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ロシアから始まるルネサンス


【ロシア文化の復興】



昨年2月にウクライナの内戦にロシアが軍事介入始めてから、テレグラムでロシアの情報を見るようになったのだけれど、そうした情報の合間に入ってくるロシアの映画や音楽が、実に面白いことに驚いている。今春公開になった世界初の宇宙ロケによる映画「ザ・チャレンジ」のトレイラーだとか、6月の卒業パーティで高校生たちが歌っていたシャマンというポップ歌手のヒット曲「私はロシア人」の動画などが、ネットで拡散されていた。そういうのを見ていると、現代の西側文化にはもうなくなっている新鮮さがあることに驚く。

シンプルに言って、ロシアでは文化が腐敗させられていない。今、西側諸国のメディアに出てくるような映画も音楽も文学も、どれもまず大衆操作が入れ込まれていると思っていい。極度な暴力シーンとかエログロとか、何かしらショッキングな映像がほとんど必ず入っていたりするし、現実に違和感を感じさせるようなメッセージが入れ込まれていたりする。ロシア産のものには、そういう変な波動のある要素がないのだ。それで、内容やテーマからしたら、特にどうということもなく、ありきたりのものであっても、単に変な波動がないというだけで、実に新鮮なものになっている。

西側の音楽や映画に違和感を与えるものを入れ込んでいるのは、文化を破壊することで、人々を支配されやすい心理状態にしてしまうためなのだ。音楽や芸能は、民族が共有する繋がりの表現であり、生まれ育った土地との繋がりや、先祖から引き継いできたものを共有するものだ。そういうものを奪われてしまうと、人は民族の誇りも容易に忘れて、どんなことでも上から言われるままに従ってしまうようになる。だから、大衆を搾取するために支配しようとする人々は、その土地の文化を破壊しようとする。これは、アメリカ中央情報局が、戦後ずっと秘密裏にやってきたことで、そういった情報も、この数年で多くの人が知るようになった。

ロスコスモスの元代表のドミトリー・ロゴジンが、ドイツ人ジャーナリストのアリーナ・リップのインタビューで、ドイツ人は古典文化を大事にするべきだということを言っていた。大衆操作が入る前の古典文化に親しむことで、容易に支配されない力を持つことができるからと。

ロシアは、ソ連の時代にまさにそれをやられていたのだ。20世紀初めに共産革命が起こる前のロシア帝国は、文学にしても音楽にしても舞台芸術にしても、すばらしい文化を持っていた。チャイコフスキーが作曲した音楽で、マリウス・プティパが振り付けをしたバレエ作品が次々と作られていたし、ドストエフスキーが新聞に連載小説を書き、チェーホフの戯曲が上演されていた。

それが、共産革命によって、すべて破壊されてしまったのだ。ブルジョワ的だからとかいう理由でだったけれど、本当の理由は、ロシア人たちを民族文化から切り離し、民族の誇りを失わせ、力を奪うためだった。そもそもロシア革命は、アメリカから送り込まれた工作員たちが煽動して起こしたものだったのだ。ロシア帝国を崩壊させ、当時最高のレベルだったロシア文化を破壊し、ロシアの人々を大衆操作で支配できるようにするためにだ。

その後、クラシック音楽界は、ハザール・ユダヤ系の金融グローバリストに乗っ取られ、何かしら違和感を感じるようなものが入っていないものは、表舞台に出ないようにされてしまった。無調音楽が新しくていいものだということになり、ロマン派のすばらしいハーモニーの曲はもう作られなくなった。伝統を引き継ぐことは古くさいということになり、そうでないものを作るのが芸術だということになった。

違和感を感じるようなもの、伝統を破壊するようなものだけが、大衆に受けるみたいに思わされていたけれど、実のところはすべて裏で操作されていただけだったのだ。そういうものだけが、コンクールで賞を取ったり、評論家が高く評価するように、審査員やメディアを買収してあっただけだった。

今、ウクライナでは、ほとんどの人が信仰していたロシア正教が禁止され、クリスマスもアメリカ流に祝うように変えられたそうだ。ロシアと共有していた文学も音楽も禁止され、アメリカ風のLGBTがもてはやされているらしい。ウクライナはもともとロシアと同じ文化圏なのだから、ロシアのものを排除したら、伝統的なものはほとんど何も残らないことになる。性生活にいたるまでアメリカ化したら、多くの人々は伝統的な価値観から切り離され、民族的なアイデンティティを失ってしまうだろう。そうやって、容易に支配できる人々を大量に作り出そうとしているようだ。

ロシアではそれに対して、この頃LGBT運動も過激派と認定して、禁止してしまった。性的マイノリティーが禁止なのではなく、それを人々に勧めたり、子供にまで教えることが、過激だと判断されたのだ。こうしたことを、ロシアはソ連の時代にすでに経験していて、それが何を意味するかをよく知っている。これはマイノリティを解放するものなどではなく、人々を伝統的な価値観から切り離して、アイデンティティを失わせてしまうための意図的な工作だということをだ。

12月3日は、チャイコフスキーの有名なピアノ協奏曲第一番が、モスクワで初演された記念日だということで、駐日ロシア大使館が、コンサートの動画をシェアしていた。アレクサンドル・ルビャンツェフという若いロシアのピアニストの演奏で、これが実によかったのだ。チャイコフスキーのピアノ協奏曲といったら、リヒターだとかアルゲリッチとかホロヴィッツの演奏が有名だというけれど、そういういわゆる一流演奏家の演奏よりも、この演奏がよかった。

それというのも、クラシック音楽界でもてはやされているような演奏は、やっぱり腐敗したものが入れ込まれているからだ。無調の現代音楽以前の音楽も、あいかわらず演奏されてはいるけれど、オリジナルの曲の美しさを壊したような演奏ばかりがもてはやされるようにされてきた。金融グローバリストたちが支配している音楽業界では、そういう演奏が、独創的で斬新な表現だということになっている。だから、一流ホールで演奏するスター演奏家の演奏は、だいたい鼻につくくらいエゴ丸出しな派手な演奏が多い。そういうものは、素直に人の心に響くものではないのだけれど、そういうものこそがすばらしいのだと、評論家たちに賞賛させているのだ。

アレクサンドル・ルビャンツェフは、1986年生まれで、西側の音楽業界でスター扱いされている人ではないからか、演奏が実に純粋だ。自分を出そうとして変わったこと、派手なことをやろうとしていないのだ。純粋にチャイコフスキーの世界を表現している。ロシアや東欧圏の音大生たちは、わりと誰でもすばらしい音を出すし、音楽の理解が深いのだけれど、それは音楽教育のメソッドが違うからだ。ネットで調べてみたら、ルビャンツェフの演奏は、独創性で物議をかもしたというようなことが書いてあってびっくりしたのだけれど、まさに彼のように元の曲をそのままに純粋に表現したような演奏こそは、クラシック音楽業界でずっと封印されていたものだから、それこそは掟破りだと言えるかもしれない。それに、彼が評論家やメディアや審査員たちにどう評価されようが、それを貫き通したというところは、強烈に独創的だとも言える。

ルビャンツェフの、チャイコフスキーの世界そのままの演奏を聴いていると、ロシア文化のとてつもない大きさを感じるとともに、これを破壊してしまったことのすさまじさをまた感じないではいられない。チャイコフスキーは、ドイツロマンと同じ文化圏に属していて、ブラームスやシューマンと同じ幻想性がある。ドイツロマンは、ローマ帝国のキリスト教支配によって弾圧されてきた、土着のスピリチュアルな世界が解放されることで、生まれてきた文化運動だった。それは、ケルト・ゲルマンの多神教的な世界であり、森の妖精や精霊たちがいる風景だ。そしてそれこそは、そこに住む人々に、土地との繋がり、民族の伝統との繋がりを思い出させる世界なのだ。

ローマ帝国は、ケルト・ゲルマンの聖地を破壊して、キリスト教を強制することで、この繋がりを断ち切ろうとした。それが、19世紀になってキリスト教会の支配が弱まったときに、大きな文化運動として出てきたのが、ドイツロマンだと言える。当時のロシア帝国は、ドイツやフランスと文化圏を共有していたから、そこには大きなロマン派の文化圏が存在していた。チャイコフスキーは、ゲルマン人もスラブ人も、それぞれに土地と森と自然の精霊たちの世界を持って生きているというところで、同じ根っこを持っていることを、たがいに確かめ合うような世界を作り出していたと言える。

金融グローバリストたちは、この繋がりをこそ破壊しようとしたのだ。たがいに敵対させて、軍事費を使わせ、お金で支配するためにだ。しかし今、100年が経ったあとで、ようやく私たちはその手口に気づき始めている。少なくともロシアは、プーチン政権下で西側金融グローバリストの腐敗から文化を守る態勢を整えたようだ。

このところ、ロシアから面白い音楽や映画が出てきているのは、そのためなのかもしれない。その上昨年からは、ロシア文化は西側から経済制裁で締め出されているので、もはや西側の腐敗が介入する余地もなくなった。もう西側メディアの評価だのコンクールの基準だとかを心配することもない、文化の解放区とでも呼ぶべきものが生まれているようだ。

金融グローバリストたちが破壊した文化が、100年経ってロシアから復興しようとしているようだ。新しいルネサンスが来るということは、前から言われていたけれど、それは西側グローバリストの支配からの解放区を作り出したロシアから、始まっていくのかもしれない。というより、今すでに始まっているように、私には思える。

2023年12月4日


チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」



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これは、サンクトペテルブルクのマリンスキー劇場のくるみ割り人形。新しい演出ですが、EU以降もうヨーロッパでは見られなくなっているきれいな演出で、実に幻想的です。くるみ割り人形は、ドイツロマンの代表的な作家ETホフマンの幻想小説を原作にしています。まさにドイツロマン派とロシア音楽のコラボ作品です。

演奏も実に色彩鮮やかで、きれいなハーモニーを出してますが、指揮しているのは、昨年ロシアの軍事介入が始まってから、プーチン政権を批判しないからという理由でミュンヘンのオーケストラを解任されたワレリー・ゲルギエフ。西側諸国に行っていたロシアの音楽家が、政治的な理由でロシアに戻ってきているというのも、ロシア文化の復興に寄与しているのかもしれません。西側での名声にこだわる人たちは、プーチン政権を批判して、ロシアから離れる一方で、真実に生きようとする人たちは、腐敗した西側の音楽業界から離れて、ロシアに戻ってきているということですね。

https://youtu.be/xtLoaMfinbU?si=6tf9TKlFNxX5UggT

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アレクサンドル・ルビャンツェフのチャイコフスキー ピアノ協奏曲第一番

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アレクサンドル・ルビャンツェフの演奏。これは、物議をかもしたというモーツァルトのピアノ協奏曲21番。純粋にモーツァルトそのものの演奏。

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こちらはベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲壮大ソナタ」。これもこれ以上ないってくらいベートーヴェンそのまんまです。

チャイコフスキーのピアノ曲「四季」から、11月トロイカ。チャイコフスキーの幻想世界そのものの演奏です。

クラシック音楽について、2月に書いた記事です。


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【アートは謙虚であるべきだ】



たまたまロシアの若手ピアニスト、アレクサンドル・ルビャンツェフの演奏がロシア大使館のサイトで紹介されていて、それがあまりにもすばらしいので驚いたのだけれど、それであれこれ聴き比べていたら、実はルビャンツェフだけではないことに気がついた。ピアニストのデニス・マツエフもミハイル・プレトニョフも、指揮者のゲルギエフも、ロシアの演奏家は皆すごい。チャイコフスキーはもちろんだけど、それだけでなく、ベートーヴェンもブラームスもモーツァルトも、皆同じようにすごいのだ。

ロシア式のメソッドでピアノを習ったことがある人なら、知っていると思うけれど、ロシア式では、鍵盤の叩き方で色彩豊かな音色を出すことを習う。腕も肩の筋肉もすべて使って、音を出すやり方を習うので、子供でもパワフルな音が出せるし、いろいろな音を自在に出すことができる。だから、ロシア式で習った人の演奏は、実に濃厚で鮮やかな色彩がある。私は、色彩が感じられない演奏を聴くと、この演奏家は「色盲」だなと思うのだけれど、ロシアの演奏家には、「色盲」はいないようだ。音楽に色彩があるのが当たり前の世界に育っているからなのだろう。

ロシア式で楽譜の読み方や音楽の解釈の仕方を習った人なら、わかると思うけれど、ベートーヴェン以降のクラシック音楽は、楽譜にすべてが書き込んである。だから、楽譜をしっかり読み込んで、その通りに弾けば、ちゃんと生命のあるすばらしい音楽になるようにできている。楽譜というのは、音符だけではない。フレーズはどこで切るのか、どこでテンポが変化するのか、強弱のダイナミックはどうなっているのか、多声構造はどうなっているのか、そうしたことが、すべて楽譜に書き込まれている。

楽譜がなかった頃なら、曲は師から弟子へと伝えられたわけだから、そうしたダイナミックもすべて一緒に伝えられたのだ。それが西洋のクラシック音楽では、そうした微妙な変化も、すべて楽譜に書き込んでいる。だから、楽譜をちゃんと読んで解釈することさえ知っていれば、どこにいようが、ちゃんとベートーヴェンが思ったとおりのベートーヴェン、チャイコフスキーが思ったとおりのチャイコフスキーを演奏することができるのだ。ロシアの演奏家の演奏を聴けば、そういう風に楽譜をしっかり読んで解釈しているのがわかる。どれも同じように、見事にベートーヴェンの、チャイコフスキーの、モーツァルトの表現になっているから。

何よりも、ロシアの演奏家たちは、特別意識みたいなものがほとんどないようだ。演奏はすばらしいし、ものすごい技量を持っていたりもするのだけれど、それをひけらかしているようなところがまったくない。エゴがないというか、実に謙虚だ。まず作曲家がいて、曲がある。演奏家は、その曲の世界に仕えている。だからなのか、ロシアの演奏家の演奏では、協奏曲などでも、オーケストラとソリストがバラバラで、どっちが主導を取るかで争っているような感じがすることがない。まったく対等に共演しているのがわかる。

多くのソリストは、オーケストラをソリストを引き立てるための伴奏役か何かのように心得ているかのようで、オーケストラが演奏している間、自分のパートが来るのをじっと待っている様子だったりする。そしてソロパートが来ると、ここぞとばかりに派手な演奏をするのだ。だけど、私が見たかぎり、ロシアのソリストたちには、そういう感じがまったくない。最初から最後まで、オーケストラと心を一つにして、共に一つの曲を作り上げているという感じがある。謙虚さがあるというだけでなく、音楽理解の幅がまったく違うのを感じる。

20世紀に入ってから、音楽でもアートでも、独創的でなければいけないということが言われ始めて、こうした謙虚さがあらゆる領域で消え去っていった。誤解を恐れずに言うならば、謙虚さがない芸術表現など芸術ではない、と私は思う。それというのも、本来の芸術表現というものは、エゴの次元から生まれるものではないからだ。エゴが消える次元、5−6次元以上の領域から降ろしてきて、音楽や造形で表現するのが芸術だ。音楽でも造形美術でも、アーティストはエゴを消して、高次元領域に謙虚になる姿勢でこそ、本当の芸術を生み出すことができるのだと思う。

20世紀は、芸術は独創的でなければいけないという思想によって、芸術をことごとく破壊してしまったかのようだ。無心に絵を描いていた子供たちも、美大に入って、独創的な作品を描かなければと指導されたとたんに、表現することを小難しく考えるようになり、その結果、作品もつまらなくなっていってしまう。新しい表現が悪いわけではないけれど、新しくなければと言い始めると、作品のレベルは下がるのだ。それは、アートと繋がる意識の次元がエゴの領域に下がるからなのだと思う。その次元で作られるものは、もはや芸術とは言い難い。

ロシア式のメソッドでは、色彩感のある豊かな音が、誰でも容易に出せるようになるので、音楽の勉強も努力しなければいけないようなものではなく、楽しいものになるのだと思う。音大の留学生たちを見ていても、ロシアや東欧から来ている子たちは、苦しそうに練習している感じがない。よくわからないものを、先生の言う通りに努力してやっている、という感じじゃないのだ。わかってやっているから、練習するにも楽しいのだと思う。音楽でも造形美術でも、本来はそのようにして学ぶものだ。芸術表現とは、楽しさがあってこそ、人に伝わるようなものにもなるのだから。

そんなにいいメソッドがあるのなら、世界中で使ったらいいはずなのだけれど、何故だかそのようにはならないようになっているようだ。音楽教育の世界も、フェアな競争原理というものが働いているのならば、苦労しても大した結果が出ないメソッドなどは、とっくに消え去っているはずだ。ところが、ロシア以外の多くの国では、そのようにはなっていないようなのだ。それは、フェアな競争原理が働かないように、独占しようとしている力があるからだ。

それは、医者は患者を治さない方がもうかる、というのと同じようなことなのだと思う。教師も、ちゃんと教える代わりに、権威を振りかざして、努力すれば立派な者になれるみたいに思い込ませておけば、生徒たちに何年でも高額の講習費を払い続けさせることができる。実際、こうしたビジネスが利益を上げ続けていけるように、簡単に覚えられるメソッドなどは、話題にならないようにされていたりもする。

ソ連の時代には、ロシアには経済の自由競争というものがなかったわけだけれど、それはまた、こうした独占を防ぐことにもなっていたのかもしれない。国費で学生を育てるのなら、安上がりに効果が上がる方法を使った方がいいに決まっている。ソ連崩壊後、西側資本に腐敗され尽した90年代を経て、ロシアはフェアな自由競争が可能なほとんど唯一の国になったのだ。西側諸国のように、一部のグローバリストに独占されることもなく、自由競争の原理が守られるように、政府がちゃんと国を守っている。本当にいい品物、いいメソッドが人々に供給されるようにするためにだ。とにかく、音楽教育の領域では、ロシアは世界最高のレベルの演奏家を量産できているわけだから、これはちゃんと機能しているわけだ。

ロシアといったらバレエの国でもあるけれど、バレエダンサーもやはり同じなようだ。皆、まるで当たり前みたいにレベルが高い。普通のバレエ団では、群舞の人たちは、ソリストとはレベルが一段違うのがはっきりわかるけれど、ロシアのバレエ団は、群舞のダンサーも、すぐにソロが踊れそうなくらいにうまい。しかも、まるでそれが当たり前みたいにレベルがそろっている。一体どうやったら、これだけのレベルのダンサーをこんな風に量産できるのかと思う。

ロシア人の先生にバレエを習った人は、わりと短期間にソロが踊れてしまったというようなことを言っていたから、やっぱりピアノと同じで、いいメソッドを使っているのだろう。「白鳥の湖」の中に、小さな白鳥たちの踊りという有名な踊りがあるけれど、これは、4人のダンサーがぴたりと息を合わせるのが難しい踊りだ。ロシアのバレエ団のダンサーがこれを踊っている動画がシェアされていたのを見たら、これがあまりにぴたりときれいに合っていて、まるで奇跡のようだった。それがしかも、ビシビシ調教されてそろっているという感じのそろい方じゃなくて、皆が同じようにレベルが高くて、自然に息を合わせているから合っている、という感じの合い方だ。それを見ても、自由に楽しくやって、覚えられるようなメソッドを使っているのだろうと思える。

結局のところ、西側諸国は、民主主義とか自由経済とかを掲げつつ、独占と腐敗がいくらでもできるような状況を作り出してきたのだ。それが、苦しそうに努力して、特別意識で表現したような芸術を、高額で取引するようなビジネスを成り立たせてきた。でも、それももう終わるときが来たようだ。西側経済はもう崩壊するしかない状態だし、それとともに独占してきたグローバリストたちも消え去っていくのだろう。

この100年で、西側世界では、一体どれだけのすばらしいメソッドや、安価で効果的な技術が隠蔽されてきたかわからない。西側経済が崩壊すると同時に、こうしたものが、一気に表に出てくることになるのだろう。それは、まさに新しいルネサンスそのものだ。おそらくは、グローバリストの支配からの解放区を作り上げたロシアが、その中心になるのだろう。

2023年12月6日



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ボリショイ・バレエ団の白鳥の湖。小さな白鳥の踊り。

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【多極型の覚え方と一極支配的な覚え方】



何を習うにしても、どういうやり方で習うかで、天と地ほどの違いがある。下手なやり方で習うと、いくら努力しても、ちっとも上達しなかったりするけれど、いいやり方で習うと、あっという間に楽しく覚えられたりする。それは、先生が物事の核心がわかっていて教えているか、わからないで教えているかにもよる。

子供は、強制的に勉強させようとしても、なかなか覚えないけれど、自分で興味を持って勉強し始めたら、遊ぶように熱中して、あっという間に覚えてしまうのだそうだ。だから、上からカリキュラムを決めるのではなくて、子供が興味を持つまで待つというやり方もある。オルタナティブスクールなどでは、そういうやり方をしている。子供たちは勉強させられているという意識も持たずに自然に覚えるので、劣等感やら自己イメージの問題を抱えなくて済むという利点もあるようだ。

実際、一度自分はダメ人間だと思い込んでしまったら、自分からダメ人間を現実化し始めてしまうから、学習効果はますます下がる。学校というのは、子供たちを比較したり、序列をつけたりして勉強させようとするから、承認欲求とか欠如意識から努力するようになり、ますます自己イメージに縛られるようになってしまう。

今年の2月にクラシック音楽について書いたときにも書いたけれど、私は子供のときバイエルでピアノを習っていて、何年通っても、最初の本さえ終えられず、面白さもわからないままにピアノから離れてしまった。それが、オーストリアに来てから、ロシア式のやり方でピアノを習ったら、あっという間にショパンやシューマンが弾けるようになってしまったのだ。どういうやり方で習うかは、それくらいに違う。

ロシア式では、例えばピアノの場合、最初からすべての鍵盤を使ったりして、まず楽器に対する不安を取ることから始める。間違ってもいいから、思いっ切り低い音や高い音を出してみて、大きな身体の使い方を覚える。それから、身体の使い方でいろいろな音を出し分けることを覚え、フレーズの作り方や楽譜から曲の立体的な構造を読み取る方法などを学んでいく。

そういう感じでやっていくと、どうあるべきかが自分でわかるから、自分から思うような音を出そうとして、自然に努力するのだ。だから、練習させられるという感じではなくて、夢中で遊んでいるみたいになる。そういう風に練習していたら、自然とどんどん弾けるようになっていく。だから、生徒が自立的に学んでいけるような教え方だと、先生は別に厳しく教えているわけでもないのに、生徒がどんどん進歩していくことになる。

子供のときバイエルでピアノを習っていたときは、鍵盤の真ん中のごく一部だけを使うことから始めて、無味乾燥な運指練習みたいな曲を延々と弾いていくので、音楽の面白さなどちっとも教わらなかった。面白くもない運指練習を間違えずに弾けるようになると、いつかは面白い曲を弾かせてもらえるというので、しかたなく練習していくだけなのだ。

何にしても、こういう上からの指示通りにやるようなやり方が普通だと思われていたりするけれど、これは一極支配的なやり方だと言える。生徒は、自分から覚えていくことができず、先生に従うしかない状況で、勉強していくわけだ。先生が、どこが違う、何がダメだと文句を言うから、生徒は間違えて怒られるのが恐くて練習する。自分でわかって、こういう音を出したいと思って練習するんじゃなくて、先生を満足させるために努力するのだ。だから、生徒はずっと先生の評価に依存状態だ。こういうやり方だと、先生は生徒に厳しくしなければ、進歩させることができない。それで、進歩はつねに嫌々ながら努力することの引き換えみたいに思われている。

この頃、たまたまドイツ語でオンラインでロシア語を教える先生を紹介している記事を見て、無料のお試し講座に出てみたのだけれど、教え方がやっぱりピアノのロシア式と似てるなと思った。ピアノを習うのと言葉を覚えるのとでは、まったく違うけれど、基本的な考え方が似ているのだ。

生徒たちは、ドイツ語圏の人たちで、ロシア語のキリル文字のアルファベットさえ、読めない人がほとんどだった。それを、いきなりキリル文字と絵が並んでいる図を見せられて、音に合う絵と結びつけなさい、という調子なのだ。ほとんどの人はまるきりわからないから、推測だけで選んでいく。だけど、そんなことをやっているうちに、あっという間にキリル文字が読めるようになってしまったのだ。書けなくてもいいし、ちゃんとした発音ができなくてもいい。とにかく慣れることから始めるというやり方だ。

文法もそんな風だった。ロシア語には名詞には女性、男性、中性と3種類あるのだけれど、そんなことを言われたら、まずその辺で多くの人はやる気をなくす。だけど、そういう文法問題なんかはやらないで、ただキリル文字で書いた女性、男性、中性の単語を絵と一緒に見せて、それを次々と先生が読んでいくのを、ただ真似して発音しなさいというやり方だ。そして、その次には、形容詞がついた名詞が絵つきで出てきて、やっぱり先生が次々読んでいくのを、真似して発音していく。そんなことをやっていくうちに、女性、男性、中性の3つの性がどうなっているのかが、自然にわかるようになってしまう。

このやり方は、ドイツ人の人が考えたメソッドなのだと書いてあった。だから、ロシア産というわけではないのだけれど、ロシアでは、そういうやり方をどんどん使っていくようなところがあるのだと思う。まず不安感を取って、慣れさせ、全体の見当がつくようにして、自分からやっていけるようにするというやり方だ。

ロシア人は、外国語がやけにうまかったりするし、日本語を勉強した人も、びっくりするくらいきれいな日本語を話していたりする。それも、楽に覚えられるメソッドをどんどん使っているからなのかもしれない。実際、そういうメソッドが当たり前になっていたら、誰も面倒くさいやり方で言葉を習おうとはしないだろう。

グラーツに住んでいたときに、ドイツ系ロシア人のピアニストの公開レッスンを聞きに行ったことがあるのだけれど、その先生は、どこがどう違うとか言うのではなくて、ここはどういう場面ですよと、イメージを語っていただけだった。すると、さっきまでまるきりわけのわからないような演奏だったのが、とたんにくっきりとした形になったのだ。これは、まるで魔法みたいに思えたけれど、これもやはり同じやり方だ。学生が、全体の見当がつくようにしてやると、学生は自立的に、音を作っていくことができるようになる。だから、もともとそれなりの技術も音感も持っている人なら、とたんにいい音楽が演奏できるようになってしまうのだ。

だけど西側諸国では、ロシアからうまい人がどんどん出てくるのは、自由に覚えられるメソッドを使っているからじゃなくて、独裁的にビシビシ仕込んでいるからなのだろうと思われている。これも、今でもロシアが共産主義国家で独裁的だと言い続けているのと、何だか似ているようだ。今では、西側諸国の方がよほど独裁的な状態で、自由も民主主義もなくなっているのに、まるでそれを隠そうとするかのように、ロシアが独裁国家で、西側諸国は民主主義的だと言い続けている。

西側諸国の先生たちは、いくら学生を叱りつけて練習させても、学生がいい演奏家にならないので、ロシアからもっと優秀な学生がどんどん出るのを見て、それならロシアでは、もっと厳しく練習させているに違いないと思い込んでいるのだと思う。そうじゃなくて、実はもっと簡単に覚えられるメソッドがあるからなのだけれど、そんなことはなかなか認めようとはしない。そういうことだったのなら、一体何のために自分が今まで苦労してきたのかがわからなくなってしまうからなのだろう。それを認められたら、いい学生を育てられるようになるかもしれないけれど、多くの人は、それまでのやり方を変えようとはなかなかしないものだ。それで、ロシアの学生がいい音を出すのは、元の身体が違うからだとか、もっと厳しく練習させられているのだとかいう風に思おうとしている。

ロシアはもともと共産国家で、自由がない国だったから、音楽やバレエを教えるのも、暴君のように上から強制するやり方でやっているのに違いないというのは、受け入れられやすい話なのかもしれない。だけど、ロシアのオーケストラやバレエの群舞の人たちを見れば、そんな強制的なやり方で仕込まれた人たちではないのは、よくわかる。暴君的に仕込まれているのなら、怒られるのが恐くてビクビクしているから、身体が硬直しているし、どこか苦しそうな不安げな表情をしているものだ。だけど、ロシアのオーケストラやバレエの公演を見ると、楽団員が自由にのびのびとしているのがわかる。

指揮者も、楽団員に思い通りの音を出させようとして、戦っている感じではない。楽団員との間に、信頼関係があるのが感じられるのだ。これは、演奏家の一人ひとりが、音楽を全体として理解しているからだと思う。自分のパートだけ完璧に弾けばいいというのじゃなくて、共に音楽を作っているという感覚があるのだ。だから、指揮者の指示を信頼している。指揮者に一方的に従っているのではないのだ。指揮者と楽団員の間に対等な関係があって、たがいに信頼し合っていて、それぞれの役割をこなしている、という風に見える。

ロシアのオーケストラやバレエ団の公演をそういう目で見てから、西側諸国のオーケストラやバレエ団を見てみると、楽団員の様子が確かに違っているのがわかると思う。ロシアの人たちののびのびした様子と比べると、西側諸国の楽団員は、何だか身体が硬直しているのだ。指示通りにしなければと、ビクビクしている感じがする。批判される恐さや承認欲求やエゴみたいなもので動いているように見える。皆で同じ一つの作品を作っているという感じではなくて、ヒエラルキーがある中で、少しでも上へ行こうとしてそれぞれに動いている感じなのだ。だから、群舞がきれいに揃っていても、何だか強制されてやっているような堅苦しさが感じられる。ロシアの人たちの、それぞれ自分がありながら、全体として調和しているという感じとは、まったく違う。

ロシアのオーケストラやバレエを見ていると、多極的な調和というのはこういうものかというのが、よくわかる。一人一人が自立して対等だったら、それぞれがやりたい放題でバラバラになるんじゃないかと私たちは思っているけれど、それがまさに逆なのだということがだ。一人一人が自立しているからこそ、全体を見ることができ、だからそれぞれが自分から全体に合わせて調和させていくのだ。それは、魚や鳥の群れが、まるで全体が一つの生き物であるかのように、見事な調和で身を翻して敵をかわしていくのとも似ている。ロシアのバレエの群舞の見事な合い方は、まさにそうした動きを思わせる。

2023年12月7日


マリインスキー劇場のくるみ割り人形。雪の精の踊り。



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【自由と強制】



ロシアや東欧の先生は、けっこうビシビシ厳しく教えているという話があって、そう言えば、オーストリアの音大生たちが、よく東独出身の先生に怒鳴られて、ブーブー文句を言っていたことがあったのを思い出した。

オペラの演出の先生は、学生が指示した通りの動きができないと、ときどきブチ切れて怒鳴りつけ、できるまで皆の前でやらせたりしたそうだ。怒鳴られたソプラノの学生は、できないものはできないのに、あんな風に人前にさらしものにするなんて、と文句を言っていた。それで、それからどうなったのかと聞いたら、そうしたらすぐにできてしまって、OKが出たのだと言っていた。

東欧の先生に切れられたという話は、だいたいこの類の話が多いような気がする。「できません」とか言ってないで、今ここでやってみろ!と怒鳴られたら、できてしまった、というようなやつだ。要するに、集中してやればできるのだけれど、そういう意識の集中の仕方をしていないから、いつまで経ってもできない。そういうときに、今ここでやってみろ、と怒鳴られて、ピッと意識が集中したら、とたんにできてしまったりするのだ。その先生は、それを知っていて、ときどき学生を追い詰めていたような気がする。実際それで、いつもいい舞台を作っていたし、どんな動きもできるいいオペラ歌手を育てていた。

オペラのオーケストラの指揮者の先生も東独出身で、ときどきブチ切れて、「そこの小僧っ! 真面目にやれ!」と叫んで、鉛筆を投げつけたりするので有名だった。学生たちは、よくその先生が「そこの小僧っ!」と叫ぶのを真似して、ウケていた。そのオーケストラも、いつも実によく音がまとまっていて、いい演奏をしていた。学生は先生にまた怒鳴られる、と恐がってはいたけれど、権威主義的な関係ではなく、学生は脅えて萎縮している様子でもなかった。ブーブー文句を言って、「小僧っ!」と先生が言ったのを真似しては、笑っていた。

乱暴ではあるけれど、「できない」という意識を「できる」に変えさせるためには、ブチ切れて怒鳴りつけるのは、若い学生たちに対しては、すぐに使えて効果的な手なのかもしれない。実際、「できない」と思い込んでいるうちは、いくらやってもできなかったりする。これは、技量の問題というより、意識の問題なのだ。それは、「ここまでが自分の限界」と自分で設定しているようなもので、無意識でその限界を越えないようにしていたりするからだ。だから、「できない」と言いながら、実は本当にはやろうとしていなかったりする。

オペラの学生が、コーラスで歌いながら、ある踊りをしろというようなことを言われたときに、学生たちは、そんなあれもこれも一緒にやったことないし、自分にできるわけがないと思ったのだ。できないと思っていたから、できなきゃいけないとも思っていなくて、この先生は無理なことを要求すると思っていた。それが、できるまで皆の前でやれ、と強制されたときに、「できない」という意識がとたんに「できなきゃいけない」に変わった。それで、そう変わったとたんに、できてしまった。

音楽でなくても、東欧の先生が西側の学生を教えると、よくその類のトラブルが起こる。東欧の先生は、学生が先生の言う通りにやるものだと思っているけれど、西側の生徒たちは、個人の自由が尊重されるべきだと思っている。だから、先生があるメソッドでやるように教えると、「私は自分のやり方でやります」と拒否する人が、必ずいる。そこで争いが起きたりする。

先生は、そのメソッドでやるとうまくいくのを教えようとしているのだから、とにかくそのときだけでも先生の教えるメソッドでやってみたらいいのだけれど、西側の学生たちは、そうは考えない。そこで、「やりなさい」「やりたくありません」のやり取りがあって、先生が「私は別のメソッドでは教えられないのだから、とにかく十日だけでも私のメソッドで練習してみなさい」ということになった。それで、その学生は嫌々ながら十日間、先生が教えたメソッドで練習したら、うまくいくことがわかり、納得したのだそうだ。

それぞれ好きなやり方でやったらいい、というのは、自由を尊重しているようだけれど、実は、学生に自分の限界から出ないままにしているようなものなのかもしれない。私たちは、なかなか自分からは、他のやり方を試してみたり、やり慣れていないことをやってみようとはしないからだ。やり慣れているやり方でやり続けていられるかぎりは、その領域の外へ出ていこうとはしない。だから、他にどうしようもなくなるまで、何とかして、心地のよい領域に留まろうとする。

西側世界では、個人の自由を尊重して民主的でなければいけないというので、何かを強制したり怒鳴りつけたりするのも、独裁的だと思われるようになった。だけど、怒鳴りつけたら独裁的だというものでもないと思う。むしろ、どういう関係性なのかを見るべきだ。学生が権威主義的に支配されている状態なのか、それとも先生との間に信頼関係があるのか。

それを見たとき、ロシアや東欧の師弟関係は、ときどき先生が学生にブチ切れて怒鳴りつけたりはしているけれど、むしろ対等で、たがいにのびのびしていて、信頼関係があるように思える。怒鳴りつけたりせず、個人の自由を尊重しているはずの西側の先生の方が、学生を支配しているように見えることが多い。学生は、先生の評価に依存状態になっていて、でも先生に従っていて進歩していっているという感覚が持てないでいたり、できないのは自分の能力のせいだと思っていたりする。

ロシアが独裁国家だと、西側諸国で思われているのも、それと似たところがあるようだ。ロシアは、ある種の宗教組織や市民運動を禁止しているから、自由がない国だと非難されているけれど、ロシアが禁止しているのは、他のあり方を攻撃的に否定する組織だけだ。それでこの頃、LGBTも過激派として禁止になったけれど、それは、他のあり方を守るために他ならない。

同様に、ロシアでは、外国のNGOを制限しているけれど、これは、西側のグローバリストたちが、NGOを政治家を腐敗させる道具として使うのを防ぐためだ。国際NGOの自由とは、実のところは、政治を腐敗させる自由であり、経済をグローバリストに独占させる自由、つまり搾取させる自由だ。だから、こうした組織を制限することで、ロシアは自由経済と民主的なシステムが機能するように、守っているというのが事実なのだ。

そして実際、ロシアはそれによって、経済的にも豊かになり、人々に還元されるようになった。その一方、EU圏では、経済がグローバリストに独占されて、農家も商店も、個人事業がほとんどつぶれてしまい、多様性がなくなった。メディアもネットもグローバリストに乗っ取られて、表現の自由もないし、今や、子供に普通の性のあり方を教える自由もなくなった。それがすべて、自由と民主主義を守るためにということで、正当化されていったのだ。

自由を守るためには、実は強制的な介入が必要なのだ。それと同様に、より大きな可能性に開かれるために、自分に設けた柵を出ていくことを強制されることもまた、ときには必要だ。そういう大きな視点で見ていかないと、私たちは、自由や民主主義という言葉で支配され続けることになるだろう。

2023年12月8日

モーツァルトのオペラ「魔笛」マリインスキー劇場


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【2024年は世界経済が大きく変わる年になる】



12月6日に、ロシア大統領プーチンは、そうそうたる代表団とともに大統領専用機でアラブ首長国連邦とサウジアラビアに到着して、これ以上ないというくらいの歓迎を受けていた。このことは、今年一年で、どれだけ世界が変わったのかを、はっきりと示しているようだ。

西側のメディアは、プーチンが逮捕されるのかとかいうようなことを書いていただけのようだ。3月に国際刑事裁判所から、言いがかりのような逮捕状が出て以来、プーチン大統領はほとんど国外に出ていなかった。南アフリカで行われたBRICSサミットにも、インドで行われたG20にも、プーチン大統領ではなく、ラブロフ外相が出席していた。それは、逮捕状のことで、主催国に迷惑をかけたくないからという理由でだった。プーチン大統領を逮捕するのを拒否したといって、主催国が西側諸国に嫌がらせを受けることになるからだ。

しかし、アラブ首長国連邦もサウジアラビアも、もはや西側諸国の嫌がらせを恐れてはいないようだ。4機のロシア空軍機に護衛されて、プーチンが乗った飛行機がアブダビに到着し、装甲つきのリムジンに乗って、大統領官邸の宮殿にゆっくりと向かう間、道の両脇には、馬とラクダの部隊がずらりと並んで、剣を掲げて敬礼し、空には空軍機チームがロシア国旗の三色の煙を描いていた。宮殿に着くと、正装した人々が並ぶ中で、ロシア国歌が演奏された。

ウクライナの紛争へロシアが軍事介入を始めてから、グローバルサウスの国々は、西側諸国の政治家にあからさまにそっけない対応をしている。今回のプーチン訪問は、それとはまったく正反対だ。イスラエルとパレスチナの紛争のことで、サウジアラビアを訪問したアメリカ外相ブリンケンは、サウジアラビア首相のサルマン王子に、一晩中待ちぼうけを食わされた。ドイツ大統領シュタインマイヤーは、カタールを訪問したとき、空港で出迎えがなく、半時間も飛行機の出口で待たされていた。インドで行われたG20では、次々と空港に降り立つ各国の首脳たちが出迎えを受けているのに、ドイツ外相が降り立ったときには、誰も出迎えがなく、ドイツ大使がかろうじてギリギリで出迎えたばかりだった。こうしたことは、偶然などではない。グローバルサウスは、もう西側諸国を相手にしてはいないのだ。

アメリカが、主に石油などの地下資源を搾取する目的で、アラブ諸国と関わっているのに対して、ロシアはソ連の時代から、独立支援をしてきた。ロシアには地下資源は十分あるし、領土も必要ない。しかし、アメリカが覇権主義的に他の国々に介入して、傀儡政権を作り、ロシアと敵対させようとするので、ロシアにとっては、他の国々が自立しているほど、安定が保てるのだ。だから、アメリカの覇権主義に対抗して、アフリカやアラブ、アジアの国々を支援して、多極的な世界を作ろうとしてきた。これは、ソ連の時代からずっと続いていたことだった。

アフリカやアラブ、アジアの国々は、アメリカににらまれたら、どんな攻撃を受けるかわからないというので、これまでは多くの場合、アメリカに従ってきた。ところが、ウクライナでのロシアの軍事介入が始まったときから、それが変わってきたのだ。アメリカ大統領バイデンは、すぐさまサウジアラビアに出かけて、石油産出量を増やすように言ったけれど、サウジアラビアはこれを拒否した。そればかりではなく、石油を中国元で取引しさえした。ロシアに対して、世界中に経済制裁をかけさせて、ロシアを経済的に孤立させようというアメリカの試みは、これで挫折したようなものだった。

アメリカはこれまで、サウジアラビアに石油産出量を上げ下げさせることで、原油価格を操作し、世界経済を支配してきたのだ。ソ連が崩壊したのも、軍備競争で負債が増大したときに、石油産出量を増やされて、原油の値段が暴落させられたことが大きな原因だった。それでソ連は借金が返せなくなり、いわば国を借金のカタに取られたようなものだった。

ところが、今度はサウジアラビアはアメリカの言うなりにはならなかった。パレスチナとイスラエルの紛争が始まったときには、ブリンケン外相を一晩待たせたのに、プーチン大統領がリアドに来たときは、サルマン首相が自ら出迎えに来て、まるで古くからの朋友のような親しさで、握手を交わしていた。これは、アラブはもうアメリカの言うなりにはならないという、はっきりした意思表示だと言える。

プーチンと一緒にアラブを訪問したロシア代表団は、ラブロフ外相のほかに、ロシア銀行のナビウリナ、チェチェン共和国のカディロフ長官、ロスコスモスやロスアトムの代表といった、そうそうたるメンバーだった。このメンバーからして、金融やエネルギー政策が会談の大きなテーマだったのだろう。その中でも、石油産出量を下げて原油価格を上げるという取り決めがなされたということが報道されていた。

12月6日にアラブ首長国連邦のアブダビに着いて、それからサウジアラビアのリアドを訪問し、7日にはもうモスクワに戻って、イランのライシ大統領と会談していた。アラブ首長国連邦、サウジアラビア、イランの3ヶ国は、来年1月からBRICSに正式に加盟する。この3ヶ国とロシアを合わせたら、世界の石油産出量のかなりの部分を占めることになるそうだ。これはつまり、アメリカはもう石油の値段を自分の都合で操作することができなくなるということを示している。

アメリカ中心の一極支配はもう崩壊して、多極化の世界が生まれたということを、昨年春から、ロシアは、繰り返し言ってきたけれど、今回のアラブ訪問は、世界経済が根本的に転換することを確実にしたようだ。アラブ首長国連邦、サウジアラビア、イランと、アラブ3ヶ国の首脳と矢継ぎ早に会談したあとで、8日に始まった経済フォーラム、「ロシアが呼んでいる!」でスピーチしたプーチン大統領は、グローバル経済のシステムが、不可逆的に根本的な変化を遂げたということを言っていた。これまでは、西側エリートが、他の国々を植民地として搾取していて、それがグローバル経済と呼ばれてきた。そして、西側エリートは、他の国々が成長しないように、制裁をかけたり、政治を混乱させたり、紛争を煽動したりしてきたのだ。第二次世界大戦後に、国連という民主的に国際紛争を解決する機関がありながら、戦争が止まなかったのは、まさにそのためだった。そのスピーチで、プーチン大統領は、そうしたことをはっきりと言っていた。

確かアラブでの会談でだったと思うけれど、来年前半で、世界経済の構造が大きく変わる、ということをプーチン大統領は言っていた。来年は、ロシアがBRICSサミットの開催国になり、アラブ3ヶ国を含めた6ヶ国が、新たに加盟する。それにより、世界経済をBRICSが主導する構造ができるのだ。これは、もはやアメリカが植民地支配のために、世界経済を操作することができなくなるということを意味している。世界経済は、公正な秩序を取り戻し、本来の自由競争の原理が機能するようになることで、豊かさが人々に還元されるようになっていくだろう。

振り返れば、この一年は、世界の権力構造が根本的に多極化した年だった。3月に中国の習近平がモスクワでプーチンと会談し、これは100年来の大きな転換だと言っていた。あのあと、アメリカに敵対させられていたアラブの国々が、中国の仲介で次々と和解し、協力し始めた。8月のBRICSサミットでは、新たに6ヶ国が加盟することになって、BRICSが経済力でG7を追い越すことになった。ニジェールは、マリとブルキナファソに続いて、フランスの傀儡政権がクーデターで倒されたけれど、フランスは軍事介入もできないまま、駐留していた軍隊を撤退することになった。このことは、もはや西側諸国はアフリカを植民地支配できなくなっていることを示してしまった。

インドで行われた9月のG20では、西側諸国がウクライナ侵攻のことでロシアを非難する決議を出させようとしていたのが阻止され、もはやG20がG7の言うなりにはならないことがはっきりした。そして、10月にパレスチナとイスラエルの間で紛争が始まると、西側諸国はパレスチナを非難させようとしたのに、世界中でパレスチナ支援のデモが起き、アラブもアフリカも、イスラエルを支援するアメリカに背を向けた。

そして数日前に、西側グローバリストが国際刑事裁判所に逮捕状を出させたプーチン大統領を、アラブ2ヶ国が、これ以上はないような歓迎ぶりで迎え、石油産出量についての取り決めが交わされたのだ。これは、今年の大きな締めくくりになったできごとだったと思う。

2023年12月9日


プーチンを迎えるサウジアラビアのサルマン王子

https://t.me/AntiSpiegel/8073

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【ロシアは何故スケートに強いのか?】



プーチンが会場の人たちと一緒にロシア国歌を歌っている動画というのがあるのだけれど、それは2018年3月に、韓国の平昌で行われた冬季オリンピックのあとで、出場したロシア選手たちを迎えるイベントでのことだった。

このオリンピックでは、ロシアは組織的なドーピングを行なったと批判されて、そのために国としての出場を禁止されたオリンピックだった。ロシアの選手たちは、個人として出場し、表彰式のときにも、ロシア国歌の演奏はなかった。ロシアのアイスホッケーチームが優勝した表彰式で、ロシア国歌が流れないので、代わりにチームのメンバーがロシア国歌を歌ったのだけれど、それが違反行為とされて非難されたそうだ。

それで、韓国から帰ってきた選手たちを讃えるために、特別にモスクワでイベントが開かれたらしい。その会場でプーチンは、ホッケーチームが優勝したのに、ある理由でロシア国歌が演奏されなかったと言い、だから今、皆でロシア国歌を歌いましょうと言って、自分もマイクを持って一緒に歌ったのだ。

そのときのプーチンは、まったく純粋で、嘘がない人の表情で、何よりもとても堂々としていた。その姿を見て、ロシアのドーピング問題というのは、実は西側諸国に作られた話なのじゃないかと思い始めた。

昨年2月にウクライナへの軍事介入が始まってから、ロシアがあれをした、これをしたと、ありとある嘘が報道されているのを見てきた。しかし、ロシアの政治家たちは、いちいち腹を立てる様子もなく、またいつもの西側の嘘かと堂々と無視しているような態度だった。2018年にロシア国歌を歌っていたときのプーチンも、それと同じ表情をしていたのだ。何を言われても、堂々と無視するという、高貴さのある表情だと思った。

彼は、ドーピング問題やオリンピック委員会の決定のことなどは何も言わず、ただ、子供や孫の世代に幸福な未来があるような、いい国を一緒に作っていきましょう、と言っただけだった。もし本当にドーピングが組織的に行われていたのなら、プーチンは調べさせるなりなんなりしていたはずだ。それをごまかして、次の世代のためにいい国を、と言ってロシア国歌を歌ったのだとすれば、とんでもない偽善になる。だけど、第一にプーチンはそういうことができる人間ではないし、彼の純粋な表情を見れば、そんなごまかしなどはありようがないことはよくわかる。

彼は、ドーピング問題が作られた話なのをよく知っていたのだ。そして、集まっていた人々が、そのことでがっかりしていたのも感じていたのだと思う。それで、ただ「ある理由で、表彰式で国歌を聴くことができませんでした」とだけ言い、それよりも、子供たちや孫、次の世代のために幸せな国を作ることが大事だと、建設的な方向へ意識を向け、そして表彰式で聴けなかったロシア国歌を今ここで皆で一緒に歌いましょうと言ったのだ。

ロシアが組織的にドーピングを行なっているという話は、2010年のバンクーバーでのオリンピックの頃からあった。ロシアは、ドーピング問題が最も多い国だとされており、実際ドーピングによって失格になったり、出場停止になったり、メダルを剥奪された選手が、ロシアは群を抜いて多い。しかしこれは、ロシアが組織的にドーピングを行なっているというよりも、オリンピック委員会が、組織的にロシアを陥れているとも考えられる。ウクライナの報道で、ロシアが西側諸国に何をすべて言われてきたかを考えれば、そちらの方が可能性としては高いように思える。

スケート競技では、日本の浅田真央なども、ずいぶんいろいろな妨害を受けたらしい。どこまで真実なのかはわからないけれど、食事に筋肉弛緩剤を盛られたとか、ジャンプの瞬間にある種の装置を使って転倒させられたとか、審査員が買収されていて、どう見ても不公正な得点をつけられたとかいうことがあったらしい。それは、別の誰かを優勝させるためなのかもしれないし、あるいは彼女を取り込んで利用することができないので、嫌がらせをしたのかもしれない。とにかく、オリンピック優勝者が誰になるかについては、裏でずいぶん大掛かりなことが行われているということが、これでわかる。そして、そのためには、どこからかそれだけのお金が出ているということもだ。

2011年に東京で開催されるはずだったフィギュアスケートの世界選手権が、震災で中止になったときには、モスクワが急遽代わりに大会を行うことになった。そのときに、ロシアは特別に日本を支援するオープニングセレモニーを行なったのだけれど、そのとき、リンク上に地震の波形が映し出されたそうだ。あれは、東日本大震災が実は人工地震だったことを、ロシアはあのときから知っていたということを示しているのだという話があった。

あの頃はまだ、そんな話は、ほとんどの人がまさかと思っていたけれど、ロシアがこれまでにどれだけの妨害を受けてきたかが見えてきた今では、それも大いにあり得る話だと思う。アメリカは、ロシアを妨害するために、ありとあることをやってきたし、人工地震を起こすような大掛かりなことをする用意があることも、すでに経験して知っていたのだと思う。ソ連は、アメリカにしかけられた軍備競争で破産して、1989年に崩壊したけれど、あのときは突如として国が消えてなくなり、社会保障システムも公共施設もすべてが失われるという恐ろしい経験をしている。チェルノブイリ原発事故は、その3年ほど前のことだったけれど、あれもあるいは仕掛けられたことだったのかもしれない。あれも、ソ連を破産させる大きな要因になっていたのに違いないし、あの頃アメリカは、ソ連を破産させるためなら、ありとあることをしていたようだから。

もしそうだとすれば、フィギュアスケートの東京大会が震災で中止になったときに、急遽モスクワでの大会を開催することにしたのは、あれが意図的にしかけられた妨害だったことを知っていたからだったとも考えられる。そういう形で妨害を受けた日本を支援しようとしたのだと。しかし、あのセレモニーは日本では放映されなかった。それは、日本はロシアとともに自立した道を行くのではなく、アメリカに従っていくということを示していたように思える。

ドーピング問題などを使って、ロシアが国際大会で表舞台に出ないようにされているのだとしたら、それは何故なのだろう? 一つには、ロシアはスケートに関しては圧倒的に強くて、放っておいたら、優勝を独占してしまいかねないというのがあるのかもしれない。しかし、ありとある大掛かりな妨害工作を使ってでも、それを阻止しなければならないというのは、いったい何故なのだろう? 

ロシアの選手が強いことに関しては、西側諸国では、あれは国家をあげて選手を育てているからだとか、強制的にドーピングを行なっているからだというようなことが言われている。つまり、あれは国に強制でやらされているのだというような、ネガティブなイメージを与えようとしている。そういう話を聞いたら、スケートの勉強にロシアに行くのはやめた方がいいと多くの人は思うだろう。それを考えると、ロシアが世界的にスケート競技の中心地になってしまうことを防ごうとしているように思える。

一流のスケート選手が、ロシアがいい国だとか、教育メソッドが違うとかいうことを言うようになるのを恐れているのかもしれない。実際、西側グローバリストは、ロシアが恐ろしい国だという印象を与えるために、ありとある情報操作を行なっている。ウクライナにロシアが軍事介入し始めてから、そのことがよくわかったけれど、西側グローバリストは、ロシアや中国が恐ろしい国だと思わせることで、周辺の国に敵対させ、戦争に協力させているのだ。これは、億単位のお金がバンバン流れるような世界だから、印象操作のためのあらゆる闇工作にも、ありあまるほどのお金が出るだろう。

この100年くらい、アメリカのグローバリストたちは、アメリカやアメリカが支配している国々の人々を、愚民化しようとしていたのだ。子供たちにワクチンを強制して、免疫力を低下させたり、食品に有害な添加物を入れて、健康状態を悪化させるようにしていた。学校では、比較したり競争させたりして、健康な自我が育たないようにしていたし、わざと効果の上がらない教育法を使わせていたりもした。彼らは、人々が自分で考える力を持たず、上から言われるままに何でも従うようにしておきたいのだ。それで実際、アメリカでは若いうちからほとんどが肥満状態になり、表面的な快楽にしか反応しないようなことになっている。

そうやって100年もやってきたことを考えれば、アメリカが支配している国で、ろくな人材が育たないのは、無理もない話だ。その一方でロシアは、そうしたこともなく、さらには国が支援していい人材を育てようとしていたのだとすれば、優秀な人々がどんどん出てくるのは、むしろ当然のことだ。ロシアでは、ソ連の時代から、心理学とか波動とかを使ったメソッドなども排除されてこなかったのだから、そのことを考えれば、才能のある子供たちが飛躍的に進歩していけるような態勢ができていても、不思議はない。実際、スポーツや音楽、ダンスなどで、ロシアが飛び抜けたレベルを持っているのは、そのためなのじゃないかと思う。

西側のグローバリストたちは、それをこそ知られたくないのだろう。だから、ロシアのスポーツ選手がドーピングを強制されているとか思わせようとしているのじゃないかと思う。

今はドーピングではなくて、ウクライナへの侵攻のことで、ロシアは国際大会から締め出されているけれど、プーチン政権はもうそれを受け入れているのではなく、差別されている国々のスポーツ選手に機会を与えるためにと、BRICSの国際大会を開催することを決めた。その、もう一つのオリンピックとも言える大会が、来年6月にカザンで行われる。これまでロシアは、ソチでの大会でさえ、西側諸国の腐敗や不正に振り回されてきたけれど、来年のカザンは、そうしたものから守られた最初の国際大会になるだろう。カザンでの大会は、不正や腐敗がないスポーツとは、どのようなものなのかを、示してくれることになるのじゃないかと思う。

2023年12月11日


2018年の韓国でのオリンピックのあとで、ロシア選手を迎えるイベントで、国歌を歌ったプーチン大統領。

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2011年のモスクワでのフィギュアスケート世界選手権大会のオープニング。最初の場面で、リンク上に地震の波形が映し出されています。

https://www.youtube.com/watch?v=jG3I-1dWyVs

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2018年のモスクワでのイベントで、プーチンがスピーチをして、ロシア国歌を一緒に歌う動画です。

https://www.youtube.com/watch?v=k6xn3iP-IZs

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【魔女狩りとしての薬物検査】



競争相手をつぶすために、濡れ衣を着せるというやり方は、昔からあった。自分で放火しておいて、誰がやったと言って追放してしまったり、黒魔術を使ったとありもしないことを語って、火あぶりにしてしまったりした。そういうのはだいたい、自分がやっていることを競争相手の罪にしていることが多い。それで競争相手を追い払うと同時に、自分の犯罪を隠すことができるという手だ。

昨年2月から、ウクライナの紛争のことで、ロシアが悪いと西側メディアは一斉に攻撃しているけれど、よく調べてみると、事実はまるで逆だった。マリウポリの産院を爆撃したという報道も、しばらくしたら、実はウクライナ軍がやっていたことがわかったし、ウクライナの子供たちを強制的に連行しているという話も、ロシアは避難させていただけだったことがわかった。ロシア側は、ウクライナの子供たちがロシアに連れてこられたのは、避難のためかリハビリのためだけだったから、一体何の話をしているのだかわからない、といった様子だった。ところで、現実にウクライナの子供たちを誘拐して、人身売買していたのは、ウクライナ軍の方だった。

今年3月に中国首席の習近平がモスクワでプーチンと会談したときに、国際大会から締め出されているロシアのスポーツ選手たちに機会を与えるために、中国と協力して国際スポーツ大会を開くということを、プーチンが言っていた。そのときは、ロシアがウクライナに侵攻したからという理由で締め出されているのだと思っていたけれど、ロシアの選手が国際大会で出場停止にされているのは、それ以前からのことだった。ロシアが組織的にドーピングを行なっていて、それを隠蔽したという理由で、すべての種目でロシアの選手は4年間国際大会に出場停止になるということを、2019年に世界反ドーピング協会(WADA)が決定したというのだ。

ロシアが選手にドーピングを勧めているというのも、何だか妙な気がしたので、調べてみると、ロシアの選手が使ったとされている薬物は、筋肉増強剤とか興奮剤みたいなものではなくて、狭心症の予防に使うメルドニウムとかトリメタジジンとかの薬だった。それも、昔から市販されていたようなもので、これといった副作用があるわけでもなく、一体何だってそんな薬で大騒ぎしているのだかわからない。この薬が、2014年からWADAの使用禁止薬物リストに入れられたので、ロシア選手のドーピング違反が激増したということらしい。

普通にネット検索すると、西側メディアの見解が書いてある記事ばかりが出てくるけれど、それを見ていると、ロシアばかりがドーピング違反をしているように見える。実際、ロシアの選手が圧倒的多数で摘発されているらしい。だけど、どれも狭心症の予防薬のようなものばかりだ。それなのに、悪どいドーピングをしているように書かれているのが、どうも妙だ。4年もの出場停止処分は、普通ならば、アナボリックステロイドみたいな、危険な筋肉増強剤を常用していた場合くらいで、そうでなかったらせいぜい数カ月なのだそうだ。だけど、ロシアがやったとなると、まるで凶悪犯罪みたいな扱われ方をする。それも、この2年でさんざん見てきた西側のダブルスタンダードそのものだ。

こういう話は、ロシア在住のドイツ人ジャーナリスト、トーマス・レーパーがよく調べて書いているので、彼のサイトを検索して調べてみることにした。すると、実に深い闇が次々と見えてきたのだ。

レーパーがロシア外務省報道官のマリア・ザハロワにインタビューした記事で、ドーピング問題のテーマも出てきていた。「悪いけど、アメリカのスポーツ選手は女性が男のような筋肉質の身体をしていて、一目瞭然じゃない」と彼女は言っていた。プレドニゾロンみたいな、男性ホルモンが入ったステロイド剤を使っているのは、見ただけでわかるというのだ。これは、世界反ドーピング協会で禁止されている薬物だ。そして実際、アメリカや他の西側の選手のドーピングテストでは、プレドニゾロンその他の薬物が何種類も出てきたりしているらしい。ところが、西側の選手だと、それはアレルギーだとか喘息の薬として使っているから、違反にはならない、という判定が出るのだそうだ。

ところでロシアの選手がよく違反摘発されているメルドニウムは、そんな風に筋肉がつくわけでもなく、運動能力が高まるわけでもない。狭心症の予防に、昔から使われてきた薬だというのだ。心臓機能が多少よくなるかもしれないというくらいのことなのに、ロシアの選手が使っていると、ドーピング違反で出場停止だということになる。これはスポーツの公正さとは何の関係もなく、スポーツの政治利用だとザハロワは言っていた。世界中をロシアに敵対させるために、スポーツまで利用しているのだと。

WADAが2019年に出した、すべての種目でロシアの選手を国際大会から締め出すという決定については、いろいろと批判も出ていたらしい。違反した人間が出場停止になるというのならまだわかるけれど、集団的に出場停止にするのは、フェアなやり方ではないというのだ。この集団的な出場停止の決定が出た理由として挙げられたのは、ドーピングテストをしていたモスクワの研究所で、2015年のテストサンプルがすり替えられていたことがわかり、組織的に不正を行なっていたことが判明したからだということだった。しかし、当時このモスクワの研究所の所長を勤めていたグリゴリ・ロドシェンコフという人物は、その後アメリカに逃亡しており、そもそもWADAの工作員だったというのだ。どこまでが事実なのかは確かめていないけれど、彼は、容易にハッキングできるようなデータバンクを使っていて、スポーツ選手たちをサンプルを取り換えるといって脅していたというようなことが書いてあった。アメリカに逃亡したというのだから、ロシアにいられなくなるようなことがあったのだろう。

ところが、2019年になって、WADA はそのことを持ち出してきて、ロシアが組織的にドーピングを隠蔽していたとして、すべての種目の選手を4年間出場停止だというのだ。結局、ロシアの国旗も国歌もなしでなら、個人として出場してもよいということにはなったのだけれど、そのときWADAの副会長は、ロシア選手を国際大会から完全に締め出すことができなかったのが悔しいといって、涙を流さんばかりに怒っていたそうだ。

それも何だか妙な話だ。ドーピング禁止というのは、そもそもスポーツ選手の健康を守るためのものだ。それなのに、反ドーピング協会の人間が、ロシアを締め出せなかったとそんなに悔しがるなんて、選手のことを考えている態度ではない。それより、何かの理由で、ロシアを締め出すことに執念を燃やしているように思える。

ところで、このWADAという組織は、国連機関とかではなくて、国際NPOだかNGOだかといったような組織らしい。民主主義的に決定を下すシステムがあるわけでもなく、透明性もない。しかし、WADAが決定したとなったら、国際大会に参加する国は従わなければならないことになるのだ。この意味で、WADAはスポーツ選手を支配するような権限を持っていると言える。誰が出場できて、誰ができないのか、WADAが決められるのだ。これは脅迫にも使えるし、腐敗の温床になりそうな話でもある。

この類のことも、2020年から、世界保健機関やら感染防止研究所やらヒューマンライツウォッチやらで、さんざん見てきた。こうした国際機関は、外見とは裏腹に公正さや民主主義とは関係のない機関で、資金提供者が望むように判定を出しているだけだったのだ。つまり、体裁のいい八百長組織のようなものだった。

WADAについては、サイトで資金提供者を調べてみれば、どこに繋がっているかは、わかるのじゃないかと思う。私はそこまでは見なかったけれど、ただ製薬会社がパートナーになっているのは、妙だと思った。ドーピングに関わることだから、製薬の専門知識が必要だというのは、もっともらしいのだけれど、あるいは、ある種の薬を許可させるために資金を出しているのではないのかと疑いが湧く。

実際、2020年に始まった奇妙なパンデミックで、薬品認可機関に製薬会社が隠れた形で関わっていたというような話がいたるところで表に出てきていた。薬品認可を出す機関も、その決定を審査する機関も、すべて同じ製薬会社がトンネル会社を通して、資金を出して動かしていたという茶番みたいな話なのだ。認可するのも、税金で国が購入するのも、すべて最初から決まっていて、それで流れるお金を見込んで、組織や政治家を買収していたというわけだった。

ドーピングは、製薬会社にしてみれば、いい商売なのだろう。西側の女子選手たちが、男みたいな身体になるくらいに危ないステロイドや男性ホルモンを使いまくっていても、WADAが味方についていれば、違反摘発されることもない、というのが現状のようだ。そして、WADAに楯突くロシアは、全員が4年間も出場停止とか、理不尽な決定を押しつけられている。その上、ロシア選手のところには、オリンピック宿舎の部屋にWADAの検査官が時間かまわず、朝6時とか夜中とかにやってきて、検査したり、部屋の持ち物を捜査したりしているという。これは、心理的な妨害工作とも言える。その一方で、西側の選手たちは、急に筋肉ムキムキになってたりしても、調べられていないというのだ。

ところで、ロシアのフィギュアスケート選手カミラ・ワリエラがドーピング違反をしているとして出場停止になっている薬、トリメタジジンについて、フランスのスポーツ医学者でドーピング問題の権威であるジャン・ピエール・モンデュナール博士は、この薬が運動能力を向上させる証拠はない、とこの秋に発表していた。これは、狭心症の予防に使われる薬なのだけれど、狭心症を予防する以外の効能はないということだった。それ以外に、やはりロシア選手が違反しているとして処分を受けていた、メルドニウムという狭心症の薬も、運動能力を向上させる証拠はないということだった。

一方、2019年に、リガンドロルという非ステロイド系のホルモン剤が見つかって、二年間の出場停止を受けたカナダの女子ボート選手ローランス・ヴァンサン・ラピュアントは、当時の恋人であったサッカー選手が使っていたために、身体的接触を通して尿に出たのだという冗談みたいな理由で、出場停止処分を解除された。また、イギリス代表として何度もオリンピックに出場していたソマリア出身のマラソン選手モハメッド・ファラーは、彼のコーチ、アルベルト・サラザールが選手たちに許容範囲の何倍ものカルニチンを注射していたというので、職務停止処分になったのだけれど、イギリスの反ドーピング協会は、ファラーの検査サンプルを出して欲しいという要請を拒否した。それで、コーチが処分になっただけで、その件は片づいたことになり、ファラーは出場停止にはならなかった。

ロシアのフィギュア選手ワリエラのことは、ドーピングとセットでなければ出てこないくらいなのに、ファラーのドーピング疑惑のことは、ネット検索しても、ドーピング疑惑に抗議するファラー、というような記事が一つ二つ出てくるくらいで、ヴィキペディアにも書いていない。この数年ほど、ネット情報も含めて、メディアがいかに操作されているかが、表に出てきていたけれど、ドーピング問題についても同じことのようだ。事実がどうなのかは関係なく、ロシアはドーピングを公然とやっている悪い国だ、という印象を与えるようにされているのだ。

ロシアが悪いと言われていると、事実は真逆だというのは、毎回まったく同じなので、ほとんど退屈なくらいだけれど、これでまた、西側のスポーツ界がいかに腐敗しているかがよくわかった。オリンピックを見る人も、世界中で年々減っているようだけれど、八百長が蔓延したスポーツほどつまらないものはないのだから、当然のことだ。背景がわかればこそ、ロシアがBRICSの国際スポーツ大会を開催することにしたのには、単にロシア選手に国際大会の機会を与えるという以上の意味があったことがよくわかる。これは、フェアなスポーツ精神、政治と関係なく国際的な友好を築こうというオリンピック精神を、本当の意味で取り戻すための大会なのだ。

2023年12月15日

13歳の時のカミラ・ワリエラ


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【神童ビジネスの闇】



子供に音楽の才能があったりすると、ひょっとしたらスターになるんじゃないかと、大人たちは期待する。それで、演奏家を育てている先生のところに弟子入りさせようとしたり、子供をその気にさせて、練習に励ませたりする。だけど、そういう思いにつけ込んだビジネスがあるということは、あまり知られていないんじゃないかと思う。

それなりに音感がよくて、運動神経もあり、聞いた曲をどんどん弾けたりして、容姿もそれなりにかわいらしかったりすると、こんな小さな子がこんな難しい曲を演奏するのかと、人が感心するような曲を弾かせて、神童に仕立て上げるのだ。神童を育てている先生というのは、才能のある子しか教えないと言って、もったいをつけているから、親は自分の子がこんな先生に受け入れてもらえたと思って、ますます子供に期待する。それで、法外なレッスン料をせっせと払い、先生が要求する通りに、子供を叱りつけて練習させている。

こういう先生が、ちゃんと子供の音楽性を育てているのかといったら、そんなことはない。もともとそれなりにできる子しか取らないのだけれど、そういう子に一般受けするような演奏を、仕込んでいるだけのことが多い。先生が弾いた通りにコピーして弾かせるのだ。その通りにできるまで、親に見張らせて練習させている。かっこよく見える立ち居振る舞いなども、言った通りにやらせる。

こういう先生は、顔が利くコンクールだとかコンサートホールだとかがあるので、そういうところに出して、賞を取るようにさせたりしている。実のところ、親が法外なレッスン料を払うのは、そういうコネをつけるためだ。音楽業界というのは、実はそういうお金がまわって動いているような世界であったりもする。だから、有名なコンサートホールに出たり、メディアで話題になったりするのは、結局のところ、そういう口利きができる先生に何年も法外なレッスン料を払ってきた人だけだったりもする。

実際、本当に音楽的に表現性がある、いい演奏をする演奏家は、地方のホールで演奏している程度の、無名な演奏家の方が多い。そういう演奏家は、どう考えても、一流ホールで演奏しているスター演奏家たちよりも、数段にいい演奏をしているのに、メディアで騒がれることもなく、一流のホールに招待されることもない。残念ながら、現代のクラシック音楽界というのは、そういう業界なのだ。

だけど多くの人は、一流ホールで演奏して、スター演奏家と騒がれている演奏家の方が、いいに決まっていると思い込んでいる。スター演奏家として売り出されている演奏家というのは、実のところはそうやって仕立て上げられてきた人がほとんどなので、見せかけだけの表面的な演奏だったりする。いかにもスターです、という感じにテンポをゆっくり取って、こってりと聞かせるようなもったいぶった弾き方をしたり、逆に、まるでアクロバットみたいに速く弾いたりする。目をつぶって陶酔したような表情をしたり、眉間にシワを寄せたりして、いかにも音楽と一つになっていますというような身振りをする。

本当に音楽を理解して表現できる人の演奏を見ると、あんな陶酔したような表情や眉間のシワや、音楽に合わせて肩を揺すったりなんていうのは、まったくない。思ったような音を出すのに身体中の筋肉も意識もいっぱいなので、そんなことに無駄な力を使っている余裕などないのだ。まさに、「無我になって」、演奏している。そういう人の演奏を見たら、スター演奏家たちがやっている身振りなどは、実はかっこうだけだというのが、よくわかる。

協奏曲で、オーケストラと演奏しているときには、ソロが始まる前、オーケストラが演奏しているのを聞いている様子を見れば、本当に音楽を理解している演奏家なのか、仕立て上げられたスターなのかは、だいたい見当がついてしまう。本当の演奏家なら、オーケストラが演奏しているのを、もう自分が演奏しているのと同じように、全身全霊で集中して聞いている。だけど、仕立て上げられたスター演奏家たちは、オーケストラが演奏している間、ソロパートが来るのを待っているのだ。うまく印象を与えるように弾けるかどうかと、ドキドキしながら待っているように見える。こういう演奏家は、ソロパートが始まると、目立つような出だしで弾き始める。もったいぶって出てくるような感じで、少しゆっくり目に弾き始めたり、あるいは思い切り大きな音を出したりする。腕を上げて、身振りもかっこよく目立つようにしていたりする。だけど、楽器を知っている人が見たら、これは無駄な動きでしかない。そういう出だしだと、あとの演奏もずっとそんな調子だ。いかにもスターです、という感じの弾き方をするけれど、表面だけで、中身はない演奏だ。

仕立て上げられたスター演奏家たちの演奏は、調味料の味で食べさせているファストフードみたいなものかもしれない。ちゃんとした自然の味がする素材を使っていないので、調味料でそれらしい味をつけているような食べ物だ。ハンバーガーにしてもフライドチキンにしても、ああいう味に慣れてしまうと、ちゃんとした素材で作った料理が、何だかもの足りなく感じるようになる。調味料の味が料理の味だと思い込んでしまうのだ。

それと同じで、仕立て上げられたスター演奏家の演奏に慣れていると、本当に音楽を理解して表現している演奏などは、何だかつまらないように思えたりする。派手な音の出し方とかいかにもかっこいい身振りとかもなく、実に地味な演奏のように思えるかもしれない。とにかく、世間に一流と言われて、メディアで騒がれているような演奏とは違うように思える。そこで、多くの人は、一般に一流と言われているスター演奏家の演奏の方が本物なのだろうと思ってしまうのだと思う。

本当に音楽を表現している演奏を聞いてもらうと、素直に感動してくれるのは、だから、いわゆるクラシック音楽ファンではない人たちだったりする。クラシックには興味がなかったけれど、こういう演奏ならば面白い、と言ってくれる。仕立て上げられたスター演奏家たちの、調味料こってりの表現に、感性が慣らされていないのだ。

本当に音楽を理解して表現できる神童たちも、確かにいる。ロシアのアレクサンドル・ルビャンツェフやデニス・マツエフなどは、10代で出てきたときの演奏を聴いても、堂々たるものだった。音楽の理解の仕方が深いのがよくわかる。協奏曲を弾いていても、オーケストラ全体の音を完全に把握しているのがわかる。決して自分だけ目立とうとするような弾き方をしていないし、それでいて、ソロの音が際立っていて、見事な協演になっている。オーケストラとソロが対等なのだ。こういう演奏だと、オーケストラの演奏家たちも、実に楽しそうだ。

そういうのを見ていると、ロシアではクラシック音楽界があまり腐敗していないのだろうと思う。西側諸国では残念ながら、一流ホールや有名なコンクールやメディアなどが、金融グローバリストたちにしっかりと独占されている。だから、誰が持ち上げられて売り出されるのかも、お金で決まるような世界だったりする。そういう環境では、本当にいい演奏ができる演奏家たちは、なかなか育たないし、育っても、地方の無名なホールくらいまでだったりする。

ロシア出身の演奏家でも、スターに仕立て上げられたような人たちはいて、腐敗のにおいがすることもあるけれど、しかしロシアでは、本当にいい演奏をする子供たちが、一流の演奏家として成長していけるような環境もちゃんとあるようだ。

西側諸国には、スター演奏家を目指して、何年も有名な先生に法外なレッスン料を払ってきた人たちがたくさんいるけれど、9割以上は演奏家にはなれない。こういう子たちは、11歳くらいで音大に入っていて、高校も出ていなかったりするので、音大を卒業する頃になって、どうしていいかわからなくなる。先生のコピーをすることだけで、自分で表現する楽しみも知らないので、本当に音楽が自分がやることなのかもわからなくなったりする。こういう子たちは、挫折感でほとんど死にそうになっていることも多い。親はもちろん、子供の将来のためだと思ってやっているのだけれど、そういうのを見ていると、神童教育というのは、身体的精神的な幼児虐待以外の何ものでもないと思う。

ロシアの若い演奏家たちの生き生きした演奏ぶりを見ていると、グローバリストの独占がなければ、音楽もこんな風に解放されたあり方があるのかと思う。お金に惑わされずに、音楽の本当の精神を追究していけるような環境があるようだ。

18世紀から19世紀にかけて、オーストリアとドイツでは、音楽が著しく発展して、バッハ、モーツァルトからベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、シューマンなど、すばらしい作曲家が現れ、人々はそうした演奏に馴染んでいた。それが20世紀に入って、金融グローバリストに独占されて、明らかに衰退させられたのだ。才能のある子たちは、神童教育を受けてつぶされたり、利用されたりした。スターにしてもらう代わり、本当の表現でないような演奏をして、それが一流であるかのように宣伝されたのだ。あの仕立て上げられたスター演奏家たちは、まさにそのために利用されていたようなものだった。金融グローバリストたちは、すぐれた音楽を意図的に弾圧しようとしたのだ。それというのも、すぐれた音楽は、人を本来の力に目覚めさせてしまうからだ。

子供たちの無限の可能性は、教育によって容易につぶすこともできれば、大きく育てていくこともできる。ロシアでは、ソ連崩壊と腐敗の90年代のあとで、すでに子供たちの能力を解放するような環境ができているようだ。グローバリストが世界中を独占するような時代ももう終わろうとしているようだから、きっとあと10年もすれば、音楽文化のあり方もすっかり変わっていたりするのだろう。だから、「子供の将来のために」と焦るのではなく、本当の創造性が育つように、守られていったらいいなと思うのだ。

2023年12月16日


神童の元祖モーツァルトの子供時代


ヴァディム・レーピンの15歳のときの演奏。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲第一番ニ長調

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アレクサンドル・マロフェーエフの15歳のときの演奏。2017年。チャイコフスキーのピアノ協奏曲。指揮はゲルギエフ。身体小さいので、体重も使ってパワフルな音出しています。

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ツィゴイネルワイゼンのいい演奏探してて見つけてしまったんですが、この子、本物の神童です。テオ・ゲルトラー。名前はドイツ系ですが、ハンガリーの人みたいです。ジプシー音楽の地元でもあります。ツィゴイネルワイゼンは、これくらいジプシーっぽく弾かないと味が出てこないですね。

https://m.youtube.com/watch?v=1XXFiTqnHkQ

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テオ・ゲルトラーのカルメン・ファンタジー。たまらないです。

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これは、11歳のときのメンデルスゾーン、ヴァイオリン協奏曲。さすがに子供っぽい身体つきしてますが、身体の力の使い方が実にうまいです。背中の筋肉までしっかり使って、いい音出してますね。これが2019年の録音だから、2008年の生まれですね。ツィゴイネルワイゼンのときは13歳。

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テオ・ゲルトラーのパガニーニ、ヴァイオリン協奏曲第一番第一楽章。パガニーニは、難曲としてよく神童たちが弾いてますが、これ聴くと、なるほどこういう曲だったんだなというのが、初めてわかる感じです。2022年、14歳のときの演奏です。



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【ソ連には自由がなかったのか?】



リュドミラ・ベルソワとオレグ・プロトポポフは、1960年代に活躍した伝説的なソ連のフィギュアスケートのペアだ。私のパートナーはプロで踊っていたこともあるバレエダンサーだったのだけれど、当時リンツのバレエ学校に通っていた頃、フィギュアスケートもやっていたことがあって、プロトポポフのことも知っていた。彼が昔の録画をネットで見つけてきて、これがすごいというので、一緒に見ていたのだ。

当時のフィギュアスケートは、今に比べたら、大した技もなく、ジャンプして2回もスピンしたら、もう十分な大技だ。その意味では、実に地味なのだけれど、しかしこの身体の動きの美しさはどうだろう。しっかりと軸が通った動きで、実に優雅だし、力強い。これほど美しい動きは、今の選手でも、ちょっとないくらいだ。

身体の動きの軸の通り方からして、バレエの基礎があるのははっきりわかる。プロトポポフはバレエダンサーだったわけではないけれど、お母さんがプロのバレエダンサーで、ずっとバレエの先生をしていたそうだ。だから、彼もそれなりの心得があるのだろう。

ロシアはバレエもフィギュアスケートもとてもレベルが高いのだけれど、それはソ連の時代から厳しい教育メソッドで仕込んでいるからなのだと一般には言われている。だけど、ベルソワとプロトポポフの美しい動きを見ていて、厳しく仕込まれてやっているようには、私には見えなかった。いや、高度なことを要求するという意味では、厳しいのかもしれないけれど、嫌なことを強制されてやっていたようには思えなかった。

ソ連の選手は、西側の選手とは確かに何かが違う。しかし、強制されている感じなのかといったら、むしろ西側の選手の方が強制されている感じだ。何かしら自分の意志が抗うようなことを強制されたような、心理的な歪みのようなものを感じるのだ。先生や世間の評価に依存させられているようだし、自分がどう見られるのかという不安に支配されているような弱さが透けて見えるようだ。

それに対して、ソ連の選手は、人の評価みたいなものには左右されていないように見える。エゴに左右されていない純粋さを感じることが多い。謙虚というか、純粋というか。彼らにとっては、自分が他の人より何ができるとか、人との比較が重要なのではないように見える。そうではなくて、もっと大きなもののために、打ち込んでいるような謙虚さを感じる。

少なくとも、ソ連の選手たちは、将来どうなるのかということを心配する必要はなかったわけだ。その意味では、彼らは精神的にとても自由なように見える。そこは、西側の選手とははっきりと違う。スポーツ選手やダンサーは、それほど長くやっていられるわけではない。できなくなったとき、そのあとはどうするのか? 今のうちにお店でも買っておくべきなのかとか、今のうちに有名になれば、タレントでやっていけるかもしれないとか、そういうことを考えなければならない。

だけど、ベルソワとプロトポポフの演技を見ていると、そんな不安を感じているようにはまったく見えない。ソ連の選手たちは、選手としての寿命が終わったら、トレーナーになるとかして、次の世代を育てることを要求されるのだろう。そこに選択の自由はないのかもしれない。しかし、どちらにしても、その能力を生かしたことをして、生活が保障されていることは確かだ。だから、名声だとかお金だとかに惑わされずに、ただ純粋に打ち込んでいられるのだと思う。ベルソワとプロトポポフのあまりの純粋な演技を見て、これは西側世界では望むこともできないような幸福だと言えると思った。

ところで、ネットで経歴を見てみたら、二人は1979年にスイスに亡命していることがわかった。ソ連の時代には、勝手に移住することはできなかったから、西側諸国で暮らしたくて、亡命する人たちも少なくなかった。ソ連には自由がないけれど、西側諸国には自由がある、と思い込んだのだ。亡命して、スイスのグリンデルヴァルトに移住したそうだ。

ソ連にいたら、金メダルをいくつ取っても、グリンデルヴァルトみたいな高級別荘地に豪邸を持つような自由はなかったのだろう。だけど、西側諸国では、生活が保障されていないことや、だからお金に支配されるというようなことは、おそらく考えていなかったのだろう。スポンサーの望むままに、あれこれを宣伝しなければならないとか、拒否したら資金を引き揚げられたり、契約を解除されたりするかもしれないというようなことも、おそらく知らなかったのだろう。

ソ連を離れたあとの2人は、あまり幸せそうには見えなかった。少なくとも、ソ連時代のあの純粋さはなくなっていた。あの頃ほど若くはないというのもあるのかもしれないけれど、それだけではないような気がした。西側に来れば自由だと思い込まされて、出てきたけれど、思ったような世界ではなかったことに気がついたのかもしれない。だけど、今さらソ連に戻るわけにはいかないし、西側のスポンサーたちは、彼らが西側諸国の批判をしたり、やっぱりソ連がよかったなどと発言することを許すとは思えない。ソ連からの亡命者たちは、西側のスポンサーたちに、ソ連のネガティブ・キャンペーンに利用され続けることになるのだろう。

実際、昨年2月にロシアがウクライナに軍事介入し始めてから、西側諸国で仕事をしていたロシアの音楽家たちは、ロシアを批判することを強要された。公に批判しなければ、契約を解除すると脅されさえした。それで、メトロポリタン劇場で歌っていたオペラ歌手のアンナ・ネトレプコは、最初の見解を翻して、ロシアを批判することで、契約を継続してもらった。指揮者のゲルギエフは、ロシアを批判することを拒否して、ミュンヘンのオーケストラを解雇された。西側のグローバリストたちは、今でもロシアを悪者にするためにあらゆる手を使って情報操作をしているのだ。ソ連の時代に亡命してきたアーティストなどは、彼らにとって最高の宣伝塔だったのだろうということは、容易に想像できる。

ある意味、ソ連は西側のお金支配の世界から、人々を守っていたと言えるかもしれない。ソ連には、豪邸に住む自由だとか、職業を変える自由だとかはなかったかもしれないけれど、お金に支配されずに純粋に才能を生かして精進し、仕事に献身する自由というものはあったのだ。これは、西側世界では、いくら望んでも、とうてい得られないような自由だ。

ソ連の時代には、大会とかで西側に行く人たちには、監視がつけられていて、亡命するのも容易ではなかったらしい。しかし、ソ連にはない自由が西側にはあると思い込まされ、亡命するように誘惑されて、情報操作に利用される危険があったということを考えるならば、監視をつけて守ろうとするのも、もっともなことのようにも思える。情報が自由になった今だって、西側ではロシアについてあることないことがすべて語られているのだ。東西冷戦下の時代に、一体どれだけの嘘が語られ、信じられていたのかわからない。そうした情報戦から守るために、西側からの情報を制限するとか、西側に行く人たちに監視をつけるとかも、ソ連にとっては国を守るためには必要な手段だったのかもしれない。

つまるところ、金融グローバリストがお金で世界を支配していたために、西側も東側も自由ではなかったのだ。西側では人々はお金に支配されていたし、東側では西側がかけてくる経済封鎖や情報操作に対処するために、自由が制限されていた。それが西側では、東側だけが自由がないかのように言っていたわけなのだ。

しかし今、グローバリストの世界支配も終わりが近づいてきたようだ。結局のところ、それこそが西側も東側も自由でなかった原因なのだから、もうお金に縛られることもなく、本当に自由に生きられる時代が、直にやってくることになるのだろう。

2023年12月20日


リュドミラ・ベルソワとオレグ・プロトポポフ

https://youtu.be/me4FlewMtaI?si=JaizJ3DyqQbwb8m9

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【永遠の力との繋がりがある国とない国】



ロシアが強いのは、神とか永遠のものと繋がろうとして湧き上がるとてつもない思いの力の強さなのだということを、ロシアの人たちは言っているのだそうだ。2年ほど前から、ロシアからの情報がいろいろと見るようになって、いろいろなことを見聞きしてきたから、この言葉を聞いたときに、なるほどと思えるものがあった。

もちろん、ドストエフスキーやトルストイの小説で読み取れる、ある特殊な精神性の熱さというものも、まさにそれだと思うのだけれど、ロシアの政治家たちの超人的と言える働きぶりを見ていても、何かしら神とか永遠のものとの繋がりでもなければ、不可能な技だと思うことがよくある。

永遠のものとの繋がりとは、しかし、もともとはどこの民族も持っていたものなのだと思う。ケルト人たちは、征服しようとするローマ帝国の軍隊の前で、超人的な強さを持っていたと言われている。縄文人たちもまたそうだ。それは、祖霊とか土地の自然の神々たちとの繋がりによって、人間に可能だと思われている域を超えた大きな力とともに生きることを知っているからなのだと思う。

ロシアの政治家たちはよく、ロシアは国の主権を持っている数少ない国だということを言う。それは、西側諸国と言われる国々は、ほとんどが金融グローバリストたちに支配されていて、事実上主権を持っていないという意味でだ。アフリカやアジア、中南米の多くの国々は、西側諸国の覇権主義によって、やはり事実上主権を奪われている。ロシアはその中で、主権を保っている数少ない国の一つなのだ。それはつまり、支配されていないということ、本来の力を奪われていないということ、もともとあった大きなものとの繋がりを断ち切られていないということだ。

歴史の中で、何度も乗っ取られ、主権を奪われてはきたけれど、そのたびに必ず取り返してきたのが、この国だ。それは、ロシアの人々のこの大きな力との繋がりは、断ち切ろうにも断ち切ることができないようなものだったからなのかもしれない。

数日前に、ロシアの幼稚園で、子供たちを真冬の雪の中に出して、冷水を浴びせている動画が拡散されていた。幼稚園や小学校で、運動のあとなどに、裸になって外へ出て、雪の中を歩いたり、冷水を浴びたりする習慣があるのだそうだ。氷点下15度の中で、子供に冷水を浴びせるなんて、話だけ聞いたら、ずいぶんひどいことをする国だと思う。だけど、その動画を見ていても、子供たちはひどいことをされていると感じている様子はまるきりなかったし、保母さんたちも、子供を厳しく扱っているという様子はまったくなかった。

保母さんは、「さあ、行くわよ、1,2,3!」と言ってバケツの水をかけていて、子供はキャーッと陽気な声を上げている。他の国でこんなことをしたら、大問題になったりするのかもしれないけれど、おそらく保母さんたちも子供の親たちもそうやって育ったので、それが大丈夫だということをちゃんと知っているのだと思う。その信頼感があってこその、この平穏さなのだと思う。

これは、寒さに強くなるための健康法なのだそうで、この頃はアイスバスと言って、西側のセレブたちの間でも流行しているそうだ。それは、特別に氷の浮いたお風呂を作って、その中に入るのだけれど、ロシアではもっと簡単にお金のかからない方法でそれを子供たちにやっているわけだ。日本でも、昔の人たちは、健康のために真冬に毎朝、井戸水を浴びたり、海に入ったりしていた。これで寒いときに自然に身体が体温を上げるようになり、細胞が活性化されて、若返ったりもするらしい。

ロシアでは厳格な教育法をしているから強いのだとよく言われるのだけれど、それもあるいはこの類のことなのかもしれない。それというのも、ロシアの音楽家にしてもスポーツ選手やバレエダンサーにしても、支配されて厳しく仕込まれたような感じがまったくないからなのだ。抑圧されていない。それは、真冬に冷水を浴びせるみたいに、話だけ聞いたらひどいけれど、実は最高の健康法だというようなことを、先生との間の強い信頼関係の中でやってきた人たちだからなのかもしれない。

ちょうど、バレエのロシア式の教え方と西側の教え方とを比較したギャグ動画が拡散されていたのだけれど、それでは、ロシア式では、先生が手をピシッと叩いたり、頭をギュッと抑えたりしているのに、西側になると、先生が「どうかこうしてくれませんか?」とお願いしている。これは、大げさに演じているけれど、ある部分では事実を示していると思う。

私のパートナーはロシア式でバレエを習っていたというので、その動画を見せて、こういう風に習ったのかと聞いてみた。すると彼は、「ロシアじゃどうなのかは知らないけれど、オーストリアじゃ絶対こんなことはしない」と言っていた。しかし、確かに厳しい先生ではあって、開脚練習のときに、「まだまだいけるわよ!」と言われて、肩を押されたりはしたし、やれと言ったら軍隊式に問答無用でやらされるとは言っていた。でも先生は、生徒の限界をよく心得ていて、限界を超えたことは要求しなかったし、叱りつけるようなことは決してなかったと言っていた。

だからやっぱり、真冬に冷水を浴びせるのと同じようなことなのだろう。当人には無理だと思えているようなことを、絶対に大丈夫なのを知っていて、やらせるようなことなのだ。これは、それだけの信頼関係があってこそのことだ。だから教え方が厳しいとは言っても、関係は対等ではあり続けて、生徒たちは支配されているようなところがないのだと思う。

その動画では、ロシア式ではおっかない顔をして、生徒を乱暴に扱っているのだけれど、本当のロシア式は、ああいうものではないのだろう。先生は生徒に対して怒って厳しくするわけではないのだ。ただ、絶対できるとわかっていることを、半ば強制的にやらせているということのようだ。

モスクワの国立バレエ学院の子供たちの動画を見ていても、先生が子供たちを厳しく扱っているようには見えなかった。寄宿舎に住んでいる子供たちは、毎晩同じ時間に寝て、同じ時間に起きることが義務づけられているのだそうで、それは自由がないとも言える。でも、先生が子供たちの寝室に来て、さあ皆おやすみなさい、と灯りを消していく場面が映っていたけれど、そこには厳しくしているという感じはまったくなかった。幼稚園で冷水を浴びせている保母さんの態度とも似ていて、愛情と信頼にあふれている関係があるのが感じられた。いいダンサーになろうと思ったら、規則正しい生活をする自制心を持つことが必要だ。だから、そういう習慣をつけさせるためにやっているということだった。

それで思い出すのは、オリバー・ストーンのインタビューで、プーチンが毎晩同じ時間に寝て同じ時間に起きているから、心配事で眠れないことはないのだと答えていたことだった。それは、軍隊時代からの習慣で変わったことはないのだと。ロシアの政治家たちの働き方といったら、国際フォーラムのときなどには、夜遅くまで会談や会議があっても、翌日8時にはもう他の政治家たちとの朝食会に出ているという超人ぶりなのだけれど、それも、毎日同じ時間にしっかり眠るという習慣がついているからなのかもしれない。

もともとはどこの国にだって、それぞれそういう自制心を鍛える習慣があったのだ。明治時代くらいまでの日本の人たちは、毎朝冷水を浴びる習慣があったりして、それなりに強靭な身体と精神力を持っていた。そうしたことは、先祖代々がやってきたという、何か大きなものに繋がることでもあるのだと思う。ロシアでは、ロシア式は厳格だとか軍隊式だとか外から言われながらも、ともかくもそうした伝統を保ってきたのだ。強い国を支配しようと思ったら、そういう習慣を、危険だとか迷信だとか古いとか言ってやめさせるのが、一番効果的だとも言える。日本でもヨーロッパでも、この100年くらいで、そんな風にして、昔からあった大きな力から切り離されていったのだ。

私はピアノをロシア式で習ったけれど、厳しいように感じたことはなかった。それは、不可能だという思い込みを超えて、可能にしてしまう魔法のような感じのものだと私には思えた。たとえば、ベートーヴェンの「エリーゼのために」の後半で、高音から中音へ雨が落ちてくるみたいにスピーディに弾くところとか、最初はあんなスピードで指が動くはずがないと思う。ロシア式では、まず指はなしで、手首だけそのスピードで動かす練習をする。それから指を使って弾くと、どうしてだかわからないけれど、そのスピードでちゃんと弾けてしまうのだ。ロシア式で習っていると、そういう「どうしてなんだかわからないけど、できる」ということがたくさんある。

それも、真冬に冷水を浴びると身体が温まるとか、無理だと思っていたところまで開脚できてしまったとか、そういうのと同じことなのかもしれない。この100年くらい、日本でもヨーロッパでも、「これは危険」「これは虐待」と言って、逆に無限の可能性に通じる領域に柵をして、出られないようにするようなことをしてきたのだ。それこそが、永遠の力と繋がったときに湧き上がるとてつもない力から、人々を切り離していたのだと言える。

この間、公開セミナーでモスクワのゲートを開くのを皆でやって、これまで封じ込められてきたリジリエンスの力が戻ったと思ったのだけれど、それこそは、この永遠の力との繋がりなのかもしれない。こうした繋がりは、外から抑えつけて切り離すことはできるけれど、しかし繋がりがまったく断たれてしまうことはないのだと思う。だから、抑えつける力が弱まってくれば、自然に復元してくるはずだ。どうもその転換が、起こってきているのじゃないかという気がするのだ。

2023年12月21日


ボリショイバレエ学院

ロシアの幼稚園で、子供たちに冷水を浴びせている動画
https://t.me/neuesausrussland/17399

ロシアとヨーロッパのバレエの教え方の違い

Which approach to teaching ballet is more correct in your opinion?

Posted by Ballet Dance on Monday, November 27, 2023


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【エゴの次元から神の次元へ】



次元上昇が集合的に起こるということが、しばらく前から言われているけれど、それはつまり、エゴの次元から神の次元に移行するということなのだと思う。この200年くらいは、社会的に3−4次元までが意識の領域で、それ以外のものは存在していないものとみなされていた。それが、5−6次元になると、合理的な思考だけではつかみきれない領域が意識に入ってくる。これがつまり、神とか永遠とか、宇宙とか言われるような領域だ。

公開セミナー「多極化世界を意識で作る」の最終回で、地球の最後のゲートだというモスクワのエネルギーにアクセスしたとき、龍の大きな顔がこちらに向かって口を開けているイメージが出てきたと言った人が、何人かいた。あとでそのことを思い出して、あれはエゴの次元から神の次元へ移行するときのゲートのようなものだったのじゃないかと思った。

4年前に奇妙なパンデミックが始まってから、実は世界がいかに金融グローバリストに支配されていたかということが、次々と見えてきた。そして、この支配からいかにして自分を解放し、世界を解放するかということが、かなり差し迫った課題として、突きつけられたわけなのだ。そうでなければ、大衆意識操作で支配されたまま、ウクライナみたいに集団自殺的な戦闘に駆り立てられないともかぎらない。今も続いているあの戦争で豊かになっているのは、キエフのエリートたちとアメリカの軍事産業なのだ。世界中から巨額の税金が流れ込んでいる。戦争とは、まさにそのために何年もかけて大衆意識操作を行い、メディアを操作して虚偽の報道をさせて、作り出されていく。

この数年で見てきたのは、人々がいかにお金に支配されてしまうかということだ。政治家もメディアも警察も裁判官も、お金や地位や脅しで支配されてしまっていて、恐ろしい犯罪へ向かって、世の中を動かしていっている。お金がもらえるからとか、あるいはお金がもらえなくなるからというので、悪いことだと知りつつも、やってしまうのだ。そこには、人々を脅して従わせている人たちも含まれる。従わない人を解雇したり、家宅捜索させたり、ライセンスを取り上げたり、暗殺したりするために使われている人たちも、またたくさんいるのだ。

これまでの世界では、人々はお金による豊かさだとか、地位だとか名声といったものを、成功と考えてきた。だから、多くの人は、意識無意識にそうしたものを目指して生きてきた。しかし、そうしたものにこだわっていたら、支配されて悪事に加担させられてしまう状況が現れたのだ。そうなったとき、そこから自分を解放しようと思ったら、これまでの価値観を手放して、もっと大きな価値観に従っていくしかない。それは、神とか永遠とか宇宙とか呼ばれるような、魂の領域の価値観だ。

オリバー・ストーンのインタビューで、プーチンが暗殺から身を守るために何をしているのかと聞かれている場面があるのだけれど、そこで彼は、いつものおっとりとした表情のまま、「私はただ自分の仕事をしっかりやって、身の安全は警護にまかせているから」と言っていた。暗殺の王道は警護に入り込むことなのに?とオリバー・ストーンに突っ込まれて、「ええ」と答えたときに、プーチンの目が一瞬意味ありげ に光った。

それを見て、この人は神のようなものに身をゆだねてしまっている人なのだなと、私は思ったのだ。そして、身をゆだねているかぎりは大きな力に守られるということを知っているのだと。自分の身の安全だとか、財産だとか地位だとかを価値観にして生きていたら、そうしたもので支配されてしまう。実際それが、世界中の大勢の政治家たちに起こったことだ。腐敗させられ、弱みをつかまれて、何でも言うなりにさせられてしまう。

だけどプーチンは、エリツィンから大統領の職を受け継いだとき、その次元を超えてしまったのだと思う。神とか永遠とかの次元に移行すると、この地上での自分の使命を果たすことが、何よりも重要なことになる。それは、何かを達成するとか成功するとかいうことでさえない。だけど、自分の使命を果たしているかぎりは、大きな力に必ず守られていくことがわかるのだ。その力こそが、神とか永遠とか宇宙とか呼ばれる力だ。それを知っている人は、身の危険や何かを失うことの恐怖に支配されることはない。それよりも、自分の使命を果たさないことの方が恐い。

プーチンがしてきたことを見れば、ロシア大統領の職を受け継ぐことは、それだけの覚悟がなければできないことだったということがよくわかる。西側諸国のエリートたちは、エリツィンと同様に、彼を腐敗させようと待ちかまえていたのだ。彼に突きつけられたのは、国を売るのか戦うのかという選択だ。彼には国を売る選択肢はなかったのだから、危険を冒してでも戦うしかない。ところが、その覚悟を決めたとき、人はエゴの次元から神の次元に移行してしまう。何かを失う恐怖は消え、すべてを大きな力にゆだねてしまう心境になる。その状態になっているとき、現実に、人は何か不思議な力に守られていく。

モスクワのゲートに皆でアクセスしてから、支配の理不尽さというテーマが意識の中で再び浮上していたのだけれど、それはおそらく解けていくためなのだろう。それで、モスクワのエネルギーにまたアクセスしていたら、口を開けている大きな龍の顔のイメージが出てきたのだ。セミナーのとき、何人かが同じイメージを見たと言っていた。あれはこの龍なのに違いない。それで、その龍の口の中に飛び込んでみたら、自分自身が巨大な龍になったような、あるいは巨大な龍の一部になったような気がして、身体が熱くなり、不安感が消えた。この熱さだ、モスクワの熱さは。そして、これはエゴの次元から神の次元への入り口だ。

この大いなる力とともにある感覚、大いなる力の一部になっている感覚は、ファシズムとは似て非なるものだ。おそらくファシズムとは、この感覚から切り離されたところで、その代償になるものを求めようとする思いから、生じる現象なのだろう。この大きなものに守られる安心感が、ファシズム的な大衆の中にいる虚偽の安心感にすり替えられるのだ。ファシズムの根底にあるのは恐怖だけれど、神の次元は恐怖を超えたところにある。

この200年ほど、ロシアは何度もファシズム的な力に飲み込まれながら、それと戦ってきた。フランス革命もロシア革命も、その意味では実は同種のものだったのだ。皆が豊かになると思い込まされて、集団で破壊へと駆り立てられていく。そのときに必ず宗教やスピリチュアルなものが弾圧されたり、別なものにすり替えられたりする。それは、ともかくも宗教が神の次元への入り口になっているからなのだろう。フランス革命でもロシア革命でも、それは同じだった。神の次元への入り口を閉ざされたところで、人々は外から与えられた理想=イデオロギーによって、どうにでも支配されてしまうのだ。

2月にクラシック音楽の話を書いていたとき、世間一般に一流だと言われている演奏は、ほとんどがエゴの次元で演奏されていると思ったのだけれど、その中でオランダバッハ協会の演奏は、どれもその次元を超えているような演奏だった。西洋の音楽は、18世紀から19世紀にかけて高度に発展し、それ自体が神の次元の入り口のようになっている。ところが、それがまさに、20世紀になってから破壊されていったのだ。そして、エゴの次元で演奏される演奏が、一流であるかのように言われてきた。それも、フランス革命やロシア革命で宗教を弾圧されたことと同様なのだろう。神の次元を閉ざすことによって、人々をファシズム的なものに支配されるようにするためなのだ。

オランダバッハ協会の演奏や、ロシアの演奏家たちの演奏を聞けば、クラシック音楽とは、エゴの次元の音楽ではないことがよくわかる。これは、神とか永遠とか宇宙とかいったような、ずっと大きな力とともにある音楽なのだ。だから、本当の音楽をそのままに演奏した演奏は、とても謙虚で純粋だ。演奏家たちも、その感覚を感じて、その中にいるのがわかるような謙虚さ、純粋さがある。このようにしてクラシック音楽を演奏すること、聴くことは、神の次元の意識を共有することなのだ。

ナポレオン戦争でも第二次世界大戦でも今のウクライナの戦争でも、ロシアはいつもファシズム的な大衆狂気に駆り立てられた国々から身を守るために戦ってきた。どんな汚い手も、どんな残虐なことも言われるままにやってしまうような人々を相手にしてきたのだ。その歴史を通して、ロシアは神の次元のゲートを少しずつ開いていったのだろうか? これこそは、ファシズムに対する本当の免疫になるものだと思う。

2023年12月22日


台湾の龍虎塔の龍の入り口



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【支配のための技術と自由のための技術】



11月末にモスクワで開催された「AIの旅 2023」というフォーラムで、AIは核技術と同じで、人々の幸福のためにも使えるし、害を加えるためにも使えるということを、ロシア大統領プーチンが言っていた。

実際、人工知能はアルゴリズムを使って情報を検閲し、都合の悪い情報を削除したり、表に出ないようにしたりしている。言論の自由を奪うためのツールになっているばかりでなく、虚偽の情報が広まるように操作されている。これは、SNSや検索マシーンを使っていれば、日常的に経験するようなことだ。

さらには、ディープフェイクの技術で、存在していない人物があたかも存在しているかのように見せかけることもできるし、別人がなりすますようなこともできてしまう。事実かどうかは知らないけれど、アメリカのテレビによく出ていたウィルス学の権威だかの人物が、実はディープフェイクで作られた実在していない人物だったというような話もあった。そのようにして、虚構の現実をAIで作り出して、人々に信じさせることが、実際にもう何年も前から行われていたことが、この数年で次々表に出てきていた。

人々に虚構の現実を信じさせることで、自分から毒を摂取させたり、戦争に駆り立てたりということが、実際にできてしまうのだ。それを思うならば、プーチンがAI技術を核技術にたとえたのも、決して誇張ではないことがわかる。

このAIフォーラムでは、AI技術の展示会も行われていて、ディープフェイクの実演などもやっていた。大統領報道官のドミトリー・ペスコフが、ディープフェイクの実演で、イーロン・マスクの顔になっている動画などが、SNSで拡散されていた。映像が本物か偽物かを分析するソフトを使って、アポロの月面着陸の映像を分析させるのを、プーチンに見せている動画も出ていた。映像に不自然なところがあるかないかを、AIが解析していて、不自然なところには赤印が出る。アポロの月面着陸の映像では、赤印がたくさん出ていたけれど、中国の月面探査機では出てこない、と実演している人が説明していた。プーチンはそれを見て、複雑な顔をして「興味深いですね」と言っていた。この映像解析ソフトは、ロシア製ではなくて、グーグル社のものだったそうだ。

それを見ていても、ロシア政府が、AIの悪用から国を守るために、その技術を知らなければならないと考えているのがわかる。実際、西側グローバリストたちは、ロシアに敵対するために、そうした技術を使っているわけなのだ。ロシアについての真実の情報が世界に広まらないようにし、ロシアが悪者に見えるような虚偽の情報を人々が信じるようにしている。だから、ロシアはそのためにもAI技術の開発を急がなければならなくなっている。これもまた、東西冷戦下での核軍備競争と同じような状況だと言える。

世界中で広く使われているChatGPTで、見分けがつかないような見事な文章ができるというので、どんなものか試してみようと思い、インストールして使ってみた。いろいろな質問をして、文章を書かせてみたのだけれど、まるで頭の硬い教頭先生と話しているみたいだというのが、私がまず感じた印象だった。いろいろなことを知っていて、理路整然と答えてはくるのだけれど、どれも実に陳腐で、一般常識の範囲を一歩も出ないような答えばかりだった。ファクトチェッカーが書いてくる論理ともそっくりだと思った。要するに「正しい情報」として使っている情報源が、すでに検閲済みのものなのだ。だから、西側グローバリストのナラティブから一歩も出ないような文章しか生成できないようになっている。

「クリスマスについての感動的な話を」とか入れて、短い物語を書かせてもみたのだけれど、これがまたできすぎたいい話みたいなやつで、退屈極まりないような話だった。あれこれいろいろな文章を書かせているうちに、何だか檻の中に閉じ込められているような気がしてきて、息苦しくなってきた。こんなものが便利だと言われて、多くの人が使っているというのが、すでにおかしな状況だと思った。

ChatGPTを使えば、危険思想の持ち主だとか思われることもなく、合格点がもらえるような回答が書けるというのは確かだ。まさにそのような文章が、学校でも職場でも要求されているということなのだろう。これは、自分からグローバリストの思うままになるロボットになっているようなものでもある。彼らが思わせたいようなことを、大勢の人たちがChatGPTを使って自分から発言しているというわけなのだから。AIが根拠として使っている情報が、事実なのかどうかも調べないで、そのまま自分の論文として提出したりするのも、日常的に行われていることらしい。

ChatGPTの文章が見分けがつかないと言っている人は、おそらく世間一般のナラティブから出た現実を認識していないからなのだろう。それは、柵の中の世界がすべてだと思っているようなものだ。だから、柵の中にいるかぎりは、AIが書いたのか人が書いたのかの見分けがつかない。だけど、柵の外から見たら、これは一目瞭然でわかる。AIが設けている柵から、思考が一歩も出ていないからだ。

モスクワでのAIフォーラムでのプーチンのスピーチでは、AIによってあらゆる分野で仕事の効率化を図ることができると言っていた。産業でのコスト削減や、安全確保に使えるし、消費者のニーズに合った製品を開発したり、医療や教育の分野でアシスタントのように使うことができるとも。こうした分野でAIを使うとき、使っている情報源を操作すれば、容易に独占することもまた可能になってしまう。

たとえば、どういう症状のときに、どういう医薬品が使えるのかを調べさせたとき、使っているデータが副作用や効果についてごまかしてあるものである場合がある。それに、自然医療で知られているような薬草などが含まれているかどうかでも、結果は違ってくる。もし、すべての情報が純度の高いものであったとしたら、もっとも副作用の危険が少なく、治療効果のあるものが当然上位に上がってくるわけだ。この場合、「何も使わない」という選択も頻繁に出てくることになるはずだ。これは、自然療法に通じている人ならば、よく知っていることだ。

AIは、何よりも人々の幸福のために使われるべきだということをプーチンはスピーチの中で言っていて、アメリカのAIは、排他的なアルゴリズムの使い方をしていると批判している。AIが人々の幸福のために使われるためには、倫理基準を作ることが必要だと言っていた。これはすでに、16カ国が署名しているのだそうで、来年のBRICS会議では、主要な議題の一つになるということだった。西側グローバリストが一方的に操作できるようなものではなく、多極的な構造を持っていなければならないと。そして多極的なAIの倫理基準の設定にイニシアティブを取るためにも、ロシアはAI開発で他国に遅れを取るわけにはいかず、早急に進める必要がある、ということだった。

AIを正しく使うならば、悪意のある虚偽やデータのごまかしを容易に見破ることも可能になるのだろう。そしてまた、世界中の情報に瞬時にアクセスすることができるとしたら、本当の意味での自由競争が可能になり、もっとも安上がりで最適な効果をもたらすものが消費されることになる。これこそは、本当に人々の幸福のためになるAIの使い方だと言える。

ロシアの政治家のスピーチを聞いていると、いつも実によく調べてあり、コンパクトに論じていることに感心するのだけれど、これは偏りのない情報源から情報を処理するAIを使っているからなのかもしれない。テーマに関連するあらゆる情報を瞬時に収集して、多角的な論理を展開することができるわけだから。ロシアには、スベルバンクやヤンデックスのChatGPTやカンディンスキーという画像生成AIがあり、スーパーコンピューターもあるのだそうだ。

AIの描いた絵というと、何だか人工的な感じがして、違和感があるものばかりで、波動エネルギーに敏感な人ならば、明らかに波動が悪いというやつなのだけれど、ロシアの動画に出てくるAI生成らしい画像は、変な波動を感じない。それで、ロシアのカンディンスキーで生成したという画像をネットで調べてみると、どの絵も変な人工的な感じはしなかった。

してみると、AIが描いた絵だから、人工的な不自然な感じのものになるというものでもなくて、何か変な操作がしてあるのかもしれない。カンディンスキーで描いた絵も、人が描いた絵にある生々しい生きた感覚というものは確かにないけれど、しかし妙に不自然な違和感を感じる絵ではなかった。

もし、ロシアのAIがなかったら、私たちはAIとはこういう人工的な息苦しい感じのものなのだと思い込まされて、それを受け入れるしかないのだと思わされていたのだろう。ロシアはいわば、「マトリックスの外」を見せてしまう存在なのだ。だからこそ、西側グローバリストは、ロシアからの情報を厳重に閉め出そうともしたのだろう。

いずれにしても、西側グローバリストに従っている国では、AIが普及することにより、人々はますます思考力が奪われて、自分で考えられない人が増えていくことになり、一方ロシアとともに行こうとする国では、AIが普及することにより、超人的と言えるようなことが、誰でもできるようになっていくことになる。この結果は、数年で大きな差になって出てくることになると思う。

2023年12月25日

モスクワで開かれたAIフォーラムで、月面着陸の映像をAIで解析するのを見るプーチン大統領


ロシアの画像生成AIカンディンスキーで描いた画像



カンディンスキーで作った画像

11月末にモスクワで行われたAIフォーラムでのプーチンのスピーチ


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