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封印解きレポート



【宮島の解放と地球人意識】



宮島のエネルギーにアクセスしてみようと思ったのは、宮島には異文化融合のカギになるエネルギーがあるのじゃないかと思ったからだった。宮島のあたりには宇宙統合の遺伝子があるとかいうことを、ある気功の師匠が言っていたのだそうで、その遺伝子というのが何のことを言っているのかはわからないのだけれど、そういう波動がある場所がそのあたりにあるということなのだろうと思った。

それで、ネットでいくつかの画像を見ているうち、海の中に立つ厳島神社の鳥居が写る写真を見て、この海は多くの民族を受け入れてきた海ではないかという気がした。それは神社を背景にした写真ではなくて、背景には海と山が見えていた。その海が、あらゆる民族を受け入れるような親しさと温かみを発しているように思えた。

宮島は瀬戸内海の小さな島で、そこには標高500メートルほどの弥山と呼ばれる山があり、それが厳島神社の奥宮だという。弥山には花崗岩の巨石がいくつもあり、山頂付近には、巨石が環状列石のようになっている場所もある。その画像を見ているうち、宮島の特殊なエネルギーは、この花崗岩層から来ているらしいということがわかってきた。

宮島は、全体が花崗岩層からできているというのだ。花崗岩層といったら、今私が住んでいる北部オーストリアの巨石地帯もそうで、地方全体が一種独特のエネルギーを発している。花崗岩層というのは、長い時間が経つうちに四角く亀裂が入っていくという特徴がある。ゴマ塩を振っていると、細かい塩の粒が下に落ちていって、ゴマが上に上がってくるというのと同じ現象で、四角く割れた岩が徐々に地表にせり上がっていくのだ。花崗岩層の巨石群はそうやってできていくのだそうで、だからこれは人が切って積んだのかと思うような形をしている。宮島の山頂付近の環状列石の巨石群は、まさにそうした形をしている。

ところで、花崗岩層の巨石は、他の磐座にはちょっとないような特殊な波動がある。もともと同じ一つの岩盤だったものが分かれてできているので、ずっと離れたところにある岩も、すべて繋がっているようなところがあるのだ。横並びの大きなネットワークがあり、そのネットワークを成しているものが、別々の岩でありながら、もともとは同じものだという不思議な感覚がある。そうした強い横の繋がりのエネルギーが、こうした花崗岩層の巨石地帯にはある。宮島は、島全体がそうしたエネルギーがあるところなのだろう。その花崗岩層がどこまで続いているのかわからないけれど、あるいは近辺の瀬戸内海の海底や島も、同じ花崗岩層でできていたりするのかもしれない。

それで、封印解きクラブのメンバーに声をかけて、宮島のエネルギーにアクセスしてみることにした。弥山の山頂付近の環状列石の画像を使ってエネルギーと繋がってみた。画像を見たかぎり、封じ込めがあるようには思えなかったのだけれど、アクセスしてみるとやはりもともとのエネルギーが封じ込められていることがわかった。

厳島神社は平清盛がソロモンになりたいという野心を持って建てたという話があるらしいのだけれど、この横繋がりのエネルギーを知っていたのだとしたら、これを抑えたら世界が支配できると思ったのかもしれない。横繋がりに繋がっている大きなネットワークを上から支配してしまうということ。すべては平等で争いもない世界の上に自分が立つということ。それは、世界を支配したい人間にとっては、魅力的な場所であるかもしれない。

やはり厳島神社がもともとの宮島のエネルギーを封じ込めることになっているようだった。それで、意識上でその封じ込めを解いてもらい、もともとのエネルギーを解放してみた。

そこで出てきたものに、私は驚いた。封じ込めを解いたら、きっと弥山の上から光のエネルギーが噴き出すように出てきて、他の場所と繋がっていくのじゃないかと思った。ところがそうではなくて、地層を通して地面の下で次々と繋がっていったのだ。まるで、これまで切り離されて、別々のものだと思い込んでいた人たちが、本当は同じなんだと気がついたというような感じの連鎖反応が広がっていった。それは境なく大陸の方とも繋がっていき、また海を通してハワイやイースター島、アラスカの方まで繋がっていった。

異文化の統合とか融合とかいうことを言うと、まわりに合わせなきゃいけないとか、受け入れなきゃいけないんじゃないかとか思って窮屈な気がしたりもするのだけれど、そうしたものとはまったく無関係な感覚だった。弥山のエネルギーは、私たち人間が神々ともまったく対等なのだというようなエネルギーだった。私たち自身が神々の大きさになる。するとそこには、従う者も従わせる者もいない。そのとき、一つの大きな岩から分かれてきた岩のように、目の前にいる人々が、実は同じところから来たのだということに気づくのだ。

おそらく、平清盛が宮島のエネルギーを使ってソロモンになろうとし、失敗したのは、そのためだったのだろう。この大きな横並びの繋がりは、上下のない対等な関係であり、一人一人が神々と同じ大きさであるからこそのものだったのだ。これを上から抑えて支配しようとしたら、この横繋がりのネットワークは途切れてしまう。封じ込められて、冷たいもの、切り離されたものになってしまう。

もともと宮島に目をつけたのは、それが日本人の封じ込められた力を解放するカギになるんじゃないかと思ったからだった。しかし、日本人の力というようなことを言うと、とたんに民族主義的な方向に取り込まれてしまう危険があるのも感じていた。日本人には他の民族にはない特別な性質があってというような話になると、他の民族はそれがないから劣っているとか、だから支配してもいいとかするべきだとかいう方向に持っていくことで、日本人を操ろうとする人たちがいるのだ。たとえそれが、日本人は平和的で調和を愛する民族だ、というような話でも、他の民族は残虐だから従わせてもいいみたいな話に持っていかれたりする。そんな筋の通らないことがと思うけれど、3年前に奇妙なパンデミックが始まってから、人々がいかに筋の通らないことも信じてしまうかをさんざん見てきた。心理操作された人々に、論理は通用しないのだ。

だから、宮島のエネルギーを解放するにあたっても、それが変な民族主義に陥らないようにすることができるのかどうかは疑問だった。だけど、実際に封じ込めを解いて解放してみたら、そんな心配はまったく要らなかったことがわかった。これはまったく上下のない対等な繋がり、一人一人が神々の大きさになったところで初めてできる対等な繋がりなのだ。そこには民族の境も国境も何も存在していなかった。ひとたび繋がりができ始めたら、連鎖的にすべての境を越えて繋がっていき、そこにはただ「もともとは一つだった」という泣きたくなるほどの懐かしさと親しさがあるだけだった。

そうやってできていった繋がりで、日本列島全体がまるで龍のような同じ一つの生き物のように思えてきた。しかし、そこで止まるのではなく、沖縄から台湾へ、台湾から太平洋の島々へと繋がっていった。地層を通して大陸へ繋がっていき、中国とも韓国、モンゴル、チベットとも繋がっていき、アラブやヨーロッパまで繋がった。そして、異なる民族の人たちと、「もともとは一つだった」ということを泣きたくなるような懐かしさの思いで感じ合い、繋がっていった。そうやって地球を一回りしてしまうと、地球全体が一つの同じものから来ていたということに気がついた。私たちは皆、同じ地球人だったのだ。つまり、同じ地球の地表に根を下ろして生きている人間、同じ一つの海で繋がっている人間だった。

宮島に封印されていたエネルギーとは、それだった。たしかにこれは、宇宙統合の遺伝子かもしれない。地球上のありとある民族が、同じ地球人だったということを思い出す。そして、神々と同じ大きさになって、同じ地球人だったことを思い出した私たちは、そのとき初めて、地球外の世界にも開かれるのかもしれない。

2時間半ほどもぶっ続けて封印解きセッションをやっていたあとで、セッションに使った弥山の画像をまた見てみたら、何だか前より岩が明るくなっているようだ。封印解きを遠隔でやっていて、画像が変化するということはこれまでにもよくあった。いや、画像自体が変わるわけではないのかもしれないけれど、その土地の波動が変わるのが、画像に映り込むのだと思う。その画像を見ていたら、宮島のエネルギーがさっきよりも明るく柔らかくなり、すばらしいものに変わったのがわかった。

岩の一つ一つがくっきりとして、実に愛らしく見える。まるで一つ一つの岩が生き物のようだ。そして、とても柔らかい包み込むように温かな光がある。

画像が変化したのを認めたときから、私の心臓はずっとバクバクしている。思ってもみなかったようなエネルギーが解放されたのだ。すべての文化の融合、横繋がりのネットワーク、地球人意識。それがこんなに明るく優しく楽しげなものだとは、思っていなかった。


宮島 山頂付近の巨石群

2022年11月11日


【イスラムの封印を解く】



封印解きクラブで、キリスト教の封印を解いたあとで、イスラム教の封印はどうなんだろうという話になった。宗教の封印としてよくあるのは、宗教の教えを政治支配に利用するために、教えを歪めて聖典を書き換えたり、ヒエラルキーのある教会組織を作って、組織の命じる通りに従う大衆を作ったりすることだ。それで、もともとの教えを封じ込めて、そのカリスマを使って人を支配するシステムをこしらえている。

イスラム教のことは、戒律が厳しいとか男尊女卑だとか、嫌なイメージがあるのだけれど、それがもともとの教えとどう繋がっているのかがわからない。イスラムのことはほとんど知らないので、まずは調べてみようと思って、井筒俊彦の「イスラーム文化」を読み始めた。この本は、ちょうどイランでホメイニ師のイラン革命があった頃に出た本で、学生時代、経済学部の友人たちがしきりと話題にしていたので買ってあったのだけれど、これまで読んだことはなかった。

イスラムのことで、これまでも奇妙に思っていたのは、日常生活のすべてに戒律があってそれに従わなきゃいけないとか、日に5回も床にひれ伏してお祈りするとか、何だか狂信的な感じがするのにもかかわらず、実際に知り合ったイスラムの人たちは、そんな狂信的なところがまるきりないということだった。だいたい他の人たちにとても寛容で、陽気だし、女性たちも、差別されている人によくあるような自分を卑下したようなところがまるでない。男の人たちは女性にも礼儀正しくて、すごく気持ちのいい気の使い方をしたりする。

それほど多くのイスラムの人に知り合ったわけではないから、この人たちだけが特別なのかと思っていたのだけれど、イスラムの人と知り合ったことのある人たち、イスラム圏に行ったことのある人たちは、皆同じような印象を受けたと言っていた。いろんな人がいるんだろうけれど、あれはやはりイスラムでは特別なことではなかったらしい。

「ヴィクトリア女王 最期の秘密」という2017年に出た実話映画では、英国女王ヴィクトリアがインド人サーバントのアブドゥルに夢中になって、彼を師と呼んでコーランの教えさえ受けることになるのだけれど、そこで語られているアラーの神も、とても慈愛深く寛容な存在だという印象を受ける。

一般に信じられている厳格で残虐なイスラムのイメージとのこの差は何なのだろう? それを解くために、井筒俊彦の「イスラーム文化」と岩波文庫版のコーランを自分で読んでみることにしたわけだった。すると、謎が次々と解けていった。

コーランを開くと、まず唯一絶対神であるアッラーが、人々の行いについてものすごい勢いで怒っているので、その辺でもう本を閉じたくなる。この神は、とにかく自分だけを信じろと厳格に命じていて、しかも無条件で従えと言ってくるのだ。それだけ見たら、まるで独裁者の態度そのものだし、奴隷どころかロボットみたいになれと言っているように思える。

ところで、イスラムの神は、ユダヤ教でもキリスト教でも現れたのと同じ唯一神だ。この唯一神とは、実のところハイヤーセルフ、私たち一人一人の高次元自我以外のものではない。ユダヤ教でもキリスト教でも、この唯一神を絶対的に信じて従えと言っているので、イスラム教だけが別のことを言っているわけでもない。しかして、この唯一神を絶対的に信じて従うということは、つまり自分自身の魂の中にある神性を信じて、それに従って生きるという以外のことではないのだ。

そう考えると、コーランのあの激しい怒りの言葉と、イスラムの人たちの寛容で筋の通った感じの澄んだ目がピタリと一致する。唯一神に完全に服従することと、完全に自由であることとが奇妙にも一致するのだ。意識の領域では、自分が与えるものは、そのまま自分が受け取るものだ。だから、神を完全に信じて完全に従うとき、神はまるで奴隷のように自分に従ってくれるということになる。

それがまさに、キリスト教で説いている信仰の力であり、至福の調和が支配する神の国というものなのだけれど、だとすれば、イスラムとは、それをわりと誰でもできてしまうようにしてしまったということになるのかもしれない。

イスラムとは、「神にすべてを任せた」という意味なんだそうで、だから自分の魂に従って生きると決めた人は、何教だろうとイスラムだということになる。コーランの神がものすごく怒っているのは、一つにはユダヤやキリスト教の聖典を持っていながら、己の神性に従って生きていない人たちに対してだ。そういう人たちは災厄に遭うだろうけれど、それは自分で引き寄せていることだ、と言っている。

ユダヤ教でもキリスト教でも、偶像崇拝を禁じているのだけれど、イスラム教ではこれが徹底していて、イスラム寺院には像もなければ、シンボルもなく、中心を表すようなものさえない。ただ始まりも終わりもないようなアラベスク模様が連綿と続いていく、まるで宇宙のような空間があるだけだ。そのような空間の中で、人々はただ自分の内にある神と対話するのだ。キリスト教のように、神を仲介して、罪を赦す人もいない。しかし、コーランでは、神はどんな罪を犯しても改悛する者をよく赦す慈愛深い存在だということを繰り返し言っていて、人々はそれを信じているのだと思う。

キリスト教でも、神は人を無条件に愛していて、すべてを赦すと言っているけれど、キリスト教の人たちは、自分が罪を犯したのじゃないかと恐れていて、神が罰するのではないかと恐れている人が多い。そして、自分にも他人にも厳しいようなところがある。イスラムの人はあれとは対照的なのだ。そういう風に神を恐れているようなところがないし、他人にも寛容だ。そして、キリスト教の人よりも、よほど神に愛されていることを信じているように思える。

それを考えると、イスラム教は、ユダヤ教でもキリスト教でもなかなかなし得なかったことを、成し遂げてしまったのかということに、あるいはなるのかもしれない。

ところで、イスラムの人たちは毎日5回、聖地メッカの方角を向いてお祈りしているというのだけれど、それはメッカのカアバ神殿という黒い立方体の形をした小さな神殿に向かってだった。建物の外壁の角には、隕石だと言われる30センチくらいの黒い丸石がはまっていて、その石がすべての罪を取り去ってくれるのだと言っているそうだ。

そのカアバ神殿のエネルギーに遠隔アクセスして感じ取ってみてもらったところ、意外なことに女性的なイメージを受け取った人が多かった。イスラムの神といったら、とても男性的な感じがするのだけれど、しかしエネルギーは女性的なのだ。肝っ玉母さん風のおばちゃんが出てきて、人々に垢すりでもするみたいにさあさあと罪を洗い流しているイメージが出てきたりした。この方角に向かって毎日5回祈っているということは、意識上でつねにこのエネルギーに繋がって生活しているということになる。

メッカ巡礼の際に必ず行かなくてはいけないという聖地がもう一つあって、それはアラファト山という高さ70メートルほどの花崗岩がゴロゴロしている山だ。画像からそのエネルギーを感じ取ってみると、これは宮島の巨石群のエネルギーとほとんど同じものだった。ということは、イスラムの人たちは、毎日5回もお祈りして、つねにこのカアバ神殿のすべての罪を浄化するエネルギーと、アラファト山の宮島のようなエネルギーとに遠隔でアクセスしているということになる。

そんなことを、神の絶対的な命令だからということで、日に5回すべての信徒がするようにしているのがイスラム教なのだ。それがわかったら、イスラムの人たちが何故あんな風に人に寛容で、しかも自然に自分を信じているようなところがあるのかが納得できる。

宮島のエネルギーは、まるで一人一人が神々の大きさになって、すべての人々と横並びに繋がっていくようなエネルギーだった。自分を信じることができればこそ、他人をも信じることができる。自分に敬意を持てればこそ、他人にも敬意が持てる。まさにそうした横並びの関係のエネルギーだったのだ。

それはまさに、イスラムの、中心がなく連綿と繋がっていくアラベスク模様や寺院の宇宙のような空間を思わせる。「神の下にすべての人々は平等」ということを、ユダヤ教でもキリスト教でも言っているけれど、ユダヤ教でもキリスト教でも教会組織は階層社会を許しており、それが支配に利用されているという事実がある。それをイスラムは、この横並びのエネルギーに毎日5回繋がることをすべての人に強制することで、成し遂げているのかという気がする。

それで、アラファト山のエネルギーに皆でアクセスしてみることにしたのだ。多くの聖地では、エネルギーにアクセスしてみると、封じ込めにぶつかることも多いのだけれど、イスラムの聖地にはそういう封じ込めはほとんど感じられなかった。封じ込めがあるときは、地下の方に意識を向けてみると、何やら黒っぽい悪そうな存在が潜んでいるように感じられたりする。だけど、アラファト山にはそうした感じはなく、下の方はすっと通っているようだった。

聖地の封じ込めは、もともとのエネルギーを封じ込めて、支配権力につけ替えていたりするときに感じる。そうすると、もともとの神がまるで悪い存在のようなイメージになって、地下に押し込められているように見える。神道でもキリスト教でも仏教でも、多くの聖地はこうした封じ込めが見られるのだけれど、これまで見たかぎりでは、イスラムの聖地には、こうしたものを感じることがなかった。それはおそらく、イスラムが一切の偶像崇拝を禁じているため、聖地にも人の意識を元のエネルギーから逸らしてしまうものが何もないことから来ているのだろう。

アラファト山も、意外にも女性的なエネルギーだった。暗い子宮のような空間で守られている感覚だったり、それが宇宙空間のようになって、自分が大地の一部、宇宙の一部だということを感じたり、郷愁のような、何だか泣きたくなるような思いがしたりした。イスラムの人たちは、床に頭をつけ、チベットの人たちみたいなお祈りの仕方をするのだけれど、それは自分が大地の一部であることを感じるためなのかもしれないと思った。自我の意識をとことんまで切り崩してしまったとき、私たちは自分が大地の一部であったことを思い出し、この大地、この自然の世界がいかに精妙にできているかを、驚きの目で見るのだ。それは、地面の中の微生物の世界であり、自分の身体のすべての細胞の働きであり、また量子力学的な物のあり方とその相互作用であり、それは量子的なレベルから宇宙的なレベルまで、あらゆるレベルに及んでいる。そのすべてが初めて目に入って、この世界は何と美しいのかと驚く。そんな風なエネルギーを感じた。

これがイスラムなのだとしたら、西欧世界で何故これほどまでにイスラムが悪く言われるのかも理解できる。これは、西欧世界がこれまで築き上げてきた支配構造を、底辺から崩壊させてしまうような力を持っているからだ。イスラムがガダフィのような、国を楽園にする独裁者を生み出すのもわかるし、だからこそあんな風に攻撃されたというのも理解できる。

イスラムの封じ込めを見ようと思って中を覗いてみたら、イスラムには封じ込めはなかった。封じ込めは、西欧社会がイスラムを見る目の方にあったのだ。


アラファト山


イスラムのモザイク

2022年12月1日


【イスラムの歌】


私の内なる神に、私は毎朝あいさつをする
私をまっすぐに立たせてくれるこの内なる神に
この大地を、私たちが生きるこの大地を作り給うた神に

地面に頭をつけ、私は自分が大地と一つなのを知る
大地の高さに頭を下げたときに
私は自分が大地から生まれてきたことを思い出す

地中の微生物の精妙なはたらき 
私の身体の中のすべての細胞
すべての微生物の精妙なはたらき 
そのすべてが連綿とした生命の網の目になり
この美しい世界を作り上げる
そのすべてに私は頭を下げ、感謝する

自我など、崩れ去ってしまえ
何のために私たちは、こんなものを誇りにしてきたのか?
どちらの方が高いのか、どちらの方が大きいのかと
欲しくもないものを 追いかけてきた
一体どれだけの力を こんなことに使ってきたことだろう?

この世界を作り給うた神は、この大地におわします
上を見るのをやめて、大地の高さに頭を下げたとき
私たちはそこに本当の神を見る

地面に額をつけて、私は自分が大地と一つなのを知る
自我など崩れ去ってしまえ
私はもうそんなことに
この命の力、命の時間を使いたくはない
すべてが完璧なこの世界が、私たちに与えられているのだから

私たちの内なる神 この世界を作り給うた神は、完璧でおわします
すべての罪は、微生物たちが不要物を分解して土に戻すように
神が解き放ってくださいます
何も変えることもない、何も付け加えることもない、完璧な世界を
私たちの神は作り給うた
連綿と続く 命の網の目 
すべてを受け入れ、すべてを調和させる、この世界の精妙なはたらき
このすべてを 私たちの神は作り給うた

地面に額をつけ、大地の高さに頭を下げて
私はこの世界にあいさつをする
私たちはこの大地の一部であり
だからこそ大きな神の一部でもある
そのことを思い出すために
私は毎日、頭を地面につけて
この世界を作り給うた神にあいさつをする

***
イスラムのエネルギーを音楽に転換して、即興演奏した曲から、言語化した詩を朗読しています。

朗読 Aiko Maru
即興演奏 Osamu Fujikawa
言語化 佐藤シューちひろ

https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM2352-islam-D-major-chihiro-aiko-osamu.mp3?fbclid=IwAR0XV1Fc6ZdrEjMj4JEuBEi-2wtsDMrji_hFRP2F4OXBIggTUkuS74JWSHk


【マンハッタンの磐座と地球のハートチャクラの解放】



19世紀末にニューヨークに建てられた自由の女神像が、実はマンハッタン島にもともとあった自由のエネルギーを封じ込めているものだったことに気がついてから、私はこのマンハッタン島の自由のエネルギーに皆でアクセスして、ニューヨークを解放する魔法セッションを開催することにした。

魔法と私が言っているのは、意識が現実を作っているという原理を使って、意識の力で現実を変えようというものだ。これまでも、世界を変える魔法セッションといって、いろんな意識ワークを行ってきたけれど、それによっていろいろ変化が生じているのも感じてきた。意識というものは、遠隔ヒーリングなどが効果を奏するのと同じことで、 実は言葉などで伝えなくても、境なく伝播していく。その原理を使って、皆でもともとあったエネルギーにアクセスすることで意識を変え、共有することで増幅し、それを拡散していこうというのが、世界を変える魔法セッションだ。

ニューヨークのエネルギーを解放するセッションを行うのが12月8日になったのは、他のいろいろな理由からだったのだけれど、この日がジョン・レノンの命日であり、同時に太平洋戦争の日米開戦の日だったというのは、おそらく偶然ではなかったのだろう。

マンハッタン島の岩盤層をなしているマンハッタン片岩の画像から、マンハッタンのもともとのエネルギーにアクセスして、それを解放すればいいだけだと、私は軽く考えていた。しかし始めてみたら、ニューヨークは911とその後のアメリカの大きな変化とで、とても深い傷を負っていることがわかった。それを癒して、ニューヨークのエネルギーを生き返らせ、解放するのは、なかなか容易なことではなかった。それで、セッションは4時間にもわたったのだけれど、これはニューヨークばかりではなく、地球全体の深い傷を癒し、生き返らせることにもなったのじゃないかと思う。

セッションには、ニューヨークに住んでいたことがある人も何人か参加してくれていて、地元にいないとなかなかわからないことを教えてくれた。マンハッタン島には、本当にすばらしくパワフルな磁場があるらしくて、地下鉄で反対岸に行っただけで、エネルギーが違うのがわかるのだそうだ。マンハッタンに入ると、ほとんど寝なくても活動し続けることができるくらいパワーが出るのだと。そして、いろいろな民族が互いに受け入れ合う雰囲気があって、とても気さくで誰でも歓迎するような雰囲気があるのだそうだ。

マンハッタン島はもともとネイティヴ・アメリカンの商業都市があったということなので、いろいろな人々が集まって楽しく交流したり、ものを交換し合ったりするようなエネルギーが昔からあったところなのだと思う。

マンハッタン片岩というのは、雲母がたくさん入ってキラキラしている赤っぽい岩石で、それがマンハッタンの岩盤層をなしている。この岩石のエネルギーを画像から受け取ってみると、踊ったり歌ったりしたくなるようなエネルギーがあることがわかった。自由に表現をしたいという喜びの感覚があり、ここではそれができるという守られた感覚がある。ハートから喉のチャクラに大きく共振する感覚があり、それが宇宙とも繋がっているように思える。

宇宙とは、無限の可能性だ。私たちは、地球上でいろいろなことをしているけれど、それはおそらく宇宙にすべて存在する可能性のごく一部でしかないのだと思う。その無限の可能性、無限の力、無限の創造性、無限の表現性があるという感覚、そしてそれにアクセスして地上で新しいものを作り出すことができるという感覚。そうしたエネルギーの磁場が、マンハッタン島にはあるようだ。

すると、マンハッタンに行ったことがある人が、セントラルパークにUmpire Rockと言われる巨大な岩があり、それがすばらしいエネルギーを発しているのだということを言っていた。もともとネイティヴ・アメリカンの聖地だったのだろうというのだけれど、あの岩が壊されないで残ったのは、きっと守られている場所だからなのだろうと言っていた。

それで、そのアンパイヤ・ロックの画像をネットで探してきて、そのエネルギーにアクセスしてみることにした。ところで、アンパイヤ・ロックと自由の女神像がある島とを結んだ軸上に、911で破壊されたワールドトレードセンターが位置しているのだそうだ。この3つの地点は、マンハッタン島の経絡、つまりエネルギー的な中心軸のようなものなのかもしれないという。

911は、イスラム過激派が自爆テロでワールドトレードセンターに突っ込んだために崩れ落ちたのだとして発表され、それがイラクとアフガンに侵攻する理由になったわけなのだけれど、当時その付近にいた多くの人たちは、誰も飛行機の破片を見ていなかったし、そんなはずがないと思っていたそうだ。建物の崩れ方も、ダイナマイトを使ったビル解体作業とまったく同じようだったし、建築のことをちょっとでも知っている人にとっては、あれが飛行機によるものなどではないのは、まったく明らかなことだった。

ところで、ワールドトレードセンターのあったところは、まるでメルドダウンでも起こしたかのように、地下まで溶け崩れていて、深くえぐれているのだそうだ。こんなことは、飛行機が突っ込んだって起きるわけはないし、内部にしかけたダイナマイトだって起こらない。核兵器でも使ったのではないかという話があるのだという。

しかし、ただ戦争を起こす口実にするためだけだったら、わざわざ核兵器を使う必要などはない。あるいは、この事件を計画した人々は、マンハッタン島の岩盤層から来るパワフルなエネルギーのことを知っていて、それを封じ込めるために、わざわざ岩盤まで傷つけようとしたのではないかという。

事実、911はニューヨークのみならずアメリカの人々の心を深く傷つけた。そしてそれ以来、アメリカに入国するには、何もかもチェックされて、靴まで脱がされるのが当たり前になった。自由な国であるはずのアメリカが、もっとも厳しい管理支配の国になってしまったのだ。

それで、アンパイヤ・ロックの画像からエネルギーにアクセスしつつ、ワールドトレードセンターのところと自由の女神があるところとが、エネルギー的にどうなっているのかを皆で見てみることにした。アンパイヤ・ロックは、ルートチャクラが活性化するエネルギーで、このエネルギーを感じていると、背骨の軸がすっと通って伸びるようで、ルートチャクラから頭頂のチャクラまで開くような感覚がする。マンハッタンにいるとろくに寝なくても動き続けることができるくらいパワーが出るというのは、こういうエネルギーから来ているのかもしれない。

背骨の軸が通っていると、手足の自由が最大になり、まるで宙を飛んでいるのかと思うくらい踊れたりする。そしてまた、宇宙と繋がっているような感覚もあり、ずっと空の上、宇宙の方まで飛んでいけそうな気がする。宇宙と繋がって、無限の創造性、無限の可能性を受け取りつつ、それを地上で表現するというのが、ここのエネルギーのようだ。アンパイヤ・ロックは平たくて、石舞台のようでもあるのだけれど、石舞台というのはだいたい喉のチャクラと頭頂チャクラの両方が開くエネルギーがある場所で、宇宙からメッセージを受け取りつつ、それを表現する場所だった。ニューヨークはアートの街、表現の自由の街、とりわけミュージカルの街だけれど、まさにそうしたエネルギーが、アンパイヤ・ロックにあったのだ。

ワールドトレードセンターのところに意識を向けると、深い傷があり、深い悲しみの念があるのを感じた。あの事件によって、ニューヨークの人たちがどれだけ傷つけられたのか、その悲しみの大きさを感じた。ニューヨークの人たちばかりではなく、アメリカ中、世界中の人々が、あの事件でものすごく深い傷を負ったのだ。その悲しみの念があの場所に集まってきて、土地にできた深い傷を癒しているのを感じた。

あの事件で5000人もの人々が犠牲になり、そしてそれに続く戦争によって、イラクで50万人もの人々が犠牲になった。そのすべての痛みと悲しみとがそこにあった。あの事件以来、アメリカも全世界も前のようではなくなってしまったのだ。そのことに対する悲しみの念も、またそこにあった。

悲しみの念は、ただ感じて受け取っていると、自ずと愛に変わっていき、傷を癒していく。無理にポジティブに考えようとしたり、希望的に見たりしようとしないで、ただ悲しみを悲しみとして受け取り、感じていると、自ずと愛に変わっていくのだ。

それで、悲しみをただそうやって受け取ってもらい、亡くなった人たちには「ありがとう」という念を送ってもらうことにした。私たち生きている人間は、亡くなった人たちは恨んでいるんじゃないかとか思うのだけれど、すでに地上を離れた人たちは、恨むとか憎むとかいう次元にはもういなくて、実は生きている人たちを守ってくれていたりする。だから、その魂のエネルギーと繋がるには、「ありがとう」という念を送るのが一番早いのだ。

すると、世界中からものすごい悲しみの念がやってきて、愛になってワールドトレードセンターのところに開いた穴の中に入っていった。911は、これほどに大きな傷を全世界に与えていたのだと思った。その深さとその愛を感じた。

そして、ワールドトレードセンターの穴を悲しみと愛の念が埋めていき、地下に大きなかたまりのようになっていくのが見えた。傷がふさがって、癒えていくようにだ。私たち生き物の身体には、自己治癒力というものが備わっていて、どんな傷でも元通りに修復してしまう力がある。土地にだって、やはりそのような力があるのだろう。だから、鍼灸などで自己治癒力を活性化させるように、意識の力で土地の自己治癒力を高めて、元通りに癒すことができるのじゃないかと思った。

すると、ワールドトレードセンターの穴のところが、まるで心臓のように二つに分かれて鼓動し始めるイメージが見えたのだ。そのとき私はハッとして気がついた。ワールドトレードセンターとは、何とニューヨークのハートチャクラの部分だったのだ。アンパイヤ・ロックがルートチャクラで、ワールドトレードセンターはハートチャクラだ。そして、自由の女神はサードアイチャクラだ。サードアイチャクラが自由の女神像で封じ込められ、ハートチャクラはワールドトレードセンターで封じ込められていた。そして911でハートチャクラに致命的な傷を負ってしまったのだ。この傷は、世界全体のハートチャクラを傷つけた。

ニューヨークのエネルギーの中心とは、ハートチャクラの愛だったのだ。私たちが表現したいと思うものは、何といっても愛だ。愛するものを表現し、愛の感情を表現すること。それこそは私たちに最も大きな力を与えるものだし、最も大きな幸福感を与えてくれる。

ワールドトレードセンターのところが心臓になって、まるで仮死状態になっていた人が蘇生術で息を吹き返すように、その心臓が鼓動し始めるイメージが出てきた。そして、心臓が鼓動し始めることによって、それまで止まっていた循環系が流れ始め、血が通い始め、生き返り始めたのだ。

それが全世界まで循環していって、流れができていった。そのとき、「もうやられないぞ。もうやられないぞ」という言葉が繰り返し聞こえてきた。それを聞いて、世界はこれでようやく抗体ができたのだと思った。抗体というのはつまり、一度被害を受けたので、次に来たときにはもう害を被らずに対処することができる力があるということだ。911の悲劇で、大きな犠牲を強いられながら、この悪の源がどこにあるのかを私たちは突き止めた。それでもう抵抗力がついたので、私たちはもう同じ被害に遭うことはない。その抗体がついたのだと思った。

911にしても311にしても真珠湾攻撃にしても、すべては一部の金融家たちが世界を支配しようとして自作自演していたことがもうわかっている。そのために私たちはこの100年、200年、戦争に次ぐ戦争を経験し、殺し合いと貧困とを経験し、ありとある騙しの手法を経験してきた。しかし、それもすべては物質的な次元、三次元のレベルで私たちが生きていたからだったのだ。物質的な次元で考えたら、この悪夢を終わりにする策などないように見える。しかし、その次元を超えていくならば、私たちはもう同じ策略にはめられて、被害をこうむることはなくなるはずなのだ。

911でこの地球は心臓に深い傷を負って、瀕死の状態だったということなのかもしれない。しかし、ここで生き返ったら、地球はついに抗体を得て、この果てしない闇の構造を超えていく。それがついに起こりつつあるのかもしれない。

セッションの最後に、傷ついたチャクラが癒えて生き返ったニューヨークのエネルギーを、光の玉に入れて、世界の集合意識に送ってもらい、そのエネルギーで地球を包んでもらった。すると、地球全体が一匹のピンク色の巨大な龍のようになって、宇宙を飛びまわり始めるのが見えたのだ。これでついに、私たち地球人はたがいに争い合うのをやめて、地球人意識を持つのかもしれない。それで初めて、宇宙社会に入ることができるようになるということなのかもしれないと、私はそう思った。


レナペ族
ワールドトレードセンターの穴


マンハッタン雲母片岩
セントラルパークのアンパイアロック


2022年12月8日


【ニューヨークの呪いが解けた】



12月8日にニューヨークのエネルギーを解放するセッションを行って、マンハッタン島の岩盤層をなすマンハッタン雲母片岩が発する、すばらしくパワフルな陽のエネルギーに皆で遠隔アクセスして解放した。

それ以来、どうもエネルギーが変わったような気がする。セッションに参加していなかった人も、あれから身体が軽くなったと言っていた。何だか追い立てられるようなエネルギー、あるいはドロドロしたような闇のエネルギーが、それまでニューヨークから来ていたのかもしれない。どうもそれが消えてしまったような気がするのだ。そして同時にまた、ニューヨークが発していた強力な引力のようなもの、麻薬のようなアメリカン・ドリームの磁力もまた、シューンと消えてしまったように思えた。

マンハッタン島の岩盤層が露出しているセントラルパークのアンパイヤロックのエネルギーは、皆で楽しく踊ったり歌ったりして楽しんでいるような感じの波動だった。競い合ったり落としめ合ったりするような感じのものではない。実際マンハッタンには、気さくで陽気で誰でも歓迎するような空気があるという。おそらくは、それが本来のニューヨークのエネルギーなのだ。それがいつの時代にか、富と名声とを求めて争い合い、ありとある闇がばっこする街になってしまったのだ。

マンハッタンの目の前に巨大な自由の女神像が建てられたのは、1886年のことだ。あれがどうも、ニューヨークのポジティブなエネルギーを支配権力に付け替えているようだった。巨大なモニュメントを置くことで、支配権力の存在を示すのは、ローマ帝国の頃からやっていた。ローマ帝国は、属国の首都に等身大よりずっと大きいローマ皇帝の像を立てさせたりしていた。ローマ帝国にとっては、属国がローマ帝国に従い続けるようにすることが重要なことなのだ。大人しく貢ぎ物を収め、命令通りに戦うようにするためには、絶えず支配者の存在を示している必要がある。それで、首都の真ん中に、巨大なローマ皇帝の像をおいていたわけだ。

野生動物は、相手が自分よりも大きいと知ると、かなわないと見て逃げていく。だから、敵に出会ったときには、後ろ足で立ち上がったり、頭の毛を立てたりして、自分を大きく見せるようなことをする。巨大な像をおくのは、それと同じような心理的効果があるのかもしれない。見上げるように大きな像を見せられると、反射的に自分よりも大きな存在だと思い込み、これはもう従うしかないと思ってしまう。

マンハッタン島の岩盤層をなす雲母片岩は、ハートと喉のチャクラが開くようなエネルギーで、自由な表現ができる力をもらえるフィールドを作っている。それがニューヨークの自由の感覚を作り出しているのだけれど、それは松明を掲げて戦い取らなければならないようなものではない。自由な表現をし、人生を楽しむのに、何も人を蹴倒してのぼり詰めていく必要などはないのだ。その自由は、私たち地上の人間が、誰でも生まれつき持っているものだ。

マンハッタン島の目の前に、見上げるように大きな自由の女神像を建てることで、ニューヨークの自由のエネルギーは、上昇志向のエネルギーに付け替えられてしまったのかもしれない。上へ上へと上り詰めていって、プール付きの家とか有名ブランドのパーティドレスだとか、シャンパンタワーだとかそういったものを消費するのが自由であるかのように、方向を向け変えられてしまったのかもしれない。

あの頃からマンハッタンでは、高層建築が次々と作られていった。高さを競って、より高いビルを建てようと争いが繰り広げられた。世界で最も高いエンパイアステートビルが完成したのは、1931年のことだ。ところでその頃、マンハッタン北部のウォール街で金融恐慌が起き、多くの人々がホームレスになった。お金がお金を生む株取引の世界で、天国と地獄をめぐるようなゲームが繰り広げられる。お金を手にすることができれば、摩天楼の上層から下を見下ろすような生活ができる。しかし破産すれば、路上で生活するようなことになる。

ところで、あのウォール街の株価暴落も、自然に起きたことではなく、実はシティ・オブ・ロンドンのハザールユダヤ系金融家が仕掛けたことだったのだ。ニューヨークは富の集まる場所だけれど、人々が貧困になれば、たがいに争い合い、奪い合ったり殺し合ったりするようになる。ニューヨークが悪の巣窟のような街になっていったのも、実は作られていたことだった。

人はたがいに仲よく楽しくやっていたら、なかなか支配できるものではない。しかし、たがいに競い合い、争い合うようにしておけば、どうにでも操ることができる。こういうのが偉いとか、ああいうのがすばらしいとか思わせれば、競ってそっちの方向へ向かわせることができるからだ。

そうやって、こういう家に住んでいるのが豊かだとか、こういう服を着ているのがかっこいいとか思わせられて、あれやこれやうまいこと消費させられていたのが、いわゆるアメリカ的な生活スタイルというものだった。そして、それが世界中で宣伝されて、アメリカ流にやれば豊かになれるというような思い込みができていったのだ。結局のところそれは、大量生産品を皆が消費して、皆が同じような物を持ち、同じような家に住んで、同じような服を着て、同じようなものを食べ、そのお金を得るために言うなりに働かなければならないという、自由とは正反対のものだったのだけれど、それこそが自由であるかのように、うまいこと思い込まされていたわけだ。

ニューヨークは、資本主義経済の豊かさを世界中に宣伝する街だったと言える。ニューヨークにもともとあった自由のエネルギーに、資本主義的な消費生活のイメージが重ね合わされて、私たちはアメリカ的な資本主義経済こそは自由であり、豊かさであると思い込まされていたのかもしれない。絶えず何かが足りないように思って、あれがあれば、これが買えればと思わされてきた。いつも自分の生活が十分に豊かではない、自由ではないと思って、もっともっとお金を得ようとするように仕向けられてきたのだ。

そして2001年、21世紀に入ったとたんに、エンパイアステートビルを抜いて世界一の高さになっていたワールドトレードセンターが、911の偽装テロで爆破されて、崩壊した。あれは、上昇志向から戦いへの方向換えだったのかもしれない。上へ上へと目指して操られてきたのが、今度は外の敵を攻撃することへと誘導されていった。世界のお金を牛耳っている金融資本家達にとっては、どこへ向かっていこうが同じことなのだ。人々が競って消費し、お金を使いさえすればいい。より高いビルを建てることであれ、より多くの武器を買うことであれ。

あの頃から、ニューヨークは今度はテロの脅威の宣伝塔になったとも言える。911以来、世界中でセキュリティチェックが強化されて、飛行機に液体を持ち込めなくなった。それから20年して、今度は演出されたパンデミックで、ニューヨークが標的になった。

ニューヨークでは、ウィルス感染で多くの人々が呼吸困難で亡くなったというのだけれど、これも実は故意に仕掛けられていたことがわかっている。当時ニューヨーク市長だったアンドリュー・クオモは、感染防止のためといって、呼吸器系疾患のある高齢者を病院から高齢者施設に移送させていたけれど、実はそのために多くの高齢者が呼吸困難で死亡していたのだ。ウィルス感染によってではなく、治療が受けられなかったためにだ。しかも、病院から出された患者を落ち着かせるためといって、呼吸器系の機能を低下させてしまう副作用があることが知られていたメダゾラムが与えられていたという話もある。また、感染症患者として病院に入院した患者には、腎機能の障害を起こしやすいことで知られていたレムデシヴィルを全員に5日間点滴するように指示が出ていたのだそうで、そのためニューヨーク市では、感染者の26%までもが死亡していたのだ。ウィルス感染によるものではなく、薬害による腎不全で、極度の肺水腫を起こして呼吸困難で亡くなっていた。

かくしてニューヨークは、911に続いて、またもや自作自演の「外からの脅威」の犠牲になり、世界中にウィルスの脅威を宣伝し、厳しい管理支配を行わせる口実に使われたわけだ。

ところで、12月8日にマンハッタン島のもともとのエネルギーを解放するセッションを行ったあとで、こうした構造が急に透けるように見えてきてしまったような気がする。これまで、このもともとのエネルギーを付け替えることで作られていた、上昇志向や敵の脅威やらが、幻のように消え去ってしまったかのようなのだ。何だかニューヨークの上に重苦しく乗っかっていた虚像のようなものが、霧のように消えてしまった。何だかそんな気がしてしようがない。

つまるところ私たちは、何よりも心理操作で支配されていたのだ。そのことが、この三年ほどで次々と見えていった。だけれど、現実は私たちの意識が作り出している。だから、意識を解放することで、現実は変わり、世界は確実に方向性を変えていく。虚像に囚われて、絶えず何かを追いかけたり、何かから逃げたりしていた世界から、私たちの本当の力を知って、それを使って生きていく世界に変わっていくのだ。

マンハッタンのエネルギーを解放したのは、その意味でかなり深い転換になったような気がする。そのことが、徐々に実感として感じられるようになってきている。

2022年12月9日


【東京の封印を解く】



土地の人間にとっては、その土地の封印を解くのはとても難しい。長い歴史の中で封じ込められてきている状態を、当たり前として受け取ってしまうからだ。だから、まず封印があることになかなか気づけないし、その封印がまたその土地の権威と繋がっていたりするので、触れてはいけないもののように思ってしまう。封じ込めは土地に住む人々の心の中に深く入り込んでいるので、それを解くには外からの視点を必要とするのだ。

その意味で、東京の封印を解くのは容易なことではなかった。それは、自分の中にある思い込みを少しずつ捨てて、埋もれていたものを掘り起こしていくような作業だった。

東京は江戸幕府の都だったわけなのだけれど、その中心となっていた江戸城は、日本の政治や経済の中心として機能していた。それが明治期になって、江戸城があった場所は皇室の住居になった。明治維新とは、つまり封建制から立憲君主制への移行だと言える。立憲君主制の君主は、封建制の君主と違って政治的実権を持たない。実権は議会が持っているので、君主はそれを承認したり任命したりするだけだ。日本の場合、西欧諸国の圧力と画策の元で、幕府が倒され、立憲君主制が作られた。その立憲君主制の君主として立てられたのが、鎌倉期以降すでに長いこと実権を失っていた天皇家だった。

封建制から立憲君主制への移行は、イギリスとフランスで起こったブルジョワ革命に始まるのだけれど、このブルジョワ革命というものも、実のところはユダヤ系の金融資本家が大衆をお金と心理操作で操って起こした政権乗っ取りだったことが、この頃ではもうわかっている。議会制民主主義といったら聞こえはいいけれど、つまるところ、お金でどうにでも動かせる支配システムにしたのだ。王政を倒して民主制に変えてしまえば、金融資本家たちは政治の表に出ないまま、裏からどうにでも政治を動かすことができてしまう。彼らは戦争が起きるようにしかけておいて、各国の政府に軍備を整えるためのお金を貸すのだ。それで、借金のカタに通貨発行権を取ってしまう。こうなったら政府とは名ばかりで、実のところは金融資本家のところにお金が自動的に集まっていくような収奪システムができあがってしまう。そうやってできていったのが、今の世界を支配している世界銀行の通貨システムだ。

日本では、明治維新というのがまさにこのブルジョワ革命のようなもので、これもイギリスのロスチャイルド家が裏で資金を出していたことがわかっている。つまり、お金で傭兵を雇い、武器を持たせて、内戦を起こさせたのだ。そして幕府を倒して、彼らが裏で自由に操れる立憲君主制をこしらえさせたということになる。

ところで、日本の天皇は、平安期の頃からすでに実権を持っていなかった。藤原氏が摂政関白制というのを始めて、まだ決めることもできなければ責任を持つこともできない子供を即位させたのだ。それで、後見人という名目で藤原氏が実権を握り、天皇は実権のない君主として、お飾りのように立てられていた。藤原氏がこのようなやり方を取ったのは、圧政による恨みの念をかわすためでもあった。

当時は、藤原氏が日本各地で縄文の聖地を破壊し、金銀や水銀、鉄などの地下資源を奪っていた。そのため各地からの恨みの念が平安京に集まってきていたのだ。ところで、そこに実権がなく責任も取れない子供が君主として表に立っていたというわけだ。実際に悪事をなした人物は、その影に隠れていた。そうやって、何があっても責任を追及することができず、うやむやになってしまう仕組みになっていた。

明治期になって再び君主に立たされた天皇家は、まさにこの責任隠しのシステムとして、江戸城があった首都の中心に居を占めることになったのだと思う。江戸期には、江戸城は政治経済の中心としての機能を持っていたのに、この広大な敷地に、そうした機能をまったく持たない、実権のない君主が据えられることになったのだ。

表面的にトップの位置に立っている存在を、神聖不可侵なものにしておくのは、支配の常套手段だと言えるかもしれない。神や法王であれ、王や皇帝、天皇であれ、無条件に従うべき存在であり、疑いをさしはさんだりしたら天罰が当たるというような話にしておくと、それで責任追及を逃れることができる。明治期になって、首都の中心に天皇家が居を占めることになったのは、まさにそうした機能を持たせるためだったと思う。ものごとをあいまいにしたまま、何となく流されていく「日本人的な性質」なるものは、実はここから来ているのかもしれない。

12月8日のニューヨークの封印解きワークでは、自由の女神像とワールドトレードセンターが都市のエネルギーを支配につけ替える装置になっていたことがわかったのだけれど、東京では、皇居がこのエネルギーのつけ替え装置になっているようだ。こうした場合、つけ替え装置になっているものに意識を向けるのは危険だ。自由の女神像が、自由という概念にまつわるあらゆる欠如意識やコンプレックスを煽り立てて、自由を求める志向そのものが自由を捨てさせてしまうようなことになっていたのと同様に、そこの人々が最も大事にしているもので罠にかけられるように、真逆の状況に引きずり込まれるようなことになってしまうからだ。

そうではなく、ニューヨークでは岩盤層がそうだったように、東京のもともとのエネルギーをなしているものを突き止めて、そこに意識を向けていけば、封印を解いてエネルギーを解放することができるはずだ。

それでは、東京のもともとのエネルギーとは何なのだろう? 
一つには、江戸城は富の循環を作り出す中心地になっていたということがある。封建制とは、皆が主君に貢ぎ物をすることで、富が集められ、それが再配分されることで皆が豊かになるシステムだと言えると思う。現実にどれだけうまく機能していたかは別として、とにかくそういう原理で動くべきものだった。それが明治期以降は、皆に還元するためにという名目で中央政権が富を集めておいて、実際には裏で仕切っている金融資本家が吸い上げる仕組みになっていたわけなのだ。それで、富国強兵といって、国民から搾り取ったものを、武器を買うのや大企業を富ますのに流していた。

ところで、東京といったら広大な関東ローム層の平野だ。それで、もともとのエネルギーを読み取るために、関東ローム層の画像を使ってアクセスしてみることにした。すると、意外にもとても柔らかく暖かいエネルギーを感じたのだ。江戸の時代から、東京はありとある地方からの人々を受け入れてきた。古い伝統や因襲があるわけでもなく、わりとものにこだわらないで、何でも受け入れて、なかよくやっていこうというような空気がある。そういう軽さ柔らかさのあるエネルギーが、関東ローム層からは感じられた。

関西の人にとっては、関東の気質は辛気くさいというか、物事を深刻に受け取りすぎるようなところがあるのだそうだ。関西ならば、笑いごとで済まそうとするところなのに、そういう軽さがない。それは、関東には東北の人が多いということと、関東は災害が多いので、助け合いの精神が強い風土があるということの二つがあるのじゃないかと思った。

東京はもともと地盤が弱くて、いくつものプレートが交わっていたりもするので、地震が多いし、洪水もあるしで、家が壊れて家財のすべてを失う危険も高い。だけど、東京の人は、もともとそれを見込んで住んでいるようなところがある。それで、困っている人がいたら見殺しにはしないで、たとえ自分が損をしても助けるべきだというような精神性ができていったんだと思う。それがつまり、江戸っ子の気質である義理と人情というものなのだけれど、それはもともと「困ったときはお互いさま」というようなものだった。そして、それをサラッとかっこよくやる作法が、江戸の人間が大事にした粋(いき)という感覚だったのだ。

古典落語とかを見てみると、このことはよくわかる。江戸の町人は、宵越しの金は持たないと言って、お金が入ったら、仕事にあぶれている若い衆たちに振舞ってやることになっている。そうやってお互いに助け合っているから、いざというときには、人のために一肌脱いでやる、つまり、自分が損をしても、助けてやるということになる。この義理と人情というものは、もともとは自己犠牲を強いられるというようなものではなく、循環していくのを知っているからこその助け合いのシステムとして機能していた。

となると、明治以降、江戸城が皇居に入れ替わったときに、この循環が富の搾取システムにつけ替えられてしまったということなのかもしれない。つまり、困った人がいたら一肌脱いでやるという東京の気質が、国のために身を犠牲にするべきだという風につけ替えられてしまったのだ。国のために身を犠牲にすれば、それで国が豊かになって、貧しい人がいなくなって、ということになっているからなのだけれど、実際にはそれで結局のところ、戦争屋に儲けさせることになり、金融資本家に儲けさせることになっていたわけだ。

つまり、それまでは富の還元と循環を起こさせる「粋な身ぶり」であったものが、それ以来、自己犠牲を美化して強要するような空気を作り出す、何やら重苦しいジメジメしたものに取って替えられてしまったわけだ。

そしてもう一つ、東北との繋がりということで言うならば、将門の首塚の存在がある。これは皇居の内堀のすぐ外、大手門のすぐ前のところにあって、まわりは高層ビルが立ち並んでいるというのに、移動しようとしても事故があったりしてどうしても移動することができず、そのまま平地として残っている。それは、将門の祟りがあるからだと言われているのだけれど、こういう風に動かせない場所というのは、実はその土地を守っている重要なものであったりする。

将門は、平安期に西の勢力に対抗して、東の独立国を作ろうとしていた武将だ。それで反逆者として捕らえられて、京都で処刑されたのだけれど、その首が東京まで飛んできたのだと言われている。だから、首塚といっても本当に首が入っているのかどうかはわからない。だけど、そこには東国の人々が将門に寄せた熱い思いがあるのが感じられる。実際に将門が何をしていたのか、くわしいことは知らないのだけれど、将門の首塚のエネルギーにアクセスしてみると、東京から東、東北までの人々の熱い思いがそこにあるのを感じるのだ。

将門の首塚は、この東北の熱いエネルギーを東京に繋ぐものになっているのかもしれない。それは東京を守っていて、東京を豊かにしているものである一方、東北のエネルギーを搾取するものになっているのかもしれない。実際、東北は東京の食料を生産している上、東北にたくさんある原発は、東北で使われるのではなく、東京の電力供給をまかなっている。東北はうまいこと東京の犠牲にされているといってもいい。

それで、将門の首塚のエネルギーにアクセスしてみると、やはり将門の本当のエネルギーは封じ込められていたようだった。それで解放してみたら、まるでゴジラみたいに大きくなって、東北の方へ何かをしきりと投げているようなイメージが現れた。どうも、東京が搾取していた富を東北に投げ返しているらしい。これは、将門の首塚を封じ込めることによって、東北を搾取することを可能にしていたということのように思える。

東北にも縄文の聖地がいくつもあって、それも多くは封じ込められている。たとえば本州の北の果てにある恐山は、地獄のような恐ろしいイメージを与えることで封じ込められているのだけれど、実は祖霊と繋がる重要なポイントで、これは東日本全体の循環装置の心臓部とも言えるかもしれないくらいだと思う。それで、将門の首塚から恐山まで、地面を斧で割るように封じ込めを開けてエネルギーを解放するイメージを皆で作ってみると、東京と東北との間にまるで巨大な龍の大群のような太い生き生きとした繋がりができて、富が循環していくイメージが現れた。将門と恐山、東京と東北との有機的な繋がりもまた、封じ込められていたものだったらしい。

東京には、封じ込めになっていそうなものがたくさんある。東京タワーもおそらくはニューヨークの自由の女神と同じように、サードアイチャクラをつけ替えるものになっているのだろう。それを言うならばおそらくはスカイツリーもそうだし、東京の高層ビル街もだ。

ビルなどがなかった江戸時代には、関東平野のどこからでも富士山が見えたのだ。富士山も、諏訪から八ヶ岳の封じ込めが解けたらもともとのエネルギーが出てきたらしくて、一週間前くらいからやけに軽い感じになっていた。それで、封じ込めが解けた新しい画像を使って富士山にアクセスしてみると、やはりサードアイや頭頂チャクラが開くエネルギーのようだった。これは、何がいいことなのか何が正しいことなのかがすっきりと見えて、迷いなく自分の魂に従って生きていけるようなエネルギーだと思った。

江戸時代には、どこからでも富士山のこの姿が見えていて、誰もが常日頃このエネルギーを受け取りながら生きていたということになる。「気っ風がいい」と言われるような関東人の精神性は、まさにこの富士山のエネルギーから来ているものなのだろう。江戸の町人の、黙って人助けをするような気質や、江戸の職人の生真面目な仕事ぶりも、ここから来ているのに違いない。

それで最後に、イメージで東京の高層建築をなくして、どこからでも富士山のエネルギーが受け取れるように解放してみた。関東ローム層、将門の首塚、恐山、そして富士山のエネルギーといくつもアクセスして解放していったのだけれど、これでようやく東京のもともとのエネルギーを解放できたような気がする。

東京とは、関東ローム層の広大な平地が広がり、いろんな地方のいろんな人たちを受け入れてきた土地なのだ。自分の得を考えるより、互いに助け合うことで、皆が豊かになるようにしてきた。東の豊かさとは、所有することではなく、何よりもこの助け合いの精神に支えられた豊かさなのだ。そして、それは自分の魂に従って生きるような富士山のエネルギーに支えられていたのだと思う。

もともとはこうしたエネルギーだったものが、何重にも封じ込められ、つけ替えられて、国のために命を犠牲にしろだとか、黙って従えだとか、責任をうやむやにして、何となく周囲に合わせていろとか、そういういわゆる「日本人的な」精神性に歪められてしまっていたのだ。だけど、それは本当の日本の精神性ではない。

今ついに、東京のエネルギーを解放することができたということは、私たちは、ようやく本当の日本の精神性を取り戻すときが来たということなのだと思う。これまで長いこと封じ込められ、つけ替えられ、本当の自分ではないものを自分だと思わされていたようなところがあるわけなのだけれど、今ようやく私たちは、本当の私たちの姿を発見するのだ。

世界を変えていくのは日本人だというようなことが前から言われていて、だけどそんな風にはまったく思えないというのが、今の状況ではあるのだけれど、もし私たちが世界を変えていくことになるのなら、それは私たちの中の封じ込めを解き放って、本当の私たちの姿を認めたところから、始まっていくのだと思う。


関東ローム層
江戸城の地図
大手町の将門の首塚 2014年10月の画像
封印が解けた富士山


2022年12月16日


【富士山の封印が解けた】



ちょうど冬至の日に、富士山のエネルギーを解放するセッションをやることになったのだけれど、それも偶然ではなかったのだろう。最高で90人近く、世界中のいろいろなところから参加してくれていた。

諏訪湖と八ヶ岳の封印が解けたら、富士山の封印も一緒に解けて、これまで見たこともないようなエネルギーを発し始めているのがわかった。そのエネルギーを皆で感じ取って、シェアすることによって、意識をさらに詳細に向けていくことで増幅し、それを集合意識に送ろうというセッションだった。

富士山はこれまでも、さまざまなイメージが与えられてきていて、日本人である私たちの意識の中では、固定観念で固められてしまっているようなところがある。日本で最も高い山、最も美しい山として、富士山のイメージは時々の支配権力に利用されてきた。そうした固定観念で重たくなっていた富士山を解放し、先入観のない目で見て、その本当の姿をそれぞれに発見する。そのプロセスにより、富士山のエネルギーを純粋なものに浄化していくのだ。

富士山には、いろいろな要素がある。諏訪湖から八ヶ岳、富士山へと続く水の流れがあり、富士山の豊富な湧き水は、この水をすべて集めている。かぐや姫が月に還る前に残していった不死になる妙薬、富士山の頂で燃やしてしまったというその妙薬は、あるいは富士山の湧き水のことだったのかもしれない。また、徐福が求めてやってきたものも、この富士山の水だったのかもしれない。富士山のエネルギーは、まったく封じ込められていない状態ならば、生き物のすべての細胞を生き返らせ、つねに若返らせるほどの力を持つものなのじゃないかという気がする。

水は生命の源だ。その水が、富士山の岩盤の中を長年かけて通っていって、富士山のエネルギーをたっぷり帯びて、湧き水になってふんだんに湧いてくる。富士山の広い裾野のように、水は高いところから低いところへと自然に流れ、広がっていく。そうやってすべての生き物たちに、その水が行き渡っていく。そんな風な、すべてを養いすべてを慈しむ女性的なエネルギーが、富士山にはある。

湧き水は、汲めば汲むほどに湧いてきて、水が澄んでいくように、豊かさは分け与えれば分け与えるほど、次々と流れてきて、皆が豊かになっていく。これは、三次元的なレベルから見るならば、あり得ないことのように思える。分け与えれば、富は減るものだと思っているからだ。だけど、意識の次元で見れば、与えれば与えるほど豊かになっていくというのは、まったく筋が通っている。何故なら、世界は自分の意識が作っているのであり、自分が与えたものは、必ず返ってくることになっているからだ。持っていない人に分け与えたとき、「持っていなくても、ちゃんと与えられる」という現実をその人は引き寄せ始める。その逆に、いつか自分が困ったときのためにと取っておいたら、「いつかなくなって困る」という状況を引き寄せ始めることになる。

東京では、もともと「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」といって、稼いだら稼いだだけ人に振る舞ってしまう気質があった。そうやって与えているから、富が貯め込まれて無駄にならずに、循環していくのだ。それは、富士山の豊富な湧き水が汲めば汲むほどに湧いてくるその力を思わせる。

ところで、富士山のエネルギーにアクセスしてみると、何だか流れが滞ってしまっていて、苦しんでいるようなイメージを受け取った人が何人かいた。私たちは、失うことを恐れて、分け与えるのをやめ、あればあっただけ貯め込むようになってしまった。それで豊かさの循環が滞っているのだ。富士山は、豊かさが循環することを信じて分け与えて欲しいと言っているようなのだけれど、それも半ば諦めつつ、バカな子を見る母親のような慈愛に満ちたまなざしで見ているようだった。

それで、この流れを開くために、富士山を中心にして、流れがトーラス状にできているイメージを作ってみることにした。富士山を通って上から下へと流れ、それが世界に広がっていき、また天に上って富士山のところに還ってくる流れがある。これは水の流れだ。しかし富士山には、もう一つ富士山から上は上がっていき、世界に降り注いでいく流れもある。噴火するように上へ爆発的に上っていく流れ。光の柱のようなエネルギーで、それが私たちに上から降り注いでくる。それは、頭頂チャクラ、サードアイが開いてしゃんとするようなエネルギーで、私たちを上から支えてくれる。状況を見通して、自分にとって何が正しいのかを、そのときそのとき迷いなくはっきりと知る力が、実は私たちには生まれながらにして与えられている。その力を思い出させてくれる力が、富士山にはある。

それで、この二つの循環を同時にこしらえることにした。富士山を通って下から上へ循環する流れ。これは火のエネルギーの流れだと言える。そして、富士山を通って上から下へと流れていく流れ。これは水のエネルギーの流れだ。火を男性性、水を女性性とするならば、富士山にはこの二つのエネルギーが両方あり、しかもそれが見事なバランスで統合しているようだ。

この二つの流れを持つ火と水のトーラスのイメージを作る瞑想をしていた間に、いきなりスコールが降ってきたとバリ島にいた人が言った。すると、八ヶ岳にいた人は、こちらは粉雪が降ったと言っていた。どちらも優しい感じの降り方だったそうだ。封印が解けたときには、いきなり雪が降ったり、嵐が来たりすることがある。それがバリ島と八ヶ岳で同時に起こったのだ。それは、富士山のエネルギーが流れ始めたことを意味しているように思えた。

火の要素といえば、もともと関東には、自分の好き嫌いをわりと率直にポンポン言うような気質があり、それも、好みは人それぞれと割り切っているから、嫌味もなくサラリと言うようなところがあった。それも、富士山の頭頂チャクラがすっきり開いて、自分の軸がすっと伸びるようなエネルギーから来ているのかもしれない。

そして、裾野が大きく広がり、すべてに平等に流れていく水平の軸がある。これは、すべてを癒しすべてを養う女性的なエネルギーだけれど、この力に支えられているからこそ、自分の意志を通そうとする垂直軸の男性的な力が、利己主義や攻撃性にならないで、調和するのかもしれない。古典落語などを見ると、江戸の町人の親方や大店の主人などは、雇い人たちに対して、言うことははっきりと言いながらも、父親のような慈愛深さで采配をふるっていたようなところがあるのがわかる。だからこそ、言いたいことをポンポン言っていても、角が立たないでソフトに収まるようになっている。それは、富士山の水と火の力、女性性と男性性の見事な調和そのものだと思える。

この力が封じ込められていたからこそ、東京はまるでその逆のものになってしまったのだろう。利益中心ですべてが動き、人々は言いたいことがはっきりと言えなくなり、一方では陰口を聞いたり、陰湿ないじめ方をしたりするようになってしまったのだ。

それで最後に、富士山のエネルギーを光の玉の中に入れて、皆で集合意識に送ることにした。すると、小さなシャボン玉のような光が世界中の人々に降りそそぐようなイメージが見えた。金色のキラキラしたものが降ったと言った人もいるし、金色の水が世界を満たしていったと言った人もいた。火と水のエネルギーが調和して統合したとき、金の豊かさになるのかもしれない。それこそは錬金術だ。二つの異なる力が調和したときに起こる奇跡だ。

富士山のエネルギーが世界中に降り注いで、それで富士山を中心にした大きなエネルギーの流れができるのかと思ったら、そうではなかった。日本中の山、世界中の聖山が目覚めたように光輝き始めて、富士山を中心に巨大な光のネットワークで繋がり始めたのだ。それで、人々はそれぞれの地方の山から、頭頂チャクラとサードアイが開くエネルギー、豊かな循環を信頼するエネルギーを受け取って生きているイメージが見えてきた。

富士山は、世界中を支配しようというような、一極支配のエネルギーではないのだ。富士山はそれよりも裾野の広がりだ。軸がしっかりと立っていながら、裾野が広いから、水平に繋がっていける。それぞれがこの力を受け取って、自立的に、しかし協調しながら生きていく。まさにこの力こそ、世界が今必要としているものではないのかと思った。多極性の世界。その見事なバランスを取る力が、富士山のエネルギーにはあるのだ。

富士山のエネルギーを世界の集合意識に送ったあとで、何だかまるで、新しく生まれ変わったみたいに、身体の細胞も脳の細胞もすっきりとして生き生きしているように思えた。富士山の清らかな空気、澄んだ湧き水を浴びて、頭の中まですっきりときれいになったようだ。サードアイや頭頂チャクラのエネルギーをくもらせてしまうのは、あれやこれやの外からつけられた概念だとか理屈だとか、そういったものなのだろう。頭の中がそういったものでいっぱいになっていて、それで私たちは率直に物事を見て、魂の命じる通りに判断するということができなくなってしまっていた。あれやこれやの神さまの名前だの神社の縁起だの、主義だの理論だの、そういったものでいっぱいになっていて、目の前のものをありのままに見ることさえ、できなくなっていた。富士山のエネルギーを解放したら、そのことがヒリヒリするくらいにリアルに感じられた。

こんなすばらしい力を、実は私たちは誰もが持っていたのだ。そのことに今まで気づかなかったことに驚いてしまうくらいに、それが当然のことに思える一方では、これほどのものが与えられていたということに、大きな驚きと泣きたくなるほどの感動がある。ハートから頭頂までが、ジンジンと暖かくなっているのを感じる。本当は、誰もが富士山のような大きさを持つ存在だったのだ。

***

冬至の日のご来光の富士山。撮影 立沢 系太さん


2022年12月22日


【頭と心の繋がりと富士山】



富士山のエネルギーを解放するセッションをやってから、ハートから頭までジンジンするような感覚がずっと続いている。それはまるで、ハートと頭がようやく一つになって、喜びのあまり泣いたり笑ったりしているようで、それが一体何を意味しているのか、まだ言葉にならないというような感覚だ。

昨日の富士山の解放ワークでは、とつぜんスコールがあったり雪が降ったりということがあったのだけれど、その後、こちらでは強風が吹き荒れて、今日はすっきりと晴れ、まるで春の日差しだった。まるで、大浄化が終わって、世界がすっかり新しくなったというかのようだ。

他のところでも、雪が降ったり、晴れて暖かくなったり、いろいろあったらしい。そして、富士山がまたきれいになっていると写真を送ってきてくれる人もいたけれど、本当にさらにすっきりと澄んだ感じになっていて、まるで新しく生まれ変わったようだった。富士山だけではなく、その土地にある富士山みたいな山が、やっぱり同じように変わっていると言っていた人もいた。

レイラインのようなもので繋がっているところは、一つが開くと連鎖的に開いてくることがある。レイラインとは、アンテナの繋がりのようなものなので、一つが閉じると他のところも閉じてしまう。だから、要になっているところが開くと、まるで電線が繋がったように、他のところも連鎖的に開いてきたりする。富士山は間違いなく世界的にも大きな意味を持った山のはずなので、こういう連鎖反応が起こるのも不思議はなかったのかもしれない。

富士山が開いてから、ハートから頭までがとつぜん繋がってジンジンするような感覚がしているのだけれど、それならば今まで私たちは、まるでハートと頭が切り離されたような状態で生きてきたのだろう。これまではそれがあまりにも当たり前になっていて、おかしなことだとも思っていなかった。だけど今、ハートと頭がようやく一つになれて、抱き合ってオイオイ泣いているみたいに喜んでいるのがわかる。

実際、支配というものは、人々の頭と心とをいかに切り離すかにかかっているのだと思う。頭と心がしっかり繋がっている人間を、ペテンにかけて騙すことはできない。自分や家族を犠牲にするようなことをさせることもできない。だから支配者は、何とかして人々の頭と心を切り離して、たがいに争わせたり、戦争させたりするのだ。

ローマ帝国は、帝国主義支配というものを始めた国だけれど、ローマの政治支配に重要なのは、詭弁術で大衆を操作することだった。感情に訴えかけて、思考停止状態にさせ、扇動されるままに動いてしまう大衆を作り上げる術は、ローマ帝国の時にすでに使われていたのだ。それは、感情を操作して、心と頭を切り離してしまい、頭を乗っ取ってしまうやり方だとも言える。実際、感情で操作された人間は、もう何を言っても通じない状態になって、筋も通っていないことに駆り立てられていってしまう。

私たちは、子供の頃からずっと、自分の感覚、自分の思考を信じないようにさせられてきたのだ。親とか学校の先生とか、教科書とかテレビとか、そういうものが正しいのであって、自分で考えたようなことは正しくないのだと思い込むように条件づけられている。学校や宗教団体ばかりではなく、学術の世界でも、アートの世界でも、スピリチュアルの世界でも、それは例外ではない。

ちょうど昨日のセッションのあとで、私に個人メッセージを送ってきた人がいて、スピの世界でよく言われているようなことを、私にするようにとしつこく言ってきた。何でそんなことを言ってくるのかよくわからなかったのだけれど、私がそれについてどう考えているのかということを説明しているのに、スピの権威の誰それがこう言っているとか、そんな話ばかりを書いてくる。自分の考えとか感覚から来ている言葉が一つもなくて、誰が何を言っているということしか言ってこない。そしてしまいには、あなたは心が閉じているとか、あなたの心の問題だとか、典型的なスピ系のマウンティングをかけてきたので、そういう敬意のない言い方は不快だと言って、メッセージを削除してしまった。

スピ系の世界では、そうやって人に自分の感覚、自分の考えが信じられなくなるように、揺すぶりをかけてくる人がよくいる。自分が感じていることは間違っていて、どっかの権威が言っていることが正しいんじゃないかと思うように仕向けてくるのだ。そうやって自分を卑下し、劣等感を持つようにさせると、どうにでも操ることができるようになる。そうやって頭と心を切り離して、頭を乗っ取ってしまうのが、支配の古典的なやり方だ。

富士山のセッションのあとで、頭と心が繋がってジンジンしているような時だったので、また切り離されてたまるかとばかりに、速攻で削除してしまったのだけれど、前だったらそれほどはっきりした態度は示さなかったかもしれない。頭と心を切り離そうとする動きはあまりにも当たり前になっていて、即座に反撃したりはしないように、私たちは習慣づけられている。だけど、健全な頭と心を持っていたら、あるいは即座に切り返すのが健康な反応なのかもしれない。江戸の町人は、率直にポンポンものを言う気質があったけれど、それは富士山のエネルギーで、頭と心が健全な繋がりを持っていたからなのかもしれない。

江戸っ子気質の人というのは、自分でこうと思ったことを曲げないような鼻っ柱の強いところがあって、そういう人には、どんな権威を持ってきても通じない。頭と心を繋がっているからこそ、自分のことは自分で一番よくわかっている、という感覚をはっきりと持つことができる。そして実際、自分の感覚や自分の判断を信頼することができればできるほど、感覚は研ぎ澄まされて、精確になっていく。

これまでも、頭と心が繋がっている感覚はあったけれど、富士山のエネルギーを解放したら、実はまだまだ切り離されていたのだということがよくわかる。心と頭とは、これほどまでに一体でいられるものだったのだ。そして、頭と心が一体になっていると、すべてはとてもシンプルに思える。

この状態からすると、一体今まで、どれだけ私たちは迷わされてきたことかと思う。見かけだけの「高いもの」を追いかけさせられて、意味のない努力をしたり、競い合ったり、自己嫌悪に陥ったり、優越感を抱いたりしてきた。自分を失って、自分探しに出かけたりした。そのすべてのプロセスも、再び頭と心の健全な繋がりを取り戻して、もう切り離されないようにすることを学ぶためだったのだろうか? 戦いと支配の長い歴史も、もし人類が支配に対する免疫をつけるためのプロセスだったのならば、その免疫がようやくできつつあるということなのかもしれない。

***

諏訪湖から見た富士山 撮影 しまづこうたろうさん


2022年12月23日


【創造は勇気だ ー テンセグリティの解放】



テンセグリティ構造を発明したバックミンスター・フラーの画像から、彼のエネルギーに皆でアクセスしてみたら、意外にも、お腹の真ん中から力が湧いてくるようなエネルギーを感じた人が多かった。お腹のあたり、第三チャクラのエネルギーだ。

第三チャクラというと、自己実現していく力で、戦って自分の意志を通すような力でもある。肚がすわっている人というのは、つまりこの力がある人だ。この力が弱い人は、自信がなくてビクビクしていたり、あるいは過剰に防衛的になって、攻撃的になったりする。エネルギッシュで情熱的な感じのタイプを思い浮かべるのだけれど、いかにも温厚なおじさんといった感じのバックミンスター・フラーのエネルギーが、第三チャクラのエネルギーだったのは意外だった。

第三チャクラは火の要素で、陽気さや笑いもまたそこに含まれる。バックミンスター・フラーのエネルギーは、むしろそっちの方かもしれない。面白いから作ってしまおうという、子供のような無邪気さだ。そして、まさにその力こそは、あのテンセグリティの球体を作り上げた力だったのだ。あれは、私たちの身体の真ん中、お腹のところにある太陽の光のような第三チャクラのエネルギーでできていたのだと思った。

バックミンスター・フラーは、エネルギッシュというよりは繊細な人だったようで、傷ついてアル中になりかけたり、自殺しそうになったこともあったらしい。しかしこの人は、面白いことを思いつくのが大好きで、思いついたらこしらえてみないではいられないのだ。その力こそは、第三チャクラの力だったのだと思った。創造性は喉のチャクラだと思っていたけれど、現実化する力は肚から出るのだ。常識と違っていようが、形式がちゃんとしてなかろうが、面白いから作ってしまうという創造力は。

そのエネルギーを感じたとき、私はアボリジニが描く絵のことを思い出した。ウィーン郊外にある美術館でアボリジニ・アートのコレクションを見たとき、この人たちは、自分が住む土地を、まるで自分の身体のようによく知っているのだと思った。その肌感覚のようなものを、彼らは絵に描いているのだけれど、そこには土地の手触りとか匂いとか、そういうものがすべて入っているように思えた。アボリジニたちは、目に見えるものを描いているのではなく、目に見えない世界を描き込んでいる。しかしそこには形式もなく、シンボルとか言語のようなものもない。それなのに、肌感覚のようなものとして、それが感じられるのだ。

それを見たとき、私もまた、こういう感覚を表現してもいいのだと思ったのだ。というより、表現してみたくてたまらなくなった。それで、作っていた花瓶のような器に、私が見ている見えない世界を描いてみた。私はそれまで、実用の器しか作っていなかった。当時の私にとって、実用でないものを作るのは、禁を犯すような感覚だった。アボリジニの描く絵に触発されて、私はその禁を犯したのだ。それが私の最初のオブジェ作品になった。それ以降、私はありとあるオブジェ作品を作り始めた。アイディアが次々と湧いてきて、作るのが面白くてたまらなかった。

どうしてそんなにどんどん作品が作れるのかと、あの頃よく人に聞かれた。私は陶芸も絵画も正式に習ったわけではない。「芸術は、勇気だけなんだよ」とよく私は答えていた。形式がちゃんとしてなかろうが、基礎ができてなかろうが、人が何と思おうが、そんなことは一切関係なく、ただ自分はこれがいいというものを作ってしまえというだけだった。自分にしかわからなくてもいい、と思って作ったら、人がそれを見て、面白いと言った。自分にしかわからないと思ったけれど、どこか深いレベルで人に通じているのがわかった。

バックミンスター・フラーのエネルギーに皆でアクセスしたときに、私はその創造の勇気の力とでもいうものを感じたのだ。第三チャクラのあたりに、太陽のように放射する暖かい光のようなエネルギーだ。あの同じ力で、アボリジニたちもまた絵を描いていたのだと気がついた。そして、私が作品を作っていたのも、やはり同じ力でだったのだと。

バックミンスター・フラーが作るものも、アボリジニの絵も、何かの特別な技術や技能が必要だというようなものではない。作ろうと思えば子供でも作れるようなものなのだけれど、それを、人が何と思おうがかまわない、と作ってしまう純粋さがあればこそ、それは世界を変えてしまうような力を持つのだと思う。そして、その創造の勇気とでもいうものは、まさに第三チャクラから出てくる力なのだ。

世界が実はずっとシンプルなものだったことが、これからは現実レベルでわかってくるようになるんじゃないかと、マヤ暦の新年とも言うべき260日のツォルキンの始まりの日に、そう思った。バックミンスター・フラーが考案したテンセグリティ構造みたいにだ。これまではずっと多くの時間と労力をかけて、重たい構造を積み上げてこしらえていたのに、テンセグリティ構造は、そんな労力などかけずに、特殊な技術も必要なく、巨大なものをこしらえてしまうことができる。これまでの常識とか、独占できる利権だとか、そういうことを考えるのをやめるならば、実は私たちは、ずっとシンプルなやり方で、労力もエネルギーもあまりかけずに、必要なものを作り出すことができてしまうのかもしれない。そうした技術やアイディアは、独占することができないために、これまで封じ込められたり、実用化されないできたりした。だけどこのツォルキンでは、それが現実レベルで表に出てくるのじゃないかと思った。

それから、テンセグリティ構造のエネルギーを世界に送るワークなどを皆でやっていたのだけれど、テンセグリティのエネルギーを光の玉に入れて、いろいろなところに送ってみると、これまでいかに面倒くさいやり方をしてきたのかが、まるで透けて見えるかのようだった。企業にしても政府にしても、ほとんどの人々は、コネだとか根回しだとか買収だとか、そういう関係性を固定するようなことにものすごい労力を使っていて、実際の仕事にはその10分の一も力を使っていないのかもしれない。だから、そういう立ち回りがうまい人たちばかりが、世の中でうまくやってきたわけなのだ。だけど、このすべてをテンセグリティ風にシンプルにしてしまうと、もうそういう関係性を固める能力も労力も必要なくなって、本当に仕事ができる人たちだけで、簡単に仕事を片づけることができてしまうのかもしれない。そうなったら、もうこれまでの4分の1ほども働けばいいということになるのかもしれない。何だかずいぶん大変で面倒に思えていた世界は、実はずっとシンプルにできていたことに気づくことになるのかもしれない。

今、ロシアでは、世界中から経済制裁をかけられ、戦争もしているというのに、人々の生活水準は西側ヨーロッパよりも高かったりする。西側メディアはそれと真逆なことを言っているけれど、ウクライナ東部の人たちが圧倒的多数でロシア併合に投票したのは、実はロシアの方が生活費が安くて社会保障もいいのを見ていたからだったというのもある。西側ヨーロッパが20年前からEUで搾取され始めて貧しくなっていったのに対し、ロシアは中央銀行からも西側NGOからも解放されて、豊かになっていった。この3年ほどで、西側諸国には、実に巧妙な搾取システムが機能していることが表に出てきたけれど、そのために、いくら生産性が上がっても、人々は生活に追われるような状態に意図的にされてきたことがわかってきた。それで私たちは、人生とは生活に追われることだと思い込んでいるようなところがあるのだけれど、その思い込みも、あるいはこのツォルキンで消えていくのじゃないかという気がした。

ツォルキンの始まりには、いつもこのツォルキンはどんな風になるだろうということを書いておくのだけれど、それはいつもだいたいその通りになっている。どういう風にして、それが現実になるのかはわからない。どういうふうにしてなっていくのかは、いつもあらゆる予想を越えている。それは、時間の力とか宇宙の導きというものなのかもしれないし、あるいは私たちの内にある現実化の力というものなのかもしれない。だけど、それが私たちの身体の真ん中のところにある第三チャクラの太陽の力なのだと思ったら、あるいはそうしたものなのかもしれないと思う。


シンプルな構造のテンセグリティ


バックミンスター・フラー


2023年2月3日

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テンセグリティを考案した建築家バックミンスター・フラーのエネルギーで、Fujikawa Osamuさんが即興演奏してくれた音楽です。フラーの創造のエネルギーが感じ取れると思います。
 

https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM0017-Buckminster-Fuller.mp3?fbclid=IwAR29xGuNrjhqkH09mzkjkaedUMSmG6vCOBzMuZfPKmXDmRZ36GkHgROxynQ

「創造は勇気だ」音楽&詩の朗読

即興演奏 Osamu Fijikawa
朗読 Naoko Fujikawa
言語化 佐藤シューちひろ

https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM2579-creative-Buckminster-Fuller.mp3?fbclid=IwAR2_QLN-DiT48pSsspc2QlfawgduTYDFRys_RY3Kv58O0yDvtVHfwLpvSo0

これまでの作品は、すべてここで聞けます。

https://studiospoonbali.seesaa.net/article/496874850.html?fbclid=IwAR36tDv1_afbGEYAGpQ4h0OU-_nMVMaFYbwbQbvVx8ClvhxWBbqHkOOs4sM

【創造は勇気だ】



創造は勇気
本当は誰にもある力
手じゃない 頭でもない
身体の真ん中の太陽プレクサスのあるところ

誰でもそこに太陽の力を持っている
暖かい喜びのエネルギーを放射する その中心を

世界は発見に満ちている
何でも目に入るもので
何でも試してみたらいいよ
思いつくままに
何でもやってみたらいいよ

創造は勇気
ただそれだけのこと
目についたもので
何でも試したらいいよ
思いつくままに
作ってみたらいいよ

人間は戦うために生まれてきたわけじゃない
従ったり従わせたりするために生まれてきたわけじゃない
怒るのも 戦うのも
ただこの内なる太陽を守るため
内なる太陽が光を放射する空間を作るため

君の中の太陽が
光を外に放てるように
さえぎられるものもなく
光が放射できるよう
その光があたりを照らしたら
世界が違って見えるから

君はついに、この創造の世界にやってきた
あらゆる戦いを乗り越えて
この創造の世界にやってきた

戦うのは、勝つためじゃない
戦うのは、負けないためでもない
ただこの内なる太陽を守るため
この光を輝かせるため
その空間を作るため

近づかないで 手を出さないで
僕は僕 これは僕が作る世界
だから、近づかないで 手を出さないで
できたら、わかるから
できるまでは、わからないから

君は叫んで、歯をむいて、戦ったね
真っ赤になって怒ったね
その勇気を讃えよう
よく守り抜いたね 君の内なるこの太陽を

戦うのは、勝つためじゃない
戦うのは、負けないためでもない
ただこの内なる太陽を守るため
この光を輝かせて
世界を照らすため

君の中の太陽が
光を外に放てるように
さえぎられるものもなく
光が放射できるよう
その光があたりを照らしたら
世界が違って見えるから


テンセグリティの宇宙 点描画 石川純子さん



【固定した支配構造から、対等な関係性の世界へ ー ムールク(赤い月)のエネルギー】



占星術では、3月23日から冥王星が水瓶座に入ったのだそうで、それはつまり、真実や公正さといったものが通る時代になるということであるらしい。冥王星は破壊によって、世界を新しくしていく力だということなので、真実や公正さが通るようになることで、嘘でできた構造が壊されていくというようなことになるらしい。

3月23日は、マヤ暦ではちょうどムールク(赤い月)の日で、これは流れに身を任せて導かれていくことで、変化を乗り越えていく力が強くなるような日だ。冥王星が水瓶座に入ることで、世界規模で大きな変化が起こる可能性が大きくなるわけなので、その時代を生きるには、ムールクの力が重要になるのではないかと思った。それでこの日に、ムールクのエネルギーを受け取って解放する公開魔法セッションを行なうことにしたのだ。

ムールクの力というのは、水の要素と言われるようなもので、水の循環が持つ力を表している。私たちの身体の中には絶えず水が流れていて、それが養分を細胞に運び、エネルギーや酸素を運び、不要なものを運び去って浄化していく。生命現象とは、この水の循環そのものだと言える。水が循環するからこそ、私たちは生きているのだ。その流れを作っているものが、ムールクの力であると言える。

同様に、地球の大気圏の中でも、絶えず水が循環している。雨が降り、川になり、海に流れていきながら、地面を潤して、植物が成長していく。水が流れることで土地が浄化されていく。それがまた太陽の熱で蒸気になって空に上がり、雲になる。それがまた雨になって地上に降ってくる。この水の循環があるから、地上の植物動物が生きていくことができ、大地も大気も絶えず浄化されていく。

さらには、もっと大きな時の流れというものがある。地球に生きている私たちは、絶えず時の変化の中で生きていて、それによって、古い不要なものを手放し、新しい世界を作っていく。私たちは、ずっと同じような状態が続いていくかのように思えているのだけれど、実は思ってもみなかったような変化を絶えず生きているというのが事実だ。それはたとえば、10年前、20年前がどうだったかを考えてみればわかる。当時は絶対に変わりようにないと思えていたものが、すっかり変わってしまっていて、しかも当時はまったく想像もつかなかったような変わり方をしているのがわかるんじゃないかと思う。世界のあり方にしても、自分の考え方や価値観にしてもだ。

こうした大きな時の流れといったものもまた、ムールクの力なのだ。人生や世界の状況に大きな変化が起こるとき、私たちは不安感を感じて、これまでの状態に何とか留まろうとする。だけど、時の流れを信頼して流れに身をまかせてしまうと、望んでいたようなところに自ずと運ばれていったりするものだ。それまで思ってもみなかったような変化を、楽々と遂げることができていたりする。

どうしようもないところまで追い詰められて、これまでのこだわりを手放してしまったとき、とつぜん物事がスルスルと運び始め、導かれていくということがある。これは、波乱の多い人生を歩んできた人は、何度も経験していることだと思う。それはまるで、人生の変化というものもまた、大きな時の流れによって起こっていて、その流れに運ばれていくことが、身体の中の血液の循環や、大気圏の中の水の循環のように、生命にとって欠かせないことだというかのようだ。

私たちは今、大きな時代の変化を経験している。2020年の12月に、地の時代から風の時代に入ったところだけれど、これは200年ごとに切り換わっていく変化だという。それまで200年間、地の要素が支配する時代を人類は生きてきて、それが今、風の要素が支配する世界に変わろうとしているところなのだ。2020年の12月といったら、パンデミックを終わらせる薬だということで、すでに多くの薬害を引き起こしていた薬が特別認可になって使用され始めた時であり、また、アメリカ大統領選で大がかりな不正が行われていたことが表に出てきて、大騒ぎになっていた。あれからの2年間、すさまじいばかりのデクラスが進んでいた。アメリカの大統領を選んでいるのは国民ではなくて、裏の支配権力なのだということがよくわかったし、重大な薬害のある薬を強要することで、世界中の政府が国民を大量虐殺しようとしていることもわかった。メディアの操作やネット情報の検閲にどれだけの力が使われているのかもわかったし、戦争さえも裏で操作されて起こされていることがわかった。これは、冥王星がまだ山羊座にいた頃のことだから、所有欲とかコントロール欲といったものが、破壊的な力になっていたということだったらしい。感染を予防するという薬にしても、虐殺を隠そうとするメディア操作にしても、コントロールすることにこだわればこだわるほど、闇に堕ちていくといった状況だったと思う。

そして今、冥王星が山羊座から水瓶座に移り、所有欲とかコントロール欲とかではなくて、公正さとかコミュニケーションとかいったものが、破壊的な変化の力を持つ時代に入ったのだ。これは20年続いていくというから、200年の風の時代の始まりに、新しい世界の形を作っていく時期になるのかもしれない。

私たちはこれまで、ずっと地の時代に生きてきて、所有とか支配構造とか、支配構造の中で自分がどの地位にいるかといったようなことが、状況を決定すると思ってきた。それは、人を騙してでも手に入れた方が勝つというような世界で、だから公正さだとか正直だとかいうことは、子供っぽい理想の世界でしか通用しないような、現実的でないことのように思われてきたのだ。だから、そんなものが力を持つ世界など、いったいどうやったら可能なのか、想像することさえできなかった。ところが、3月23日のムールクの日に、ムールクのエネルギーを受け取って解放するワークを皆でやっていたら、それが急に見えてきたのだ。

地の時代から風の時代に変わって、所有とか支配構造とかの、固定したものが力を持つ時代が終わったのだ。風の時代には、すべてが大きな流れの中にあるかのようだ。すると、所有とか支配構造のような固定したものが、大きな流れに抵抗している壁のようなものに見えてきた。流れに逆らっていたら、崩れ去ってしまう。流れとともに動いていくものだけが、生き残っていき、流れに養われて進んでいくのだ。私たちは地面に根を張ることで養われているのだと思っていたけれど、それは地の時代だったからのことにすぎなかったのかもしれない。風の時代には、流れとともに進んでいくことで養われていくのだろう。潮を読み、風を読んで船を進めていくようにだ。風が陸地へと導いてくれて、そこで養われていくようにだ。

そのように流れに乗って生きていくとき、もはや騙したり依存させたりしてこしらえた主従関係などは、何の役にも立たない。そのときどきで、異なる価値観、異なる考えの人たちと、いかにコミュニケーションして、交流していくか、協力関係を作っていくかが重要なことになる。そのとき役に立つものは、公正さや正直さ、オープンハートといったものだ。これまでは、どういう組織に所属しているとか、どういうコネクションをもった相手なのかということが重要だったから、私たちはそれに応じて、自分の本心を隠し、相手に合わせて関係を作ってきた。そして、それが処世術というものだと思っていた。だけど、そうした固定した関係性が重要ではなくなってしまったら、私たちは人と人とでいかに心を開いてつき合うか、いかに違いを尊重し、干渉し合わずに、協力関係を作っていくかといったことが重要になってくる。そうした関係性の中では、相手を尊重しないあり方、干渉してくるあり方、誠実でない、公正でないあり方をする人は、次第に相手にされなくなっていくのだから、公正さや透明性ということ、つまり正直であるということが、最も重要な価値になっていくのだ。

ムールクのエネルギーを受け取って、流れに身を任せる感覚を感じていると、面白いことに、参加者の顔つきが生き生きしてきて、血色がよくなっていくのがわかる。流れを止めずに流れに身を任せると、身体の中の血液循環も流れがよくなるのだ。血液循環がよくなると、急に肌がしっとりつやつやしてきて、一気に若返ったようになる。流れさせることで、浄化される。そしてまた、何もしないのに、シンクロが起きて、望むようなところへ導かれていったりする。すべては、流れなのだ。流れに身を任せるあり方にシフトすることで、そうした流れのすべてがよくなっていく。

これまで世界は、支配構造の中で、流れを止められて澱んでいたかのようだ。流れるものがなくなり、生気がなくなっていた。それは、所有とかコントロールとかいった、固定した構造を保とうとしてきたからだ。それで、嘘や脅しやお金やありとあるもので、人々を従属関係から出さないように画策してきた。世界中で、政治家たちがマリオネットに入れ換えられていって、まるで生気のないゾンビのようになっていた。それでも人々は、自分の所有物や自分のステータスを守るために、ゾンビたちの言うことを聞いてきたのだ。

その一方で、ちょうど200年の風の時代に切り換わった2020年12月の頃から、そうした嘘でできた支配構造から出ていく人が増えていった。もはや嘘をともに演じていたら、犯罪になるような域に達していたのだから、真実に生きようと思ったら、その構造から出ていくしかない。医学者たちや医療従事者、ジャーナリストたちが、それまで高収入を得ていた機関から離れていった。そして、その場その場で寄付を募って生きていくようなあり方に変えていったのだけれど、この人たちは、支配構造にしがみついているゾンビたちとはまるで正反対の、実に生き生きした、さっぱりと開いた顔をしている。一度、固定した支配構造の外に出てしまったら、もう嘘で生きているゾンビたちの言うことは信用しなくなる。こういう人たちは、公正であり、正直であるからこそ、人々から信頼されて、寄付ももらえ、生きていけるのだ。

それと同様に、今、世界が実はアメリカの属国支配のようなことになっていたことがわかって、そこから出ていこうとする国が、たがいに関係を結んで、アメリカの支配から身を守ろうとしている。これもまた、主従関係ではない関係なので、たがいに正直であること、公正であることが、この関係を成り立たせている。たがいのあり方を尊重し、干渉しないで、協力していける関係性ができていっているのだ。それぞれが自立していて、協力している関係だからこそ、属国支配的な支配から国を守る力になるからだ。だから、公正とか正直といったことが、もはや理想とか善とかいうことではなく、生き残るために必要になっている。それこそは、多極的な世界のあり方だ。

そしてこの3月23日、冥王星が水瓶座に入った日に、そのことがまったくはっきりしたこととして、意識に現れてきた。だから、とにかく潜在意識的な価値観として、すでに嘘が通らなくなり、公正さが最も大きな価値になる時代が、本当にやってきたのだということを確信した。

***

ムールク(赤い月)のシンボル
ムールクのイメージ画 井関久美


2023年3月23日


【石油の波動と太陽のエネルギー】



この100年ほどの戦争は、ほとんどが石油利権のために起こっていたと言っていい。アメリカの初代ロックフェラーが、石油の独占で富をなして以来、世界中で石油に依存した社会が作られていった。暖房も電力供給も車や飛行機などの移動手段も、石油をエネルギー源とした技術ばかりが作られるようになり、衣類や医薬品、生活に必要なあらゆるものが、石油から作られるようになった。他の可能性などいくらでもあったのに、わざわざ地下資源を使った、有害な物質が独占的に使われるようになったのだ。これは、ロックフェラーが石油取引で独占するために、ありとある競争相手を計画的に潰していっていたからだ。そうやって、石油以外のエネルギー源を使う技術も、それまでの伝統的な医療もつぶされていき、石油を使うものだけが残されていった。そのためには、虚偽を広めたり、スキャンダルをでっち上げたり、恐喝したり、どんな手段も使われた。そうやって、この100年の間に、世界中で石油に依存した生活スタイルが作り出されていったのだ。

その結果、私たちは石油が得られなくなったら、生きていけないようなことになっている。世界中の人々を石油に依存させ、思いのままに利益を得ることのために、この100年くらいの戦争は起こされていたのだ。石油の独占を確保するために戦争し、戦争によって石油が桁違いに消費される。そうやって絶えず巨額のお金が回っていくようになっている。

ところで、石油もまた鉱物として、ある特有の波動を持っていて、それを地上に発しているのではないかと思う。水脈や鉱脈が、地上のパワースポットのエネルギーを出しているようにだ。金の鉱脈のエネルギーは、地上に豊かさをもたらすエネルギーで、これは本当は掘り出してはいけないものだったのかもしれない。金脈のエネルギーは、物質的な豊かさに満たされるようなエネルギーなのに、掘り出されてお金になったものは、豊かさの欠如を作り出し、いくら手に入れても、ますます満たされない感覚が強くなるという悪循環を作り出している。地上に掘り出したとき、まるで逆のものになってしまうのだ。だから、石油もあるいはそうなのかもしれない。それで、封印解きクラブの皆で、石油のエネルギーを感じ取ってみることにしたのだ。

石油とは、地上の植物や動物、あらゆる炭化物が地層になって化石化し、液状になったものだ。植物は、太陽エネルギーから炭化物を作り出すので、つまり石油は太陽エネルギーの化石であるとも言える。石油とは、地球の血液だということを言っている人もいるそうだ。それは、掘り出されるべきものではなく、本当は地中を流れているべきものなのかもしれない。

原油の画像から、石油のエネルギーを感じ取ってみると、まず足の裏のあたりからビリビリとして暖かくなってくる感覚があり、身体の下の方、ルートチャクラと第二チャクラのあたりが暖かくなった。そのあたりが緩んで、温泉にでもつかっているような感覚になり、暖かいエネルギーに養われ、守られている感覚がする。しかし同時に、地上にまっすぐに立って生きていけるというような、自分軸が通る感覚、お天道さまに守られているというような感覚もある。それはまるで、下からも上からも、太陽のエネルギーを受け取っているというような、不思議な感覚だった。それは、「足が地につく」という感覚と、「お天道さまに顔を上げて生きていける」という感覚が両方一緒になっているようなエネルギーだった。

面白いことに、石油のエネルギーを感じ取っていたら、参加者の顔がしっとりつやつやしてきれいになっている。やっぱり地球の血液だったからなのか、血流がよくなったようだ。それだけでなく、何だか艶っぽくなった感じでもある。それは、第二チャクラが満たされる感覚なのと、堂々と顔を上げて生きていけるというその感覚なのかもしれない。緩んでいて、守られているのを感じながらも、自立して、堂々と生きていける。そんな感じだ。

この自立して生きていけるという感覚こそは、石油依存の世界に最も欠如しているものかもしれない。世の中が石油に依存させられる前は、人々はそれぞれにまわりに生えている木を燃やして暖房にしていたし、川の水力や風車を使って、小麦を挽いたり、木を切ったりしていた。そんなのでエネルギーは間に合っていたわけなのだ。何よりも、石油なしで暮らしていた頃は、人々は生活に必要なものをすべて地元で作ることができていたので、賃金労働して、お金を稼ぐ必要がなかった。生活に必要なものを作り出せるということが、自立できている自信を与えてくれていて、人々は誰でも堂々と生きていくことができていた。

石油のエネルギーを感じ取ったとき、そうした人々の身体感覚みたいなものを感じたのだ。それは、細胞のすべてが満たされて、力を持っているという、これまで感じたこともないような感覚だった。私たちは石油に依存した生活をしてきて、多くの細胞を使わないようになってしまったのかもしれない。自立して、生活に必要なものを作り出しながら生きているときには、私たちは身体中のすべての細胞、すべての筋肉、すべての力を使って生きていたのだ。そしてそれは、とても充実した生活感を与えていた。

それに比べると、今の私たちの状態は、まるで餌付けされた動物のようだ。もはや自分で餌を見つけることもできず、外敵から身を守ることもできない。それで、餌を与えられることに依存状態になっている。そのために私たちは、本来持っている多くの力を使わないまま、身体がなまったように怠惰になってしまっているように思えた。

地球の中に蓄積された太陽のエネルギー。石油の波動はそうしたものだった。太陽は男性性、父性を表す。父性とは、私たちのありようを認めて、このように生きていけばいいのだと思えるような、自分に対する信頼の力を与えてくれるべき力だと思う。父親は、本来子供が自立していけるように守る存在なのだ。そうした父性の力で育てられた子供たちは、自分のありように対して、自然に自信を持つことができ、自立して生きていける。そうした自分に対する敬意を持てることで、他人のあり方にも敬意を持つことができる。本来の父性とは、そうしたものであるはずだ。

ところが、私たちの多くは、父親不在の家庭で育ってきていて、そのような父性に守られた経験を持っていないのだ。石油依存の世界になってから、父親はもはや家業の大黒柱ではなく、雇われ人として、家庭の外で誰かの指示通りに働いて、お金を稼いでくる存在だ。父親が自立した生き方をしていないのだから、子供にも自立した生き方あり方を教えることができない。父親は、子供が自立して生きていけるように社会から守ってくれる存在ではなくなってしまったのだ。

石油の波動エネルギーとは、まさにそれだった。父性の力。自分が自立して生きていけるように、守ってくれる力だ。石油産出国の人々も、石油から得られるお金に依存させられてしまう前には、父性の力に守られて、地に足をつけ、お天道さまに顔を上げて生きていくことを大事にして、自立して生きていくことができていた。石油が地下から汲み上げられ、お金に変えられるようになったとき、そうした自立した父性の力は、本来のものから離れていった。その代わりに、お金の豊かさだとか、社会的な地位だとか、支配力だとか、そういったものを求めるようになってしまったのだ。それで私たちは、絶えず上へ上へと飢えたように追いかけていくようになった。自立して生きていくときの満たされた感覚が持てないので、そうしたものを求めるようになったのだ。しかし、お金などは得られれば得られるほど、欠如の感覚が募っていく。それは、本当に私たちが求めているものを与えてはくれないからだ。私たちが本当に求めているもの、私たち本を当に満たしてくれるものとは、本当の父性であり、自立して生きているという満たされた感覚だからだ。

ブルジョワ革命が始まった頃から、世界で起こるすべての戦争は、ハザール・ユダヤ系金融資本家のロスチャイルド家が起こしていると言われていた。彼らが使っていたのは、金(きん)の力だった。当時の戦争では、金が軍資金だった。戦争をするには、多くの金がいる。彼らは王侯に金を貸付けて、富をなしていた。そのために彼らは、王たちをけしかけたり、あることないことを言って、戦争に持っていったのだ。そうやって、戦争を起こしてはそのたびに大儲けしていた。ブルジョワ革命も同様に彼らが起こしていて、革命グループを組織し、武装させていた。どんな形であれ、戦争があり、紛争が起これば、両方に武器を与え、そのためのお金を貸し付けて、もうけていたのだ。

それが20世紀になって、ロックフェラーが石油をエネルギー源として独占するようになり、かつてロスチャイルド家が金を使って戦争を起こしていたのを、今度は石油を使って戦争を起こすようになった。軍事技術は石油に依存しており、石油がなければ、戦争ができない。それで石油の需要が増え、石油を独占しているロックフェラーは利益を一手に得ることができる。そのため20世紀に入ってから、戦争はますます破壊力を増し、ますます頻繁に起こるようになっていった。

ロスチャイルドが金によって戦争を起こしていた100年と、ロックフェラーが石油によって戦争を起こしていた100年は、占星術で地の時代に当たっている。それが風の時代に変わったのが、2020年の12月のことだそうだ。ちょうどアメリカで、バイデン政権に切り換わり、再び戦争が起こされるようになった頃だ。しかし、地の時代のときのように、石油によって人々を戦争に駆り立てることは、もはやできなくなってきているのかもしれない。ウクライナの戦争によって、それまで石油取引を独占していた米ドルが、もはや信用を失い、石油を独占することで得ていた支配力を失っていったのだから。

この戦争は、あるいは最後の戦争になるのかもしれない。もはや石油を独占して、人々を依存させようとする勢力が力を失ったら、私たちは石油の本当の力、自立して生きていく父性の力を取り戻し、その力に満たされて、生きていくことができるようになるのかもしれない。


原油

2023年4月1日


【闇とは、自分を守る力だった ー 内なる闇を統合する】



4月28日、カウアク(青い嵐)の7日目のチクチャン(赤い蛇)の日に、内なる闇を統合する魔法セッションを公開でやろうと思ったのは、ちょうどその日に、古い構造を破壊してしまうようなカウアクの力がマックスになるからだった。カウアクの力とは、まるで龍のような創造の力で、新しい世界が生まれ出て成長していくときの、否応もなく拡大していく力で、これまで古い殻のように抑えつけていた構造が、セミの抜け殻のように剥がれていってしまう、そんなパワフルな変革の力だ。カウアクのパワーが強くなっているときには、何だか自分が破壊的なことをしてしまいそうで恐くなったりすることもよくある。だけど、カウアクの力は、成長の力を信じて、龍の背に乗っていくように乗っかってしまうと、すばらしい創造の力だということがわかる。その力が信頼できればできるほど、破壊的なことにはならないで、まるで導かれていくように進んでいけたりする。だから、この力を使って、内なる闇を統合し、破壊的なまでにパワフルな変革の力を、創造の力に変えていけるんじゃないかと思った。

怒りとか恐怖とか憎しみとか、そういう「悪い感情」と言われている感情を感じると、私たちは反射的に否定しようとしてしまう。そういう感情を持つのはよくないと言われてきているし、そういう感情を持つことで人から嫌われるとか、悪い人間、あるいは幼稚な人間だと思われるとか、自分でもこれは弱さなのではないかと思って、克服しなければと思ってしまうのだ。だけど、人間はいつも穏やかに幸せでいるわけではないし、いろいろな状況を経験しているから、いろいろな感情が湧く。これは実は、免疫反応のように自然なもので、いろいろに変わる状況に対処して、バランスを取り戻してくれる力なのだ。それなのに、私たちは、ある感情を悪いものであるとして、否定しようとする。

闇とは、実のところはこの否定され、抑圧された力なのだ。悪いものだとされてきたために、悪いものになってしまっている力だと言ってもいい。怒りとは、自分を守るための行動を起こす自然の反応だし、恐怖は危険を知らせてくれて、ものすごいスピードで走って逃げたりということができるような力だ。自然に反応していれば、必要な行動だけを自然に取って、それで感情は自ずと消え、バランスが取れる。

これは、理屈ではなかなかわからないのだけれど、やってみれば一発で納得できるというようなものなのだ。それでまずは、それぞれに感じている「悪い感情」を自分に許して受け入れてみるというのをやってみた。恐怖とか怒りとか、軽蔑とか絶望とか、何でもいいのだけれど、そういう感情を持っている自分に向かって、「そういう感情を持ってもいい、それが当然なんだから」と言って、身体の力を抜いて、完全に受け入れてみるのだ。そうすると、恐怖でも怒りでも、不思議ととたんにスッと消えてしまう。心が落ち着いて、そんなに恐れる必要もないなと思えたり、相手もそれほどひどい人間でもないなと思えたりする。

ある感情を否定していると、その感情を抑えつけるのにものすごい力を使っていて、それによって逆にその感情に支配されてしまうのだ。自然の欲求は、抑えつけようとすればするほど、激しくなるというのと同じだ。それが自然なんだからと受け入れると、その感情に支配されなくなって、状況がニュートラルに見られるようになる。だから、ある感情を悪いものだとして持つまいとして戦っているとき、私たちは逆に意識が闇の状態になってしまっている。

これは実に簡単なことなのだけれど、やってみると、すぐに身体が軽くなったとか、怒りが愛に変わったとか、はっきりとした反応がある。参加者の表情がとたんに穏やかになって、自分と和解している顔になっている。自分の中に平和がある。だから、まわりの人たちにも穏やかになれる。そんな風だ。それを皆で確かめて、悪いと思って自分に禁じていた感情を許すことを学び合う。人に対して軽蔑の念を抱いてしまうのも、受け入れてみると、自分に敬意を持つことを許し、それによって相手に対しても敬意を持てるようになることがわかる。自然な感情を許すことで、私たちは自分に対して優しくなることができ、それによって人にも優しくなれるのだ。これは逆のようだけれど、やってみると本当にそうなのが、すぐにわかる。

根深い恐怖や怒りの感情、人を苦しめてやりたいとか滅ぼしてやりたいとかいうような感情は、その根底にそれなりのことをやられたという記憶が必ずある。それは、子供の時の覚えていないようなできごとであることもあるし、過去生の記憶だとか、人間の歴史の集合意識的な記憶であったりもする。私たち人類は、この2000年くらい、武器を持って支配したりされたりということをさんざんやってきたわけなので、ほとんどの人は、恐ろしい虐待の記憶を意識のどこかに持っている。それが、背中に剣が刺さっているように、オーラの中に入っている。

それで次に、身体のどこかに刺さっている剣を感じてみて、その剣を溶かして身体に取り込むというのをやってみた。剣は鉄でできているけれど、それが溶けていって、身体の中の鉄分、赤血球になるというようなイメージを作ってみることにした。これは、しっかりグラウンディングしてないとできないので、まずはルートチャクラが活性化する磐座の画像を使って、そのエネルギーを受け取りながら、ルートチャクラのところから見えない光の根っこが出て、大地にしっかり根を下ろしているというのをイメージしてもらった。これをやると、腰が据わるというか、肚がしっかり決まった感じになる。そうなったところで、身体のどこかに刺さっている剣を溶かして取り込んだ。

ひどい虐待を受けた記憶は、自分が経験したものであれ、集合意識の中にあるものであれ、深い恐怖心を植えつけて、それによって私たちを自分を守れない状態にしてしまうのだ。目立ってはいけない、小さくなっていなければいけない、といった反応を無意識で作り出していて、自分を守れないストレスが、人を苦しめてやりたいという思いになったりする。こういう思いが無意識に外に出ていて、誰かに向かっていることもある。これもまた、私たちの内なる闇なのだ。内面化した支配であり、支配を再生し、力を与えてしまう闇だ。

刺さっている剣を溶かして取り込むと、それがまるで血液のように身体に力を与えてくれるものになるようだ。これこそは、私たちが奪われていた自分を守る力なのだ。支配され、従わされてしまうのではなく、自分が自分であるために自分を守る力。それが戻ってきたようだった。

すると、参加者の表情がまた変わって、今度は肚が据わって度胸ができたようなオーラになっていたのだけれど、面白いことに、女性はいつになく女性らしくなっていた人も多かった。剣の力は、自身の男性性を生きることを自分に許すといったことなのだけれど、自身の男性性が生き始めると、その男性性に女性性が守られるのを感じるのかもしれない。家族の男の人たちが守ってくれていると思えたと言っていた人もいた。自分を守る力を自分に許したら、他の人が守ってくれるのも自分に許すことができるのだ。これは、皆でやってみるからこそ得られた発見だった。

それから今度は、攻撃されるんじゃないかという思いを受け入れて、外からの攻撃を無抵抗で受け止めるというのを皆でやってみた。これは、攻撃的なエネルギーを飛ばされたとかいうときにも使える技なのだけれど、身を守ろうとするのではなくて、力を抜いて無抵抗で受け止めれば、素通りしていくだけなのだ。これも、ある程度肚が据わっていないとできないので、ルートチャクラを開けてしっかりグラウンディングしておいて、「誰も私を傷つけることはできない」と自分に言って、攻撃的なエネルギーを無抵抗で受け止める。これも、理屈ではわからないけれど、やってみればどういう具合なのかがすぐわかる。実際、攻撃的なエネルギーもスッと入って通り抜けてしまって、そのあたりが暖かくなって軽くなる。別に何も恐れることはないのだと思えて、自分の中に平和ができる。そんな風だ。

内なる闇とは、攻撃されるのではないかという恐れを持つことで、まさにその恐れを現実化するような事態を引き寄せてしまっているということでもある。私たちの意識が現実を作っているとは、まさにそうしたことなのだ。攻撃を受けるのじゃないかと思い、それを避けなければならないと思っていると、逆にそういう攻撃を引き寄せてしまったりする。身を守ろうとすればするほど、攻撃を引き寄せるという悪循環が起きていることもある。そういう場合も、抵抗を解いて受け入れてみると、すぐにバランスが取れて恐怖が消え、平和的な状態が生まれる。こうなったら、攻撃を引き寄せることは、実際になくなる。

それから最後に、世界中の人たちの背中に刺さっている剣を溶かして、皆が自分を守る力を得るというイメージを皆で作って、この闇の統合を集合意識に送ることにした。2000年ほど前に、人類は鉄で剣を作るようになり、剣の力で支配する歴史が始まったのだ。残虐の記憶が残り、私たちは自分が自分であることを放棄して、支配に従ってきた。2000年の魚座の時代が終わって、水瓶座の時代に入ったことで、この剣による支配の時代は終わろうとしているのかもしれない。だから今、私たちは内なる闇を統合して、自分を守る力を取り戻そうとしているのかもしれない。山のように大きな剣が見え、それが集合意識的な支配の力を表しているらしい。その剣が、富士山の頂上からスッと中に入って、溶けて大地に還っていくイメージが見えた。剣が大地に飲まれていくとは、エクスカリバーの逆なのだ。支配の力、剣の力が、もう必要のないものとして、大地に還っていく。すると富士山が、一人一人が自然に自分を守れる力を放射し始めて、それが日本の人々を支配から解放していく。

参加者の顔が、何だか戦士のような明るい顔になっていて、日本のかつての侍たち、まだこの国が支配されていなかった頃の日本人は、こんな風だったのかもしれないと思った。自然に自分が守れているような、堂々とした明るい表情だ。戦闘的だというのではなく、攻撃的なのでもない。腰のあたりに重心があって、しっかりと肚が決まっているといった風だ。自分で自分が守れているという、平和な雰囲気がある。戦う必要もなく、自分を守れて、攻撃を引きつけることもない。そんな風になっている。

内なる闇を統合することで、それぞれが自分を守れて、だからこそ支配されずに調和していく力を、私たちはとにかく一人一人の中に解放したようだ。それによって、集合意識も少しずつ開いていくはずだ。それが今まさに、世界で起きていることだ。支配から自分を解放して、自分を守れる人たちが少しずつ増えていっている。そうした人たちの勇気ある行動を見て、またその力を自分に解放する人が少しずつ増える。世界全体の国際的な領域では、その動きがもはや臨界点を越えて、雪崩のように大きくなっていっているようだ。日本を含めた西側諸国は、今のグローバル支配の拠点として、何としてでも守ろうとしているから、支配から自分を解放するのは容易ではなく、だからまだまだ目に見えては変わっていかないけれど、それでも少しずつ加速していっていることは確かだ。最初はその加速は、気がつかないくらいにゆっくりだけれど、次第に早くなっていって、いつかは雪崩のようになる。それが起こるのは、思うよりも早いのではないかという気もする。

2023年4月28日


セッションでグラウンディングに使った磐座(熊野のおながみの森)


剣を地に還す神武の像 おながみの森で製作中


***
セッションの録画はこちらで見られます。
https://www.facebook.com/100000165488492/videos/948557069827681/


【鞍馬山の天狗とは何だったのか? ー 鞍馬山の解放】



京都の鞍馬山には天狗がいて、牛若丸はその天狗に武芸を習ったので平家を倒すことができたのだという伝説がある。この天狗は、実は金星から降りてきたサナート・クマラなのだという話もあり、レイキの臼木さんは、鞍馬山で転んでケガをして、それを意識の力でその場で治し、それがレイキの始まりだったということだ。鞍馬山には、何かしら人智を超えた力があり、昔からそれを使う術を習得することができるような場所だった。

ところで、京都の街は、平安の頃から怨念や魑魅魍魎に悩まされてきた。その背景には、大和朝廷が日本中で縄文の聖地を破壊して、金や水銀を奪っていたということがある。聖地を破壊され、龍脈を断ち切られ、虐殺された縄文民族の怨念が、平安京を荒廃させていたのだと言って、平安貴族たちは陰陽師たちに結界を張らせ、あちこちに封印をかけさせていた。

京都にかけられた封印の要になるものが、どうも鞍馬山らしいのだ。鞍馬山は、ちょうど京都の中央からほぼ真北の位置にある。京都の南北の軸上にあるのが、鞍馬山だ。鞍馬神社の奥の院は、魔王殿と呼ばれていて、悪いイメージを与えられているのだけれど、悪魔だとか鬼だとか悪い存在のように言われているものは、ほとんどが先住民の聖地なのだ。支配者たちは、先住民を支配し、祖霊や神々の力を使わせないようにするために、悪い存在のように言って、祀ることを禁じる。それは、征服支配があるところでは、世界中に同様なことがある。鬼だとか悪魔だとか悪い龍だとか、悪い存在として言われている力は、もともとは先住民が大事にしてきた祖霊や神々との繋がりなのだ。

5月11日、音7のエツナブ(白い鏡)の日に、鞍馬山の天狗を解放する封印解きセッションをやろうと思ったのは、京都の闇の力を解放することで、日本の本当の龍を起こすことができるかもしれないと思ったからだった。長いこと封じ込められてきて、本来の力を忘れてしまったかのような日本を、本当の力に目覚めさせることができるんじゃないかと思ったからだ。

それでまずは、鞍馬山の衛星画像から、鞍馬山の存在にアクセスしてみることにした。意識の世界は時空を超えているので、どこからでも繋がることができる。そんなことができるのかと思うかもしれないけれど、やってみればけっこう誰でもできてしまう。どれくらいはっきりした内容を受け取ることができるかは、経験とか表現力とかにもよるけれど、とにかく誰でも受け取ることはできる。それで、それぞれに衛星画像からアクセスして、見えてきたものを言ってもらった。

すると、多くの人が女神のような存在が出てきたと言っていた。鞍馬の天狗だから、男性的な存在かと思ったのに、女性的な姿が現れた。私は、弁天のような女神だと思ったのだけれど、それは宇宙に舞う存在であり、宇宙創造神であるように思えた。つねに世界を新しく創造している女神だ。一瞬にして、世界を新しくしてしまうような力を持つ女神。それは、意識を変えるようなことで、容易に起こってしまう。それこそ、天狗が持つヤツデのうちわで扇ぐようにして、だ。

そして、金の力が封じ込められているというようなイメージが現れてきた。金といったら、大和朝廷は金を求めて日本中に修験者を送り、縄文の聖地を封じ込め、金を奪ってきた。金とは、つまるところ軍資金であり、政治権力であり、人を思うように動かすためのものだ。しかし、縄文民族が金脈を聖地としてきたのは、金を所有するためではなかった。金が発するエネルギーは、豊かさと愛の循環を作り出すものだ。そのエネルギーを使って、龍脈を繋ぎ、広範囲に渡る交易のネットワークを作り出していたのだ。金を掘り出して、豊かさを独り占めする目的で使われたとき、金のエネルギーは闇の力に変わってしまう。平安京が魑魅魍魎に苦しまされてきたのは、実は縄文民族の怨念のせいではなく、この闇と化した金のエネルギーのせいだったのかもしれない。

鞍馬山は、東と西を繋ぐ日本の龍脈を断ち切る封印になっているようだ。縄文民族の中心地であった諏訪や出雲を繋ぐ龍脈が存在していたはずで、それを断ち切ることは、大和朝廷にとって重要なことだったのだろう。それで今度は、鞍馬山の存在に外に出てきてもらって、京都の封印を開けてもらうことにした。どこにどういう龍脈があって、どう断ち切られているのかははっきりしないのだけれど、鞍馬山を開けたら、自ずと封印が開いて、どこに龍脈が通るかわかるんじゃないかと思った。

すると、北東から西南へと、京都を斜めに突っ切るように、金色の光が走ったイメージを見た人が何人かいた。鞍馬山の地下にいる存在に出てきてもらうと、金色の光の柱が立って、地下と宇宙とを繋いでいるように思えた。すると、北東から西南へ、金色の龍のような光の筋が通ったのだ。それを見たとき、諏訪と宮島が繋がったと思った。諏訪から琵琶湖、京都を通って、神戸、瀬戸内海、宮島へと繋がっている龍脈があり、鞍馬山はまさにその龍脈を断ち切って、封じ込めていたように思えた。

そのとき、京都はその龍脈の中で第2チャクラに当たるのだというイメージが見えた。まさに京都は、第2チャクラで封じ込められているのだ。第2チャクラこそは、人との繋がりによって支え合う信頼の力であり、豊かさと愛の循環を作り出すものだ。性愛と金とは、つねに京都の重要なテーマだった。京都は、人との繋がりやお金のことで不安を持つことが多い街でもある。自分が人々に受け入れられているのか、認められているのか、ということが、最も重要なことだし、そこに最も大きなストレスがかかっている。

第2チャクラといったら、地球の第2チャクラは南米のチチカカ湖だった。そこでも、金を巡る先住民の虐殺というテーマが出てきていた。豊かさと愛の循環を作り出す金のエネルギーを、掘り出して独占と支配の力に変えてしまったという歴史が、第2チャクラの最も深い封印になっている。

チチカカ湖の封印を開けたときに出てきたのも、女神の姿だった。生命を産み出し続ける大地の女神。その女神が封印を解かれて外に出てきたとき、虐殺も略奪もありとある罪を、その女神は受け止めて飲み込んでしまったのだ。人間のどんな悪行もどんな残虐も、女神はすべてを飲み込んで、新しく産み出す力に変えてしまう。それこそは、この女神のとてつもない循環の力なのだ。その女神がすべての罪を飲み込んでしまったとき、残虐行為を行なってきたスペイン人たちは、泣き崩れて悔恨し、女神に抱かれていた。

それで、京都の死者たちを起こして、生きている私たちを助けてくれるようにしてもらったらいいんじゃないかということになった。京都では、歴史を通じて、多くの人が残虐な死に方、理不尽な亡くなり方をしてきた。それが深い封じ込めになっているのかも知れなかった。亡くなった人の魂にアクセスしてみると、亡くなった人たちは怨んでもいなければ、苦しんでもいないということがよくわかる。縄文の時代には、私たちは当たり前のように祖霊たちとともに生きてきた。亡くなった人たちは、いなくなってしまうのではなく、存在の形を変えただけで、つねに一緒にい続けるのだ。そうした意識で生きている人々は、目に見えない大きな繋がりの中で生きることができる。だけど、そうした繋がりを失ってしまうと、生きている私たちは、亡くなった人たちに罪の意識や恐怖の念を持つ。そして、まさにそれこそが、第2チャクラを封じ込めてしまうものなのだ。

死者たちに出てきてもらうと、とたんに京都の街中が活気づいて暖かくなったかのようだった。死者たちは、ただ陽気に踊っていたと言っていた人もいた。京都ではいろいろな人が不業の死を遂げているけれど、その中でも何故だか千利休の姿が現れた。この人は、小さな山小屋のようなものを建てて、そこで火を焚いて、山野のものを食すようなことを、最も贅沢なこととして、大金持ちたちにやらせていたのだ。茶の湯とは、縄文文化の再来そのものだ。京都の封印が解けたら、京都の中で生き続けてきていた縄文の世界に意識が向いたのかもしれない。そうしたものが、まったく別な意味、新しい意味を持って、見えてきた。縄文文化といえば、同じ頃に始まった能楽もまた、縄文文化そのものだ。能楽では、土地の精霊や神々になって、その力と交流し、解き放つ。縄文的な呪術の世界そのものなのだ。

過去のトラウマを解くと、過去がまったく違った目で見えてくるということがある。それは、意識の変化によって、時間の流れが変わり、現実が変容し始めたことを示す徴だ。現実も過去も、実は私たちの意識が作り出している。だから、私たちの意識が変わると過去が変わり、現実も同時に変わり始める。京都の封印を解いたときに、千利休の姿が現れ、京都の文化もまた、縄文の伝統を繋いでいたということに気がついた。気がついたというより、そのように過去が変わったのだ。それは、京都のところで断ち切れていて、力を失っていた龍脈が、息を吹き替えしたからなのに違いない。宮島と諏訪とを結び、さらに東北、阿蘇と繋がっている大きな龍、日本列島を繋いでいる大きな龍が、起き上がり始めているのかもしれない。


鞍馬山の衛星画像
能楽「鞍馬天狗」
自作の陶芸作品「宇宙の女神」


2023年5月11日

【岩木山は日本の頭頂チャクラだった】



青森の岩木山にアクセスしてみようと思いついたのは、まるで何かに導かれているような展開からだった。転居についての問題で個人セッションしていたときに、東北に魂の縁があるんじゃないのかという話になったら、その人は青森の龍脈の解放に関わっているという話をし始めた。2週間前に鞍馬山の封印を解いたときに、東と西の龍脈が繋がったという感覚があったので、東北から諏訪、琵琶湖を通って西に繋がる龍脈があるはずだと思っていた。そのカギが、どうも青森にあるようなのだ。

青森には、青森市の大星神社を起点にした北斗七星のレイラインがあるという。ところで、このレイラインは、坂上田村麻呂が津軽の縄文民族を討伐したあとで、縄文の鬼たちが復活しないように作ったものなのだという。つまり、縄文の聖地の繋がりを遮断して、力が出ないようにするための封印なのだ。それならば、そのあたりに縄文の重要な聖地があり、そこが東北の龍脈の要なのだろう。その龍脈を封じているのが、おそらくはその北斗七星のレイラインなのだ。

坂上田村麻呂は、岩木と耕田の縄文を討伐したとあったので、それがどこなのかを調べてみると、岩木は白神山地の岩木山、耕田は八甲田山の古い名前であるらしい。岩木は、北斗七星のレイラインの一点にもなっていたので、まずは岩木山にアクセスしてみたら、東北の龍脈がどうなっているのかわかるんじゃないかと思った。

岩木は、古くは岩鬼と書いたのだそうだ。鬼がつく地名は、縄文の土地を表している。岩木山は津軽富士とも呼ばれるそうで、山頂あたりは峰がいくつもに分かれているけれど、富士山型のきれいな形をした山だ。画像を見ただけでも、パワフルなエネルギーを感じるから、おそらくこれが重要なポイントなのだろう。

青森にはねぶた祭りというお祭りがあるけれど、これは坂上田村麻呂がアテルイを討伐するときに、お祭り騒ぎをして縄文人たちを誘い出し、出てきたところを討ち取ったという伝説を再現したものなのだという。この話は、出雲のヤマタノオロチ退治の話にも通じている。8つの頭を持つ大蛇とは、実は出雲の縄文の8つの部族の首長のことであり、和合の宴会をするからといって首長たちを集め、強い酒を出して酔っ払ったところで、討ち取ってしまったという話が、ヤマタノオロチ退治の話になったのだという。熊野の神武天皇の東征でも、同様な話が出てくる。「荒ぶる神たち」として出てくる縄文の首長たちを、宴会に招んで、酒が回ったところで、斬り殺してしまったということが、「古事記」に書いてある。出雲や熊野の縄文人たちはとても強くて、大和朝廷に支配されなかったのだけれど、もともと友好的な民族だったので、和合の宴をしようというような話には騙されてしまったのだ。そのことを知っていた坂上田村麻呂は、手強いアテルイに対して同じ手を使ったのだろう。

出雲も熊野も、国譲りがあった土地だから、大和朝廷に匹敵するような国がもともとあったのだ。しかし、縄文民族は中央集権的な政治システムを持っていたわけではなく、それぞれの部族の首長がいて、そのネットワークのようなものがあっただけなのだろう。それぞれの部族には、トベのような神女がいて、山の上の聖地を守っていた。山の裾野の方に男たちがいて、聖なる山を侵略者たちから守っていた。それが、8つの頭を持つ大蛇というイメージになったわけなのだ。聖なる山を奪うためには、裾野の8つの部族の男たちの頭を集めて、酒を飲ませて酔っ払わせた上で、斬り殺してしまえばいい。それを坂上田村麻呂は、津軽の縄文人たちに使ったということなのだろう。そのことは、東北にも出雲や熊野と同じくらいに大きな縄文の国があったことを示しているように思える。

大和朝廷が東北を征服しようとしたのは、何よりも金が出るからだったらしい。平泉や佐渡は金山で有名だけれど、金が出た土地には、今でも金脈の波動が強く残っているようなところがある。金のエネルギーとは、豊かさのエネルギーそのものだ。別に何があるわけでもないのに、実に豪奢な暮らしを楽しんでいるような、不思議な感覚がある。実際、金が出るようなところには、温泉が湧いて、魚介類が豊富だったりして、山の幸海の幸が贅沢すぎるくらいにあるようなところが多い。金脈が発する特殊な波動とは、大地がふんだんに供してくれるこの豊かさに気づく力だと言えるかもしれない。私たちの意識が現実を作り出しているのだから、私たちが豊かさをふんだんに受け取っているという意識を持てたら、大地も豊かさを産み出すということになる。豊かさを自覚している人たちが、たがいに持っているものを交換し合い、さらに豊かになっていく。縄文人たちは、そのように金脈の波動に守られて、広範囲で交易を行なって、豊かな暮らしをしていたのだろう。平泉や佐渡だけではなく、金脈のようなエネルギーは東北全体で豊かに感じることができる。そのことからして、東北にはいたるところに金が出たのじゃないかという気がする。金のエネルギーは、東北の龍脈の重要な要素かもしれない。

それで、岩木山の画像を使って、封印解きクラブのメンバーで、岩木山のエネルギーに遠隔アクセスしてみた。すると、龍のような姿を見た人が多かった。青灰色だとか青緑色だか白だとか、色は違っていたけれど、とにかく龍だった。誰にも気がつかれないで、閉じ込められている龍の悲しいイメージを見た人もいた。光り輝く白龍のイメージを見た人は、白山と同じエネルギーを感じたと言っていた。前に白山にアクセスしたとき、中から白龍が出てきて、弁天のような女神の姿になった。白山といったら、ククリヒメだけれど、それは瀬織津姫とも同じ存在のように思え、サラスヴァティのような宇宙創造女神なようにも思えた。おそらくは、縄文の神女たちが山の磐座で祀っていた存在は、瀬織津姫やククリヒメよりもずっと大きな存在で、宇宙女神でありかつ地球母神であるようなとてつもない大きさを持った力なのだろう。

そしてそれが、北極星と繋がっているようなのだ。岩木山から上に向かって女神が出てきたと思ったら、それが北極星と繋がっているようなイメージが出てきた。北斗七星といったら妙見信仰で、妙見とはつまり北極星なのだけれど、そのもともとのものは、あるいは縄文にあったのかもしれない。北極星というのは、その星自体に何かがあるということではなくて、地球の回転軸を表している。地球が宇宙の中で回転しているということを意識して生きるべきだということを示しているのが、北極星だということらしい。地球もすべての生命体と同様に、トーラス状のエネルギーの流れがあり、それは北極と南極の軸を中心にしている。北極星は、この地球の軸とトーラス状のエネルギーの流れの方向を表しているということになる。

縄文の人々は、北極星に従って生きていたようなのだ。「お天道さま」を信じて生きるように、縄文の人々は、北極星を信じて生きていたようだった。北極星を信じるとはつまり、宇宙意識で生きるということであり、自分がこの地上で何をしに来たのか、その地球での使命のようなものを意識して生きるということだ。波乱万丈の人生を送ってきた人なら、知っていると思うけれど、そういう宇宙の導きに従ってさえいれば、何のあてもなくても、不思議とすべてはお膳立てされるように運んでしまったりする。その感覚のことを、縄文の人たちは「北極星に従って生きてさえいれば」と言っていたようだった。

坂上田村麻呂が東北の縄文の力を封じるために、北斗七星のレイラインを作ったのは、人々の意識を北極星から支配権力へとつけ替えるためだったのかもしれない。北極星ではなくて、神社の社の方を拝めということなのだ。社に祀ってあるのは、大和朝廷に繋がる天津神だ。縄文の山の神ではなく、社の天津神を拝ませることで、縄文人たちが大和朝廷に逆らう力を持てなくしようとしたのじゃないかと思う。

この縄文のもともとの岩木山の力を解放するには、どうすればいいのだろう? それで、縄文時代の岩木山に戻って、山の存在とアクセスしてみることにした。すると、岩木山がずっと軽くなっていて、人々がまるで空を飛ぶようにして生活しているイメージが出てきたりした。人々がまるで白っぽい巨人のようになって、山のような大きさで見えていた。ケルトの古代神話では、神々は巨神だったというけれど、それは意識体としての大きさなのだろう。ケルトも縄文も、宇宙的な意識で生きていたようだ。だから、当時の人々も、巨神のような意識体の大きさを持っていたのかもしれない。そして、その頃の人々は、ずっと大きなスケールで世界と交流していて、北の方、大陸の方と大きな交易圏を持っているようなイメージが現れたりもした。

それが、今は身体に剣が刺さって、地面に串刺しにされているみたいに、地べたに止められているようになっているようだった。だから、その串刺しになった剣を跳ね飛ばしてしまえばいいんじゃないかということになった。それで、楊枝がたくさん地面に刺さっているみたいに封印がかけられているイメージをこしらえて、その楊枝がいっぺんに跳ね飛んでしまうイメージを作ってみることにした。

それでどうも、うまいこと何かが開いたようなのだ。参加者の顔が、頭の真ん中の松果体のあたりから光が射しているような感じに変わっていた。地球の頭頂チャクラであるというチベットのカイラス山を開けたときにわかったのだけれど、頭頂チャクラとは、松果体のあたりから頭頂を通って宇宙と繋がっている感覚器のようなもので、それは、自分がどこに導かれているのかをはっきりと知る力なのだ。つまり、自分にとって何が正しいのかを、はっきりと知る力だ。これは、知識とか教養とかとは関係なく、誰でも生まれつき持っている力だ。それが、岩木山のエネルギーを開けたら、見事に開いたようなのだ。

岩木山は、日本の頭頂チャクラだったのかと思った。そして、頭頂チャクラは北極星に繋がっていたのだ。その繋がりこそが、岩木山のエネルギーであり、日本中にある白山や妙見山のエネルギーだったのだ。ここに来て、どうして岩木山を開けることになったのかわかった。封じ込められていた東北の龍とは、これだったのだ。これは何と、日本の頭頂チャクラだった。それが、東北のところで押さえられて、封じ込められていたのだ。

岩木山が開いたら、日本の龍がいよいよ本当に起きるのだと思った。これまで、日本から世界が切り換わっていくのだというメッセージをいろいろな人が受け取っていたけれど、それらしいことがちっとも起こらないので、あれは嘘だったのかと思っていた。私自身、2018年の頃、日本のところに光の剣が入って、そこから地球がぐるりと皮が剥けるように表皮がはがれていく鮮烈なイメージを見たことがある。表皮が剥がれたあとに出てくる地球は、光り輝いていて、とても美しかった。だけど、この3年間、世界のあちこちで人々が目覚め始めているようなのに、日本はまるで深く眠り続けているようなのだ。世界が日本から変わっていくなんてやっぱり日本人の贔屓目にすぎなかったのかもしれない、と思っていた。

日本の龍は、何と宇宙と繋がっていたのだ。こんなとてつもないものだったのなら、最後まで眠っていたとしても、無理はない。このまま行ったら、日本は台湾の戦争に巻き込まれるか、あるいは人工地震の攻撃に遭うかしそうな流れなのだけれど、あるいはそこまで行かなければ目覚めないのかもしれない。でも、もし今のうちに日本の龍を起こせば、その事態は避けられるんじゃないかと思った。

岩木山が開いたところで、これで日本の龍は目覚めたんじゃないかという気がした。何がどうなっていくのかはわからないけれど、とにかく今は日本に希望が持てる感覚がある。日本の龍は、北極星と、つまり地球の軸と繋がっていたのだ。そして、どうやらそれが開き始めたようなのだ。


岩木山

2023年5月24日


【銀河の龍が目覚める ー 音楽と詩の朗読】

岩木山の解放セッションから生まれた音楽と詩です。岩木山のエネルギーが感じられる表現になったと思います。

https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM2640-iwaki-san-aiko-1st.mp3

ピアノ即興演奏 Osamu Fujikawa
朗読 Aiko Maru
詩 佐藤シューちひろ

【銀河の龍が目覚める】

この山には鬼が出る
そう言われて、封じ込められた岩木山
そこは古代の聖なる山
女神のいます山
7つの封印で、封じ込められたこの山は

鬼と恐れられた人々は
私たちの魂が、宇宙から来たことを知っていた
私たちがどこから来たのかを
この山は示してくれるのだということを

この山の黄金は、掘り出すためのものじゃない
それは、私たちが皆、高貴な存在なのだということを
思い出させてくれるもの
私たちが皆、どこから来たのかを思い出させてくれるもの
だから、地上はこんなに豊かなのだということを
それはすべて、宇宙の神々が贈り賜いしもの

この黄金は、あなたたちのものじゃない
この黄金は、人が持つものじゃない

岩木山の龍が起きる
長い眠りから目覚めて
その長い身体を揺すぶっている

硬い地面だと思っていたものが
緩やかに形を変えていく
地面から黄金色の光が湧いて出る
この列島は、本当はこんなにも豊かだった

この列島の大きな龍は
北のあの星を指している
大宇宙の中を、地球が回転するその軸を

太陽系よりも遥かに大きな銀河の軌道を
地球はゆっくりと巡っていく

この山の龍は、地球の行く先を見つめている
銀河の軌道を見つめている

銀河の龍が目を覚ます
ここは上も下もない世界
うねりながら 回転しながら
宇宙の中を巨大な龍が飛んでいく
金と銀にきらめく光の粒子を放ちながら


【十和田湖の龍を解放する】



青森の岩木山の龍を解放する封印解きセッションをやったあとで、八甲田山が今までないくらいにすっきりとして見えるようになったと十和田に住んでいる人が言っていた。封印解きのことなんか何も知らない人たちも、この頃空がいつになくきれいだと言っていたというから、本当に何か変化があったらしい。あのあと空にクラウドシップがたくさん出ていたりもしたそうだ。

何がどう作用するのかわからないのだけれど、封印が解けたときには、場所がこれまでになくすっきりとして見えたり、空がきれいになっていたり、龍や鳳凰みたいな雲が出たりすることがよくある。空というのは、人の意識を映し出すようなところもあるのだ。封印が解けて、集合意識の何かが蓋が外れるように解放されるとき、空もいつになくすっきりときれいな色になり、まるで何かが解放されて飛び回っているかのような雲が出たりする。

青森には、北斗七星の封印がかけてあって、それが岩木山を封じていたようだった。東北の縄文民族を征服するべく、大和朝廷から送られた坂上田村麻呂は、津軽の縄文民族の手強い抵抗に遭っていた。彼らの根拠地となっていたのが、岩木山と八甲田山だったようなのだ。縄文民族は、山を聖地として力を得ていたから、山を封じ込めるのが大和朝廷には重要なことだった。それで、岩木山の力を封じ込めるために、北斗七星の形に神社を配置して、それによって封じ込めたということだった。

岩木山の封印を解いてから、八甲田がきれいになったということは、やはり岩木山と八甲田山はレイラインで繋がっていたのだろう。もともと繋がっていた場所は、一カ所が開くと、他のところも連鎖的に開いてくるということがある。そうしたことが起こったのじゃないかと思った。

八甲田山は、明らかに十和田湖と繋がっているのだろう。諏訪湖と守屋山が繋がっているように、山と湖はセットで一つの龍体のようになっていることが多い。山の頂上と湖の中心がレイラインで繋がっている。山から水が流れ、湖に集まる。その大きな水の流れが、一体の龍のようになっている。

ところで、十和田湖と恐山を結んだ線を南にずっと伸ばしていくと、その線上に田沢湖があり、猪苗代湖がある。そのどれもが縄文の重要な聖地であったらしく、龍の伝説があったりする。それを考えると、これは日本列島の軸になる重要なレイラインなのだろう。猪苗代湖からさらに南に伸ばしていくと、東京の明治神宮のあたりを通って、鎌倉へ出ているように見える。恐山から北へレイラインを伸ばしていくと、白老のあたりを通って札幌の東を通り、宗谷岬を通って、樺太の中心を突っ切っていくようだ。もしこれが日本列島を繋ぐレイラインなのだとしたら、岩木山を封じ込めている北斗七星の封印が、岩木山と十和田湖を結ぶレイラインを遮断することになり、宗谷岬から東京までを繋ぐ大きなレイラインが十和田湖のところで閉じているのかもしれない。

岩木山の封印を開けたあとで、八甲田山が開いてきていたようなので、しばらく様子見していたのだけれど、マヤ暦でツォルキンの中心部に入っていた6月11日に、封印解きクラブの皆で十和田湖のエネルギーにアクセスしてみることにした。

ネットに出ていた十和田湖の写真を見ると、何だか重苦しいような雰囲気があって、恐ろしい存在でも出てきそうな感じがする。これは、封じ込めがある徴なのだ。十和田湖は、あちこちに神社や社があって、何重にも封じ込めてあるように思えた。それでとにかく、ネットに出ていた画像を使って、十和田湖の存在にアクセスしてみた。

すると、何人かの人が青い龍が見えたと言っていた。封じ込められていたというより、時が来るまで湖の底で眠っていたようにも思えた。それで、この龍に表に出てきてもらうと、龍が出てきたというよりも、とてつもなく大きなものに変わったのだ。それは、巨大なレイラインというか、日本列島の龍体そのものなのかもしれない。東北全体がすっぽりと胴の中に入るような光の筒のように見えた。その先がどこまで続いているのかはわからないのだけれど、とにかく東北のあたりはとてつもなく巨大な龍の胴になっていた。

その龍は、しかし大地と繋がっていないように思えた。それで、封じ込められる前の古代の十和田湖にアクセスして、そのエネルギーを現在の十和田湖に解放してみることにした。すると面白いことに、龍として水平に伸びていくのではなくて、巨大な光の柱のようなものが見えてきたのだ。下の方に意識を向けると、一体どこまで続いているのかわからないくらいに深い。地球の中心まで行っているのか、あるいはトーラス状に地球を突き抜けて反対側まで行っているようでもあった。そして上の方に意識を向けていくと、銀河の中心まで続いているようだった。

岩木山も、封印を解いてみたら、地球が自転する軸である北極星と繋がっていて、銀河意識と繋がっていたのだけれど、十和田湖もまた銀河意識だったのだ。銀河には上も下もなく、円盤状に並んでいるので、それは支配というもののない多極的な調和の世界だ。縄文の時代には、一極支配というものはなく、多数の部族が自律的に動いていて、そのネットワークのようなものがあった。出雲のヤマタノオロチ伝説とは、大蛇の化物の話ではなくて、実は8つの縄文の部族の首長のことだったという説がある。縄文の首長たちを和合の宴会だと言って招待して、酒を飲ませて酔っ払わせたところで、斬り殺してしまったというのだ。そのように、縄文では出雲を統一する王がいたわけではなく、いくつもの部族が対等な関係で繋がっているネットワークがあっただけだった。このネットワークで繋がった民族が、まるで8つの頭を持つ大蛇のように手強かったわけなのだ。

八甲田山も、もともとは耕田という地名で、そこに八がついているのは、やはり8つの部族がいたということを表しているという説があるらしい。山の霊力と繋がって力を得ているいくつもの部族のネットワークだったのだ。その力を封じ込めるために、十和田湖は何重にも封印がかけられていたらしい。

十和田湖には、八郎太郎という龍の伝説がある。八郎太郎は、もともとマタギの青年だったが、あるとき掟を破って仲間の分の岩魚まで一人で食べてしまったために、喉が渇いて33夜の間水を飲み続け、33尺の龍になって、十和田湖を作り、そこに住んだのだという。欲にかられて魚を独り占めしてしまったというのは、実に三次元的な話なのだけれど、それは、縄文の聖地の力が封じ込められたときに、事情を知っている誰かが誘惑に負けて聖地の秘密を大和朝廷にばらし、仲間を売ってしまったような物語があるのじゃないかと思わせる。おそらくは、単に欲に負けたというようなものではなく、脅しや拷問みたいなこともあったのだろうけれど、そういう話があるところには、裏切りと罪の意識と残虐の記憶が重苦しく溜まっているような感じがあって、それが気味の悪い龍でもいるようなねっとりした波動を作り出していたりする。

このような重苦しいエネルギーで封じ込められているときは、封じ込めの過去を飛び越して、封じ込められる前の古代のエネルギーにアクセスすると、速やかにもともとのエネルギーと繋がることができる。それで、古代の十和田湖にアクセスしてみたわけなのだけれど、すると何と、地球と銀河を結ぶ巨大なトーラスの軸のようなものが現れたのだ。

一体いつの時代のことなのかわからないけれど、人々が銀河までを意識に入れて生きていた時代があったのだ。縄文の人々は、祖霊と日常的に繋がって生きていて、それが日本の古い伝統にある「根の国」というものなのだけれど、その根の国は、祖霊たちだけではなく、銀河の存在までも含み込むような果てしない深さ大きさを持っていたのかもしれない。まさに、地下をずっと潜っていったら、地球の反対側に出てしまって、宇宙へと抜けていくかのようにだ。

上下の軸ばかりが見えたので、日本列島の龍はどうなっているのかと思って、そこに意識を向けてみると、水平に繋がっていくのではなくて、レイライン上にいくつもの巨大な光の柱が立っていくようだった。田沢湖や猪苗代湖、恐山などのポイントに、それぞれ独立して巨大な光の柱が立ち、やはり地中へは果てしなく深く、上は銀河までも繋がっているのだ。それぞれが銀河と根の国との繋がりを持って、独立していて、そういう部族が対等なネットワークを作っているようだった。

封印される前の古代の十和田湖にアクセスしたあとで、参加者が頭頂チャクラが開いたようなオーラに変わっていた。それを見て、やはり皆、銀河意識にアクセスしたなと思った。銀河意識であれ、それを受け取る頭頂チャクラであれ、まさにこれが封じ込められていたために、私たちはこんなにも嘘をつかれ、だまされて支配されているわけなのだ。お金とか仕事とか、そういう三次元的なもので支配されてしまっているから、あからさまな嘘をつかれても気がつくことができず、だまされてしまう。しかし、ここまで追い詰められるということは、もはやこの三次元的な意識から脱皮して、銀河意識にまで目覚めるしかないということなのだろう。そしてまさに、十和田湖のエネルギーは、そのときが来るまで、湖底に棲む龍のように、潜んでいたということなのかもしれない。

私たちは、多かれ少なかれハートが閉じているために、銀河意識と繋がることができないのだ。おそらく私たちは、これまで三次元的な現実に生きてきて、私たちのハートが実はもっとずっと大きなものなのだということをそもそも知らないのかもしれない。それで今度は、人々のハートをコンパクトを開けるみたいに開けて、銀河に繋げてみることにした。顕在意識では気がついていなくても、私たちは誰でも銀河との繋がりを潜在意識のどこかで知っているはずなのだ。だから、それを開いて、その繋がりを思い出せばいいのだと思った。

すると、一人一人がまるで銀河にまでいたるような巨人になったようなイメージが現れた。皆が巨人なので、どちらが上も下もないのだ。支配ということもあり得ない。それで、銀河のように対等なネットワークで繋がり合っていた。そんな風に、本州も四国も巨人のようになって繋がり合っているように見えた。北海道と九州がまだ閉じているように見えたのは、隣国の脅威の意識で封じ込められているからなのかもしれない。しかしとにかく、東と西は封じ込めが解けて繋がったようだった。

十和田湖の龍を解放するセッションをやってから、毎日空がすっきりとしてきれいだ。それに、巨大な龍や鳳凰のような雲や、宇宙船みたいな雲や、まるで何かとてつもないものが解放されたかのように、弾けたような雲ばかりが出続けている。ちょうどセッションの直後にマヤ暦の中心、つまり転換点を通過したのだけれど、何やらとてつもない転換が起こったかのようだ。一体何が起こったのかはまだ見えていないのだけれど、何かとても大きな転換が起こったのかもしれない。

5年ほど前に、日本のところから地球が裂けて、一皮むけるようにぐるりとむけて、地球が新しくなるというイメージを受け取ったことがあるのだけれど、これがあるいは十和田湖だったのかと思った。湖の底にいる龍を出してみたら、まるで地球から巨大な龍が脱皮するかのように、十和田湖のところから飛び出してきたのだ。私たちが地球と思っているものは、実は硬く閉じたハートで、三次元的な意識だけで現実を見ようとしているから見えてくる姿にすぎなかったのかもしれない。それが開いて銀河と繋がったとき、地球そのものが実はずっと大きな龍のようなものだったということがわかるのかもしれない。

セッションに使った十和田湖の画像。セッション始めたときは、重苦しい感じだったのに、終わったときにはすっきり明るくなっていた。


セッションの翌日、うちから見えた雲。

2023年6月13日



【十和田湖の龍が目覚めるとき ー 音楽と詩の朗読】

十和田湖の封印解きセッションのエネルギーを表現した音楽と詩の朗読です。
https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM0163-towadako-Eb-naoko-osamu-chihiro.mp3


ピアノ即興演奏 Osamu Fujikawa
朗読と歌 Naoko Fujikawa
詩 佐藤シューちひろ



【十和田湖の龍が目覚めるとき】

あまりに狂った世の中が
自ら壊れていくのを
待っていたかのように

十和田湖の湖底深く眠っていた龍は
遥か昔の時代の夢を見続けていた
遥か古代の時代、遥か未来の時代の夢を

悪い龍がいると
社や呪いで封じ込めていた
だけと十和田湖の龍は
遥か古代の夢を見て、眠っていた

こんなに大きな存在だったなんて
下は地球の中心にまでいたり
上は遥か銀河の中心まで続くかのよう

すべての祖霊たち すべての銀河の存在たちと
その龍は繋がっていた
そんな意識で生きていた世界があったのだ
遥か古代のことだったのか
あるいは未来のことなのか

十和田湖の龍は目覚めて
湖底深い洞窟から 
脱皮するように、飛び出していく
そのとき地球が裂けて
何倍にも大きな龍になる

この丸い地球、三次元の地球は
巨大な銀河の龍の
卵にすぎなかったのか?

黄金色に輝く、虹色に輝くその龍が
銀河をゆっくりと泳いでいく

いつも何かが足りないと思い込み
それでだまされて、支配されてきた
それが、小さく押し込められた
三次元の経験だった

銀河の龍が泳ぐとき
そんな世界はすっかりと消えてしまって
ありのままの世界がこんなにも美しかったことに
私たちは気づくのだ

この丸い地球、三次元の地球は
巨大な銀河の龍の
卵にすぎなかった

黄金色に輝く 虹色に輝くその龍が
銀河をゆっくりと泳いでいく

だまされて、押し込められた
三次元の体験は
もやと消えてしまって、
大きな銀河を
地球の龍が泳いでいく

***
(歌)

黄金色に輝く 虹色に輝く
十和田湖の龍は こんなにも大きい
地球から脱皮する 銀河の龍
この世界はこんなにも 深く大きかった

***


【阿蘇の龍とサードアイの力】



6月23日に阿蘇の封印解きセッションをやろうと思ったのは、それがちょうどマヤ暦の8回目の20日サイクルが始まるイミッシュ(赤い竜)の日で、始まりのエネルギーだと言われる阿蘇の封印解きをするには、ぴったりの日ではないかと思ったからだった。しかもこの日は、新しい世界の創造がテーマであるチュエン(青い猿)のウェイブスペルの11日目でもあり、大きな転換と新しい世界の創造というテーマでは、これ以上に合っている日はないように思えた。

地球のチャクラとゲートを開いたあとで、日本の龍を起こす仕事を始めていた。世界のゲートが開いて、いろいろと変わってきているのに、日本はあいかわらず眠り続けているように思える。途切れた日本の龍脈を繋いで活性化させれば、日本も本来の力を取り戻すのかも知れない。宮島、諏訪湖、富士山、東京の封印を解くのは、地球のチャクラの封印解きを始める前にすでにやっていた。そのたびに何かが大きく変わったのは感じるのだけれど、それでも日本全体としてはまるで眠り続けたままのようだ。それで、地球のチャクラとゲートの封印解きを終えたあとで、東西の龍脈を断ち切る封印になっていた鞍馬山を解放し、東北の龍脈の封じ込めの要になっていた青森の岩木山と十和田湖を解放した。

地球のチャクラを開けたあとだったからかもしれないけれど、岩木山でも十和田湖でも、想像もしなかったような驚くべきものが出てきた。それぞれが銀河意識と繋がっていたのだ。地球も太陽系も超えて、銀河と繋がっているようで、地球よりも大きな巨大な龍が出てきたかのように思えた。これだけのとてつもないものが封じ込められていたのなら、最後の最後まで眠り続けているのも無理はないのかもしれない。次元が違いすぎて、意識することさえ難しいのだ。しかし、これが開かなければ、日本には未来の見通しはあまりないように思える。そうなのだとしたら、銀河意識まで開くときが来たということなのかもしれない。実際、今の世界を見れば、そこまで開かなければ、どうにも解決できないような問題で縛られているようだ。そこから抜け出ていくには、銀河の次元まで超えていくしかないのかもしれない。

阿蘇は、何万年も前には8000メートルもあるような大きな火山だったそうだ。それがあるとき大爆発を起こして、九州全体の地形が変わり、巨大なカルデラができた。そこはもともとはカルデラ湖だったというのだけれど、健磐龍(タケイワタツ)という天津神が水を抜いて農地にして、国を作ったという伝説がある。そのときに、タケイワタツが山を蹴って穴を開けたとか、大ナマズが邪魔をしていたからナマズを退治して水を抜いたとかいう話がある。タケイワタツは、のちに神武天皇に国を奉じたとあり、これは熊野のニギハヤヒや出雲のオオクニヌシの話と同じことのようだ。大和朝廷が日本を支配しようと先住民を征服し始めたとき、そこにはすでに縄文民族と和合してともに国造りをしていた大陸系の人々(天津神)がいたのだ。大和朝廷は、こうした天津神たちを降伏させ、取り込んでいく形で、支配を進めていった。それが「国譲り」と言われているものだ。

タケイワタツには、鬼八という従者がいたけれど、のちに首を斬って成敗してしまったという話がある。これも、ニギハヤヒがナガスネヒコを成敗した話と似ている。ナガスネヒコは、縄文民族の男の首長で、神武天皇の東征に抵抗して戦い、上陸させなかった。そののちに、神武天皇は熊野のニシキトベを斃して上陸し、伊勢の首長たちを酒宴に招待しておいて、酔っ払ったところで斬り殺してしまった。そのあとで、ニギハヤヒが出てきて、国を譲ったというのだ。同様な話は日本のいたるところにあり、出雲のヤマタノオロチ退治の話も、実は出雲の8つの部族の首長たちを和合の酒宴だといって招待して、酔っ払ったところで襲いかかって殺したという話だという説がある。阿蘇の鬼八伝説も、八という字と鬼という字があるのが、縄文の8つの部族のことを指しているようにも思える。

鬼八は、タケイワタツの従者として、矢を拾ってくる役をしていたけれど、あるとき矢をひろって持ってくる代わりに投げ返したら、タケイワタツの足に当たったので、怒って鬼八の首を斬ったというのだ。ところが、首を斬ってもまたすぐ繋がって復活してしまうので、身体をバラバラに切り裂いて別々なところに埋めたとある。大和朝廷が縄文の龍蛇族を征服したときには、首長の身体をバラバラにして埋めるということをいろいろなところでしている。熊野にニシキトベも、バラバラに埋められたと言われていて、あちこちに塚がある。龍蛇族というのは、山を聖地として、磐座(いわくら)を作り、龍脈を操る縄文の民族なのだけれど、身体をバラバラに埋めることで、復活できないようにしたのだそうだ。龍脈を断ち切るには、聖地で残虐なことをして、聖地を穢した上に、残虐の記憶を土地に染みつけるというやり方があるらしい。そうすることで、人々の意識が哀しみや恐怖、敗北の記憶に向かってしまい、大きな力に向かわないように仕向けるのだと思う。実際、こうした塚のある場所は、ドロドロした重苦しい念がよどんでいるところがほとんどだ。

鬼八は、タケイワタツではなく、神武天皇の兄のミケイリノミコトに殺されたという話もあるけれど、ということは、つまり神武天皇はまず阿蘇を征服して、それから船で熊野に向かったということになる。阿蘇で縄文の龍蛇族を破り、その力を使って、熊野に行き、そこから東征を始めたのだ。神武天皇は、阿蘇の力を使って国造りを始めたと言われているけれど、それは実のところ、阿蘇を封じ込めることで縄文の龍脈の力を封じたために、縄文民族を征服することが可能になったということなのかもしれない。

阿蘇の周辺には、いろいろな磐座や伝説があり、その中には超古代の文明を思わせるようなものもある。九州は火山の島で、阿蘇の大噴火以前にも何度も地形が変わるような火山活動があったと言われているそうで、そのたびに古代の文明が丸ごと滅ぼされてしまったようなことが何度もあったのかもしれない。

それでとにかく、阿蘇の衛星画像から、阿蘇のエネルギーにダイレクトにアクセスして、何が封じ込められているのかを見てみることにした。すると、豊かな暖かいエネルギーを感じて、守られている感覚を感じる一方で、何かモヤモヤとしたものが出てこられないでいるのを感じた人が多かった。温泉みたいな、下の方から地熱を感じるようなエネルギーで、ルートチャクラが活性化するエネルギーだと思った。阿蘇のところから上に向かって巨大な光の柱が立っていて、そこは銀河まで繋がっているようなのだけれど、それと地上の阿蘇との間に繋がりがないようにも思えた。次元に隔たりがありすぎて、繋がれないし、繋がったら世界に異変が起きてしまうのではないかというような気もした。

ナマズのようなものが生板の上で輪切りになっているイメージや、ナマズが釘を打たれて出てこられなくなっているイメージを見た人もいた。出てこようとすると、何かしら大変なことが起こるので、出てこられないようだというのだ。何かが裂けてしまうような事態になり、日本が大変なことになるかもしれないという。

ところで、ナマズというのは、龍が封じ込められたものだという話があり、ナマズの頭をヒョウタンで撫でると、龍に戻ると言われているのだそうだ。ヒョウタンというのは、メビウスの輪とかクラインの壺のような、永遠の循環を表しているようにも思える。何かしら大きな循環が閉ざされているために、龍はナマズになって池に閉じ込められているのかもしれない。

聖地になっている山に封じ込めがかかっているとき、火と水が分離していて、カラカラに乾いているような感覚がすることがよくある。火山で温泉が湧き、豊かな水源があるところでも、エネルギーにアクセスしてみると、まるで水源が切れてしまっているかのように、カラカラな感じがするのだ。富士山のエネルギーにアクセスしたときもそうだったけれど、妙に乾いている感じがしていた。ところが、封じ込めを解いたら、富士山の下が水でいっぱいで潤っているというイメージに変わっていた。

火は水に消されてしまうから水を恐れ、水は火に乾かされてしまうから火を恐れ、その2つが共生することはほとんど不可能なことのように思える。しかし、生命現象とは実のところ、火と水が循環することによってつねに絶妙なバランスを保ち続けることなのだ。私たちの身体は、酸素を燃やすことによって熱を作り続けている。しかし、血流によって温度が上がりすぎないように保たれていて、だから組織が焼け焦げてしまわないようになっている。そうした絶妙なバランスをつねに保ち続けるのが生命の力であり、生命体はトーラス状のエネルギーのフィールドによって、それが可能な場を守っている。だから、この生命のトーラスがちゃんとしていれば、火と水は共存し、すばらしい調和を保って、あらゆる生命活動を可能にするのだ。

五行では、木 火 土 金 水 の5つの要素が、互いに抑制しつつ互いに生み合う循環を示している。5つの要素を円形に描くと、五芒星の線が表すのは、互いに抑制し合う関係だ。しかし、この5つを繋げた五角形の線は、互いに生み出していく関係を表すのだそうだ。このすべてのバランスが整っていたとき、生命活動は健康だということになる。

それで、阿蘇に封じ込められているナマズをヒョウタンで撫でるなり、五行の五角形で循環させるなりしたら、解放できるんじゃないかということになった。それで、また阿蘇の衛星画像から阿蘇のエネルギーにアクセスして、地下にいるナマズをそれぞれ解放してみることにした。

すると、ナマズは打たれた釘をぶっちぎって飛び出していき、五行の五角形をグルグルとものすごい勢いでまわり始めた。釘で尻尾がちぎれたんじゃないかと思ったけれど、ナマズはそんなことはどうでもよいらしくて、大喜びでグルグルまわり続け、止まらない勢いだ。すると、阿蘇を中心にして巨大なトーラスができていることがわかった。さっきは、阿蘇から上に向かって巨大な柱で銀河まで繋がっていると思ったのだけれど、それはトーラスの中心の穴のところにすぎなかったらしい。それは実はトーラス状になっていて、上に上がってから九州のまわりに光の粒子になって降り注いでいた。ナマズが解放されたら、大地震が起こるか火山が噴火するか、何かそんな風な恐ろしいことが起こるかもしれないというように思えていたのだけれど、大きな循環が戻ったら、そんな災害など起きる必要がないのだと思えた。すると、阿蘇のあたりの土地に生命力が活気づいたかのように、人々が生き生きとパワフルに活動しているイメージが見えた。

サードアイと第三チャクラが開いているのが感じられた。第三チャクラは、意識で世界を創造する意志の力、そしてサードアイは、意識の方向性を定める力だ。まさにこれこそは、新しい世界を創造する力であり、これが阿蘇が始まりのエネルギーだと言われる由縁なのだと気がついた。

縄文の時代には、この力が開かれていて、人々はそれによって生きていたので、大陸からやってきた人々が征服しようとしても、容易に征服することができなかったのだろう。この力が開いていたら、まさにいくら斬っても斬ってもまた生えてくるというような力で人々が抵抗してくるので、この元を断ち切ってしまわないかぎり、支配することなど不可能だ。それで、この力を封じ込めるために、何か残虐なことをして、復活したら大変なことになるという意識を集合意識に深く植えつけたのかもしれない。そうだとしたら、まさに大和朝廷は、阿蘇の力を封じ込めることによって、日本を支配することに成功したことになる。

参加者のオーラが明るくなっていて、やっぱりサードアイのあたりが開いたようだ。さっきとは打って変わって、みんなうれしそうな顔つきになっている。ナマズが巨大な龍に変わって、ヒョウタンのように螺旋状に昇り降りしたイメージを見た人も何人かいた。ナマズが龍になるときに、身体がビクッと動くくらいの衝撃があったと言った人が二人いて、二人ともまるで長年の封印が初めて解けたかのような、見たこともないくらい軽々した感じに変わっていた。

ナマズは釘を打たれていたけれど、そこから脱皮してしまって、龍になって飛び出していくイメージを見た人もいた。それこそはまさに今の日本の状況かもしれない。生板の上に釘を打たれたみたいに身動きできなくされていて、龍みたいなものにでも脱皮しなければ、そのまま滅びてしまうしかないように思える。しかし、世界で起こることにはすべて意味があるのだとしたら、そのような状況に追い詰められたということは、これまで想像もできなかったようなやり方で、そこから脱皮していく時が来ているということなのかもしれない。


封印解きセッションに使った阿蘇の衛星画像


ナマズを瓢箪でなでる図


封印解きセッションの翌朝の阿蘇

2023年6月23日

***


【太平洋の龍が起きた ー 筑波山の解放】


龍の解放みたいなことをやっていると、別に予定を立てていなくても、次々と呼ばれるようにあっちこっちを開けることになったりする。何も考えていなくても、向こうの次元ではもうスケジュールができているかのようで、何だかそういうことになるのだ。地球のレイラインの解放をやったあとで、鞍馬山を開けようということになり、そうしたら青森に縁がある人に出会って、岩木山の封印を解くことになった。すると今度は、熊本に引っ越した人が、どうも阿蘇に呼ばれているようだというので、阿蘇を開けることになった。そしてその次に、鹿島に安い物件があるので見に行ったという人がいて、鹿島なら筑波だろうということになり、筑波山を開けることになった。

筑波山は、前から気になってはいた。しかし、今まで手をつける気になれなかった。おそらくは、関東の封じ込めの要になっているのだろう。筑波山の周辺に鹿島神宮や香取神宮という、神宮の格の神社が2つもあるというのも、何かしら大きなものを封じ込めているからなように思える。

鹿島神宮といったら、武甕槌(たけみかづち)が祭神だけれど、このタケミカヅチというのは、熊野でも出雲でも、国譲りに関わっている神だ。国譲りというのは、大和朝廷以前にその土地を支配していた王的人物が、大和朝廷に支配権を譲ったということで、つまりは大和朝廷に敗北して、征服されたということを意味している。熊野ではニギハヤヒが、出雲ではオオクニヌシが、神武天皇に国譲りをしたということになっている。熊野では、縄文のニシキトベという女酋長の部族が、神武天皇の軍を呪いにかけて眠らせてしまったのだけれど、そこでタケミカヅチがフツノミタマという剣を授けると、呪いが解けて、ニシキトベの部族を斃したとされている。

出雲でも、タケミカヅチが現れて、海上で剣を振り回すと、オオクニヌシが国譲りをすることになったとある。タケミカヅチは、何かしら縄文民族の力を決定的に削いでしまうような力があるようなのだ。縄文の民族は、磐座などで龍脈を繋ぐことを知っていて、その力に守られていたから、おそらくはタケミカヅチとは、龍脈の封印の技を意味しているのだろう。タケミカヅチが使うフツノミタマという剣とは、龍脈を断ち切る剣のことなのではないかと思う。

龍脈を断ち切ることについては、「ニシキトベの復活」にくわしく書いたのだけれど、これはレイラインを封じ込める技と同じなので、ダウジングで地面からの波動エネルギーを読むことを知っていると、どこでどう封じ込められているのかを、精確に読み取ることができるのだ。磐座とは、地下から発している波動エネルギーを繋ぐアンテナのようなものなのだけれど、それを倒したり壊したり、封じたりすることで、波動エネルギーの流れを瞬時に変えることが可能だ。

筑波山といったら、古代には歌垣の場所として有名だったのだそうで、万葉集には筑波の歌垣の歌がたくさんあるのだそうだ。歌垣というのは、母系制だった縄文民族の婚姻習俗で、要するに男女が集まって、歌を詠み合って相手を探し、まぐわうというものだ。古代日本には、一夫一婦の結婚というものはなく、歌垣でそのたびに相手を探すというやり方だった。日本各地に歌垣を行っていた場所というのがあり、そういう場所は、だいたい第2チャクラが活性化するエネルギーがあるスポットになっている。今日では、縁結びの神さまだとか子宝を授かるとか言われる神社になっていることも多い。

筑波山が歌垣の場所として有名だったということは、古代にはこの一帯には大きな集落があり、人が集まる場所だったのだろう。そのあたりに大きな王朝があったという説もあるらしい。だとしたら、その支配力を抑えるために、鹿島と香取の2つの神宮が必要だったのかもしれない。

筑波山は、男体山と女体山の二峰がある山だから、男女和合のエネルギーなのだろう。それでまずは、男体山と女体山の両方が並んでいる角度の画像を使って、どんなエネルギーなのか遠隔アクセスしてみることにした。

すると、閉じ込められているような息苦しさを感じた人が多かった。本来は、四方八方に繋がっているはずのものが、そこだけに閉じ込められて、上だけに柱のようにエネルギーが出ているというような感じがした。男女がまぐわっているようなセクシュアルな感覚もあるのだけれど、それは繋がることの喜びそのもので、その中に浸っているのは安心感があって、身体が緩む感覚がある。男と女ではなくて、そもそも一つのものであり、一体なのだという感じがあった。その一方では、水のイメージが出てきていて、竜宮城の女神であるという豊玉姫のイメージが出てきた人もいた。もともと海上交易がさかんで、太平洋の航路が出ていたというようなイメージも出てきていた。

それで、筑波山は男女和合よりもむしろ航路を繋ぐ力なのではないかと思ったのだ。筑波山の南側には霞ヶ浦があって、それは太平洋に注いでいる。そもそも古代には、霞ヶ浦のあたりは海であり、筑波山はすぐ海に面していたのだそうだ。

その話を聞いて、ピーンとひらめくものがあった。熊野の海辺には、航路を繋いでいる龍脈があるんじゃないかと思えるようなところがある。海辺に巨大な柱のような岩があり、とてもパワフルな陽の波動を発しているのだけれど、それがどうも陸のどこかと繋がっているのではなくて、海の向こうの何かと繋がっているように思えるのだ。縄文の海人族たちは、簡単なカヌーのような舟で、太平洋中を航海していたという話がある。彼らはおそらく潮や風を読む力があったからこそなのだろうけれど、そのときに、意識の波動を海の向こうのある場所と繋いで、その繋がりに導かれて進んでいったのじゃないかと思った。沖からも見えるような何かの目印になるようなものが、その役を果たしていたのじゃないかと。

筑波山がすぐ海に面していたのであれば、この山の形が、海の向こうから渡ってくる目印になっただろう。それで、そうした目印になる場所のあちこちを繋ぐような、海の龍脈のようなものがあったのじゃないかと思った。鹿島と香取の2つの神宮が封じ込めているのは、実はこの海の龍脈だったのかもしれない。

それで、封じ込められる前の古代の筑波山のエネルギーにアクセスして、海の龍脈を繋ぐような力としての筑波山がどうなっていたのかを見てみることにした。それで今度は、男体山と女体山が並んでいる画像ではなくて、霞ヶ浦の方から撮った画像を使って、アクセスした。

すると、筑波から海路で日本中を巡っている人々の姿が見えた。出雲も熊野も、海路で行っていたように思えた。それどころか、台湾や上海、ロシアまで、同じ国の一部みたいに軽く行っていたイメージが見えた。あとで地図を見たら、九州から台湾へ行く間くらいのところに、上海がある。国境などというもののない古代には、人々は中国へでもロシアへでも、海を渡って同じように行っていたのだろう。

明治以降、日本は富国強兵で軍国化されて、中国やロシアと戦争することになったのだけれど、まさにそれによって、この海の龍脈は閉ざされてしまったのだ。隣の国は敵国であり、恐ろしい国だというイメージが植えつけられ、恐怖によってこの海の繋がりが閉ざされてしまったわけだ。

ところで、熊野から千葉へは、黒潮に乗って行くことができ、簡単な舟でも一週間ほどで着いてしまうという話がある。熊野にも千葉にも勝浦という地名があるけれど、それは、熊野の勝浦から千葉の勝浦へ黒潮に乗って行けたからなのだそうだ。その近くに補陀洛山寺というお寺があり、昔はそこから海の極楽へ行くといって、釘付けにした小舟に乗って沖へ出る補陀落渡海というのをやっていた。ところで、この舟が潮に乗って千葉や東北の浜に着いたり、沖縄まで着いたりしたことが実際にあったのだそうだ。この補陀落渡海というのは、もともとは生きながら成仏しようというようなものではなくて、熊野を脱出して新しい土地へ行こうとしてやっていたのだという説もあるらしい。縄文の海人族たちは、まさに補陀落渡海のように、簡単な舟に乗って、潮に流されながら、自在に移動していたのかもしれない。龍脈を繋いでその力を使うことを知っていた人々ならば、海の龍脈を繋いで、自在に移動することもできたのかもしれない。

それで、筑波山のもともとのエネルギーを解放してみることにした。やはり霞ヶ浦から見た筑波山の画像を使って、山の中、地下の方に意識を向け、そこに封じ込められている存在に表に出てきてもらうことにした。

すると、豊玉姫のような感じの女神の巨大な姿が山から出てきたと思ったら、筑波から環太平洋をグルグルまわるように無数の龍が泳ぎ始めたのだ。彼らはやっと解放されて大喜びといった風で、ものすごい勢いでグルグル回って、やめようともしない。太平洋がグルグルとまるで洗濯機みたいに回っていた。こんな風な盛んな航海がかつて縄文の時代には行われていたのだろうか。海の龍脈が機能していた時代ならば、こんなことも誰でもできるような簡単なことだったのかもしれない。

「どこへ行っても守られる。どこへ行っても支えられる」とその巨大な海の女神は言っていた。どこへ行っても守られるのだという信頼こそは、外へ出ていく力なのだろう。海に出れば海に守られ、陸に上がれば大地に守られる。だから、人はどこへでも出ていくことができる。そうした信頼を持って、古代の人々はどこへでも渡っていったのだ。そして、どこへ行っても調和していったのだ。

日本人は、島国根性といって、閉鎖的で国際的な感覚がないというようなことがよく言われるけれど、実はこの縄文の交流の力を民族の血の中に持っているのだと、海の女神は言っていた。実際、世界中どこに行っても、日本人は必ずいるのだそうで、それぞれに何となく土地になじんで生きていたりする。それこそは、かつて太平洋中を自分の庭のように巡っていた縄文民族の血なのだ。どこへ行っても、守られていく信頼を持ち、調和を作り出す天才なのだと。

その力を自分の中に感じたとき、日本が明治以降これほどまでに抑え込まれてきたのは、実は日本人のこの調和を作り出してしまう能力のせいだったのかと思えてくる。今、ロシアが世界の多極化の力の中心になっているのと同様に、日本は環太平洋の多極的な調和を作り出す中心になる力を持っているのかもしれない。ロシアは、多極的な調和を作り出す力を持っていたがゆえに、この200年ほど世界の一極支配を目指す金融資本家の勢力にさんざん敵対視されてきたのだ。そして日本は、かつての海洋民族としての力を思い出すことができれば、環太平洋を、つまり東南アジア、オーストラリア、ニュージーランド、中南米、アメリカ、ロシアで多極的な調和を作り出す力の中心になってしまうのかもしれない。

日本の海岸線に原発が立ち並んでいるのは、実はまさにこの力を封じ込めるためだったのかもしれない。原発があれば、攻撃されたら核攻撃を受けるのと同じことになるのだから、原発を作らせるということは、人質に取られたのと同じようなことなのだ。福島の原発事故も、人工地震で狙われたのだと言われているし、今ウクライナのザポリージャ原発をキエフ政権が脅しに使っているさまを見ると、原発を作らせるということは、脅しが利く国になるようなものだと思う。そして、まさにその恐怖のエネルギーによって、多民族で交流し調和を作り出す力を封じ込めることができてしまうのだ。

しかし、筑波山の太平洋の龍が起きたら、そんな恐怖の力も跳ね返すような信頼の力が湧き上がってきて、日本は外に出ていけるのじゃないかという気がした。脅されてビクビクするのではなく、脅しが利かない国になってしまうのかもしれないという気がした。


筑波山 男体山と女体山が見える角度から撮った画像
霞ヶ浦から見た筑波山

2023年7月7日



【月山と月のエネルギー】



出羽三山の封印解きは、前から何度も話が出ていたのだけれど、なかなか手がつけられなかった場所だった。まちがいなく日本列島全体にとって重要な聖地なのだけれど、何だか暗ったいイメージが強くて、そのエネルギーに触る気になかなかなれなかった。裏日本というジメジメしたイメージがあるだけではなく、出羽三山のあたりには即身仏みたいな強烈に死のにおいがする伝統もある。有名な森敦の小説「月山」にも、即身仏の話が出てくるけれど、冬の間、雪に閉ざされる山里での鬱屈するような物語だ。

筑波山の龍を解放したとき、熊野の補陀洛山寺から補陀落渡海の舟が筑波のあたりに漂着していたという話が出てきた。補陀落渡海とは、生きたまま極楽浄土に行く修行ではなくて、実は修行と見せかけた逃避行だったというのだ。実際、縄文の海人族たちは、潮を読み、風と話すことで、簡単な舟で太平洋中どこへでも行っていたらしい。そうした海との繋がりがあるならば、釘で打ちつけられたような小舟に乗ってでも、ちゃんと目的地に着いたのかもしれない。潮を読み、海流に乗ることを知っていたら、一週間ほどで熊野から千葉へ着くという。

聖徳太子の時代に、崇峻天皇が勢力争いのために暗殺されたとき、その息子の蜂子皇子を聖徳太子が舟に乗せて逃したという話がある。蜂子皇子は丹後から舟に乗って鶴岡の浜に着き、羽黒三山を開いたと言われている。とすると、補陀落渡海というものも、自ら命を落とさなければ極楽に行けないというようなペシミスティックなものではなくて、生まれ変わって生き延びるための大冒険だったとも考えられる。そうなると、日本海という場所も、イメージが裏表逆転してしまう。

月山の封印解きは、結論を先に言うならば、まさにそうしたものだった。まるで裏と表が引っくり返るように、まったく明るいものに変わってしまったのだ。

月山という山は、観光客気分でも行けてしまうような山である一方、エネルギーに敏感な人は、クラクラしてしまって登れないことがよくあるのだという。私の父方の実家は鶴岡だったので、月山には子供の頃に行ったことがあるけれど、登山口に入っていくらも行かないうちに、頭がクラクラしてきて、気分が悪くなって、山を降りた記憶がある。まるで飛行機酔いするときのような、上も下もわからなくなる感覚で、似たような感覚は、熊野の玉置山でも感じたことがある。ああいう風に頭がクラクラするようにエネルギーがうず巻いているのは、まず強烈な封印がある場所だ。月山の封印解きをしようというので、ネットから画像を探してきて見ていたときも、子供の頃感じた、あの同じ感覚がした。だから、あれはやはり山の磁場のせいだったのだろう。

強い封印がかかっている場所は、だいたい残虐な記憶がそこに隠されているので、意識でアクセスしてそれに触れるのは、危険なこともある。それで、月山はいきなり封印がかけられる前の時代の、もともとのエネルギーにアクセスして、それを解放しようということになった。遠隔リーディングをやってみたことがある人ならわかると思うけれど、意識の領域には時間や空間の距離はまったく関係がない。どこへでも、いつの時代へでも、ただ意識を向けるだけで、自在にアクセスすることができるのだ。それで、封印された時の時代、その後の時代の月山を避けて、山のエネルギーが完全に生きていたときの月山にアクセスした。

月山は、山頂の月山神社に月読命(つきよみのみこと)が祀られるのだそうで、やはり月と関係があるらしい。月とは、海の潮を作り、海流を作る力でもあり、航海する人たちは、月を読み、潮を読んで、海を渡っていくのだ。月山神社は、航海安全と漁業の神さまなのだそうで、だからやはり海なのだ。月と海のダイナミズム。それが月山のエネルギーらしい。

瞑想のあとで、参加者のオーラが変わったのがわかる。何だか首が長くなったように見えているのは、喉のチャクラが開いたからなのかもしれない。それと、額のあたりのオーラが強くなっているから、頭頂とサードアイのあたりだ。そして何より、何だかまるで海で泳いできたみたいなさっぱりした感じの顔つきになっている。ガブリエルとアクセスしたときにも、よくこういう感じにオーラが変わっている。ガブリエルも、海や月、女性性のエネルギーだ。そのことからして、月山のエネルギーは、それと似たものらしい。

喉のチャクラと頭頂が開くのは、石舞台のような磐座(いわくら)でもそうで、そういうところでは、かつて巫女たちが天からのエネルギーを受け取って、歌や踊りで表現していた。そして、それが神楽の原型になったのだ。月山とアクセスしたときも、女性たちが歌ったり踊ったりして、山のエネルギー、海のエネルギーを繋いでいるというようなイメージが出てきていた。蜂子皇子が月山のあたりの浜、鶴岡の由良浜に漂着したとき、白山島の近くの浦で、乙女たちが神楽を舞っていたという話がある。その姿が美しいので、その浦に降りたというのだけれど、あれがイメージに出てきた女性たちなのかもしれない。そもそも彼女たちは、たまたまそこで神楽を舞っていたのではなくて、舟が漂ってきているのを感じ取って、無事に着けるようにと、呪術の踊りを舞っていたのじゃないかと思った。そう思ったとき、彼女たちの思いと通じたのか、その感情がとつぜん湧き上がってくるようにやってきたような気がした。

久高島の神女(かみんちゅ)たちも、船で出ていく男たちを浜から祈りで守っている。蜂子皇子が見たという神楽を舞う乙女たちは、本当はそうした神女たちで、彼女たちは海を行く船をすべて感じ取るような感性を持っていたのかもしれない。そして、蜂子皇子が船でやってくるのも、ちゃんと事前に感じ取っていて、その船が無事に浜に着くようにと、祈っていたのかもしれない。そうした力を、月山は人々に与えていたのだ。そして、まさにそのことが、これまで忘れられてきた。そのとき、その女性たちの、忘れられていたことの無念の思いと、思い出してもらえてうれしいという歓びの感情とが、同時に襲ってくるような気がした。

山の中に、子供のような小さな存在がたくさん潜んでいるようだったと言っていた人が何人かいた。月山は過去の山だと言われるそうなのだけれど、それはあるいは、この山の力が過去に使われていて、でも今は使われていないからなのかもしれない。だとしたら、山に潜んでいる小さな存在とは、かつて使われていて、生き生きしていたいろいろな力なのだろう。それは、山と山とを繋ぐ力というのと、海を繋ぐ力というのが両方あるようだった。

縄文の山人族たちは、山から山へと、飛ぶように駆けていくことができたという話がある。実際、古くからあった山道は、ある種の龍脈が通っているところが多くて、そういうところでは、誰でも軽々と進んでいくことができるのだ。この力と同調して進んでいくことを知っていたら、本当に山から山からへとまるで飛ぶような速度で駆けていくことができたのかもしれない。出羽三山は、修験道の峰入り修行をする行場でもあるけれど、峰入り修行のもともとの形は、縄文の山人族たちの山を駆けていく技だったのだと思う。

そうした力は、かつては使われてきたけれど、あるときから不要なものとされて、使われなくなっていたのだ。浜から浜へと海を渡っている力、山から山へと駆けていく力。そうした繋がりの力は、征服者たちにとっては、不要なものだったのかもしれない。潮を読み、海を自在に渡っていくことができた縄文の海人族たちは、神武の軍船と戦って、上陸を阻んだ。その海人族の流れを引き継ぐ熊野水軍は、非常に強かったので、源平合戦のときには、熊野水軍がどちらに着くかで、勝敗が決まった。結果は、源氏が熊野水軍を抱き込んで、壇ノ浦の戦いで勝利した。潮を精確に読み、潮の勢いに乗って攻め込んでいく戦法は、縄文の海人族たちの潮を読む力があってこそのものだったろう。そうした力を持つ民族は、征服者にとっては、封じ込めるか抱き込むかのどちらかしかない。それで、月山はそうした力を封じ込められてしまったのかもしれない。

それで今度は、月山に潜んでいる存在たち、使われなくなって忘れられていた力に、これからの時代に必要なのだから出てきてくださいとお願いしてみることにした。そうやって、かつて生きていた力を解放してみることにした。

すると、山や海が繋がる龍脈が生きてくるのかと思ったら、山が月と光の柱で繋がったのだ。やはり月だったらしい。月と繋がれば、海はどこに行っても守られていくのだというようなことだった。実際、船で行く人は、どこにいようが月を見て潮を読む。そして、日本海の向こう側の山まで月の光で繋がるイメージが現れた。日本海の対岸、北朝鮮と中国の国境のところには、白頭山(はくとうさん)という山があり、そこは能登の白山の元宮だと言われているそうだ。その山だったのかもしれない。とにかく、日本海を取り巻くところにある山が、やはり月と光の柱で繋がって、月を通して月山と繋がっていった。

この力で、縄文の人々は、日本海中をどこへでも渡っていたのだろうか? 日本海の向こうには、ロシアがあり、朝鮮半島がある。秋田の人たちは、日本人としてはあり得ないくらい肌が白いので、秋田美人と言われているけれど、それはロシアの血が混じっているからなのだという説もあるらしい。私の父の家系は鶴岡の出身なのだけれど、父の兄弟たちは、ほとんど全員、明らかに朝鮮半島の系統と思える、アゴの張った顔立ちをしている。日本海をはさんで鶴岡の対岸は、朝鮮なのだ。海を自在に渡っていた縄文の海人族たちにとっては、朝鮮もロシアも中国も日本も、同じ兄弟のようなものだったのかもしれない。海を渡っていく人たちがいて、いつもいろいろな民族がやってきて、いろいろな物産がやってきて、月山と日本海の間にある庄内平野は、とても国際的で豊かな場所だったように見えた。

多くの人は、とても生き生きした人々の様子を見たり、踊ったり歌ったりしている女性たちの姿を見たりしていた。東北というイメージとはまったく裏腹の、とても明るいにぎやかな光景が見えたと言っていた。

それで最後に、月のエネルギーを月山と繋いで、日本海沿いの他の山とも繋いでみることにした。すると今度は、パワフルに第2チャクラが活性化するエネルギーを感じた。山全体が巨大な女神のように思え、その女神は妊娠しているようだった。山の巨大な子宮に、女神は子を孕んでいる。「どんな子でも宿しましたのよ」と女神の声が繰り返し聞こえてくる。どんな子でも、というのは、海を渡ってやってくるどんな民族の子も、ということらしい。この日本海を渡ってくるすべての民族と、月山の女神は交わって子をなしていった。だから、日本海中のすべての人々が、月山の女神にとっては自分の子だというのだ。

久高島の神女たちは、まさにこうした第2チャクラのエネルギーで、海に出る男たちを守るのだ。久高島では、結婚して子供を産んだ主婦が、神女になるのだけれど、それは母親が子供に持つ無条件の愛を知っているからなのだと思う。それによって神女たちは、祖霊と繋がって、祖霊たちが子孫を愛する無条件の愛の力に共振して、守ってもらうのだ。月山の女神にとって、海に出る人々は誰でも自分の子だというのは、そのことを思い出させる。おそらく月山を祀っていた女性たちは、久高島の神女たちと同じように、第2チャクラの力で月山の女神と繋がり、祖霊と繋がって、山を駆ける男たち、海を渡る男たちを守っていたのだろう。

これはまさに、今世界で起こっている多極化への変化と同調しているようだ。征服支配がなくなり、それぞれの民族がそれぞれに自立して生きていくとき、たがいに対等に接して、それぞれのあり方を尊重することが自然にできるようになっていく。その力を支えているのは、まさにこの第2チャクラのエネルギー、月のエネルギーなのだ。太陽を中心にめぐる陽のエネルギーは、何かを実現し、達成することへと向かっていくけれど、月を中心にめぐる陰のエネルギーは、たがいに愛し合い、共生しようとする。まさにそれが、これまで長いこと忘れられてきた力だったのだろう。どんな民族も、月山の女神の子なのであれば、ロシア人も朝鮮人も中国人も日本人も、皆兄弟なのだ。かつては兄弟として愛し合っていた民族が、支配のために分裂して、憎み合うようになってしまった。そのことに、深い哀しみの念を感じた。まさにこの憎み合いこそが、月山の力を過去のものにしてしまったのだろう。

そのとき、ひょっとして白頭山も開いたのではないかという気がしたので、前にアクセスしようとして使った画像を出してみたら、あのときはエネルギーがドヨンと重くて、とても触れる気がしなかったのに、見違えるように軽く明るくなっていた。月山が開いたら、同時に白頭山も開いたらしい。それでいよいよ、白頭山にアクセスするときが来たのだと思った。日本海は、日本と隣国を繋いでいる海なのだから、日本の多極化へのシフトは、日本海にかかっているのだろう。そのカギが、月山で開いたかのようだった。


日本海側から見た月山


由良浜の白山島


北朝鮮と中国の間にある白頭山


白頭山の位置と日本海


2023年7月28日


***


【マトリックスの壁を越えていく ー 白頭山】



白頭山の封印解きセッションをやっていたときに、白頭山の真ん中を分断するように赤いガラスの壁のようなものが見えたと言っていた人がいた。その赤い壁は、しかしホログラムのようになっていて、通り抜けていくことができる。だけど、その壁があることによって、ほとんどの人はその向こうへ行ってみようとはしない。向こうへ抜けると、異次元空間が開けているのかもしれない。まったく違う世界に入ってしまうのかもしれない。それが恐いからなのか、誰も通り抜けていこうとはしないようだと言っていた。

イメージワークで出てくるこういうイメージは、集合意識の中に入り込んでいる封印なのだと思う。この赤い壁というのは、何を表しているのだろう? 赤い壁といったら、共産主義国のことのように思える。中国もソ連も、国旗は赤だった。そのイメージなのかもしれない。

白頭山は、北朝鮮と中国の国境のところにある。満州国があったときには、朝鮮半島は日本の領土になっていて、その向こうは満州国だった。そして満州国は、明治維新以降、軍国化していた日本が、ソ連と中国と戦争して勝った結果、獲得した広大な土地で、1930年代から中国やソ連との間で何度も紛争があった。満州国は共産主義から防衛するために重要なのだと日本は言っていて、紛争は中国やソ連が満州国の領土を取り返そうとして侵攻してきたから起こったのだと言っている。けれど、中国やソ連は、満州国の軍隊が国境警備の軍隊を攻撃してきたから、侵攻されないよう撃退したのだと言っている。どちらが正しいのかについては、未だに国同士の間で合意がない。白頭山のある土地は、共産主義圏との戦いがつねにあった場所であり、今でも事実がはっきりとされていなくて、そのために分断を作り出し続けている場所でもある、ということになる。

ロスチャイルド家のある女性が、近代の戦争はすべて、ロスチャイルド家がしかけていなかったら起きていなかった、と死ぬ前に告白したという話がある。実際、ロスチャイルド家があちこちへお金を動かすことによって、戦争がしかけられていっていたらしい。人間は、必要がなければ戦争などはしたくはないものなのだ。いくらそれで国が豊かになるからといって、国の若い子たちの命を犠牲にして、他の国に侵略しようなどとは思わない。だから、戦争をさせるには、その必要があるかのように思い込ませなければならないということになる。

そのために、どこの国は残虐で恐ろしい国だというような話が、まことしやかに語られるのだ。戦争はつねに、「XXの脅威」から国を守るためだとして、起こされる。それがイスラム教であれ、共産主義であれ、だ。イスラム教徒や共産主義者だからといって、残虐だということにはならないはずなのだけれど、残虐なことを平気でやる人々なのだという印象が、でっち上げられた事件やら衝撃的な画像やらで、繰り返し作り出されていく。ロスチャイルド家は、そうした心理操作を行うプロだった。彼らはそのために、巨額の資金を投じていたらしい。

戦争を作り出すためには、911のような大掛かりなテロが自作自演されることさえある。あるいは、ある国は危険な生物兵器や化学兵器を所有していて、使うつもりがあるという話が語られたり、そういう証拠が見つかったという話が作られたりする。人々が恐怖に震えて、防衛が必要だと思い込むようにするためには、どんな手でも使われてきたのだ。

20世紀に入ってからは、共産主義が脅威であるとして、戦争へ煽るために使われてきた。石油がエネルギー源として重要になると、今度はイスラム教が脅威だと言われるようになった。それで実際に、テロリストを送り込んで、残虐行為を行わせたりもしていた。アラブ諸国は、そうしたテロリストたちから国を守るために、軍隊を動かすことになるのだけれど、すると、独裁的な政府が国民を武力で弾圧していると報道して、イスラムの国は恐ろしいという印象を染みつけるわけだ。まったく同じ事が、中国でもロシアでも行われていた。それが、イスラム教徒は恐ろしい、共産国は脅威だ、という集合意識的な壁を作り出していった。

恐怖のイメージによって意識の壁を作るのは、昔から聖地を封印するのにも、よく使われてきた手法だ。人々を支配するために、征服者たちは、彼らが力を得ている源になっている聖地を封印する。そのときに、聖地でわざと残虐なことをしたりしたのだ。それによって、その場所に恐ろしい記憶をしみつけてしまう。そうすると、それまで聖地と繋がりを持っていた人たちは、残虐と敗北の記憶のために、繋がりを持つことができなくなってしまう。まるで、ホログラムがそこにあって、残虐なイメージを映し出し続けているかのようにだ。それによって、人々はその壁を通り抜けていくことができなくなってしまう。

白頭山を分断している赤い壁のイメージとは、白頭山の本当のエネルギーが、共産主義の脅威というイメージによって、封じ込められているということなのかもしれない。それなら、その壁を越えていくならば、本当の白頭山のエネルギーに繋がることができるのかもしれない。

白頭山は、日本の白山信仰の元宮だと言われているのだそうで、確かに白山のエネルギーとも共通したものがある。白山はククリヒメだと言われていて、つまり繋がりを作る力、分断を解消して、調和を作り出す力だということになるかもしれない。意識の壁を越えて、白頭山のエネルギーにアクセスして読み取ってみると、まさにそうしたエネルギーがあった。そこにあったのは、争いというものがそもそも存在しないような世界のイメージだったのだ。いろいろな民族の人々が、皆白い服を着て、手を繋いで大きな円を描いていた。モンゴル風の服の人もいれば、チマチョゴリの人もいて、中国の服の人、着物の人もいた。白頭山も白山も、白い光のイメージがあるけれど、その白なのだ。服が本当に白いわけではなくて、白頭山の白いエネルギーのために、白く見えていたらしい。

それは、その次元では、すべての人は潔白だという意味での白だった。「すべての罪は赦される」というのが、瀬織津姫の浄化の力だというけれど、白頭山のエネルギーは、まさにそれだった。その力によって、すべての罪が赦されるから、これまでの歴史で争い、罪を犯し合ってきた人々が、手を繋ぐことができる。それは、すべてが無条件の愛でしかなくなる6次元の世界なのだろう。

昨年2月に始まったウクライナの戦争では、ロシア軍が残虐行為を行っているという報道が、ウクライナと西側諸国ではさかんに流されていた。ウクライナとロシアはもともととても仲のいい国で、人々も互いに姉妹のように感じていた。それなのに、残虐行為の報道が毎日のように流されているうち、ウクライナの人々は本当にロシアが恐ろしい国だと思い込んでしまったのだ。そして、ありとあるロシア的なものを憎み始め、ロシア人に対して、平気で残虐なことをするようになっていった。隣の国は残虐で恐ろしい国だというイメージが、まるでホログラムの壁のように、ウクライナとロシアとを分断してしまったのだ。

ちょうど白頭山の封印解きセッションを行った翌日に、ロシアにいるウクライナ女性が、ウクライナの人々へ動画でメッセージを伝えているのが、テレグラムで拡散されていた。ロシアにあるウクライナのカフェに彼女は座っていて、そのカフェでウクライナ語の音楽が流れていて、ウクライナの食べ物があるのを見せていた。ここでは、ウクライナ語で注文しても、誰も変な顔をしないし、ウクライナ人だからといって差別する人は誰もいない、と彼女は言っている。現実のロシアは、ウクライナで信じられているような国とはまったく違うのだと。そのことを黙っていられなくなって、動画メッセージを送ることにしたのだと言っている。ウクライナでは、ロシアのものを何でも憎んでいるけれど、ロシアはそんなところではないのだと。だから目を覚まして、平和を求めて欲しいと、涙ぐみながら訴えていた。

それはまるで、マトリックスの外側からのメッセージのようだった。ウクライナでは、ロシアは恐ろしい国で、ウクライナ人は迫害されるという幻想が絶えず見せられていて、そのために人々はロシアに対して攻撃的な反応しかできなくなっている。映画「マトリックス」で、現実に存在していないものを意識に送り込まれて、それを信じているようにだ。このウクライナ女性の動画は、マトリックスの壁の向こうからのメッセージそのものだ。マトリックスの世界が現実だと思い込んでいる人たちには、それは存在しない虚構の世界のようにしか思えないだろう。しかし、マトリックスの存在に気づくことができる人たちは、そこからマトリックスの外が存在することを知るだろう。

私たち日本人もまた、これと同様なマトリックスの壁を、集合意識の中に作られてきたのだ。ロシアや中国が恐ろしい残虐な国だという意識が、繰り返し植えつけられてきた。そうやってできた壁が、意識のイメージの中で、白頭山を分断する赤いホログラムの壁として現れていたようだ。

意識のイメージの中に赤い壁として見えているマトリックスの外へ、その壁を通り抜けて出て行ってみると、そこにあったのは、まるで6次元の世界に移動したかのような、争いを越えた世界だった。そこでは、争いというものがそもそも必要がないのだ。十分に場所があり、誰もが大地に宇宙に守られて生きているのならば、どうして他人から奪う必要があるだろう? 3−4次元の意識では、現実は直線的な時間軸としてしか見えていないので、つねに競争相手とぶつかり、争っていなければならないように思えている。だから、絶えずまわりを見て、出し抜かれないようにしていなければならないように思えている。その意識状態で生きている人々を、たがいに戦わせることなど、まったく容易なことだった。相手が攻撃している、出し抜こうとしている、と思わせればいい。そして私たちは、その罠にまんまと引っかかって、あれやこれやを脅威だと思い込んで、恐怖を感じたり、憎悪したり、攻撃的になったりしてきたのだ。

赤い壁を通り抜けて出ていったときに見えたものは、まるでそれまで直線としてしか思えていなかったものが、平面に広がったかのような世界だった。何も争う必要などなかった。すべては十分に与えられていた。そしてこのことを、私たちは心の奥ではつねに知っていたことを、思い出したかのようだった。力の源から切り離され、恐怖を植えつけられたために、マトリックスの壁が越えられなくなっていただけだった。心の奥では、誰でもこの次元を知っていて、だから、その次元の意識では、誰とでも手を繋ぐことができるのだ。白頭山の封印の向こうにあったものは、その次元の記憶だった。

2023年8月16日



白頭山のカルデラ湖


「風の谷のナウシカ」の腐海の中の場面

これは、昨年8月に出た動画で、西側のプロパガンダを信じて、ロシアがウクライナに侵略していると思い込み、モスクワで反戦運動やっていたロシアの英語通訳者マーシャさんが、アメリカのジャーナリストに誘われて、通訳としてドンバスに行ったあと、ドンバスの真実を語っているインタビューです。10日間のドンバスの旅で、マーシャさんは事実がまったく逆だったことを知って、自己崩壊起こすほどのショックを受けながら、それを受け入れていったプロセスを語っています。

まさに、マトリックスの壁を越えていった体験です。

元の英語版の動画は削除されてしまったんですが、日本語字幕付きのこの動画はまだ残っていました。

前半だけですが、日本語字幕付きで見られます。

ウクライナ女性のウクライナの人々への動画メッセージ。これも、マトリックスの向こうからのメッセージです。

***

【お金とは愛であり、循環である ー お札のエネルギーの転換】


「お金とは愛であり、循環である」ということはよく言われることだけれど、このことを現実的な意味で感じ、理解するのは、なかなかできないものだ。8月23日に行われた世界を変える魔法セッションのテーマは、お金のエネルギーを転換するというものだったのだけれど、3時間近くかかったセッションの最後には、まさにそうしたお金のエネルギーを、皆が感じ、共有することができた。そしてその感覚を、集合意識に送ったのだ。

そもそもこの魔法セッションを企画したのは、来年から導入されるという日本の新札が、あまりにもひどいエネルギーを放っていたからだった。いったいどうしてこんな安っぽい、気色の悪いデザインにしたのだかわからない。おそらくは、日本の経済に悪い影響を与えようというような、外からの操作によるものなのだろうけれど、こんなデザインのお札を使っていたら、精神的にも落ち込みそうだし、経済的にも盛り上がりそうな様子ではない。

米ドル札に悪魔主義的なシンボルが入れ込んであるというのは、有名な話だけれど、これはシンボルを見なくても、意識上でアクセスして、エネルギー的に読み取ることができる。米ドルにかぎらず、日本円でもユーロでも、お札のエネルギーは重いねっとりしたものがあって、それが人を依存状態にしてしまうようだ。お金とは、人に豊かさを与えるものであるはずなのだけれど、その豊かさが虚像でしかないのだ。本当の豊かさではない。本当の満足が与えられないまま、虚像ばかりを与えられていると、人は依存状態になってしまう。満足感を感じようとして、果てしなく得ようとする。しかし、得れば得るほど、飢餓感は増してくる。それが依存状態を作り出すわけだけれど、お金にはまさにそうしたエネルギーが入っているのだ。

今に始まったことではないけれど、人はお金に支配されてしまう。2020年に奇妙なパンデミックが始まってから、そのことをつくづくと感じている。お金がもらえるとなると、多くの人は悪いことでもしてしまうのだ。目の前で人が倒れているのに、それでも薬を与えるのをやめようとしなかった。月々百万円以上とかのお金が入るとなると、人はそんなことでも目をつぶってやってしまう。医療関係者も、ジャーナリストも、政治家も警察や裁判官も、お金がもらえるからとか、あるいはお金がもらえなくなるからというので、世の中が悪くなり、人々が不幸になるようなことを一緒になってやってしまうのだ。私たちがお金に支配されないようにならないかぎり、この世界は人々が自然に幸福に生きていけるようなところにはならないだろう。

それで、いいエネルギーをしたお札はあるのかとあれこれ探していたら、これがあった。それは2017年に作られたロシアの2000ルーブル札だった。他のお札の重いエネルギーに比べると、いったいこんなお札があるのかとびっくりするくらいに軽く清々しいエネルギーだ。米ドルや日本円やユーロ札と比べて何が違うかと言ったら、幻想を与えていないのだ。豊かさの虚構を与えていない。お金自体に豊かさがあるわけではない。お札は紙切れにすぎないのだ。そんなものをいくら貯め込んだって、豊かになどならない。だけど、持っているお金が増えれば増えるほど、私たちは豊かになったと勘違いしてしまう。まさにその点が、お金に依存状態になってしまう点なのだ。ところが、ロシアの2000ルーブル札には、そういういかにも価値がありそうな幻想を与えているところがまったくない。お金とは、循環するものだ。それだけの価値のあるものと交換することができる証書のようなものでしかない。まさにそのことを、2000ルーブル札は、そのままの真実として示しているような潔さがある。

そもそもお金とは、何だろう? 1930年代の金融恐慌のときに、オーストリアのヴェルグルという街で、地域通貨を発行して、地域経済を循環させて、経済崩壊を防いだことがある。町役場で公共事業として、建物の改修などの仕事を作り、それを街で発行した紙幣で支払った。その紙幣を街で使えるようにして、店で何でも交換できるようにした。ヴェルグルの紙幣は、つまりその人が仕事をしたという証明書なのだ。皆のために仕事をしたのだから、必要なものを得ることができるということを街が保証する証明書だ。それでヴェルグルでは、金融恐慌でも経済がまわり続け、人々は貧困に陥ることもなく、暮らしていくことができた。

お金とは、つまるところ人のために仕事をするということなのだ。皆が人のために仕事をして、それが交換されるから、社会全体が豊かになっていく。お金とは、本来こうした循環を作り出すためのものだ。それがもし機能していれば、今日これだけ生産性が上がった世の中では、一人一人がそれほど働かなくても、皆が豊かに幸せに暮らしていけるような社会が作り出せるはずなのだ。しかし、今日のお金のシステムでは、そうはならないようになっている。お金は、人を依存状態にさせて、言うなりに操作するために使われている。だから、皆が豊かに幸せになるために仕事をするのではなく、富が搾取されて、人々が支配されるように、多くの人たちが働くというようなことになっている。豊かさを産み出す循環を作り出すのではなく、搾取するためのものになっている。それが、お札のエネルギーの中にすでに仕込まれていたのだ。

それで、お金のエネルギーを転換するために、まずは皆でロシアの2000ルーブル札の画像からエネルギーを感じ取ってみた。オンラインでこういうセッションをやっていても、参加者の表情が同じような変わり方をするので、やはり皆が同じエネルギーを感じ取ったのがわかる。そして、それがどういうエネルギーなのかもだ。ルーブル札のエネルギーを感じ取ったあとの参加者の表情は、実に清々しかった。いったいお金でこんな風に清々しくなるなんていうことがあるものなのかと思うくらいの清々しさだ。世界がどこまでも広がっていて、自由に解放されている感覚、どこまで行っても繋がりに支えられているという感覚、その安心感、そうしたエネルギーだった。

ルーブル札は、それを持っている人が皆のために仕事をしたということを示している。皆のために仕事をしたのだから、支えられるべきだ。そのことを、このお札は保証してくれているのだ。だから、それは自分がした仕事に対する誇りでもあり、与えた愛であり、だから受け取ることができる愛だと言える。まさにその愛の交換、愛の循環なのだ。その愛の循環に支えられているという安心感。それがどこまで行っても続いていて、どこに行っても支えられるのだという自由と解放の感覚になっている。

まさにお金とは、小さな共同体を越えて、世界中どこへ行っても、そういう相互的な助け合いに支えられていくことを保証するためのものだ。そうした愛の循環、豊かさの循環が、普遍的になるためのツールとして、お金というものは作られた。2000ルーブル札のエネルギーの中に、その愛と豊かさの循環としてのお金のエネルギーのすべてが入っていたのだ。

エネルギーを感じるときには、身体のどのあたりにどういう感覚がするのかを感じてもらうことにしている。そうすると、そのエネルギーがどのチャクラにどのような作用があるのかがわかるのだ。2000ルーブル札のエネルギーは、第2チャクラのあたりにどっしりした安心感を感じる。と同時に、ハートチャクラ、松果体のあたりも活性化する感じがある。

第2チャクラは、人と人との繋がりで支えられるという信頼のエネルギーなのだ。お稲荷さんのエネルギーなども、第2チャクラなのだけれど、お稲荷さんに商売繁盛のご利益があると言われるのも、実はそのためだ。商売とは本来、人と人との繋がりで成り立っていき、栄えていくものだからだ。正直にいい仕事をすれば、お客さんもついて、喜ばれるようになる。江戸時代の商売人は、お稲荷さんを大事にしていて、人間関係を大事にしていた。ともかくも、その頃までは、愛で循環する経済というものが成り立っていたのだ。それが壊されていったのは、明治以降に搾取的な経済が始まってからだ。しかし、ルーブル札には、第2チャクラが愛され支えられる安心感に満たされるようなエネルギーがあるということになる。

お金のやり取りが愛のやり取りであるなら、人は自分が好きなことで人を助けることに喜びを感じて働くことになる。働くことそのものが、愛なのだ。それを与えるから、喜ばれて、愛を受け取ることになる。仕事をすることも商売をすることも、お金をやり取りすることのすべてが愛の循環だ。それは、私たちがこれまで生きてきた経済とは、まるで正反対の世界のようだ。

第2チャクラと同時に、ハートチャクラのあたりに愛の感覚を感じた人もいたけれど、これは無限の愛に満たされている感覚だ。そして、その無限の愛が、どこまで行っても繋がっている。それと同時に、サードアイか松果体のあたりが開くような感覚を感じた人もいた。それは、自分が気高い人間であるというような感覚、感動、そうしたものだった。仕事をすることが愛なのであれば、人のためにそうした仕事をする自分は、気高い人間だと思うことができる。そのような、自分を自然に肯定できるような感覚であり、愛の中にいる感覚だ。

このルーブル札のようなエネルギーがお金に入っていれば、経済は愛の循環になるのだろう。それで、このエネルギーをお札の中に入れてみることにした。しかしこれは、人の意識の問題だから、お札ではなくて、このエネルギーを人の中に入れたらいいのかもしれない。第2チャクラなのかハートチャクラなのか、とにかく入るところに集合意識的に入れてみることにした。人の中に入れ、使われているお札に入れる。銀行を丸ごとそのエネルギーで満たす。とにかくそれぞれに、なるようにやってみることにした。

ルーブル札のエネルギーを人の中に入れてみると、やはり第2チャクラのあたりに入っていくようだった。それで愛に満たされたようになって、白い光のエネルギーで浄化されているように見えた。ティンカーベルの星の光みたいなものが出てきて、お札がパッと燃えて、浄化されたきれいなエネルギーの新しいお札が生まれたと言っていた人もいた。一度パッと燃えて、それで重いエネルギーが浄化され、きれいになる。おそらくその白い光、炎のような光が、搾取経済の中で忘れられていた愛のエネルギーなのだろう。まさにこの循環する愛から切り離されてしまったために、私たちは支えられず愛されない感覚を絶えず持ち、いつもお金を貯め込んでいないと安心できないようになってしまったのだろう。

ルーブル札のエネルギーをお札や人に入れるのをやってみると、皆の表情が何だか神々しくなっていて、特に額のあたりがオーラが強くなって光り始めていた。働くことで与える愛、受け取る愛に満たされることこそが、私たちの内なる神性なのだ。それは、そのことを示しているようだった。

最後に、白山の元宮であると言われている中国と北朝鮮の国境のところにある白頭山のカルデラ湖の画像から白頭山のエネルギーを受け取って、それを光の玉にして、それで地球全体を包んだ。白頭山のエネルギーは、8月11日に封印解きセッションで開けたのだけれど、これはまさに6次元の愛の世界だった。3−4次元の意識で生きている私たちは、現実を直線軸で考えて反応しているので、いつもどちらが高いのか、どちらがいいのか、と争っているわけなのだけれど、これが6次元になると、直線ではなくて空間的になる。そうすると、どちらがどうということもなく、それぞれに十分に場所があり、それぞれの場所を占めているだけなので、争いというものがそもそも必要なくなるのだ。だから、それぞれのあり方を尊重して、愛で繋がるということができる。6次元以上になると、世界は愛しかなくなるのだ。それで、白頭山のエネルギーを地球全体に送って、地球を愛の循環の世界にしてしまうことにした。

このセッションで、これまでいくらやっても外れなかったお金のブロックが、簡単に外れてしまったと言っていた人がいた。お金は愛であり循環だといくら思おうとしても、お金のエネルギーが搾取的なものであったら、そんなものを愛することなど、やはりできないものなのだ。だから、お金のブロックが外れなかったのは、よかったということになる。お金のエネルギーをルーブル札のエネルギーに変えてみたら、循環する愛と豊かさにあっという間にシフトしてしまった。

ちょうど前日の22日に、マヤ暦で11回目の20日サイクルに入り、260日のツォルキンの最後の転換のステージに入っている。ちょうどその日に南アフリカでBRICSサミットが始まって、米ドル支配から世界が解放され、多極的な構造ができていくことに、世界の意識が集まっていた。そのせいなのか、まるで世界が立体化して、6次元に開かれたような、急に世界が広がったような感覚がしていた。そしてその翌日の23日に、お金のエネルギーを6次元的な愛と豊かさの循環に転換することになったのだ。6次元的な多極的な循環の世界。そうした世界が、いよいよ現実的に始まっていく時が来たらしい。

2023年8月23日


2000ルーブルの新札


白頭山のカルデラ

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【流れとともに生きる人々 ー 和仁族の封印を解く】


熊本にある田中城という城跡は、和仁(ワニ)族という古い豪族が豊臣秀吉に滅ぼされた場所なのだそうだ。それまで肥後の国は、数多くの小さな豪族たちが治める、多極的な社会だった。それを中央集権的に支配しようとしたのが秀吉で、肥後の豪族たちは、それに抵抗して戦った。最後に残ったのが和仁族で、田中城に立て籠もって戦っていた。一万の兵に包囲されながら、たった一千ほどの軍で城を守っていたそうだ。それが、親族の裏切りがあって、倒されてしまった。和仁家は、それで一族滅ぼされてしまったそうだ。

この和仁族の封印を解こうということになったのは、田中城下に実家がある封印解きクラブのメンバーが、どうも和仁族の怨念を引き受けているんじゃないかという話になったからだった。彼女の実家は、もともと京都から和仁族の祈願寺の和尚とともに熊本にやってきて、田中城下で造り酒屋をやっていた。数カ月前に彼女が熊本の実家に戻って以来、まるで呪いでもかかっているかのように、すべてがうまくいかないようなことになっている。こういうときは、何かするべきことがあるときなのだ。それで、皆で和仁一族にアクセスして、封印を解いてみようということになった。

和仁一族というのは、どうやら縄文の海人族の家系らしい。ウガヤフキアエズが生まれた時に、母親の豊玉姫がワニの姿になっていたという話があるけれど、おそらくあれはワニをトーテムにした縄文の民族だということなのだろう。古事記や日本書紀は、大和朝廷の視点から書かれた歴史なので、縄文民族を獣か化物みたいに表現していたりするからだ。

和仁家からは、皇后がたくさん出ているというのだけれど、どういうわけだか大君は一人も出ていないのだという。これは、和仁家が縄文民族の王家のような存在で、大和朝廷と和合のための婚姻をしていたということなのだと思う。卑弥呼の話でもそうだけれど、縄文民族は、呪術的な女性を首長にしていて、物質的な領域をまかなう男性とペアで治めるというやり方をしていた。しかし、大和朝廷は父系制の太陽信仰の民族で、和合のための婚姻をするとなったとき、縄文の呪術的な女性首長と大和の男性の首長とが結婚するということになる。それがイザナミとイザナギの話になるわけなのだけれど、対等な立場で統治するはずが、時代とともに大和朝廷に支配されていく形になる。そして、縄文の皇后は、大和朝廷が命じるままに縄文民族を従わせるための、人質のような存在になっていったのだそうだ。だから、豊臣秀吉による和仁一族の滅亡は、縄文的の多極社会の伝統が、最終的に消滅させられて、一極支配の時代に入っていったことを示している。

田中城の画像から、和仁一族の魂にアクセスしてみると、意外にも怨念のようなドロドロした重さは誰も感じなかった。大きな男たちの姿が現れて、陽気に笑っているように思えた。海を渡っていった強い男たち。彼らは朝鮮半島や中国に渡り、太平洋を渡ってハワイまでも行ったようだ。倭寇と言われたのも彼らのことで、彼らは大陸で「倭の人たち」と呼ばれたらしい。それが「ぅわぁにぃ」というような発音で聞こえていて、それが和仁という名前になったようだ。この「ぅわぁ」という言葉が、小舟に乗って海を自在に渡る人たちを意味していて、海の神々とともに生きる人たちというような意味らしいのだ。

ところが、大和の支配が強くなって、朝鮮半島に略奪支配に行くようになると、もはや海の神々とは相容れなくなり、小舟で自在にどこまでも行くようなことが、できなくなっていってしまったようだった。

和仁の人たちは、一族滅ぼされたことについても、身内に裏切られたことについても、怨んでいるような様子ではなかった。時代の切り換わりだから、しかたがないと意外とあっさりと受け入れているように思えた。どのみち一極支配の世の中に生きる場所はないのだし、支配の時代を人類が経験することもまた定めなのだから、その間は地上から消えていればいい。500年経ったら時代が変わるから、そうしたら戻ってくるつもりだったのかもしれない。中南米ではマヤの人たちがちょうど同じ頃にスペイン王家に滅ぼされたけれど、やはり再び時代が変わったら戻ってくるということなのかもしれない。かつてとは違う形だけれど、同じ魂、同じエネルギーでだ。

それから、大和朝廷が出てくる前、和仁一族が何の妨げもなく栄えていた頃の時代にアクセスしてみることにした。すると、大きな流れの中に生きている人たちのイメージが見えてきた。それは、海流に流されながら海を渡っていく人たちのようでもあり、時の流れに逆らわないで生きていく人を表しているようでもある。それは、流れの中でこそ人は守られていくのだという、今日にはあまりないような感覚だった。しかし、当時の人たちはそちらの方が当たり前だったようなのだ。

縄文人は、海人族も山人族も、定住するのではなく、海から海へ、山から山へと移動しながら生きていった。流れとともに移動していくからこそ、守られ養われるのだ。アラブの人たちも、砂漠を旅することで生活している。移動していく生活は、不安定なように思えるけれど、実は定住して生きるよりもずっと守られているのかもしれない。定住する生き方は、土地を所有し、家や家畜を所有して、それを守らなくてはならない。一極支配の世界は、所有を原理としているので、所有権を守るために、絶えず戦わなくてはならないことになる。ところが移動していく生活では、所有したり所有を守ったりすることで生きていくのではなく、流れにまかせ、流れを信頼して生きるのだ。アラブのイスラムの人たちは、「インシャ・アッラー(もし神が望むのならば)」という言葉を何かにつけて言う。所有に頼らずに流れとともに生きていく人たちは、物理次元ではなくて、宇宙の流れだとか神だとか、そういう次元の力に頼って生きていくのだ。そして実際、その方がお金や土地や役職みたいなものよりも、実はずっと確実だ。

こうした流れの中で流れとともに生きていく生き方は、もともと世界中どこでも普通の生き方だった。それが定住するようになり、土地を所有するようになり、支配の社会ができていった。それが500年ほど前から、移動する生き方がほとんど不可能な世界に変わっていき、流れとともに生きていく人たちは、絶滅させられていった。それが今、所有と権力の争いの極みまで来て、再び流れとともに生きていくあり方に世界が変わっていくときが来ているのかもしれない。

それで、この流れとともに生きるあり方を解放するために、田中城の和仁族の封じ込めを解いて流れを作り、その流れを広げていって、世界中を流れの中に入れてみることにした。そのときに、たった一つの大きな流れの中に世界を入れるのではなくて、世界中のあちこちに巨大な世界樹のようなトーラス状の流れがいくつもあって、それが互いに繋がり合い、全体として調和しているというような、多極的な流れをイメージすることにした。

ルートチャクラを開いて、大地に根を下ろす木のように大地と繋がりを作るワークはよくやっていたけれど、流れの中に生きていくには、大地ではなくて、流れの中にグラウンディングしないといけないようだ。そしてそれが、第2チャクラなのだということに気がついた。流れの中で守られることとは、母なる海に抱かれることでもある。まさにそれこそは、第2チャクラの子宮の力なのだ。養い養われる、守り守られる力。おそらく和仁族は、この第2チャクラの力で海の神々と繋がっていたのだろう。その繋がりこそは、支配の世界の中で失われていったものだったのだろう。

すると、歌を歌うことで流れが広がっていくというイメージを受け取った人が何人かいた。ビートルズのLet it beが流れ続けていたと言った人、「ええじゃないか」が聞こえていたと言った人がいた。どちらも、イスラムのインシャ・アッラーみたいな、流れとともにあればいい、という意味の歌だ。

それで最後に、Let it beでも「ええじゃないか」でも、インシャ・アッラーでも何でもいいから、流れを作れそうな歌をそれぞれ頭の中で流して、世界中の人々を流れの中に入れるというのをやることにした。すると、それぞれの国の人たちが、それぞれの民族楽器を弾いて、歌い踊るイメージが現れた。それが全体としてオーケストラみたいに調和していて、葉っぱや風の音なども一緒になって、すべてが波動で共振して増幅していった。

世界中どこに行っても、それぞれの民族には必ず民族の楽器があり、歌があり、踊りがある。祭りの時にも歌い踊るし、日常的にも皆で歌い踊るのが、かつては普通だった。あれはまさに、第2チャクラを流れに繋ぐためのものだったのだ。皆が歌い踊ることにより、世界の大きな流れの中で支えられ守られていることを確かめ合うのだ。

日本は、流れにまかせるあり方は、まともではないという意識が強くあって、なかなか流れに入っていけないようだったのだけれど、南の方から阿波踊りみたいな陽気な踊りをする人たちの群が北上していって、しまいには日本全体が歌い踊る流れの中に入ってしまった。すると、日本列島が赤く輝いて脈動し始めた。これが日の丸に表された日本の赤の本来の姿であるらしい。もともと流れの中で生きることを最も得意としていた日本の民族が、その力を奪われて長いこと支配されていた。それが息を吹き返したように思えた。流れとともに生きるなんて、まともではない、ふざけた生き方だと長いこと思わされてきた。だけどそれは、私たちが本当はその生き方を最もよく知る民族だったからなのかもしれない。

2023年9月22日


セッションで使った田中城の画像


沖縄の踊りカチャーシー


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