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クラシック音楽は何故つまらないのか?


【楽な覚え方と難しい覚え方】


ピアノの教育法のことが話題になって、本当はもっとずっと簡単に習得できることが、いかに難しくされていることがあるかということを考えた。

日本では、ピアノはバイエルから始めてチェルニーと進んでいくのが一般的なのだけれど、どれも音楽的にはあまり価値のない運指練習の曲なので、ピアノを始めてから何年も音楽表現というものに触れることがない。それでも、そういう下積みみたいなことを長年やらなければ、音楽表現などはできないのだということになっていて、最初から弾きたい曲を弾けるなどと思ってはいけないと多くの人が思っている。それで、つまらない練習を言われた通りに一生懸命にやるのが、優秀な生徒だというような価値観を持たされるわけなのだ。

私は子供のときに6年間、近所のピアノの先生のところに通っていて、バイエルの上巻も終わらなかった。ピアノを弾くということが、思っていたようなこととはまったく違って、少しも面白くなかったし、やる気も出なくて、練習もしたりしなかったり、先生のところへも行ったり行かなかったりしていた。結局それで6年間ずるずると続けてやめたのだけれど、それ以来ずっと私はピアノには向かないのだと思い込んでいた。

その私がオーストリア人のピアノ教師と結婚することになり、結婚7年目でピアノを弾き始めることになったのだ。それは、あるドイツ系ロシア人のピアニストの公開レッスンを見に行ってから、ピアノの概念がふいに変わってしまったからだった。ピアノは私には向かないと思っていたけれど、これならできると思ったのだ。そして、その予感は見事に当たった。

その公開レッスンでは、音大の学生たちがラフマニノフのピアノ協奏曲みたいな難しい曲を弾いていて、私にはどういう曲なんだかさっぱりわからなかった。音がたくさんありすぎて、ガンガン響いているばかりで、ゴチャゴチャの騒音としか思えなかった。学生が弾くのを聞いてから、その先生は、ある部分のイメージを語り始めた。夜になると、星が一つ、また一つ、という風に現れ始めますよね、ここはそういう情景です、というようなことを身ぶりを交えて物語ったのだ。

私には、それとその曲とが一体どういう関係があるのかさっぱりわからなかった。しかしそのあと、まるで奇跡が起きたかのようだった。さっきまではゴチャゴチャの騒音にしか聞こえなかったのに、本当に夜空に星が現れてくる情景が見えたのだ。それはまるで、ゴチャゴチャのなぐり描きのようなものが、ふいにはっきりしたきれいな絵に変わったかのようだった。

その公開レッスンでは、そうしたことが何回も繰り返されていった。最初はまるきり何も判別できないゴチャゴチャの絵しか見えず、先生が一言二言言うと、それが急にくっきりした絵に変わる。いったいどうしてそんなことが起こるのかわからなかった。だけど、ピアノを弾くのがこういうことならば、私にもできるとそのとき思ったのだ。

それで、当時一緒に住んでいた元夫に教えてもらって、家にあった彼のグランドピアノを弾き始めた。日本では一般的なバイエルなどは、彼が学生時代、音楽教育法の講義で、「昔の悪い例」として習ったのだそうだ。オーストリアではこれがスタンダードという教本があるわけではなく、いろいろある教本からそれぞれ向いたものを選んで教えているらしい。彼は教本も使わず、その都度合った曲を探して教えていた。

最初は、ただ音階と和音だけ習い、3つの和音を使って、何か即興で弾いてみろ、というようなやり方だった。その時点で、力の使い方で音色の出し方とかハーモニーバランスとか習うので、音階だけですでに面白かった。音階を弾くだけでも、もう自分の表現ができる面白さを味わうことができた。

それと同時に、日本で習ったあのバイエルはいったい何だったのかと、だまされた感が激しかった。日本で習っていたときは、ピアノの音は楽譜に合っているかどうかだけだった。叩き方によって実にさまざまな色彩が出ることも知らなかった。ピアノという楽器が、これほどに表現性のある楽器だとは、思ってみたこともなかった。

それからバッハやモーツァルトの練習用の小品を弾くのだけれど、そこでもうバロックやクラシックのスタイルの弾き方を教えてもらった。シンプルなメヌエットみたいな曲でも、ちゃんとバロックの多声構造になっているので、それぞれのラインを区別して弾くと、バッハらしい立体的な構造が現れてくる。モーツァルトの左手のアルペジオも、最初の音はバスなので、そこを強めにたたいて、長めに伸ばすと、モーツァルト風の軽快な色彩が現れてくる。

そんな風にして、あれこれの曲を弾いていくうち、5年ほどでもうショパンとかドビュッシーとか弾けるようになっていた。楽譜から多声的な構造を読み取って引き出すことや、色彩をくっきりと出すことが、面白くてたまらなかった。いったいどうしていくつものラインがある曲を、10本の指で弾きこなすことができるのかは、理屈では絶対に説明できない。しかし、いくつものラインを意識していると、ちゃんとそのように音が出るのだ。人間の脳や神経、筋肉というものが、いったいどれだけのことができるのかは、まるで魔法のようだ。だから楽器の練習とは、実はこの聴覚と神経と筋肉のシナプスみたいな繋がりを作ることに他ならない。これは、テクニックの問題というより、むしろ何をどう意識するかの問題だ。そして意識を適確に向けさえすれば、テクニックは自ずとついてくる。

それで、あの公開レッスンで見た奇跡のようなことが、何だったのかがわかってきたのだ。どういうイメージを意識するべきなのかがわかれば、どこをどう分けて、どういう音色で弾くのかが、自ずとできてくる。そうすると、いくつもの線がゴチャゴチャに絡まっているようだったのが、すっきりとした線になり、色彩が現れてくる。

意識が現実化するとか、私たちの意識が現実を作っているとか言うけれど、それがリアルに体験できるのが、まさにこうしたことかもしれない。頭の中で、こういうライン、こういう色、こういう音色、と思っていると、どうやって出るのだかわからなくても、ちゃんとそういう音が出るのだ。それを考えれば、難しい高度なことだと思われているようなことも、意識の使い方さえ知っていれば、わりと楽々できるようなことになるのかもしれない。

一方、意識が現実化するのであれば、「これは長年修行しないとできないことだ」と思っていたら、まさにそのとおりの現実を生きることになるのだろう。それで、バイエルの次はチェルニー、と大人しく練習していると、何年経っても自分の表現などはできないで、あいかわらず修行し続けていることになったりするのだ。生徒に「修行」させる先生は、特別に才能があったり、特別な修行をした人だけができることなのだという風に、日頃言い聞かせていたりする。だから、そういうことを言う先生は、あるいは警戒した方がいいのかもしれない。

実に多くのことが、その類の権威主義で、これまで不必要に難しくされていたのかもしれない。長年修行しなくてもできる方法なんか実はいくらでもあるのに、それがこれまで隠されてきたというところがあるんじゃないかと思う。それというのも、権威主義を使えば、いくらでもお金儲けができるからなのだ。教える能力がなくても、高額のレッスン料を取ることができてしまったりする。だから、多くの先生たちは、どうしたらもっと簡単に習得することができるのかについては、あまり研究しようとしていなかったりする。

一極支配の構造から多極的な世界に切り換わっていくとき、権威主義な価値観もまた、古くさい不必要なものだという風に意識が変わってくるのかもしれない。そうなったとき、実は何がすべて遥かに楽にできてしまうのかも表に出てきて、ずいぶんと面白い世界になるんじゃないかという気がしている。


2023年2月8日

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【クラシック音楽は自由なものだった】


ドビュッシー自身が演奏している録音というのがあるのだけれど、これを聞いていると、クラシック音楽とは本来これほどに自由なものだったのかと驚く。

1913年にピアノロールという自動演奏装置で記録したものを再生したというもので、そんな録音法でどうしてこんなにリアルに再生できるのかわからないのだけれど、しかし私には、これはドビュッシー以外の人が弾いたものだとはとても思えない。ドビュッシーは私もずいぶん弾いたし、いろんな演奏も聞いてきた。だけど、これほど作者の意図に忠実な演奏など、他には絶対になかったと思えるような演奏なのだ。

ドビュッシーの曲には、音が6つ以上もあるような和音がたくさんあるのだけれど、その和音の色彩がどれもぴたりと決まっている。だけどその見事な色合いをした和音を、もったいぶらないで惜しげもなく、キャンバスの上に散りばめるかのようにおいていくのだ。こんなさりげなさで弾く演奏など、他にはどこにもない。そしてどの部分も、なるほど作曲者はこう考えて作ったのか、と目からウロコが落ちるように納得できるほど、楽譜にぴったり合っている。

多くの演奏者は、楽譜をそれほど厳密に読んではいない。だけど、一つの音符、一つの楽譜記号だって、作曲者は意味なくつけてはいないのだ。ドビュッシー自身が演奏したというその録音は、すべての音符、すべての記号を作者本人が解説したかのように、見事な整合性を持っている。これは、作曲者本人が演奏したのでなかったら、とてもできるものではないと思う。

ところで、この演奏を聞いていると、まるでサロンでちょっと余興に弾いてみせているかのような気楽さだ。音楽といえば生演奏が普通だったこの時代、クラシック音楽もまたこのような軽さで、家の客間やカフェで演奏され、楽しまれていたのだろうと思う。楽器のうまい人がいて、人が集まると、演奏して楽しむ。ちょっと演奏できる人がどこにでもいて、何かのときに弾いてくれる。そうしたものだったのだろうと思う。それを考えると、この百年の間に、クラシック音楽は一体どうしてこれほどまでに堅苦しいものに変わってしまったのかと驚く。

ピアノの話を書いた投稿に、たくさんの人がコメントしてくれたのだけれど、そのうちかなりの人が、クラシック音楽はつまらない、と書いていた。ピアノを習いに行って、多くの人はバイエルとかチェルニーとかを何年も練習させられて、クラシック音楽というものは面白くもおかしくもないものだと思うようになってしまう。演奏家たちもそんな習い方をした人たちがほとんどだから、やっぱり面白くもおかしくもない演奏をしていて、それを真面目くさって聞くのがクラシック音楽のコンサートだったりする。こんな難しい曲をよくこんな風に弾けるものだと感心はするし、何だか高尚な感じのものではあるけれど、聞いていて楽しいかといったら、正直言って楽しくはない。何だかアクロバットみたいなものを見せられて、すごいすごいと言っているような感じなのだけれど、クラシック音楽は本来そんな風に演奏されて、そんな風に聞かれるものではないと思う。

ドビュッシーがピアノロールで自分の作曲を録音した1913年、そのあとに世界では第一次世界大戦が起こり、金融恐慌が起こり、世界は徐々に少数の金融エリートたちに支配されていった。彼らは、人々の意識が目覚めないように、文化芸術も破壊しようとしていたというのだ。とりわけ彼らが恐れたのは、19世紀終わりまでにすばらしい発展を遂げていたドイツロマン派の音楽だったという。

精霊や神々の世界がリアルに感じられるようなドイツロマンの音楽は、たしかに人々の意識を多次元的な世界に開いてしまう力を持っていると思う。そうした世界と意識の繋がりを持っている人たちを、支配することはできない。だから、この音楽をつぶしてしまわなければいけないと思ったのは、わかるような気がする。

その頃から、クラシック音楽は、かつての美しさを失っていった。精霊や神々の世界をリアルに感じるようなドイツロマン派の濃厚な色合いは失われ、無調の「現代音楽」なるものに入れ替わっていく。それは無機的で人工的な冷たさを感じるような音楽で、聞いていると身体が緊張してくる。音楽は、精霊や天使たちに出会わせ、自然や人々との繋がりを感じさせるようなものではなくなり、何やらよくわからないものになっていく。

それと同時に、クラシック音楽業界も、ハザールマフィアに取り込まれていって、彼らの息のかかった演奏家が世界的なスターに仕立て上げられていくようになった。音楽の才能のある子供たちは、そういうところと繋がっている先生にレッスンを受けて、繋がりを作ることで、売り出してもらうようになった。それで、親たちは1時間何万円もするようなレッスンに子供を通わせるために、ものすごい出費をしていたりする。クラシック音楽教育は、ものすごいお金の動く世界なのだ。そういう高額のレッスンを受けて、いい演奏ができるようになると信じている人が多いけれど、実はそうではない。そういう先生のクラスに入れてもらうには、それなりに演奏がうまくないと入れないので、もともとできる人たちなのだ。それで、レッスンで何をやっているのかといったら、見ばえがするようなしぐさとか、派手な音の出し方とかを、先生が指示する通りにやらされているだけだったりする。

つまり、本当には音楽がわかっていない人たちが、これは何だかすごいものだと思い込むような弾き方を仕込んでいるのだ。クラシック音楽のスターとして、引き立てられていく演奏家たちは、ほとんどがこうした具合に作られていっている。その結果、いかにももっともらしくはあるのだけれど、本当の中身はないような演奏が、世界一すばらしいものなのだという風に皆が思い込むようになっていってしまったのだ。

オーストリアは、クラシック音楽以前にかなり高度な音楽の伝統があり、どこの田舎に行っても、見事な演奏をする民俗音楽の演奏家たちがいる。彼らは音楽教育なんか受けていない、ただ地元の誰かに習ったような人たちで、ごく普通の農家の人たちだ。こういう人たちが、当たり前のように多声で歌えたりするのだ。あれを見ていると、音楽というのは特別な教育を受けた人だけができる特別なものだというのは作られた印象にすぎなくて、もともと誰でも育った土地の音楽が身体の中に入っているものなんじゃないかと思う。ドイツロマン派までの音楽は、そうした音楽がプロの仕事として形になっていったようなものだったのだろう。だから、クラシック音楽はかしこまったようなものではなくて、もともとは普通の人が普通に楽しめるようなものだったのだと思う。

それがこの100年ほどで、クラシック音楽はショービジネスとして特別なものになり、アクロバットみたいに特別な修行をした人だけができるようなものになっていったのだ。プロのソリストになろうと思ったら、不可能と思われるような努力をしなければならないというイメージができていく。しかし、不可能な努力をしなければいけないという状況を作るのは、実は人を洗脳操作するときに使う手なのだ。そういう状況下で、怒られたり怒鳴られたり、貶められたりしていると、人は自分の感覚や意志を失ってしまい、ただ人の言うなりになるような人格ができていく。クラシック音楽のスターと言われるような人たちは、実はこのような状態になっている人が多かったりする。こういう演奏家たちは、歳を取るごとに演奏が熟していかないで、見かけだけなのがボロが出る感じの演奏になっていったりする。だけど、聞いている方も、クラシック音楽というのは、素人にはわからない何か高尚なものなのだと思っているから、有名な演奏家なのだから、いい演奏なはずだと思い込んでいたりする。

かくして、音楽教育とショービジネスでものすごいお金を独占すると同時に、見事にクラシック音楽の魂を抜き取ってしまったのだ。今、多くの人たちがクラシック音楽はつまらない、と言うのは、そのようにして作られた状況だった。

一極支配から多極的な世界に変化していくにつれ、こうしたクラシック音楽のあり方も変わっていくのかもしれない。有名なコンサートホールなどで演奏している世界的なスターなんかよりも、実は田舎の楽譜も読めない音楽家たちの方が、魂のある演奏をしたりする。独占されてきたショービジネスが解放されたら、本当にいい演奏があるいは表に出てくるのかもしれないし、そうやってクラシック音楽は息を吹き返していくのかもしれない。

クラシック音楽は、もともとは即興的な要素もあったし、自由で自在なものだった。あの立体的な多声構造にしても、ハーモニーの純粋さにしても、他の音楽には決してないような大きな可能性がある世界だ。まさにそうしたものこそが、人々の意識を目覚めさせてしまうと恐れられ、つぶされていったのだ。そして、たまたま今、私がこんな文章を書く気になったのも、あるいは本当のクラシック音楽の世界が目覚める時が来ているからなのかもしれないと思う。

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ドビュッシー自身が演奏した「ゴリヴォークのケークウォーク」(子供の領分)

2023年2月9日

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【クラシック音楽は何故つまらないのか?】


もともとクラシック音楽とは、時代を超えて残った作品のことを言っているわけなので、それがつまらないなどということは、まずあり得ない。多くの場合、作品がつまらないのじゃなくて、演奏がつまらないのだ。どんなすばらしい作品だって、実に陳腐に演奏することができる。それはテクニックの問題というよりも、演奏家の趣味の問題だと思う。単に、その作品の楽譜の読み方がわかっていないか、いい演奏というものを知らないのだ。あるいは、表現されているものが次元が高すぎて、何か別なもっと次元の低いものとして解釈してしまったりだ。たとえば、本当は神々の世界を描いているのに、そういう崇高なものがわからないので、人間的な愛憎の感情として受け取って演奏してしまったりするのだと思う。

音楽は楽しいもの、自由なものだということを言うと、それなら好きなように演奏していいのだろうと思う人が多いのだけれど、それは、そうだとも言え、違うとも言える。多くの場合、先生がつまらない解釈を押しつけて、よく演奏されているような弾き方で弾くように強制したり、あるいはミスタッチするたびに怒るので、のびのびと弾けないとかそういう問題がある。その場合、先生が何と言おうと、自分はこうだと思うのを押し通すこともまた必要だと思う。実際、自分はこうだと思う、というのを弾いていたら、そっちの方が本物だったりということもある。本物、というのは、つまり作曲者の意図に近いという意味でだ。

多くの人が知らないことは、ほとんどのクラシック音楽の作品は、作曲者の意図の通りに演奏されてはいないということだ。それどころか、楽譜の通りにも演奏されていない。音楽は自由なのだから、楽譜の通りに弾かなくてもいいのだろうか? それは自由ではあるけれど、まず確実に作品はつまらなくなる。クラシック音楽とは、時代を超えて残った作品なのだ。つまらなく思えたとしたら、それは作者の意図が反映された演奏をしていないからだ。

モーツァルトの時代までは、楽譜にはそれほど細かく書き込まれていなくて、楽譜はテーマを記してあるというほどのものだった。あとのことは、先生から直接習ったのだ。どういう飾りをつけるといいとか、ここは自分で即興しろとか、ここはどういうテンポでとか、そういうことは口伝えに習ったのだ。世界中の多くの音楽は、楽譜などはなくて、すべてこのスタイルで受け継がれていった。先生が弾くのを真似して弾くというやり方で、そのまんまのスタイルが受け継がれていったのだ。だから民俗音楽では、伝統のスタイルというものがはっきりと残っていて、誰でもそれなりの演奏になっている。

これがベートーヴェンの時代になると、楽譜にすべて細かく書き込まれるようになった。どういう速さでどんな風に弾くべきなのか、どこにアクセントをつけ、どこで切るのか、といったことが、口伝えされるのではなく、楽譜に書き込まれるようになったのだ。それで、音楽を演奏するということが耳からそのままという作業ではなく、楽譜を読み取ることを必要とするようになったわけなのだけれど、それによって、楽譜さえあれば、世界中どこにいても、ベートーヴェンの音楽を再生することができるようになった。クラシック音楽を勉強するとは、テクニックよりも何よりも、実はこの作業を覚えることを意味している。

たとえば、ベートーヴェンの「エリーゼのために」と呼ばれている小品は、ピアノで最もよく演奏されている曲だけれど、楽譜の通りに弾いている演奏は、一流ピアニストでも実はほとんどいない。あの曲は初心者が練習用に弾く曲だから、プロの演奏家が弾くべきものではないと思われていて、コンサートで演奏されることもほとんどないのだけれど、それにしても、ほとんど誰も正確に演奏していないのだ。
そして、あの曲が大した曲ではないと思われているのは、実はまさにそのためだ。曲の真髄を引き出した弾き方が、ほとんどされていないからなのだ。

あの曲の最初のゆっくりした部分は、フレーズの最後の音は8分音符になっているから、短く切って弾くようにとベートーヴェンは考えていた。ところが、この音をほとんどの演奏家は長く伸ばしてしまう。それくらいのことは大したことではないのじゃないかと思うかもしれないけれど、実は一事が万事というのが、音楽解釈の世界なのだ。ここを長く伸ばすと、哀愁漂う感情を引きずるような表現になり、全体もゆったりした感じの演奏になる。しかし、この曲はテンポがポコ・モトであり、少し動きのある感じで演奏するように考えられている。それがもう合わなくなっている。

ベートーヴェンは、少し動きのあるテンポで、フレーズの最後の音を短く切るようにと作曲したのだ。つまり、ここのところは哀愁漂う感情を引き伸ばすのじゃなくて、サラッとリズミカルに弾くべきところだ。そして、下から上がってくる和音は、また別な声になる。つまり、オーケストラならば、別な楽器、コントラバスだかチェロだかのパートだということになる。そうすると、この部分は、宙をふわふわ飛ぶような声があり、それに対して下から上がってくる声があり、この2つの声の掛け合いになっているということがわかる。それは、初夏ののどかな日に、雷鳴が遠くから聞こえてくる情景のようでもある。すると、これは実は地球的な規模を持った、生命力のダイナミックな表現だということがわかる。

真ん中のところに来るとテンポが早くなり、激しくなるのだけれど、するとこれは、雷雨や嵐のような自然の大きな力のパワフルな表現だということがわかる。その中で、地球の生命力の脈動のようなバイブレーションを感じることができる。これは、ベートーヴェンの多くの曲に共通する要素だ。彼は、自然の大きな力、宇宙の鼓動のような壮大な世界を音楽にして、そのヴァイブレーションを人々が直接感じ取ることができるように作曲しているのだ。

ところが、ほとんどの演奏家は、ベートーヴェンのこのヴァイブレーションが楽譜の中にすべて書き込まれているということを理解していない。それで、よく弾かれているような感じで、トロトロとしたロマンスみたいな演奏をしてしまう。きれいではあるけれど、それは今どき鼻につく甘ったるさにも感じられる。実際、多くの人は、そういうものがクラシック音楽だと思いこんでいたりするのだ。だから、何だかよさそうなものではあるけれど、クラシック音楽はどうも退屈だということになる。

「エリーゼのために」が楽譜通りに演奏されている録音があるかと思って、ネットをあれこれ探していたのだけれど、面白いことに、名のあるような演奏家はみんなトロトロの演奏の仕方をしていた。唯一ベートーヴェンが書いたとおりに演奏していたのは、あまり知られていない演奏家で、しかも彼はピアニストというよりも、バロック・チェロの演奏家だった。

シューベルトもブラームスも、ほとんどが作曲者が考えたようには演奏されていない。ドイツロマン派というと、ロマンスだと思って、人間的な感情を表しているのだと思っている人が多いのだけれど、ドイツロマンというのは、ケルト・ゲルマンの伝統が地表に現れてきたといったような文化運動で、精霊や神々たちが作り出す壮大な世界が表現される。大地や宇宙のエネルギーを感じ取り、そのヴァイブレーションを音楽に転換したような作曲が、ドイツロマン派なのだ。だけど、ほとんどの演奏は、まるでトロトロの弱い人間感情を表したようなものになっている。音楽解釈の講義でも、曲を作曲した頃の作曲家がどんなみじめな生活を送っていたかといったようなことばかり話しているから、そういう人間的な苦悩を作曲に表現したのだろうと思ってしまうのかもしれない。たしかに、シューベルトにしてもブラームスにしてもベートーヴェンにしても、病気だったり失恋したりと三次元的な生活で苦悩してはいたけれど、時代を超えて残ったような彼らは、そんな個人的な苦悩を音楽に表現するようなことはしなかった。それは、正確に演奏された曲を聞けばわかる。演奏家が、自分の思考の次元に引きつけて、表現をその次元に降ろしてしまうだけなのだ。

それで、ブラームスやシューベルトの曲も、楽譜の通りに演奏している録音を探してみたのだけれど、やはり有名な演奏家はほとんど誰も正確な演奏をしていなかった。森の精霊も神々も見えてこないし、ロマン派特有の濃厚な色彩も、天使も悪魔も何も見えてこない。その代わりにあるのは、トロトロしたような人間的な感情や苦悩の表現だ。もちろん、人間的な感情を表現するのもいいのだけれど、それは本当に曲が表しているものではなく、演奏家が投影しているものにすぎないから、リアルさに欠けていて、共感できるものがないのだと思う。それだったら、同じ時代に生きているロックやジャズのミュージシャンの音楽の方がよほどいいということになる。それで、クラシック音楽はやっぱり退屈だということになってしまうのだ。

ところで、作者の意図のとおりに演奏しているすばらしい演奏も、探していたらちゃんと出てきた。それが面白いことに、どれも無名の演奏家ばかりだった。YouTubeでも、ほんの数百ほどの登録者しか持っていないような人たちだったのだ。これは、クラシック音楽業界の闇の構造を如実に表している。本当に心に響くような演奏、次元の高い深みのある演奏をする演奏家たちは、ショービジネスで取り立てられないようになっているのだ。聴衆も、見せかけだけ高尚そうにしたショーに満足している人がほとんどだったりするから、急に本物の音楽を聞いても、名のある演奏家が弾いたようなのと違うと思うだけなのかもしれない。

私は、クラシック音楽の演奏のことになると、熱くなってしまうのだけれど、それは作品の中に封印されている精霊たちが訴えているのを感じるからなのだ。あの精霊たちを封じ込めている演奏が許せない。彼らを解放しなければと思う。

だけど、インターネットのおかげで世界中の無名な演奏家の演奏がどこにいても聞けるようになったのは、ありがたいことではある。ショービジネスの表には出てこない大勢の演奏家たちがいて、彼らは作品の中にいる精霊たちを解放してくれている。たとえ少数でも、それを評価している人たちもいる。それは、まったくゼロに近いところから始めるわけではないのだということを示してくれている。

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楽譜通りに演奏している「エリーゼのために」


ベートーヴェン「エリーゼのために」


シューベルトのピアノ三重奏曲。ピアノ三重奏のバンドとしては、わりと知られている演奏家ですが、シューベルトらしい色彩が出ている演奏は、他にはあまりなかったです。
https://www.youtube.com/watch?v=xMCS2U4YR1s&fbclid=IwAR0ZcEv7bbMc8DZ8XJxPMFMll01hLUg8-puqgHgjk_icZIx_MUAK_WB5osw

これはブラームスのピアノ曲、ヘンデルのテーマによる変奏曲。一つ一つの変奏が、それぞれいろんな精霊の世界を表しているような曲です。これはプロの演奏家もよく弾いているけれど、ちゃんと精霊が出てくるように弾いているのは、この人くらいでした。やっぱり無名の人です。
https://www.youtube.com/watch?v=P050WMUQLmg

シューベルトのアルペッジオーネ・ソナタ。これも一流の演奏家が弾いてるのでは何故かいいのがないです。シューベルトの濃厚な色彩が出ていて、精霊の世界が見えると思ったのは、この演奏ですが、これも無名の演奏家です。
https://www.youtube.com/watch?v=hRegNxj9FXM

2023年2月10日




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【ビジネスとしての芸術と本当の芸術】


ピアノの巨匠と言われるホロヴィッツが80歳すぎてコンサート活動を始めた頃、まわりのクラシックファンの間でも、賛否両論が激しかったのを思い出した。多くの人は、ホロヴィッツはもう弾けなくなったと言っていた。一方で、あれこそは成熟というものだと言う人も、少数はいた。

あの頃私は、クラシック音楽にそれほど興味があったわけでもなかったので、自分で聞いてみようとはしていなかった。ところで、シューベルトの演奏をネットで探していたら、当時83歳だったホロヴィッツのウィーン公演の動画が出てきたのだ。それで聞いてみたら、まったく完璧な演奏だったのでびっくりした。その公演では、シューベルトだけじゃなくて、モーツァルトやショパンなども弾いているのだけれど、どの曲も完璧なのだ。完璧と私が言うのは、いわゆる一般的によく演奏されるような派手な演奏ではなくて、楽譜に記してある通りに、作曲家の意図を忠実に再現しているような演奏だということだ。どの曲にも曲の魂が現れていて、さまざまな精霊たちが出てくる色彩豊かな世界を作り出していた。

いったいこれで、どうしてホロヴィッツはもう骨董的な価値しかないなどと言われたのだろう? 念のために、酷評されていた1983年の来日公演の動画も見てみたけれど、やっぱり同じだった。1987年のウィーン公演のときほど色彩豊かな音ではなかったけれど、それでも曲の魂が出ている本物の演奏だった。いったいどうしてこれが酷評されたのだろう? 当時ホロヴィッツは、うつ病で向精神薬を飲んでおり、アルコールも飲んでいたので、そのせいだというような話も書いてあったけれど、その演奏を聞いても、そんな風にはとても思えなかった。

それまでのホロヴィッツは、そんな弾き方を一度もしてこなかった。最初から大きな音を出して、派手な弾き方をするのがホロヴィッツだった。そういう派手さがない演奏だったので、もうテクニックがないと思われたのかもしれない。しかし、ピアノは実は大きな音を出すよりも、微妙なニュアンスを弾き分ける方が筋肉の力もいるし、テクニックもいる。その演奏で、彼は音を完全にコントロールしていた。薬やアルコールで神経が鈍っている人にできるような演奏だとは、とても思えなかった。

クラシック音楽を興行として成り立たせようとすると、どうしても大衆ウケするような演奏にしないと、観客が集められないのだという話もある。派手な弾き方をして、何だか特別なすごいものだと思わせると、多くの人はそのために何万円もする巨匠のコンサートのチケットを買ったり、定期演奏会の年間予約をしたりするのだ。こういう人たちは、作曲家の意図に忠実な演奏をすると、いつも聞いているような演奏と違うので、失望するのかもしれない。しかしそれならば、それまでも本物の演奏をいいものだとして聞かされていたら、そういう演奏のよさがわかるものなのじゃないのかという気もする。

作曲家の意図に忠実な弾き方をしていて、曲の魂が感じられる演奏を探していると、有名な演奏家ほど、最初の音からして違うような弾き方をしていることが多かった。静かに始まる曲なのに、最初から大きな音を出していたり、サラッとリズミカルに弾くところなのに、音を伸ばして感情を込めたりしていた。そうすると大衆ウケするということなのかもしれないけれど、そういう弾き方で始まってしまうと、あとで盛り上がってきてテンションが上がる部分が、つまらなくなってしまう。それで、大きい音で印象づけたり、感情をこってり込めて感動させようとしたりが続いていくような演奏になっている。だけど、こんなものが本当に大衆ウケするのだろうか? 大衆というのは、それほど趣味が低俗なものなのだろうか? あるいは、多くの人は実はそんなものではなくて、本当のいい音楽を求めているのに、そういうものは受けないと思い込まされているだけなのだろうか?

そういう有名な演奏家たちの演奏、一般にいいものだとされている演奏を聞いていると、最初の音からして我が出すぎだと思う。こういうのが「表現性がある個性的な演奏」とか思われているのかもしれないけれど、クラシック音楽とは本来、我を出さずに演奏するものだと私は思う。いや、クラシック音楽に限らず、どんな芸術でもだ。芸術表現についてはいろいろな考えがあるけれど、音楽でも美術でも、もともとは目に見えない世界を表現するためのものだった。だから芸術家たちは、無我になって宇宙や精霊たち、神々の世界と繋がって、それを表現するのだ。けっしてそれを人間的な感情に転換するのではなく、純粋に表現してこそ、本当に美しい創造を生み出すことができ、それを人々と共有することができる。それは誰にとっても、物質的な次元ではない次元に意識を開き、この世界が、人間の生が、すばらしいものなのだということを伝えてくれる。

そうしたものは、本当に大衆ウケしないのだろうか? 伝統的な民俗音楽は、けっして大衆的なものではないけれど、ずっと人々に親しまれてきた。それが20世紀に入った頃から、いわゆる大衆文化というものに入れ換えられていくわけなのだけれど、その大衆文化なるものは、本当に大衆から出てきたもので、大衆のためのものなのだろうか? 

20世紀に入った頃から、ショービジネスとしての音楽業界が、ハザールマフィアたちのテリトリーだったことを考えると、やはりこの大衆的な音楽というものも、人々の意識の次元を意図的に下げるために、作られたものではないのかと思わないではいられない。クラシック音楽は、19世紀に高度に発展して、精霊や神々の世界、宇宙や大地の生命力をリアルに感じさせてくれるような表現になった。そして、そうしたものをこそ、彼らは抑圧しようとして、あらゆる方面に手をまわしていたらしいのだ。

実際、そういう演奏をする人でないと、ショービジネスに取り立てられていかないという現実がある。派手なだけで中身のない演奏をする演奏家たちが、スターとしてもてはやされる一方で、本当にいい演奏をしている演奏家たちは、地方のコンサートホールにしか出られない。そして、多くの人々は、自分の耳よりも、メディアが言っていることの方を信じるのだ。すばらしい演奏だとメディアが称賛していたら、いい演奏なのだと思い込む。そして、そういうのとは違う演奏をしている人を見ると、有名な演奏とは違うから、大したものではないのだろうと思うのだ。

80歳すぎて再びコンサート活動を始めたホロヴィッツは、それまでのいわゆるスターらしい派手な演奏を一切せずに、作曲家の意図を忠実に再現した演奏だけをしている。しかし、1987年のウィーンの楽友協会での公演を聞くと、聴衆の拍手がハンパなく熱いのがわかる。これが大衆ウケしないなどとは、けっして言えない。巨匠だからという思い込みで拍手しているとも思えない。この演奏は、誰が聞いてもすばらしいのだ。クラシック音楽は苦手だという人が聞いても、ついつい最後まで聞いてしまうような、すばらしい演奏なのだ。この曲はこんなに面白い曲だったのかと思わせてくれるような演奏なのだ。

これは、ホロヴィッツのような巨匠が晩年になってようやく到達するような境地なのだろうか? 音楽業界は、おそらくそのように思わせたいのだと思う。しかし、誰か有名な人の演奏を聞いてコピーするやり方ではなくて、自分で楽譜を読んで解釈することを学んできた人ならば、この演奏は単に楽譜に忠実に弾いたものだということがわかる。ウィーンの公演では、シューマンの「子供の情景」のような、わりと誰でも弾けるような曲も弾いているけれど、別に音楽を専門的に学んだ人でなくても、楽譜を正確に読み取ることを知っていたら、ホロヴィッツが弾いたのとまったく同じように演奏することができるのだ。もちろん、それほどいい音は出ないかもしれないけれど、それでもまったく同じスタイルで、同じ表現で演奏することができる。

ホロヴィッツは、このウィーン公演のあと2年ほどして亡くなっているのだけれど、亡くなる数日前まで、演奏を録音していたそうだ。つまり、彼は最後の数年を、ただ作曲者の意図に忠実な本物の演奏をすることに費やしていたことになる。そのことを考えると、この人は、この音楽を隠したまま死ぬわけにはいかないと思って出てきたのかという気がする。

集客のためなのか、あるいは意図的な大衆愚民化のためなのか、本物のクラシック音楽ではないものを、それまで公では演奏してきて、巨匠というものはこういう演奏をするのだというイメージをこしらえてきた。しかし、彼は本当のクラシック音楽がこんなものではないことをちゃんと知っていたのだと思う。80過ぎてから出てきたときの演奏を聞くと、この演奏が、そのときになって急にできたものだとはとても思えない。どの作品も、スタイルや表現がよく研究されており、前々から楽譜を正確に読むことをやってきていたからこそのものだと思える。

クラシック音楽は、本当はこんなに生き生きとしたすばらしいものなのだ。そして、それはただ楽譜を忠実に読みさえすれば、誰にでもできるようなことなのだ。そのことを彼はよく知っていて、それを最後に示さないでは、死ぬわけにはいかないと思ったのじゃないかという気がする。

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シューベルトのアンプロンプチュ、ホロヴィッツさんの1987年のウィーン楽友協会での演奏です。


こちらは1987年のウィーン公演のすべてが聞ける動画。気に入ったら、こちらもどうぞ。

2023年2月11日

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【楽譜の読み方とクラシック音楽の闇】


ピアノの巨匠といわれたホロヴィッツの晩年の演奏について書いたら、クラシック音楽ファンの人たちがコメントにいろいろなことを書いてくれたのだけれど、多くの人がミスタッチには厳しいのに、強弱記号や速度を間違えていることには、まったく寛容なことにかなり驚いた。

それは、多くのピアノの先生たちが、ミスタッチはよく見ているけれど、演奏の表現をあまり教えていなかったりするからなのかもしれない。ミスタッチを聞くと、先生に怒られる、と反射的に思ってしまうので、それがやけに気になるのかもしれない。しかし、そういうトラウマがない人には、ときおり起こるミスタッチは、それほど気にならないと思う。

実際、ミスタッチが音楽を壊してしまうことはあまりないけれど、強弱や速度を間違えたときには、曲のダイナミックが崩れてしまい、曲の全体が破壊されてしまう。だけど多くの人たちは、これは個人の自由だというのだ。あれこれの有名な演奏家もそのように弾いているから、それでいいのだと。それで多くの演奏家たちは、自分で楽譜を読み解こうとする代わりに、有名な演奏家の録音を聞いて、それをコピーしていたりする。だから、楽譜に書いてある強弱や速度と違っていても、それが一般的な弾き方だからいいということになるらしい。

楽譜に忠実に演奏するということが、単に音符をすべて正しく弾くことのように考えられているのだと思う。多くの先生は、そこのところしか見ていないのかもしれない。全体のダイナミックが崩れてしまうのは、あまり重要ではないように思われているのかもしれない。たとえ崩れていても、有名な演奏家がやっているから、こういう表現なのだということになっているのかもしれない。

しかし、こんな風だから、クラシック音楽は難解で退屈なものだと思われてしまうのじゃないかという気がする。曲のダイナミックが崩れて、テンションのないものになってしまっているのに、それが巨匠の演奏だからというので、すばらしい演奏なはずだと思い込むのかもしれない。評論家みたいな人たちも、斬新で個性的な表現だとかパワフルなタッチだとか何とか、いいように書き立てるのかもしれない。

有名なショパンのノクターン変ホ長調の、楽譜に忠実に演奏した録音をこの間から探しているのだけれど、これがなかなか見つからない。ここのところ、いろんな曲の正確な演奏を探していて、有名な演奏家ほど正確に弾いていないということがよくわかった。音符は正しく弾いているけれど、強弱記号や速度が違っている。どうして皆そろいもそろって、そこのところを間違えているのかわからない。そっちの方が正しいと思っているのだろうか? 皆が昔の誰かの有名な演奏家の真似をしているのだろうか? それとも、そういう演奏をしないと有名なホールに出してくれないとかあるのだろうか? 表現は自由だというのなら、いろんな演奏があってもよさそうなものなのに、皆が皆、同じように間違えて演奏しているとは、いったいどういうわけなのだろう?

このノクターンはアンダンテで、歩くような速度で弾くように作曲されている。八分音符が132、と作曲家が指定している。これは、歩くようにといっても、ゆっくり歩くのではなくて、サクサクと快適に進んでいくような速度だ。そして、この曲はP(ピアノ)で始まっているので、静かにそっと弾くのだ。ワルツ調の三拍子の1泊目にスタッカートがついていて、2泊目と3泊目は和音が微妙にずれ、ここにはスラーがついている。だから、1泊目は短く切って、2泊目と3泊目の和音は繋げて弾くのだ。つまり、ここはジャンジャン、と二回たたく感じじゃなくて、フワッと繋げて弾く。そうすると、夜の静けさの中を、妖精たちがフワッフワッと飛んでいる感じになる。ショパンはまさにこのイメージを出すために、速度も強弱記号もスラーもスタッカートもつけてある。これを一つでも無視したら、この曲は別なものになってしまう。

だけど、どの演奏を聞いても、最初の音からしてもう違うのだ。ほとんどが、快速のアンダンテではなくて、足を引きずるような速度で弾いてるし、そっと静かにじゃなくて、妖精が逃げてしまうような大きな音を出している。そうすると、左手の和音も2泊目と3泊目がフワッと繋がるのじゃなくて、ジャンジャン、と拍子を打ってしまっている。そうなると、ここのところは、妖精がフワッとフワッと踊るのじゃなくて、安っぽいロマンスみたいな感じになってしまう。

最初が静かに始まるからこそ、あとでフォルテになったときに、テンションが高まるのだ。それなのに、最初から大きな音で始めてしまうので、全体のダイナミズムが失われてしまう。それに、最初から最後まで大きな音になってしまうから、繊細な表現が出てこなくなっている。この曲は同じようなフレーズが繰り返されていくけれど、実は毎回スタッカートやアクセント、スラーの位置が違っていて、そこに震えるような繊細な揺れが表現されているのだ。その揺れを表現してこそ、本当のショパンの精神が表れてくる。しかし、これを大きな音で始めてしまうと、そのすべてが出てこなくなってしまう。

それも、表現の自由なのだろうか? ショパンがわざわざこのように弾くようにと細かく記号をつけているのに、それを無視して、別な音楽にしてしまうことが? 妖精を描き出したのに、感情におぼれる人間の姿にしてしまうようなことが? それもまた自由だといったら自由なのかもしれないけれど、だから繊細な感覚をもった人たちは、クラシック音楽から離れていってしまうのじゃないかと思う。

唯一見つけた、楽譜に忠実に弾いている無名の演奏家のノクターンを何人かに聞いてもらったら、「こんなノクターンは初めて聞いた」と言っていた。こういうノクターンなら面白い、と言った人も多かった。有名な演奏家は、誰もそのように弾いていないのだ。巨匠と言われるような人たちでさえ弾いていない。これはいったいどういうわけなのだろう?

ホロヴィッツの晩年のウィーン公演で、ショパンのポロネーズを弾いているのを聞いて、こういう演奏なら面白いと思った。このポロネーズは「英雄」と呼ばれているポロネーズで、軍隊が凱旋てくるみたいな感じなのだけれど、ほとんどの演奏はガンガン大きい音が響き続けているので、聞いていると頭が痛くなる。だから、こんな曲は聞かなくてもいいなと思っていた。ところが、晩年のホロヴィッツの演奏は、そんな風ではまったくないのだ。別な曲かと思ったくらいだ。だけど、これもノクターンと同じことだった。ほとんどの演奏家が強弱を変えて演奏しているのを、晩年のホロヴィッツは、楽譜に書いてある通りに演奏したのだ。

ほとんどの演奏家は、この曲を、フォルティッシモでジャーン、と大きな音を出して始める。ところが、晩年のホロヴィッツは、そこをずっとソフトに始めていた。ソフトに始めるから、あとでフォルテになり、フォルティッシモになったときに、震えるようなテンションの高まりを感じる。どう考えたって、こっちの方が正しいのだろうと思い、楽譜を見てみると、その最初のジャーンと響く和音は、フォルティッシモではなくて、スフォルツァートだった。Fの前にsがついていて、sFとなっている記号だ。スフォルツァートは、そこだけ際立つように弾くという意味で、必ずしもフォルティッシモではない。ポロネーズの始まりの部分は、P(ピアノ)なので、このスフォルツァートは、ピアノの中で際立つ程度の強さで弾けばいいのだ。

ところで、ほとんどの演奏家はこのスフォルツァートをフォルティッシモで始めてしまうので、そのあとのピアノが、それに引きずられてピアノではなくなってしまっている。それで、音が小さくなったり大きくなったり不自然な揺れ方をしていて、いよいよフォルテ、クレッシェンドと盛り上がっていくべきところになって、逆に穏やかになっていたりする。それからフォルテ、フォルティッシモと、凱旋行進みたいな盛り上がりのところになると、もう音がうるさすぎて、凱旋というよりは戦場みたいだ。どの演奏を聞いても似たり寄ったりだった。ポロネーズという曲はこういう曲なのだと誰もが思っているらしい。これも解釈の違いで、好みの問題だというのだけれど、そういう問題ではないと私は思う。ショパンがこのように弾いて欲しいと、ちゃんと細かく強弱記号をつけているのに、それを変えて、違う表現にしてしまってもいいものだろうか? これは、ミスタッチなんかよりも、よほどひどい間違いだと私は思う。

ところで、ホロヴィッツこそは、フォルティッシモを連打することで有名なピアノの巨匠だった。彼の若い頃のポロネーズを聞くと、やはりスフォルツァートをものすごいフォルティッシモで弾いている。だから、晩年の演奏にある、そのあとにジワジワと来るテンションの盛り上がりがない。いったい彼は、晩年になって急に、そこがソフトに弾くべきところだということに気づいたのだろうか? 彼は若い頃から、音をよくコントロールして、実に鮮やかな色彩を出すことができた。そのことから考えると、あのフォルティッシモはどうも妙なのだ。フォルティッシモだって、音をコントロールすることで色彩を出すことができる。だけど、そういうときの彼は、鍵盤を乱暴にたたいているような音を出していて、まるで意図的に音楽を破壊しているように思える。

ホロヴィッツは、前々からプライベートで演奏を録音していて、それは聞いた人によると、まるきり違う解釈の演奏なのだそうだ。私はその録音を聞いていないからわからないのだけれど、これは晩年のホロヴィッツが公に演奏したような演奏ではないのかと思った。あの演奏は、前々からその曲をよく研究してきた跡が見られるような、とても綿密な演奏だったからだ。だから、きっとホロヴィッツは密かにそういう演奏をしていたのじゃないかと思った。いずれにしても、立派なホールやスタジオでいくらでも録音できるのに、わざわざプライベートで録音していたというのだから、それは彼が本当に弾きたいような演奏だったのだろう。

どうして彼は、その楽譜に忠実なすばらしい演奏を、80歳になるまで封印してきたのだろう? プロデューサーが、大きな音を出さないと聴衆が喜ばないからとか言っていたのだろうか? ピアノの巨匠といえども、音楽業界に仕事をもらっている立場だから、勝手にはできないものなのかもしれない。大きなお金が動く業界には、深い闇もある。ポップ音楽では、闇の勢力に暗殺されたのではと言われている音楽家たちも少なくないけれど、それはクラシック音楽も同様なのかもしれない。

そして、ホロヴィッツのような巨匠がこのように演奏しているのだからと、若い演奏家たちが競ってそのように演奏するようになってしまったのだ。ピアノの巨匠がそのように演奏しているのだから、間違っているはずはないと。そして、同じような演奏をしている演奏家ばかりが取り立てられ、メディアはそれをほめ讃え、これがわからない人は、音楽がわからないのだと思わされてきたのじゃないんだろうか? 

音楽業界もまた、大衆操作の道具として使われてきたことが、ここ数年で表に出てきた。それは、アメリカの軍事作戦の一つとして、人々の独創性を奪い、上からの命令に反射的に従う人間を量産するためだったらしい。実際、この数年で、その効果がどれほどのものかを私たちはまざまざと見せられてきた。そして、クラシック音楽に関するこの奇妙な思い込みの強さは、それがクラシック音楽の領域でも行われてきたことを物語っているように思える。ここでもまた、同じなのだ。多くの人々は、自分の耳で聞いて、自分の感覚で感じ、考えようとしていない。権威が言っていることの方を信じていて、自分の感覚を信頼していない。

面白いことに、クラシック音楽は好きではないという人の方が、楽譜に忠実に弾いた演奏に素直に反応していた。クラシックは苦手だと思っていたけれど、こういうものなら好きだと言っていた人も多かった。それは、クラシック音楽の権威に支配されていないからなのだろう。

それを思うと、もし今、クラシック音楽ブームが起こるとしたら、これまでのクラシック音楽ファンではなく、音大を卒業した人たちでもなく、むしろクラシック音楽を避けていた人たちによって起こるのではないかという気がする。それこそはきっと、本当に自由で生き生きとした音楽文化になるんじゃないかという気がする。

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ショパンのノクターン変ホ長調アンダンテ。無名の演奏家の録音。


ショパンのノクターン変ホ長調アンダンテの楽譜


晩年のホロヴィッツのポロネーズ「英雄」


晩年のホロヴィッツの演奏 モーツァルトのロンド 楽譜付き


若い頃のホロヴィッツのポロネーズ



2023年2月12日

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【身体にいい音楽、悪い音楽】


ベートーヴェンのヴァルトシュタイン・ソナタも、いい演奏を見つけるのがなかなか難しい曲だ。この曲は、アレグロ・コン・ブリオで始まっており、つまり勢いよく快速に弾くのだけれど、最初ピアニッシモがずっと続いていく。ここを楽譜に書いてある通りに、勢いのある快速でピアニッシモに弾くと、震えるような地球の粒子の脈動が感じ取れるようで、すばらしい生命力の表現になる。

もちろん、この速度でピアニッシモに演奏するのは容易なことではないから、かなりのテクニックもコンディションもいる。だから、誰にでも弾ける曲だというわけではないけれど、かといって一流演奏家でなければ弾けないというものでもない。

だけど、ほとんどの演奏家は、ここをテンポゆっくりめに弾いてしまうのだ。そして、ピアニッシモではなく、大きめの音で弾いてしまう。アレグロ(快速に)ではあるけれど、コン・ブリオ(勢いよく)のテンポではない。ほんのわずかな差でしかないのじゃないかと思うかもしれないけれど、この曲は少しでもテンポが遅いと、粒子の振動にならないのだ。そして、粒子の振動にならないと、何だかよくわからないものになってしまう。そうすると、ただ早くて音がガンガン鳴っている感じの曲になってしまうのだ。しかもそこを大きめの音で弾いてしまうと、生命の振動ではなくて、頭をガンガンやられている感じになってくる。繊細な感覚を持っている人だと、この辺でもう頭痛がしてきたり、胃のあたりが苦しくなってきたりする。

楽譜の読み方について書いた投稿に、モーツァルトを歌うと喉の調子がよくなるということを書き込んでくれた声楽家の人がいた。モーツァルトだけではなく、音楽とは、もともといい波動で人を癒やすためのものだったはずだと書いていた。たしかに、音楽とはもともとそうしたものだったのだろう。聞く人々に力を与え、元気にするための波動だったのだと思う。シャーマニックな伝統文化では、ヒーラーたちは楽器を弾いたり歌を歌ったりして、人を癒やした。音によってある波動を作り出して、聞いている人々の身体を微細に振動させ、緩めたり、血行をよくしたりするようなことが、実際にできる。だから、音楽がもともとそうした効果のために演奏されていたというのは、納得できる。病気を癒やすようなことにかぎらず、身体を整えたり、悲しみや怒りを癒やしたり、希望や喜びの感覚を思い出したりするために、音楽は演奏されてきたのだと思う。

音楽を、波動による効果ということで考えるなら、身体に心地よい音楽が、いい音楽だということになる。身体が緩んで血行がよくなり、元気になってくるような音楽や、癒やされる感覚がして、抑圧された感情が解放されたり、希望が持てるような気分になったりする音楽が、すぐれた音楽だということになると思う。

昔から、下手な歌を歌うとぬか味噌が腐る、ということを言ったけれど、それは単に歌の下手な人をあざけるためではなくて、実際に波動が乱れて、発酵のバランスが崩れるというようなことがあったのかもしれない。きれいな歌を歌っていると、ぬか味噌がよく発酵したり、植物がよく育ったり、ということがあるのかもしれない。

それを思うならば、頭が痛くなってきたり、胃が苦しくなってくるような音楽とは、何なのだろう? 有名な演奏家、世界的に一流の演奏家がそういう演奏をしているから、それはそういう表現なのだと言われているのだけれど、そんな音楽は20世紀になってから初めて出てきたもので、それ以前にはなかった。そういう音楽しか演奏できない人はいたかもしれないけれど、そんなものは、ぬか味噌が腐ったり、牛が乳を出さなくなったりするから、歓迎されるべきものではなかったし、ましてや称賛されるようなものではなかったはずだ。

このところの投稿に、いろんな音楽の動画を貼りつけていたら、それを聞いてくれた人の何人かが、「これは身体に心地がいい」と書き込んでくれていた。クラシック音楽はあまり聞かないけれど、この演奏は心地がいいから聞ける、というのだ。それを見て、クラシック音楽が好きではないという人は、あるいは単に演奏の波動がダメなのかもしれないと思った。作品自体はいい波動を持っているし、そういう波動が出るように演奏すれば、こういう人たちもクラシック音楽を喜んで聞くのだ。だけど、ほとんどの演奏は身体が苦しくなってくるような波動になっているのが現実なので、クラシック音楽は長いこと聞いていられない、ということになる。つきあいでコンサートに行っても、途中で会場を出たくなったりする。そうこうするうちに、クラシック音楽の演奏会などには、あまり近寄らないようになっていく。

20世紀になってから、楽器の調律の周波数を変えてしまい、その周波数だと意識の次元が下がるというようなことも言われている。そして、それは人々の意識が覚醒しないように、意図的にやっているのだと。だから、周波数を変えるべきだということもよく言われるけれど、周波数以前に、演奏の仕方がもう身体に悪いような波動になっている。そして、そういう演奏が、表現性のある一流の演奏だということになっているのだ。だから多くの人は、演奏が身体に心地がよくないのにもかかわらず、これがいい演奏だというので、聞いているということになる。そんなことを続けていると、身体にストレスがたまって、どこかしら歪んできたり、感性が鈍磨して、繊細な音楽がわからなくなってしまったりするんじゃないかという気がする。

音楽が好きで音大に入っても、音大で勉強を始めたとたんに、音楽が嫌いになる人が、実はけっこう多いのだそうだ。それは、音大の勉強がきびしいからだと思われているけれど、あるいは本当の理由は、波動の悪い演奏に四六時中さらされるからなのかもしれない。それまでは、好きな曲を気楽に演奏して楽しんでいればよかったけれど、音大に入ったとたんに、よく理解できないような難曲ばかり弾かなくてはならなくなり、しかもそれを有名な演奏家がやっているような演奏の仕方で弾かなくてはならなくなる。これは心身ともにストレスが大きく、健康的なことではない。だから、音楽が嫌いになるのは、ある意味まともな反応かもしれない。

ところで、ヴァルトシュタイン・ソナタの演奏をあれこれ試聴していて、たまたますばらしい演奏を見つけたのだ。この曲は、アレグロ・コン・ブリオの快速で、ピアニッシモで始めると、まるきり違う曲のようになる。地上の生命の震えるような振動が聞こえ、その波動が宇宙まで繋がっていって、生命力にあふれた壮大な世界が広がっていく。この地上世界は、何と生き生きした、美しいところであったかというような感動が、自ずと湧いてくる。それが、ハ長調の強い透明な光のような調子で、繰り広げられていく。

ベートーヴェンがこの曲をアレグロ・コン・ブリオとして、しかも最初の部分をずっとピアニッシモにしたのは、この微細な振動を出すためなのだ。曲の解釈は人それぞれだなどとクラシック音楽の人は言うのだけれど、これはそういう問題ではないと思う。曲がちゃんとした表現になるというのは、こういう全体性をもってこそのことを言う。ちゃんとした表現になったとき、演奏は身体に心地よい波動になり、聞く人に生き生きとした生命力を与えてくれるものになる。もしそうなっていないのなら、どんな一流の演奏家が弾いたのであれ、それは表現になっていないのだ。

この演奏家は、イゴール・レヴィットというドイツ系ロシア人で、ドイツで音大の先生をしているらしい。まだ若い人だけれど、細かいところまでよく表現している。音の色の出し方も、テンポの保ち方も、全体の解釈も、実に見事だ。最初のアレグロ・コン・ブリオの和音の連打を、惜しげもなく微細な振動のようにピアニッシモで弾いている。しかし、これはこの人の特別な解釈だというのではない。まったくこの通りに楽譜に書いてあるだけなのだ。

ある意味、クラシック音楽はこれまでずっと封印されてきた。本当の美しい姿、生命力にあふれた姿が変えられて、小難しいようなもの、苦しみながら覚えなければならないもののようにされてきた。だけど、本当のすばらしい音楽は、楽譜の中にすべてそのままに記されていたのだ。だから、それをただ正確に読み取りさえすればよかったのだ。

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下のリンクは、日本からだとプレミアム会員オンリーらしいので、日本の方はこちらのリンクから、ライブ版見て下さい。最初4分くらい曲の解説していて、4分くらいのところから演奏しています。

ヴァルトシュタイン・ソナタ ベートーヴェン 演奏イゴール・レヴィット


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ヴァルトシュタイン・ソナタ 第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ 演奏:イゴール・レヴィット


第2楽章 


第3楽章


ベートーヴェン「ヴァルドシュタイン・ソナタ」の楽譜

ベートーヴェンの月光ソナタ。第一楽章のアダージョ・ソステヌート。ほとんどの演奏家はここもっとゆっくり弾くんですが、アダージョ・ソステヌートは、上の和音の方じゃなくて、低音の方だと考えると、このくらいのテンポになります。この弾き方だと、宇宙の神秘みたいな情景が見えてきます。

https://www.youtube.com/watch?v=2xSpGxAMGKs

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ベートーヴェン「悲愴」ソナタの第二楽章アダージョ・カンタービレ。実に微妙なところなんですが、この人のテンポは身体にとてもしっくり来ます。ほとんどの演奏家は、ゆっくり目でこってりさせてしまうので、お腹に重い感じです。

2023年2月13日


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【ドリームタイムの封印を解く】


オーストラリアのウルル(エアーズロック)。地球の第三チャクラと言われている。


オーストラリアのアボリジニたちが「ドリームタイム」と呼んでいる世界は、自然の精霊や神々が人間と共生しているような意識上の空間なのだと思う。アボリジニたちは、その意識空間で、動物たちとも話すし、神々や先祖たちとも話すのだと思う。

アボリジニたちの聖地とは、そうしたドリームタイムと繋がる場所であり、オーストラリアの真ん中にあるウルルと呼ばれる赤い砂岩の巨大な一枚岩は、彼らの最大の聖地なのだそうだ。そこは地球の第3チャクラだとも言われている。それで、そのウルルに画像から遠隔アクセスして、そのエネルギーを解放し、地球の第三チャクラを開くセッションを、マヤ暦で魔術的な日と言われる音11の青い猿の日に行なうことになった。

これまでも、アクセスしてみたらチャクラの位置が微妙に違っていたということがあったのだけれど、ウルルもそうだった。ウルルのエネルギーは、第三チャクラよりも少し下のおへそのあるあたりが要のようだった。というか、そのあたりにブロックがある感じなのだ。チャクラそのものというより、封印がかかっているのが、その間のあたりだということなのかもしれない。

おへそといったら、私たちが生まれる前にへその緒で胎盤に繋がっていた部分だ。そこから私たちは養分をもらい、養われて生きていた。へその緒と胎盤とは、まるで木の根のように細かな筋膜で繋がっていて、その胎盤に包まれる形で、胎児は育っていくのだそうだ。生まれたときに、私たちは胎盤から切り離されて、自分で呼吸をし、食物を消化して生きていく。しかし、私たちは本当には、エネルギー体としてのへその緒で、地球とつねに繋がって養い守られているのだと思う。そのことを忘れさせられていることこそが、第三チャクラの封印なのかもしれない。そして、ウルルはそれを私たちに思い出させてくれる場所なのかもしれない。

それで、それぞれ意識上の長いへその緒で、ウルルと繋がっているイメージを作ってみることにした。そういうイメージで、ウルルのエネルギーをお腹のところに受け入れてみることにしたのだ。すると、意外なことが起こった。

第三チャクラだから、自我意識とか自己実現と関係があるんだろうと思っていた。内なるパワーを感じて、いろいろ実現していけるようなエネルギーを感じるのではないかと。ところが、そこでほとんどの人が感じたのは、世界と自分とが同じだとか、地球と宇宙も同じだとかいった風な、不思議な一体感だった。感じることと表現することは同じだとか、主体と客体の間に境がない、と言っていた人もいた。

それこそはまさに、アボリジニたちがドリームタイムと呼んでいるものなのだろう。へその緒で地球と繋がって養われているということを思い出したとき、私たちは何のために地上に生まれてきたのかを思い出すのだ。それは、身体を持つことで、いろいろな意味で、この精霊や神々の世界を形にし、表現することができるようになるためなのだと思う。そこでは、感じることは同時に表現することだといったような、言葉にし難い一体感の世界があった。

しかし私たちは、生まれてきてへその緒を切り離されたとたんに、人の顔色を見ながら生きるようなことを強いられていく。感じたいように感じ、感じたように表現するのではなく、許されたことだけを感じたり表現したりするようになっていく。そうでなければ愛されず、受け入れられず、生きていけなくなるという恐怖につねにさらされることになる。他の子と比べられたり、叱られたりほめられたりということを繰り返しながら、条件づけられていくのだ。

生まれたときには、私たち誰でも天才レベルの創造力を持っているそうなのだけれど、そうやって比べられたり、何かを強制されたりしていくうちに、創造力がどんどん落ちていき、義務教育が終わる頃には、天才レベルの創造力を持っている子は、ゼロに近くなるのだという。それはまさに、へその緒を切られたあとで、大人たちが望むように行動していなければ、受け入れられないという封じ込めをかけられるからだ。だけど私たちは、本当は地球と繋がっていて、ずっと胎盤に守られながら生きている。この大地こそは、私たちの胎盤なのだ。

意識上のへその緒でウルルと繋がってみると、お腹が暖かくなって、お腹からしっかり息が吸えるのを感じた。ちょうどおへそのラインのところが大きく動いて、息がお腹に入り、また出ていく。そうやって、お腹が心地よくリラックスして、活性化してくる感覚がある。それと同時に、自分がいかに見かけを気にして、感じるままに表現することを抑えてきたのかということが、泣きたくなるほどに意識に浮かび上がってきた。

ドリームタイム。その精霊や神々や先祖たちと境なく繋がれる意識空間こそは、私たちの創造力の源だったのだ。私たちは、生まれたときにはその世界と境なく繋がっている。だけど、現代に生きる私たちは、生まれてすぐに、その世界と切り離されていく。そんな世界は存在しないと言われ、繋がることを禁じられて育っていく。

音楽や美術は、現代で唯一そうした世界と繋がることを許される領域かもしれない。だから、感性の豊かな子たちは、芸術表現へと向かっていく。だけどそこでも、大人たちに何を表現するべきなのかを強制され、自分の感覚を持てなくされてしまっていることが多い。

このところクラシック音楽のことを書いていたら、クラシック音楽好きの人たちがいろいろなことを書き込んでくれるのだけれど、奇妙なことに、音楽を習ってきたような人ほど、自分で感じることが難しいように思えた。クラシック音楽とはこれまで無縁だったという人たちは、ストレートに聞いて、ストレートに反応するのに、何らかの形で音楽をやってきた人たちは、自分で感じているというよりも、頭で語っているように思える。しかしこれは、クラシック音楽の教育がどのようなものかを知っていると、納得できる。ほとんどの場合、先生や有名な演奏家のコピーをするようなことばかりで、音楽そのものを感じ、表現するようなことは、習ってきていないのだ。それで、何を感じ、何を表現するかも、すっかり支配されたようになっていることが多い。

まさにそれこそが、ドリームタイムとの繋がりを封じていたのかもしれない。本当のベートーヴェンやバッハがどういうものなのかという話をすると、楽譜に正確なだけでは表現にならないのではないかとか、何が本当かなど決められないのではないかと言ってくる人たちがたくさんいる。本当のバッハの表現は、楽譜だけでもないけれど、しかし楽譜だけ見ればすべては自ずと見えてくるようなものでもある。これは理屈で語れるようなものでもなく、自分で感じて体験するしかないようなことかもしれない。本来、音楽のレッスンとは、そうした感性を養うものであるべきなのだけれど、逆にそうした感性を封じてしまっていることが多いのが現実だ。

それで言葉に困っていると、チューニングのようなものですね、と書き込んでくれた人がいた。チューニングとは、ピタッと合ったときに、心地よく共振し始める。作品の解釈というのも、まさにそういうところがある。どの作品のどの部分にも、そうした共振点のようなものがあるのだ。そこへいたるカギは、楽譜に記されているけれど、しかし演奏者が自分でその共振を感じ取らなければならない。たとえば、アダージョといっても、どういうテンポなのかには、いくらかの幅がある。だけど、それぞれの作品には、ピタッと合う共振点のようなものがあるのだ。それをつかんだときに、曲の全体がとつぜんに意味を持ち始め、物語り始める。共振し始めるのだ。作曲家が作り出した世界と演奏者が共振し、もはやどっちが指示してどっちが従うといった区別さえもなくなる。そして、その共振が聞く人にも伝わっていき、共振が広がっていく。それは、演奏者が聴衆をドリームタイムに引きずり込む瞬間だ。そして、それこそは音楽の魔術的な体験なのだ。

クラシック音楽は、西洋のドリームタイムと言えるかもしれない。人々は音楽を通してドリームタイムを体験する。そして、その体験を作り出す人こそが、作曲者であり演奏者だった。ところが、20世紀に入ってから、それが意図的に封じ込められてきたようなのだ。このところ、そういう共振が起こるような演奏をあれこれと探していたのだけれど、そのカギはテンポにあるようだった。一般に知られている演奏のテンポが、いつも微妙にずれているのだ。まさにそのために、西洋音楽に特有の妖精や天使たちと共生しているかのような意識空間に繋がっていかない。すると、天上的な華麗な世界が、苦悩する人間の感情のような世界に変わってしまう。それもまた美しいといったら美しいのだけれど、しかし本当の西洋音楽はこんなものではないし、そんなことのために作られたものでもない。人々を妖精や天使たちに出会わせ、本当は私たちはそうした世界に生きているのだということを思い出させる力を持ったようなものなのだ。

それが開くためには、チューニングのような精妙さが必要なのだけれど、それは、演奏者が自ら共振を自分の身体で感じてこそ、ピタッと決まる点を見つけることができる。そして、一度共振し始めたら、あとは自動的に起こっていくようなところがある。教え方のうまい先生のレッスンを見ていると、起こっていることはまさにそれだ。先生は、どこをどう合わせたら共振し始めるかを見て、それを学生に体験させる。それは、ちょっとしたテンポの違いだったり、ちょっとした強弱の違いだったりする。そして、それによって音楽が共振し始め、魔術的な扉が開くのを体験させるのだ。音楽の勉強というものは、本来はそれを習得することだったはずだ。

地球のヘソと言われるウルルのエネルギーを解放して、集合意識に繋いだら、ドリームタイムの入り口としてのクラシック音楽が扉を開いてしまったような気がする。ある意味もっとも封印がきつかったバッハのゴールドベルグ変奏曲のすばらしい演奏を見つけてしまったのだ。グレン・グールド風の演奏が一般的になっていて、あのテンポがバッハだと思っている人が圧倒的に多い。バッハの曲は非常に強い構造を持っているので、あそこまでテンポを引き伸ばしても、まだ曲としての美しさを持っていることもたしかだけれど、あのテンポでは、ドリームタイムの扉は開かない。しかし、共振するテンポで演奏されたとき、バッハのゴールドベルグ変奏曲こそは、天使や精霊が生きている天上的な世界が、実は私たちが今生きているこの地上と重なって存在していることを、体験させてくれるような曲なのだ。

この作品集こそは西洋の世界樹だ、と思った。ウルルのエネルギーを集合意識に繋いだときに、地下に根を張り、天に枝を伸ばす巨大な世界樹のようなイメージが見えたのだ。それは、胎盤のように私たちを守っている大地と宇宙と私たちの繋がりそのもののイメージだった。私たち人間は、大地と天と繋がり、その間で、表現することで生きる。つまり、あのドリームタイムを感じ、それを表現し、共有することでだ。だから、あの世界樹のイメージこそは、ドリームタイムの入り口なのだ。それが開いたのかもしれないと思った。

そのゴールドベルグ変奏曲の演奏を聞きながら、涙が止まらないのだ。私たちがもともといた、あの懐かしい世界が戻ってきたというような感覚がして、おへそのラインのあたりが硬くなったり、緩んで暖かくなったりしている。それは、ブロックが解けていくときに、よく起こるあの感覚だ。

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バッハのゴールドベルグ変奏曲 演奏 ジャン・ロンドー(ハープシコード)


2023年2月14日


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【クラシック音楽の封印が解けた】


クラシック音楽が特別なもの、高尚で難解なものだと思われるようになったのは、いつからのことなのだろう? 音楽とは、もともと楽しむためのものであったはずなのに、それがいつの間にか、まるで難解なものを苦しみながら勉強するようなことになっている。コンサートに行くことでさえ、まるで何かの修行のようだ。難解なものを理解できるようになるために、退屈なのに、一生懸命すわって聴いていたりする。

グレン・グールドのバッハは何故よくないと思うのかと聞かれて、バロック風の演奏をしている録音を探していた。別にグールドがダメだというのではないし、私も自分でピアノを弾き始めるまでは、あれがバッハでは最高だと思っていた。だけど、本当にバロックのスタイルで演奏したバッハを聴くと、あの重々しい、気難しそうなバッハは一体何だったのかと思うくらい、底抜けの陽気さと軽快さでノリノリになっている音楽だということがわかる。その楽しさを知ってしまうと、何だってこれを味わわないで、重々しく演奏したものを真面目くさって聞いてなきゃいけないのかと思うわけなのだ。

それで、ネットであれこれ検索していても、バロック風の軽快さで弾いている演奏がほとんどない。どれもこれも重々しくて、いかにもこれは高尚にして難解なものだといった風な演奏だ。1981年に録音したグールドのスローモーションのゴールドベルグ変奏曲があまりにインパクトが強かったので、バッハはあのように弾くものだとどの演奏家も思い込んでしまったのかもしれない。

グールドのスローモーションの演奏も、たしかに独特の面白さがある。バッハの曲というのは、あれほどに引き伸ばしても、まだ面白さが残るくらいに、強い構造を持っているのだ。そして、グールドはきれいな音を出すこともできるし、あの演奏は432ヘルツに調律したピアノによるものだそうで、これは波動が身体に心地いいらしい。そういうこともそろって、あの演奏は、確かに何か深いものがあると思わせるものがある。

ずいぶんあれこれと聴き比べたあとで、ハープシコードの素敵な演奏を見つけた。これはまったくバロックのスタイルのままに演奏したもので、バロック音楽の豪奢で気品のある音も、スウィングした軽快で陽気なノリも、天使たちがコーラスで歌っているかのような天上的な美しさも、すべてがあった。バッハの楽しさとは、まさにそうしたものなのだ。気品がありながらも、底抜けの陽気さがあり、思わず身体が動くようなスウィング感がある。

何だか真面目くさった重々しいクラシック音楽の世界とは、まるで違うような演奏で、こんなものはめずらしいと思っていたら、これはオランダバッハ協会というところがやっているプロジェクトで、バロックのスタイルですべてのバッハの曲を録音して、ネットで無料で公開するというものだった。サイトを見たら、寄付をするリンクが貼りつけてあったから、寄付金で運営しているらしい。商業主義に毒されたクラシック音楽界で、純粋な演奏をしようと思ったら、こういうやり方しかないのかもしれない。

オランダバッハ協会のサイトを見ると、いろんな曲が動画で聞けるようになっていて、それがまたどれもこれも、すばらしくノリノリの素敵な演奏だ。まったくバロックのスタイルのままに演奏しているだけなのだけれど、そうするとこういう底抜けに楽しい音楽になるのだ。演奏家たちも、気取ったようなところがまるでなくて、純粋に音楽が好きで演奏しているといった風だ。音楽に献身するとは、このようなことを言うのだと思った。何だかいかにも苦労してそうに、重々しく演奏するんじゃなくて、この音楽が好きで好きでたまらないというのを身体で表現している。

それは、クラシック音楽界のスター演奏家の気取った演奏ぶりとは、まるきり違っていた。あのスターたちも、やっぱりいかにも音楽と一体になっていますといった風に身体を動かしているのだけれど、そこには気取ったようなところがあり、エゴが出ているというか、要するにかっこうつけてわざとやってるようにも見える。実際、スター演奏家を育てている先生たちが、かっこよく見えるしぐさを仕込んでいるのも、私は知っている。聴衆が、これは大物だと信じ込むような身ぶりが大事なのだ。スター演奏家というのは、実力のあるなしではなくて、評論家やメディアで持ち上げて、作り出すような、実に商業主義的なものだったりする。

それで、クラシック音楽のスターだとか巨匠だとかいう人たちは、そういう風なものなのだろうと思っていたのだけれど、しかしこのバッハ協会の演奏家たちの実にフラットな演奏ぶりを見ると、スター演奏家たちの気取ったしぐさが、とたんに嘘くさく思えてしまう。本当に音楽と一体になった人たちは、あんな無駄な動きなどしない。すべての動きが音楽のスウィングと完全に一致して、一体になっている。

そしてこの演奏家たちの、何と謙虚なことかと思う。音楽に献身するとは、このようなことを言うのだ。自分を出そうなどとせず、ただこのすばらしい音楽を演奏できる喜びに感謝しているといった風だ。西洋音楽の伝統があり、この曲が残されていることに、私たちはこのような感謝の念をもってもいいのではないかと思った。それなのに、あの音楽評論家たちは、あれがダメだとかこれがいいとか、どうして自分が演奏を裁定できるかのように思っているのだろう? 何故演奏家たちは、評論家たちが何を言うかと、ビクビクしていなければならないのだろう? 演奏家たちも聴衆も、ただこの音楽が残されたことへの喜びと感謝を共有するだけでよいのではないかと、このバッハ協会の演奏家たちの演奏ぶりを見ていて思った。

前の投稿に、オランダバッハ協会の素敵な演奏の動画をあれこれ貼りつけておいたら、クラシックはむしろ敬遠していたという人たちが、バッハってこんなに楽しいものだったんですね、世界観変わりました、とコメントしていた。この人たちは、商業主義的なクラシック音楽の重々しさや、気取ったようなところが鼻について、敬遠していたのかもしれない。ところが、まったく普通にバロックのスタイルで演奏したバッハは、そんな重々しさも気取ったところもまったくなく、ただ楽しいのだ。そもそも音楽とは、人を楽しませるために演奏するものなのだから、考えてみれば当たり前だ。それが、楽しいものでなくなっていたことの方が、実はおかしなことだったのだ。

クラシック音楽界は、付加価値をつけて売り出すために、あえて小難しい重々しいようなものにしたのだろう。楽譜のままに演奏したら、表現にならないのじゃないかと、クラシック音楽ファンの人たちはよく言うのだけれど、楽譜のままに演奏したら、表現にならないのじゃなくて、独占できないのだ。クラシック音楽は、楽譜のとおりに演奏しさえすれば、誰でも再現できるほどに、丁寧に記されている。このすばらしい作品たちは、一つ一つがすばらしい波動エネルギーを持ったものなのだから、それはフリーエネルギーのようなものだと言える。楽譜が読めて、楽器が演奏できれば、誰でもそのすばらしいエネルギーを楽しむことができる。上手い下手は別として、とにかく楽しむことはできるのだ。

それを、小難しいものにしてしまい、長く苦しい修行を積まなければいい演奏ができないものであるかのようにしてしまい、スター演奏家を持ち上げて、特別なものにしてしまった。それでクラシック音楽は巨額のお金が集まる業界になり、演奏家たちはそのようになることを目指して、スターたちの演奏をコピーし、取り立ててくれる人に取り入ろうとするのだ。

偽物はいくら叩いても、次から次から同じようなものが出てきて、なくすことはなかなかできないけれど、本物が現れたら、たちまち姿を消してしまう。このオランダバッハ協会の演奏は、まさにそうしたものだった。それを聴いた人たちが、バッハってこんな音楽だったんだ、とまるで目からウロコが落ちるように思ったのだ。バッハとは、こんなに楽しく、こんなに気楽で、こんなに誰でも楽しめるものなのだと。そう思ったときに、今まで苦労して理解しようとしてきたクラシック音楽とは、いったい何だったのか、あのスター演奏家たちはいったい何だったのかと思えてくる。

まさにあれが封印だったのだ。クラシック音楽というすばらしいフリーエネルギーを封じ込めるための。グレン・グールドもホロヴィッツも、音楽を特別なものにするために、利用されていたのかもしれない。ああいう単純に楽しめないような重々しいものが、価値のあるものだと思わせるために、あえていくらか違和感を感じるような演奏をさせて、持ち上げていたのかもしれない。二人とも天才的な腕を持っていたからこそ、利用されていたのかもしれない。二人とも、大スターの扱いを受け、大金持ちだったけれど、精神的にはひどく病んでいた。そして二人とも、ある日とつぜん亡くなっていて、それには裏で何かあったのかと思わせるようなものがないでもない。

ホロヴィッツは晩年、クラシック音楽は実は楽譜のままに演奏すればすばらしいのだということを暴露してしまうような演奏をしていた。そのことに気づいた人は多くはなかったけれど、それに気づいた人たちは、酷評された日本公演の演奏でさえ絶賛したのだ。グレン・グールドも、1955年に初めて録音したゴールドベルグ変奏曲は、バロック風の演奏だった。あの録音で彼はスターになるのだけれど、その後の演奏は徐々にテンポを変えて、もともとのバッハの持つ軽快な楽しさを失わせていった。そして、ほとんどの演奏家がそうした「巨匠」の演奏を真似して、曲のスウィングを失わせるようなテンポや、ハーモニーを壊すような爆音で演奏するようになってしまったのだ。まさにそのために、クラシック音楽は、簡単には理解できないような高尚なものなのだと思われていた。

クラシック音楽は、もともとフリーエネルギー的なパワーがあるものだったのに、評論家やアカデミズムや音楽業界の権威主義によって、そのパワーを封じ込められていたのだ。大金持ちのスター演奏家など、もう必要ない。ああいうものを目指して、ピラミッド型の権威主義を支えるのなど、もうやめるときが来ているのだ。音楽もまた、多極化するとはそのようなことなのだろう。クラシック音楽は、独占することなどできない。誰もが味わい、楽しむことができるような形で残された、すばらしい文化財なのだ。その封印がついに解けたのだという気がした。

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最高にごきげんなバッハのブランデンブルク協奏曲 ト長調 オランダバッハ協会

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オランダバッハ協会の無伴奏チェロ。何とヴァイオリンみたいに肩に乗っけて弾く小型のチェロです。これも実にノリノリの陽気なバロックスタイル。

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2台のヴァイオリンのための協奏曲。これも実にノリノリなバッハ。


アカペラで歌ってるフーガの技法。

二台のヴァイオリンのための協奏曲でソロのヴァイオリンを弾いていたシュンスケ・サトーさんとエミリー・ディーンさんがこの曲について語っています。リハーサル中の映像も出てきます。
ヨーロッパの音大は、世界中から留学生が集まってくるので、言葉が通じてなくても、音楽で通じているような、国境のない不思議な世界です。どこの国から来ていようが、バッハの曲で理解し合っているっていう感じですね。先生たちもいろんな国から来ているし、本当に国境ないって感じです。特にオランダは、平地的なオープンな国民性なので、独特の雰囲気ができているのを感じます。
このインタビューの中で、エミリーさんが現代のヴァイオリンとバロックのヴァイオリンの演奏法の違いをやってみせているのも面白いです。バロックでは、ヴィヴラートをあまりかけないで、ストレートに弾くんですね。それで、あの軽快なテンポが出るんだと思います。

これはバッハの宗教音楽で、ブランデンブルクとかとは少し毛色が違いますが、実に美しいコラールです。4人の歌手がそれぞれ4声を歌っています。バロック・フルートも入ってて、まさしく天使の歌声って感じです。



2023年2月16日


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【西洋のドリームタイム】


バッハのすてきな教会音楽なんかを聴いていると、キリスト教会とは実は音楽を演奏するためのものだったのかと思ったりする。キリスト教で「神の国」といっているものは、教会では死んだあとにしか行けないところみたいに言っているけれど、これは本当はアボリジニたちがドリームタイムと呼んでいるものと同じような、高次元の意識世界のことなのだと思う。教会は、生きている間ずっと教会の教えに従っていた人だけが天国に行けるみたいに言って、神の国は死後のものだと思わせている。だけどバッハの音楽は、その神の国というものが、実は今ここにあるということを暴露してしまっているように思える。

神の国とは、辛子の種のように、最初はごく小さな信仰でも、時が経つにつれて何百倍何千倍にも大きくなるようなものだと、ナザレのイエスは言っている。これは、意識の世界が開けていくのを経験したことがある人ならば、誰でも知っている感覚だと思う。最初は、まさかそんなものがあるわけがないと思い、でもあるいはそういうこともあるのかもしれない、というくらいのわずかな信じ方で、自分の意識を見えない世界に開いてみるのだけれど、そうすると、それがまったくリアルに存在していることを否応もなく知ってしまう。そして、一度開いた意識の世界は、時とともにどんどんふくれ上がるように大きくなっていく。それにはまさに、辛子の種が大きくなっていくような勢いがある。何故なら、もともと私たちは目に見えない世界とともにこの地上に生きているからなのだ。ないことにしてあっても、一度それが存在していることに意識を向けてしまうと、もう意識を閉じることなどできなくなる。

だから、この神の国というものを、イエスは、生きている間に行けないようなものとして語っているのではないことがわかる。そこと繋がるには、ただ彼が言っていることが本当なのだと思ってみればいいだけだと、彼は言っていたのだ。その程度に信じればいいのだと。

見えない世界を表現することこそは、芸術というものの本来の役割だと思う。目に見えるもの、物質的な次元の現実など表現したってつまらないと私は思ってしまう。人間的な苦悩だとか人間的な感情だとか、そういうものを表現するのが芸術だみたいに思われていることが多いし、20世紀以降そうした表現が一般的になっていたのも事実だ。しかし、それは私たち人間の意識を意図的に低次の次元に引きずり下ろそうとしていたからなんじゃないかと思う。実際、アメリカの諜報部などが、大衆心理操作のために音楽や美術を裏で操っていたこともわかっている。人の意識が高次の意識世界に開かれないように、人間的な苦悩や低次の快楽を表現したものを流行らせて、大衆の意識がその領域に留まるようにしていたのだ。

だけど、私たち人間はもともと多次元的な意識世界に生きるようにできていて、いわゆる産業資本主義に触れていない文化では、人々は日常的に見えない世界とともに生活していたりする。妖精や精霊、神々や祖霊と、あたり前のように会話して、暮らしているのだ。そういう人たちは、地上に生きている私たちが、そうした目に見えない世界にどれだけ支えられ守られているのかを知っている。

バッハはプロテスタント教会の音楽長を務めていたから、毎度のミサのための音楽を作曲していた。歌詞は福音書から取った言葉から誰かが作っていて、まるきり文学的センスのない、宗教的にもあまり価値のないようなものばかりなのだけれど、バッハの音楽はそんなものとは関係なく、私たち人間がすでに神の国に生きていることを音楽だけで完全に表現してしまっている。音楽の中に、私たちは天使の声を聞き、神の声を聞き、そうした存在たちに愛され、守られている人間のあり方を感じ取る。バッハの美しい教会音楽を聴いて感じる至福の感覚とは、私たちがすでに神の国に生きているということを感じるときの感覚と同じものだ。

だから、バッハの教会音楽は、天使の声が聞こえ、神の国がそこに存在しているという至福感が出てくるように演奏されるべきものなのだ。その代わりに、人間的な感情などが出てきていたら、どんなにいい演奏であっても、バッハの音楽ではないと私は思う。神的な表現であるものを、人間的な次元に引きずり下ろしたものにすぎないと思う。

私は陶芸をやっていたときに、人体の造形を習って、人物像をこしらえたりもしたけれど、アーティスト仲間が人間の姿をせっせと作っている中で、そういうものを作る気にはちっともなれなかった。人間の像なんか作ったってつまらない。そんな作品は、人間的すぎると思った。アートは、そんなものではなくて、目に見えない世界を描いてこそのものだと思う。それで私は、目に見えない存在たちを形にしていた。神々や天使や精霊を感じるままに形にしていた。

そういうものを作るときには、私が作るというよりも、作品が土の中から勝手に生まれてくるようにできていく。それはまるで、土の中に目に見えない存在が入り込んで、形になっていくかのようだ。アーティストというのは本来、そういう風に無我になって、そうした目に見えない世界の器になる人なのだと思う。まさにそのために、アーティストは技術を身につけるのだ。自分の表現などをするためではない。自分が器になって、生まれ出させるためだ。

そして、そうやって像ができると、それを見た人たちに不思議なことが起こる。多くの人が、そういう存在が本当にいるという感覚を持つのだ。まるで、すでに知っていたことを思い出すように、自然の精霊や天使、神々が、本当にそういう姿をしていると、そう感じるのだ。それは、誰もが多次元的な意識の世界を実は持っており、そこで見ているものだからなのだと思う。そういうものを形にして見せられたとき、そういう存在、そういう力があることを、人は思い出すのだ。芸術表現とは、まさにそうしたことのためにあるのだと、私は思っている。

ニーチェは19世紀末に「偶像の黄昏」を書いて、芸術表現が人間的なものになってしまったことを嘆いている。彼にとっては、人間の姿、人間の苦悩や感情を表現することは、人間の偉大さを表現することなどではなかった。それは本来、神的な高さ深さを持っている人間を、三次元的な姿に引き下ろしてしまうようなことだった。人間の姿を描けば描くほど、私たち人間は本当はもっとずっと高次の次元にも生きているということを忘れてしまうのだ。そして、三次元的な世界で、あらゆることが不可能な、制限ばかりの現実の中で、苦悩したり、喜んだりするような存在だと思い込んでしまうのだ。

逆説的に聞こえるかもしれないけれど、人間の偉大さを表現しようと思ったら、表現者は謙虚にならなければならない。ただ受動的にゆだねるような姿勢であるべきだ。そのとき、私たちの内なる高次の意識が動き始め、ないと思っていたような力が出てくる。そのとき私たちは、実は神的な存在であったことを思い出すのだ。

オランダバッハ協会の人たちが、バッハの有名なカンタータ「心と口と行いと生活で」を演奏しているのを聴いていると、演奏家も歌手もこの謙虚さそのものになっているのを感じることができる。こういう謙虚さになれるのは、曲と自分が共振する感覚をよく知っているからだ。このカンタータは、この冴えないタイトルが示すように、歌詞はまるきりセンスのないつまらないものなのだけれど、バッハの音楽は、神の国に生きる人間の至福そのものだ。そして、そのことに自ずと謙虚さと愛と感謝の念が湧き出してくる。それは、バッハ自身がまさにこの謙虚さで、器になるように天使や神に語らせ、歌わせているからなのだと思う。

オランダバッハ協会の演奏が、他の演奏にはちょっとないような謙虚さと共振とがあり、これこそは本物のバッハだと思わせるものがあるのは、何故なのだろう? 一つには、このプロジェクトは無料で録音を提供するというもので、商業ベースでやっていないということがある。そして、なるべく原型に近いバロック楽器を使ってやっているので、おそらく楽器の調律もバロック楽器に合わせて415ヘルツとかの低い周波数を使っているからなのかもしれない。周波数については私はくわしくないのだけれど、オランダバッハ協会の演奏は、お腹のあたりにも響く感じがある。何かしら、共振しやすい要素があって、そのために演奏家たちも容易に謙虚になって曲と共振することができるのかもしれない。

この100年くらい、音楽も美術も、人間的な表現に引き下ろされていたのだけれど、いよいよ多次元的な表現が、封印を解かれて解放されてきているのじゃないかと思った。その始まりが、バッハのリバイバルと言えるようなこのプロジェクトだというのは、何だかとても納得がいく。バッハの音楽は、まさに西洋のドリームタイムと言えるような世界を、演奏者にも聴衆にも体験させるような表現だからだ。バッハが活動した18世紀以降、西洋音楽は飛躍的に発展していって、短い期間にモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどの作曲家を生み出したけれど、それはバッハが西洋のドリームタイムへの扉を開くカギを遺していったからに他ならないと私は思う。

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オランダバッハ協会のカンタータ「心と口と行いと生活で」



2023年2月17日

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【世界樹としての人間の表現】


バッハの宗教音楽の話を書いて、人間的な表現はつまらないと思うと書いたら、人間的な感情を表したものも、それはそれで面白いんじゃないかということを書いてくれた人がけっこういた。たとえばフラメンコは人間的な愛憎を表現しているけれど、面白い、と。

フラメンコみたいな民俗音楽は、日常的な感情や愛憎を表現しているけれど、たしかに面白いと思う。私はニーチェが言っていた意味で、「人間的な」という言葉を使っていたのだけれど、そういう意味では、フラメンコは「人間的な」ものではないと思う。あれは、人間の感情ではあるけれど、神的なものから切り離されてはいないと思うからだ。

ニーチェが「人間的な」と評していたのは、神的なものから切り離されたような人間の表現ということなのだと思う。まるで人間が、三次元の領域だけで生きているかのような表現。私はそれがつまらないと思うわけなのだ。

民俗音楽も、農家の人や漁師が日常的に歌っているような音楽は、とても深いものだし、神的な人間のあり方を表現しているものだと思う。もともと音楽とは、私たち人間が多次元的な世界、精霊や神々の世界に繋がるためのもので、たとえ日常的な人間の感情を歌っていても、それはやはり多次元的な世界の中での人間を表していると思う。

ところが、民俗音楽も、プロになってコンサートツアーしたり、プロモーション・ヴィデオを作ってCDを売ったりし始めると、とたんに面白くなくなってしまったりする。前にジンバブエに住んでいた友達が、ムビラというジンバブエのカリンバのCDを聞かせてくれたことがあったのだけれど、それは人々と精霊たち、大地との繋がりを感じさせる演奏で、すばらしいものだった。当時ジンバブエには、プロの演奏家などというものはいなくて、ただそれぞれの土地にうまい人がいるというだけだった。そういう人に頼むと、来て演奏してくれたりする。そのCDは、そういう演奏家たちの演奏を録音して集めたものだった。それで、ムビラというのはすばらしいものだと思って、他の演奏を聴いたりしたのだけれど、それはどれもプロの演奏家の録音で、私にはまるきり別な音楽のように思えた。かつて聴いた地元の演奏家の演奏のような、大地との繋がり、精霊との繋がりは、まったく感じられなかった。

ニーチェが19世紀の終わりに、芸術が「人間的な」表現になってしまったと嘆いたのは、そのようなことだったのかもしれない。産業資本主義が進んでいく中で、神的な世界から切り離された人間の表現が、あの頃一般的になってきていて、ニーチェはそのことを嘆いていたのだと思う。

だから、どんな音楽、どんなテーマを扱っているかということさえも、「人間的」かどうかには関係がないのかもしれない。バッハのすばらしい宗教音楽だって、神的なものから切り離された表現にしてしまうことができる。20世紀のスター演奏家たちも、ある意味、プロになってしまったムビラ奏者みたいなものなのかもしれない。大地や精霊や神々の世界との繋がりの中で演奏しているという感じではなくなって、エゴとかお金とか名声みたいなもので演奏しているように思える。音楽と純粋に繋がって共振している感じではなくて、それよりもエゴが先に立った表現になっているような気がする。

オランダバッハ協会の演奏が、プロでありながらプロでないような、エゴのないすばらしい演奏ばかりだったので、私はこれこそは本当のバッハであり、人間的なのではなくて、神的な表現だと思ったのだけれど、こういう違いを感じ取ることには、誰もが慣れているわけではない。むしろクラシック音楽を敬遠している人たちの方が、その違いを感じ取って、これはよく聞くような演奏ではなくて面白い、と言っていたのだ。だから、クラシック音楽が苦手だという人も、音楽自体が好きではないということではなくて、プロ的な演奏にある、神的なものから切り離されたようなところ、エゴが勝っている感じを感じ取ってしまうからなのかもしれない。

20世紀に入る頃から、音楽を大衆心理操作に利用したりし始めているというのだけれど、それはたとえば、支配者たちが大衆に追いかけさせ、目指させたいものを、これがかっこいいのだとすり込むようなことだ。1930年代のヨーロッパでは、ショートカットにナイトドレスの女性の姿がかっこよく描かれたけれど、それは経済恐慌で貧困に陥った女性たちが、風俗業に行くのを奨励するためだったという話がある。どういう家に住んで、どういう物を持って、どういう娯楽を消費するのがかっこいいのか、そういうことをすり込むのに、流行の音楽やアイドルたちが利用されている。そういう音楽がかっこいいとか面白いと感じるとき、意識がどこに向かっているのかを考えてみるといいのかもしれない。多くの場合、そこには「自分には何か足りないものがある」というような欠如意識が掻き立てられ、そのために惹きつけられていることが多いんじゃないかと思う。

地球の第三チャクラであるというオーストラリアのウルルのエネルギーを解放したとき、世界中の至るところに世界樹のような巨大な木が生えてくるようなイメージが現れたのだけれど、あれは、地球と宇宙と多次元的に繋がって、地上で創造する私たち人間のあるべき姿なのだと思う。大地と繋がり、地中の微生物や自然の精霊たちを感じ取り、宇宙の意識を感じ取り、それを表現しながら生きていくこと。ジンバブエのムビラの演奏のように、商業的になる前の民俗音楽には、つねにそうしたものがあった。音楽は、精霊と語る言葉であり、神々の声を降ろすためのものなのだ。

そうした繋がりが、支配権力によって切り離されていったのが、この数千年の地球の歴史だったと思う。それは歴史を通じて、切り離されては戻り、戻ってはまた切り離されていったのだ。そして今、音楽もアートもAIで作ることができるようなことになって、こんなものが私たちが求めている芸術なのか、そもそも芸術とは何なのかということを、考えなければならなくなっている。AIが作り出す表現に欠けているものは何なのか? それは個人的な表現とか不正確さが出す味とかいうものではなくて、何よりもこの繋がりなのだと思う。大地や自然、精霊や宇宙と繋がり、共振するときに、自ずと生まれ出てくるような表現だ。そうした表現こそは、人々にこの繋がりを取り戻させ、もともと私たち人間が、世界樹のような存在なのだということを思い出させてくれる。

ウルルのエネルギーを解放していたとき、感じることと表現することの間に境がないような世界が現れてきていた。プロではない民俗音楽の奏者たちは、日常の中で歌い、楽器を奏していて、そこには表現しようというような意図さえもないのかもしれない。ただ自然に共振し、音楽に共振し、表現が生まれてくるのじゃないかと思う。アーティストは、本当に無我になっているときに生まれた作品の方が、いい作品になるということをよく経験するけれど、それはこの共振なのだ。そこからいい作品、人に何かを与えることができるような作品が生まれてくる。

世界樹のような存在としての人間の表現とは、そのような共振であり、そうしたものこそは、多次元的な世界を表現する新しい表現になっていくんじゃないかという気がする。

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石川純子さんの点描曼荼羅


ルートチャクラをシャンバラ世界に繋ぐセッションで生まれたイメージ Yae Sasajima さん

2023年2月18日

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【男でも女でもなく、人間であること】


オランダバッハ協会のカンタータで、アルトのパートをカウンターテノールが歌っているのを見て、これはまるで天使の歌声だと思った。バッハの時代は、アルトのパートはカストラートが歌っていたわけなのだけれど、今はそれをアルトの女性かカウンターテノールの男性が歌っている。普通、女性が歌う声域なのだけれど、これを男が歌うと、女性ではちょっと出ない深みが出る。それでバロックの時代には、ボーイソプラノの男の子に声変わりが起こらないような手術をするような乱暴なことまでしていたのかと、その気持ちもわからなくはないような気がした。

投稿のスレッドに、アンドレアス・ショルというドイツ人のカウンターテノールが歌うヘンデルの有名な歌曲「オンブラ・マイ・フ」のリンクを貼りつけてくれた人がいて、それがまたすばらしい声だった。声の高さをもてあましているパートナーに聞かせたら、二回続けて聞いて、それから喜んで思い切り高い声を出して歌っていた。高い方が声がよく出るんだと言っていたから、たぶんカウンターテノールの声域なんだと思う。男でもまた、こういう風に歌ってもいいのだということを、アンドレアス・ショルのすばらしい声は示してくれるかのようで、それは、内なる女性性をもてあましている男の人たちには、深い意味での解放になるのかもしれないと思った。

オンブラ・マイ・フの録音は、アンドレアス・ショルがまだ30歳ちょっとの頃のものだけれど、今はザルツブルク音大でバロック歌曲を教えているらしい。ザルツブルク音大で自分がどうやってカウンターテノールになったのかということを話している動画があり、それがとても興味深かった。

彼はドイツの少年合唱団がある街に育って、お父さんもお祖父さんもそこで歌っていたのだそうだ。それで彼も合唱団でボーイソプラノで歌っていた。それから13歳くらいで声変わりしたあとに、そのときの先生が、歌い方をテノールに変えないで、そのまま頭から声を出す歌い方で、どこまでボーイソプラノで歌えるかやってみたらどうかと勧めたのだそうだ。それで彼はずっと高い声で歌い続け、カウンターテノールになった。だから、彼にとっては、これは女性の声域なんじゃなくて、少年のままの声なのだと言っていた。

最初の頃は、カウンターテノールが珍しかったこともあって、高い声で歌い出したらびっくりされたり、笑われたこともあったし、ホモじゃないのかとか疑われたりもしたそうだ。だけど、高い声だから女性的だというのは、偏見じゃないのかと彼は言っていた。彼自身は、これは少年のままの声だと思っているから、そういうことを言われても、それほど傷つきはしなかったと言っていた。男だから男性的じゃなきゃいけないとかじゃなくて、自分のあり方を肯定していると。男だから女だからじゃなくて、人間であることが大事だと思うと言っていた。

すべての女性の中には内なる男性性があり、すべての男性の中には内なる女性性がある。女性は女性的でなければ、男性は男性的でなければと、その内なる異性性を私たちは抑圧しようとしてしまう。だけどこの人は、少年の声を保ち続けることを選び、それによって内なる女性性を統合させつつ、男性として生きているのだ。この人の歌声に、何か深いところで人を解放するような力があるのは、おそらくそのせいなのだろう。内なる女性性を引き受けているというところでなのだ。

他のカウンターテノールはどんな歌い方をするのかと思って、検索してあれこれ聴いてみたけれど、アンドレアス・ショルみたいな人は、他には見つからなかった。どの歌手も、何だか妙に女性的で、解放を感じさせるものはなかった。女性的ではあっても本当の女性性ではないし、男性性でもない。内なる女性性を生きてもいなければ、男性性を生きてもいないように思えた。それが何だか気色悪くて、ほとんど一分も聴いていられなかった。

男性になり切れなくて、女性になろうとする男性も多いけれど、そのままの自分を受け入れられないのなら、女性になってもやはりそういう自分を受け入れられないのかもしれない。どういう声、どういう姿をしているとかいうことよりも、自分で自分を受け入れていないという居心地の悪さが、伝わってくるのかもしれない。

どういう声であろうと、自分に与えられた声で、表現すること。アンドレアス・ショルは、そこに純粋に徹しているために、性別を超えていくような解放を感じさせてくれるのだと思う。天使というのは性別がなくて、両性具有なのだそうだけれど、この人の声はまさしく天使の声だ。男でも女でもないのではなく、男でも女でもある声。誰の中にも、その両方の性があることを思い出させてくれる声だ。

20世紀に入ってから、自分の性を受け入れられない人が増えているけれど、それはこの産業資本主義的な社会が、不自然な男性性、不自然な女性性を押しつけているからなのだと思う。多くの場合、それはどういう商品を消費すべきだとかいうようなことにすぎないような気がする。どういう服、どういう物を持つのがかっこよくて、どういう化粧品を使って、どのようなことに満足するべきか、みたいなことだ。そういうイメージに振り回されて、私たちは自分の自然な男性性、女性性を生きることができなくなっているんだと思う。

今、世界的にトランスジェンダーを受け入れるべきだというような話になっているけれど、トランスジェンダーを受け入れたり奨励したりする前に、それぞれが内なる男性性、内なる女性性を受け入れて、それと調和するようにするべきなのだ。それをやらないで、トランスジェンダーを認めるべきだということばかり言うのは、つまるところ、男性性も女性性も生きられないようにしてしまおうということなのじゃないかという気がする。女性性も男性性も自由に生きられるようにすると見せかけて、その逆に、どちらも生きられないようにしてしまうこと。実際、自分で自分を受け入れられていなかったら、男になろうが女になろうが同じことだ。ありのままの自分を変えれば変えるほど、そのままのあり方に満足できなくなってしまうことになる。

そういうものを目の前に突きつけられているのは、私たちに、それでは男性性とは何なのか、女性性とは何なのかということを思い出せということなのかもしれない。そして、私たち誰でも、内なる女性性、内なる男性性を持っていて、それを生きてもいいのだということを、思い出すべきだということなのかもしれない。

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アンドレアス・ショルが歌うヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」

オランダバッハ協会のマタイ受難曲。「憐れみたまえ」Erbarm es Gott! (Arioso)のアリアをカウンターテノールの人が歌ってます。実に美しい天使の声です。1:52:29 からです。
通奏低音も凝っています。


2023年2月19日

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【音楽はエネルギーだ】


カウンターテノールの歌手、アンドレアス・ショルの作り出す音楽があまりに面白いので、昨日からすっかりハマっている。アルトの声域を男性が歌うと、まるで天使の歌声のような独特の美しさと深みが出るというのもあるのだけれど、この人のインタビューや公開レッスンを見ていくと、音楽の理解がとても深く、音楽と密に共振していくような繋がり方を持っていることが見えてくる。音楽とそうした繋がり方をしているからこその、あの美しさなのだ。決して声だけのことではないのが、よくわかる。

カウンターテノールの歌手の多くは、何だか自分の男性性、あるいは女性性をもてあましているような、落ち着きなさを感じさせることが多いのだけれど、アンドレアス・ショルには、そういうところがまるでない。公開レッスンなど見ていると、学生よりも頭いくつ分も大きいから、かなりの大男だ。外見からしたら、まるきり普通の男にしか見えない彼が、堂々と頭から声を出して、天使のような歌を歌ってみせる。それだけのものを引き受けているということに、むしろとても大きな男性性すら感じさせる。この自己肯定感、この堂々たる肚のすわりようは、あっぱれというしかない。

しかし、この彼の軸のブレなさも、音楽とそれだけ深い繋がり方をしているからなのだということが、インタビューやレッスンなどを見ていると、わかってくる。バッハが音楽長を務めていたライプチヒのトーマス教会で、バッハのカンタータの指揮と歌をやっている動画で、バッハの曲は、歌えば歌うほど発見がある、ということを彼は語っている。「普通だったら、歌手たちがこんなに歌えるのかどうかとか考えるだろうと思うのに、バッハは作曲に関しては、まったく妥協していないことがわかるんです」と彼はいかにもうれしそうに話しているのだ。

トーマス教会のコーラスといったら今では名門だけれど、バッハが音楽長を務めていた頃は、レベルがあまり高くないコーラス隊だったと言われている。だけどバッハは、コーラス隊のレベルに合わせて、曲を歌いやすくシンプルにするなどということはまるきり考えていなくて、その点に関しては一切妥協していないというのだ。

バッハの曲の難しさは、深く知れば知るほど見えてくる。バッハの曲は多声構造になっていて、一見、ただ主旋律に対してハーモニーを作っているだけのように見えるパートも、よく見ると、旋律が隠れていたりする。そして、そういう隠れた旋律がくっきりと見えてくるように歌うには、それだけの技量を必要とする。ただハーモニーを作っているだけなら、さほど難しくはないところでも、隠れた旋律を表現しようとすると、とたんにものすごく難しくなるのだ。しかし、そこまで表現すると、曲の全体がグッと立体的になり、形がくっきりと見えてきて、まるで別な曲になったように思えたりする。それまで音が重なって濁った感じになっていたのが、くっきりと澄んだ音になる。そうしたことを知れば知るほど、バッハの曲は深いし、実は難しいことがわかるのだ。

プロの演奏家でも、そうした深みを知らない人は実はけっこう多い。いや、そういう人の方が多いかもしれないくらいだ。多くの演奏家は、有名な先生の演奏をコピーするような学び方をしているので、自分で楽曲の構造を読み取り、表現していくということをしてきていなかったりする。

アンドレアス・ショルは、バッハの曲の高度に複雑な構造を読み取り、それを表現していく楽しみを身体で知っているのだ。それは、彼が「バッハは作曲に関しては、まったく妥協していないんです」と言いながら、満面の笑顔を浮かべていたことでもわかる。そのことがうれしくてたまらないといったように、彼は目を細めて笑っていたのだ。

クラシック音楽のこの深みを知り、それを表現する喜びを知るとき、音楽を奏することは、まったく違う意味を持ってくる。それまでは、うまいと言われるのがうれしくてやっていただけだったとしても、曲を深く理解して、それを表現するとき、心も身体も音楽と共振し始めるのを体験する。その共振が起こるとき、それが聞く人にも伝わっていき、作曲家が作り出した世界を人々に体験させるのだ。そこにはもはや、自分がどう見られるか、どう評価されるかといったことも意味を失ってしまう。その状態になっている音楽家は、まったく謙虚でありながら、完全に自己肯定しているような、しっかり軸が通っているような姿勢になっている。優れた作曲には、人をその状態にする力があるのだ。それは、人間を天と地とを繋ぐ世界樹のような存在にすることを意味している。

イスラエルでの公開レッスンで、モーツァルトのアリアを歌う学生に、フレーズのダイナミズムを教えるために、彼は自分で踊ってみせていた。そして、学生が一緒に踊りながら声を出すと、もう最初の一音から声の出方がまるきり違っているのがわかる。音楽はダイナミズムによって、エネルギーが生じる。そのエネルギーに共振したときに、表現は自ずと現れてくる。音楽をエネルギーとして感じ取るには、踊ってみせるのが一番早い。そして、歌手が自分でも踊ってみると、エネルギーとしてのダイナミズムをすぐに体感し始める。すると、学生は音楽と共振する感覚を体得し始め、とたんに歌が生き生きしたものになり、面白くなり、作曲家の精神が現れてくるようになる。

こういう教え方をするのは、彼自身がそういう習い方をしていて、音楽をエネルギーとして感じ取ってきたからなのだと思う。それは、若い頃の「オンブラ・マイ・フ」のすばらしい録音を聴いてもわかる。この曲は、世界樹を生やす曲なのだと言っていた人がいたけれど、しかしこの曲をオペラ風に最初から最後まで同じ調子で声を響かせてしまうと、そういうダイナミズムは出てこなくなってしまう。アンドレアス・ショルのダイナミズムの作り方は、まるで何もなかったところに巨大な木が生えてくるようで、彼はそのダイナミズムを声で完全に制御しているのがわかる。あの歌の美しさは、曲に対する深い理解とエネルギー的に表現することを知っているからこそのものだ。けっして発声だけのことではない。

いい先生というのは、1フレーズずつコピーさせるようなやり方ではなくて、何を変えれば曲と共振し始めるのかを、学生に体験させる先生だと思う。音楽との共振の仕方を一度体得すれば、あとは自分で楽譜から読み解いていくことができる。それは、歌えば歌うほど新しい発見があり、さらなる深みが見えてくる世界なのだ。そこに関わっていること自体が、すでに至福であるような世界だ。

また彼は、歌手は舞台に登場するときから、「私はこの曲を皆さんのために歌うことができるのが幸せです」というような態度を見せなければならないのだということを言っていた。そうすると、まったく違うエネルギーを作り出すことができるのだと。それを自分でやってみせて、それから学生に登場するところからもう一回やらせていた。すると、さっきは何だか申し訳なさそうな様子で小さくなっていたのが、出てきたところからもう聴衆の注目を集めるようなオーラを発し始めていた。

つまり、登場するときからもう、お客さんたちに対して、完全に自分を開けということなのだ。歌手が完全に自分を開いていれば、お客さんたちも歌手に対して自分を開く。そこで、共振が起こるエネルギーをすでに作り出すことができる。そうなったとき、最初の音からして、もう声の出方が違ってくる。

音楽をエネルギー的な次元で見ていると、ずっと容易に教えることができるし、だからずっと容易に学ぶこともできるのだと思う。エネルギー的に共振する感覚を体得すれば、あとはいちいち細かく教えなくても、自ずと見えてくるし、できてくるというようなものなのだ。私が最初に、あるピアニストの公開レッスンを見て、これならできると思ってピアノを弾き始めたときも、その先生がエネルギー的な共振点を体感させるような教え方をしていたからだった。

多くの人は、楽譜に書いてあるとおりに演奏するのは、面倒くさくて窮屈なことだと思いこんでいるのだけれど、エネルギー的な共振を意識していると、容易に共振する点は、実は楽譜に書いてあるということがわかる。演奏が曲としっくりと共振しているときには、曲の構造がくっきりと見えている。多声構造が立体的に表現されていて、だから音が濁らずに澄んでいる。はっきりとしたダイナミズムが出ていると、聞く人が自然に共振し始める。

ところで、構造がはっきり見えてこなかったり、音が濁って聞こえるようなときは、実は楽譜の何かを見落としているときだったりする。私は、演奏を聴いたときに、音の印象として記憶することができないので、視覚的に受け取っているのだけれど、音から視覚的なイメージに転換されるときには、一度エネルギーとして感じ取ることになる。だから、エネルギー的に音楽がしっかり共振していないと、イメージが濁って見えなくなるのだ。そういう箇所は、よく見ると演奏者が何かを見落としていたことがわかる。スラーが変な切れ方をしていたり、変なところにアクセントがついていたりする。そういうところを、スラーやアクセントを入れて意味が通るような弾き方をしてもらうと、とたんにイメージがくっきりして、生き生きしたエネルギーが出てきたりする。どうしたら音楽が共振するのかは、ほとんどの場合、ちゃんと楽譜に書いてあるのだ。あるいは、シンプルに伝統のスタイルで弾いたら、共振し始める。

それは、喩えて言うならば、粗彫りが終わったばかりの彫刻を、削り込んでいくようなことだ。どうもまだ表現になり切っていないというところを、削り込んでいく。フレーズの切り方やダイナミズムをくっきりと出していったり、アクセントのつけ加減を調整したりする。そうすることで、表現がくっきりして、共振し始めるかどうかを感じ取るのだ。それはけっして、機械的な作業ではあり得ない。

19世紀頃から、音楽は個人の感情を表現するようなものになっていたところがあるのだけれど、音楽がエネルギー的な共振になったとき、個人というものが消えてなくなってしまうような境地が現れてくる。演奏家が曲と共振し、聴衆が演奏と共振し始めたとき、どちらが与え、どちらが受け取っているのかも、はっきりしなくなる。エネルギーの領域では、与えることは同時に受け取ることであり、受け取ることは同時に与えることだ。そこにいたるには、ただ自分を完全に音楽に開き、聴衆に開くことが必要なだけだ。エゴは消え去り、ただ完全な謙虚さと完全な自己肯定とがあるというような状態が自ずとできる。

風の時代に入って、エゴみたいなものが、もう重くて不要なものに感じられてきているのかもしれないけれど、エゴが消えたときに、どこに共振するべきなのかを間違えると、無機的なコンピュータ管理社会に持っていかれてしまったりするのかもしれない。だからこそ今、誰もが内に持っている魂の共振、地上の生命の共振を知ることが、とても重要になっているんじゃないかという気がする。そして、アンドレアス・ショルやオランダバッハ協会の演奏のような、しっかりと共振している音楽を体験することは、その最も簡単で早い道なんじゃないかと思う。

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アンドレアス・ショルの公開レッスン。モーツァルトのアリアのフレージングを教えるのに、学生と一緒に踊っています。


これもアンドレアス・ショルの公開レッスン。最初のところで、学生に登場の仕方を教えています。

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アンドレアスさんが、女性ピアニストの伴奏で、バッハのコラール「主よ、人の望みの喜びよ」を歌っています。

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ザルツブルク音大でのインタビュー。アンドレアスさんが、どうしてカウンターテノールになったのかについて語っています。ドイツ語ですが。

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これは、アンドレアスさんがバッハがカントルを務めていたライプチヒのトーマス教会で、バッハのカンタータを歌い、指揮したときの録画にインタビューが挟まっている動画です。これもドイツ語なんですが、バッハについて語っているのを聞くと、この人は本当に音楽をよく理解しているし、それに対する情熱が他の歌手とはまったく違うというのを感じます。
声が特殊なだけじゃなくて、音楽に対する深い関係があるからこそのあの歌であり、あの自分自身と調和した安定感なんだなということがよくわかります。バッハとは、少年合唱団で歌っていた頃からの長い関係があるし、バッハは作曲に関して、コーラス隊が歌えるかどうかとかいうことで一切妥協していないのがよくわかる、と言っています。バッハがいた頃、トーマス教会のコーラス隊はレベルがそんなに高くなかったそうなんですが、それでもコーラス隊のレベルに合わせないで、自分が思うような作曲をしていたということですね。
そのバッハの曲を、トーマス教会で歌うことができて、「もう十分という気持ちだ」と言っています。十分っていうのは、もういいってことじゃなくて、これで自分は十分幸せだということなんだと。
リハーサルのとき、教会がめちゃ寒くて、みんな着込んで何とかやっていたんだけど、オーケストラの人たちが「でも、バッハの曲は、少し苦しみながら演奏するのがいいんですよ」と言ってくれたとかうれしそうに話してます。
この人は、歌いながら本当に曲と共振するし、その感覚を知っているんですね。だからこそのあの謙虚さであり、あの自己肯定感なんだなと思います。


2023年2月20日

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【共振が、次元を超えるカギになる】


音楽は、何よりも共振することで、大きな力を作り出すのだと思う。このところ、何故だかクラシック音楽について書き続けることになっているのだけれど、それでいろんな情報も集まってくるし、いろんな音楽を聴き比べたり、いろんなことを考えたりしている。そうしたことから思うことは、つまるところ、やはり音楽は共振の力こそが重要なんじゃないかということだ。

楽器を調律するときには、音を出して、それと共振するかどうかを確かめる。それで、共振するまで音を合わせていくのだ。音がピタリと合ったときには、共振し始めて、まるで何かが解放されたように、急に大きなエネルギーが出る。共振の力とは、そうしたものだ。

共振が起こると、エネルギーが伝わり、広がっていく。そういうときには、理解するとかしないとかとは関係なく、感動が伝わっていく。音楽のエネルギーが聞く人のエネルギーと共振して、解放が起こり、共感が起こる。そうして、言葉にならないような何か深いものが伝わっていく。

ところが、この100年ほど、こうした共振が起こらないように、意図的に妨げられてきたようなのだ。それは、自己治癒力を妨げるように医学が操作されていったのと、おそらく同じことなのだろう。20世紀の初め頃から、グローバル金融エリートのある財団によって、石油から作る製薬を使った医学が作り出され、それを使う医師たちを育てる医学校が作られ、学界が作られた。医学の歴史もまた、製薬を使った医学を推奨するために、書き換えられた。それまで何百年何千年の歴史がある医学は、遅れたものであり、劣ったもの、危険なものだということにされたのだ。それは、根拠のあるものなどではなく、要するに自分の商品を売るために競争相手を叩きつぶしたというようなものだった。しかし、彼らは学界やメディアや政治にも手を回して、彼らの主張を通してしまったのだ。

おそらくは、同様なことが音楽の世界でも行われたのだろう。20世紀に入ってから、世界中の音大では、無調の曲、不協和音の音楽が現代的なものだとされ、従来のハーモニーのある曲などは、古くさい遅れたものだから、作曲するべきではないということになった。実際、多くの音大の作曲科では、いわゆる前衛音楽みたいなものしか作曲させてもらえない。そうした曲は、聴いていて自然に共振が起こり感動が起こるようなものではなく、身体の中に緊張を作り出す。そして、そうした緊張こそが、現代の音楽体験だということになったのだ。

19世紀以前のハーモニーのある音楽の演奏についても、伝統的な演奏法ではなく、独創的な表現をしなければならないというようなことが言われるようになった。そして、伝統的な奏法を崩して、共振が起こらないようにしたようなものが、もてはやされるようになった。そういう演奏家たちが、音楽界のスターだとか巨匠だとか言われ、皆が競って真似をするように仕向けられたのではないかと思う。自然に共振が起こらない、気難しいような演奏が、一流の演奏だとされて、そういう演奏がいいと思わない人は、音楽がわかっていないとか、あるいは自分だけが正しいと思っている傲慢な人間だみたいに言われることになったりもした。

こうしたことも、この3年ほど、真実を言う医学者や現代史学者たちが、同じような目に遭ったのを見てきたからこそ、見えてきたことだった。一流の学者たち、誠実な学者たちが、非常識だとか、頭がおかしいとか、危険人物だとか、そういうことを、学者でもないファクトチェッカーたちやジャーナリストたちに、一方的に言われてきたのを、私たちはさんざん見せられてきたのだ。背後でお金を動かしているグローバル金融エリートたちが人々に信じさせようとしていることを妨げようとすると、そういう目に遭わされるのだということをだ。

ミヒャエル・エンデの「モモ」は、1973年に出版された物語だけれど、そこにはイタリアの語り部ジジが、灰色の男たちによってスターにされていく話が出てくる。もともとジジは、出まかせの物語を語るのが得意で、それで観光客からお金をもらって暮らしていた貧しい男だった。しかし、彼はモモと同じく宇宙的な意識の次元に生きている人間で、彼がいることで、モモは支えを得ていたのだ。灰色の男たちは、人々をそういう宇宙的な意識の次元から切り離そうとしていたので、ジジをやっかいばらいしようとする。そのやっかいばらいというのが、ジジをスターにしてしまうことだったのだ。

灰色の男たちは、ジジが現代の語り部だとかいうことで、メディアに取り上げさせ、注目されるようにした。テレビや劇場のスカウトが来て、ジジは大勢の前で演じるようになった。観客が動員され、熱狂的に拍手して、評論家たちが絶賛した。ジジは大金持ちになり、マネージャーが何人もついて、絶えず仕事に追われるようになった。しかし、灰色の男たちは、メディアを操ることで、ジジをいつでもスターの座から落とせるのだ。彼らに逆らえば、とたんにチケットが売れなくなり、評論家たちは酷評を書き始め、テレビには契約を断られる。それでジジは、灰色の男たちの言う通りに動くようにされてしまった。

モモの物語では、この灰色の男たちは、人々に時間を節約させてだまし取る組織的な詐欺師たちなのだけれど、現代の金融エリートたちは、まさに同じやり方で人々を支配し、搾取している。彼らはお金の力で人々を操り、ジャーナリストや評論家やテレビや劇場の責任者たちを操って、誰をスターに仕立て上げるのも、誰をスターの座から落とすのも、自由自在なのだ。そうやってこの100年くらい、音楽も美術も操られてきたようなところがある。エンデは、1973年にこの本が出たとき、そうした裏の世界のことを、すでに知っていたのだろう。

実際、伝統的な奏法で共振を起こすような演奏家は、メディアであまり注目されないし、世界的な大ホールに招待されたりもしない。その一方で、共振を壊すような演奏をする演奏家たちが、大スターとして持ち上げられ、そういう演奏が一流のものなのだということにされ、音大の学生たちも若い演奏家たちも、そういう演奏を目指して努力しているのだ。音大の先生たちも、そういう演奏をよいものとして、学生たちにそのような演奏をするように指導している。それで多くの人は、共振を壊すような演奏が、独創性があり、表現性がある、いい演奏なのだと思っているのだ。

それは、現代医学に頼っているのが健康を保つのに重要なことだと信じている人とも、似ているような気がする。実際には、現代医学で免疫力が落ち、体調がおかしくなっているのに、それが現代医学のせいだとは思わない人が多い。それと同じように、一流といわれる演奏家の演奏を聴いていて、心も身体も喜んでいなかったりするのに、そういうものこそがいいものなのだと思っている人が意外と多いのだ。現代医学を信じている人たちが、自分の身体や体感よりも、医者を信じているのと同じで、自分の感性よりも、評論家たちのいうことを信じているのかもしれない。あるいは、そういう評論家たちの勧めるものばかり聴いているので、それ以外のものを知らないだけなのかもしれない。それもまた、現代医学が絶対と思っている人たちが、他のメソッドの方がよほど快適に癒えるのを知らないのとも似ているようだ。

今に始まったことではないけれど、3年前に奇妙なパンデミックが始まってから、メディアも政府も学界も、実はすべてグローバル金融エリートたちに裏で操られていることに、私たちはようやく気づかされた。そして、それまで私たちが、自分の感覚よりもテレビに出てくる権威を信じさせられてきたことに気づかされたのだ。それで私たちは、この3年間、必死で自分の感覚を鍛えることを学んできた。テレビや政府のいうことを鵜呑みにするのではなく、自分で調べ、自分で考え、何よりも自分の自然な感覚を信じることをだ。

実は私たちは、自分の健康の状態をかなり確実に自分で感じ取ることができるし、何が自分の健康にとっていいもので、何が悪いものなのかも、かなり精確に感じ取っていたりする。それもまた、共振のようなものなのだ。自分の身体に共振するものなのか、不協和音を作り出すものなのか、それは身体に意識を向けてみれば、だいたいかなり確実にわかる。それと同じように、どういう音楽、どういう美術が自分と共振し、自分のエネルギーを活性化させてくれるのか、あるいは共振を妨げてしまうのかは、自分の感覚を信じることを学べば、誰でもかなり確実に感じ取ることができると思う。

これまで、多くの人々が自分の感覚よりも、権威の言うことを信じてきたので、私たちは金融エリートたちにまんまと騙されてしまったようなわけなのだけれど、どんな災難も、そこから学んで、もう騙されないような力をつけることができたら、恩恵にもなるわけだ。今世界は、あまりにも嘘だらけで、三次元の次元からだけ見ていたら、どうにもならないように見えるのだけれど、共振が大事なのだというところに意識を向けることで、この袋小路を突破していくことができるのじゃないかと思う。それが、次元を超えて世界を解放していくカギになるんじゃないかと、私は思っている。

2023年2月21日

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【喉が開いていれば、守られる】

エジプト、ギザのピラミッド。地球の喉のチャクラと言われている。


エジプトの有名なギザのピラミッドは、地球の喉のチャクラなのだそうだ。このピラミッドには、いろいろと不思議なことがあり、どう考えても、無重力状態にして運んだとしか思えないようなところがあったり、一度、非物質化してから、再び物質化したのでなかったら、絶対できないような構造になっていたりするらしい。それで、これはアトランティスが沈んだあとに、宇宙人が建てたものではないかとか、あるいはこれはアトランティスの時に作られたもので、アトランティスが沈んだあとにも残った建造物なのではないかとか、いろいろな説がある。

このピラミッドのエネルギーを解放するために、まずは意識上で王室の中に入ってみようということになった。ピラミッドのエネルギーを受け取るには、中心のところに行くべきだと思うのだけれど、エジプトのピラミッドは、マヤのピラミッドのように、上に上れるようにはなっていない。その代わりに、下から3分の1の高さのところに、王室と呼ばれる部屋があり、そこに通路を通って入っていくことができる。そこのところが、ピラミッドのエネルギーのもっとも集中する場所だと言われている。

それで、王室のエネルギーをそれぞれに受け取ってみると、ここは宇宙との繋がりを強烈に感じる場所だった。宇宙から光の筋のようなものが、頭頂から入ってきて、松果体を通り、喉を通り、心臓まで降りていく。そんな風に、私たち誰もが、実は宇宙としっかりと繋がって、守られているのだというのを感じた。

これまでは、大地に根を張るように繋がっていて、大地に守られているのを感じるポイントをずっと解放してきたのだけれど、エジプトのピラミッドは、大地ではなくて、宇宙だった。そして、私たちは大地に守られているのと同様に、宇宙とも繋がって守られているということを、とてもリアルに感じたのだ。

それは、シンプルに地上に生きる喜びのようなものだ。たとえアトランティスのように文明を滅ぼすようなことが起きてしまったとしても、私たち人間は、またこの地上で生きていき、新しい世界を作り出していくことができる。それはまったくシンプルに、何があろうと地上で生きていくのは楽しいと思えるような、無垢の子供のような感情なのだ。私たちは、この地上で何度生を重ねてきても、再び新しく生まれてくるときには、シンプルにここで生きていくのがうれしいという感情を持つことができる。そして、まさにその感情によって、私たちは何度でも生を繰り返していくことができる。

ピラミッドは、王たちが永遠の生を望んで、死後ミイラにして納めさせた場所でもあるけれど、それは、この何度でも生まれ変わっていくようなエネルギーが、ここにあるのを知っていたからなのだろう。しかし、私たち人間は、ミイラになってピラミッドの中に入らなくても、何度でもこの地上に生まれ変わっていく永遠の生を持つ存在なのだ。そして、頭頂から入ってきて、心臓のあたりまで繋がっている宇宙との光の筋の繋がりこそは、その永遠の生を保っている繋がりなのかもしれない。

ところで、喉のチャクラにブロックがある人は、ピラミッドのエネルギーとアクセスしたときに、喉の奥の方、喉仏の裏のあたりが痛くなるのを感じたと言っていた。松果体と喉のチャクラがある喉頭の間くらいのところに、もう一つあまり知られていないチャクラがあるというのだけれど、どうもそこにブロックがあるようだと言うのだ。

そう言われてみれば、喉が締まる感じになるときに、その部分が中心になって締まってくるようだ。首の後ろの頭蓋骨の下のくぼみのところと喉仏のところのちょうど間のあたりだ。仏教では、喉仏の骨が重要だと言われていて、亡くなったあとにその骨を大事にするけれど、この喉仏の骨と言われるものは、実は第二頚椎の骨なのだそうだ。つまり、頭蓋骨と繋がっている骨の下にある骨だ。どうもその骨のあたりが、喉のチャクラが開くのに、重要なポイントらしいのだ。

それで、もう一度ピラミッドの王室の中に意識上で入ってみて、今度はピラミッドの頂点を通って宇宙と繋がっている光の筋が、頭頂から松果体、喉のところに繋がっているのをイメージしてみることにした。そして、宇宙からその通路を通ってエネルギーが入ってくるときに、第二頚椎と喉仏の間のあたりが、蓮の花が開くように開くのをイメージすることにした。

そのあたりを緩めるには、両手をクロスさせて、右手で左耳たぶ、左手で右耳たぶをつかんでひっぱるといいのだそうだ。それを皆でやってみると、耳からあご、舌、のどまで力が抜けて緩むのがわかる。というか、実はその部分にいつも力が入っていたことに気がついた。この部分に力が入っていると、喉が開かなくなる。歌の発声法を習うとき、口の中にゆで卵一個が入っているような感じに口の中に空間を作れと言うのだけれど、第二頚椎のあたりの力が抜けると、自然に口の中に空間ができて、喉が開いた状態になる。オームチャンティングも、喉を緩めて開くのに役に立つ。この2つをやったら、とたんに喉が開いて、声の出方が変わってきた。それで喉を開いておいてから、ピラミッドのエネルギーとまたアクセスしてみたのだ。

それは、自分が実はずっと大きな存在、世界樹のような存在なのだというような感覚だった。蓮の花というのは、長い茎の上に咲くのだけれど、そんな風に私たちも、地上高くに伸びていて、宇宙と繋がって、それに支えられている。喉のチャクラは表現の力の中心だけれど、多くの人は、真実を言ったら迫害された過去生の記憶を持っていて、それが喉のチャクラが締まる大きな原因になっている。だけど、ちゃんと第二頚椎のところが開いて、喉が宇宙と繋がっていたら、真実を言っても守られるのだと、何の根拠もなくそう確信した。何を言っても、この宇宙の繋がりさえちゃんとしていれば、宇宙に守られるはずだと思えた。

もし何の恐れも罪の意識もなく、堂々と話すことができたら、何を言っても誰も手出しすることなどできないのかもしれない。本当に喉のチャクラがしっかりと開いていて、宇宙と繋がっていたら、その力に守られるのかもしれない。

この第二頚椎のところは、魔が入ってくる場所でもあるそうなのだけれど、私たちはまさに、魔に冒されるような恐怖のイメージをメディアで絶えず与えられて、第二頚椎のところが封じ込められているのだ。魔が入ってくるのじゃないかと恐くなり、そこのところが締まってしまう。そうすると、声がちゃんと出なくなり、宇宙との繋がりも切れて、守られなくなってしまう。

最後に、世界中の人々の喉のチャクラを開けて、宇宙と光の筋で繋ぐイメージを作ることで、地球の喉のチャクラを開けた。だけど、喉のチャクラこそは、真実が言えるということと関わっていたのだ。そのことが、とてもよくわかった。喉のチャクラが閉じて真実が言えない状態になっていると、真実を認識することもできなくなってしまう。今、世界中で多くの人が、メディアが言うままに、どんな嘘でも信じてしまう状態になっているのは、喉のチャクラが封じ込められていたからだったのだろう。恐れのために真実が言えないと、私たちは嘘の方を信じてしまうようになるのだ。だから、真実に生きるとは、実は喉のチャクラがしっかりと開いていて、宇宙と繋がっていることだったのだ。

このところ私は、クラシック音楽の話を毎日書いていて、カウンターテノールのアンドレアス・ショルにすっかり夢中になっていたのだけれど、彼が歌うオンブラ・マイ・フを聞いていると、まるで世界樹になったような気分になる。それが何故なのか、そのことでわかった。大男のアンドレアス・ショルが、堂々と頭から声を出して歌っているのを聞くと、お腹から喉から頭頂まで、すっかり開いて、宇宙と繋がっているように思えるのだ。それを聞いているだけで、自分もそんな風に身体が宇宙に開いていくような感じになる。

それを思えば、キリスト教の人たちが、歌を歌うことが神と繋がるのに大事なことだと言っているのも、なるほどそういうことだったのかと納得できる。西洋音楽の発声法で、頭から声を出して歌っていると、胸から喉、頭までが繋がって、宇宙と繋がるのだ。そして、その繋がりに守られる。それをキリスト教の人たちは神と言っているわけなのだ。

してみれば、音楽を演奏するのに、独自の表現をするべきだというようなことが言われるようになったのも、実はこの繋がりを断ち切るためだったのかもしれない。ただ自分を器のように開いて頭頂から宇宙のエネルギーを受け取るモードになっていたら、この繋がりができるのだけれど、独自の表現をしなければ、などと思うと、とたんに喉が締まって、この繋がりが断ち切れてしまう。本当は、独自の表現をしなければなどと思わずに、ただ自分を完全に開く姿勢になっていたとき、本当にすばらしい声が出て、人を感動させることもできるのだ。

そして、演奏が共振していると感じるのは、まさにこの宇宙との繋がりができているときだと言える。喉のチャクラというものは、前に向かって開いているのかと思っていたけれど、実はそうではなかったらしい。喉のチャクラとは松果体の下にあって、松果体を仏さまのように、蓮の花の上に乗せているようなチャクラだったのだ。つまり、ただ上に向かって開いていれば、宇宙と繋がり、宇宙に守られて、この地上で表現していける力を受け取ることができたのだ。

2023年2月22日


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