を含め、立て続けに3人の子どもに恵まれ、しばらくは断念していたようだ。
父は父で大学卒業後、今でいうベンチャー企業を立ち上げ、まさに働き詰めの生活。
帰宅はいつも終電というだけでなく、朝は子どもたちが起きる頃にはもう家にいないこともあった。しかも頻繁に。
男はあくせく外で働いて当たり前の時代。日常的な家事は担当しようがなかった。
働きながらワンオペをこなし続けていた母。
それでも心に灯る情熱を絶やすことはなかった。
ようやく訪れた、年齢的にも最後のチャンス。
しかし選考には落ちてしまった。
落胆ぶりは今でも忘れられない。
母にとってこの世の終わりのようだった。
「関西には行かない。もう大丈夫だよ」と子どもたちは聞かされたが、どこが大丈夫なのかわからないほど頬を伝う涙はとめどなく溢れ続けていた。
そのときに初めて悟った。
母は母である前に1人の人間で尊重すべき人生があるのだなと。
父を心底リスペクトしている。我々家族と、従業員、そのまた家族を養うために昭和の時代から荒波のなか舟を漕ぎ続け、3人の子ども全員を大学まで行かせてくれた。
一方、母の夢を犠牲にすることで子どもたちは無事に育ったともいえる。
その日からというわけではないが、菅原家では子ども1人1人に大きなカゴを与え、「自分の服は自分で洗濯する」「朝食は各自で作って食べる」ことがいつしか当たり前になった。
部活動で泥だらけになったユニフォームも当然、毎日自分で手洗い。繊維の奥深くまで染み込んだ泥はラスボス並みに手強いので、まあツラくてツラくてよく泣きながらやったものだ。
なぜ野球の練習用ユニフォームは白なんだ。
はじめから黒か、せめてグレーにするべきだろ。
今でも本気で思う。
子どもの頃のこうした経験が、家事だろうが育児だろうができることは自分でやるのが当たり前という価値観に繋がっている気がする。
ちなみに妻は育休明けに元の職場に戻りたいと言っている。今後の家事や育児の分担については、互いに犠牲を強いることがないようゆっくり話し合っていきたい。
なぜなら。
母のような人を増やしたくないから。
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生まれてくる子どもと妻の無事を願う日々です。
Twitterに加えてinstagramもはじめました。
あくまで育児家事のスキマ時間に発信していく予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。