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死ぬこと

私はとてもおじいちゃん子だった。

じいちゃんばあちゃんののことは小さい頃からずっとお父さんお母さんと呼んでいるのでそう書きます。(ママはママ)

私はたぶん生まれる前からおじいちゃん子だったと思う。
父親がクソゴミクズ人間だったので私を産むこと自体、両家の親族は猛反対していた。産んだって幸せになれないと。そんな中、お父さんだけがママの味方して賛成してくれて私は産まれた。

産まれてからはずっとお父さんちで生活してた。幼少期の写真はほとんどお父さんちで撮ってる。
たぶん4歳くらいで、両親と団地に引っ越した。その時の光景をめっちゃ覚えてる。たぶん内見の時で、まだ家具とか何にもないただの一面コンクリートの四角い空間で私はひたすらキョロキョロしてた。

幼稚園のとき、父の傍若無人振りに恐怖で家にいられなくていつもママにお父さんちに連れてってくれと大泣きして避難してた。
お父さんはいつも無条件に優しかった。

弟が重い病気になった時は(父は使い物にならないので)ママは病室につきっきりなので私は再びお父さんちで生活していた。(父は仏像買い漁ってた)

お父さんに超甘やかされてたので、弟が病気でガリガリになっていく中この時私はめっちゃデブだった。これは記憶から消したい。

母子家庭になってからも、放課後の送りとか習い事の送り迎えはほとんどお父さんがやってくれた。ママが仕事だからいつもお父さんちにいた。
友達のお母さんたちともやたらと仲良くて何故か連絡先とか交換してた。友達もお父さんには普通にタメ口で(たまに友達とお父さんが喧嘩もしてた)かなり馴染んでいた。
学童クラブの先生とも謎に仲良しでメル友だった。

授業参観に来た事もあった気がする。
習い事の発表会とか大会とかも見に来てくれた。写真撮ってくれるけどいつも下手だった。

水疱瘡とかおたふくとかインフルエンザとか風邪とか具合が悪い時はほぼお父さんちで看病してもらってた。いつも、私が一回咳をするだけで風邪だ!と言って心配してた。
中3の時貧血で倒れた際も友達のお母さんが自宅ではなくてお父さんちに送ってくれた。

結構大きくなるまで爪もお父さんが切ってくれてたし耳掃除もしてもらってた。
温泉によく連れてってもらって男湯で一緒に入ってた。その時のお湯の匂いとかお風呂の後のアイスの味とか休憩室にあった鶴の剥製の事とか凄く覚えてる。

ご飯もお父さんが作ってくれてた。
卵焼きとかウインナーとか具のでかいカレーとか、今も味を覚えてる。

紙飛行機の折り方も未だにお父さんに教わったやり方しか折れない。あまり飛ばない。

弟と3人で自転車であちこち一緒にサイクリングしたり車で湖とか山とか森とか色んなところに連れてってもらった。オンボロな不思議な神社に行ったけどそこがどこだったか今は分からない。ツチノコを見た事もあった。弟と私は信じてるけどママは信じてない。

小2で私がミーコを拾った。
しばらく団地で飼ってたけど動物禁止なので
お父さんちで飼いたいとお願いした。最初は超嫌がられて、無理矢理連れてったけど
何だかんだめっちゃよく面倒見てくれてミーコもお父さんに超懐いた。
その数年後、お父さんが突然犬をもらってきた。マル。やっぱりよく面倒を見ていて毛づくろいとかお散歩とか、家族で一番まめだった。

お父さんはとにかく社交的で人間が好きだった。そしてかなりマイペースで呑気で頑固で変わり者だった。じっとしてられなくていつもどっかに出かけていた。
友人がとにかく多くてしょっちゅうゴルフに行ってた。公民館で宴会もよくしてた。

そして文学派で、辞書とか多くの学問の書物を持っていた。因みに文学派ならではのエピソードとして、お母さん(祖母)に何十通もの熱烈な恋文を贈っていたそうで段ボールに入って今もお母さんの部屋にある。貴女は僕の太陽とか書いてあった。若い頃日記も付けていたらしく、太宰治ばりの劇的なネガティブで『もうダメか……!』しか書いていないページがあった。

時事にも詳しく、毎日新聞を全ページ読んでいた。民生委員もやっていて、近所の児童養護施設の英語講師をするなど、児童福祉に貢献していた。また、お年寄りの家庭訪問をしたり話し相手になっていた。近所の身寄りのないおばあちゃんには、私が小さい頃から気を配っていてよく家に呼んでた。おばあちゃんが施設に入ってからもいつも見舞いに行って身の回りの世話をしてあげてた。
そしてお人好しでよく人にお金を貸していたらしい。その辺のことはお母さんがイライラするから詳しく知らない。

色々問題がある弟に対しても寛容だった。
弟やその友達を引き連れて川とか行って釣りをしたりしてた。勉強は出来ないけどカエルが大好きな弟のために一緒に珍しいカエルを探す旅にも出てた。私は行ってない。
ママや私が手がつけられないどうしようもない弟だが、お父さんには割と素直で信頼していたと思う。いかつい顔して『じいじ~』って慕ってた。
弟の進路をどうするかってママが悩んでた時お父さんは、学校の近くの家に自分が弟と2人で暮らして面倒を見ると本気で言っていたらしい。

私には出来ない事ばかりだ。

お父さんの母であるひいばあちゃんを一度も施設に入れる事なく、長男として最期まで自宅で面倒を見きった3年後、お父さんが肺癌であると分かった。私は高3だった。

お父さんはビビリなところがある。
ほんとはもっと前から癌だと言われていたらしいがチキって検査を受けてなかった。
バカなの?

間も無く町の大きな病院にお父さんは入院した。
学校帰り、バイトがない時はよくお見舞いに行った。病室に行くと、よ!と手を挙げて、必ず患者さんたちがいっぱいいる談話室に連れてかれた。いつもジュースを買ってくれた。家の事とか学校の事とか病院食がマズイ話とか他愛もない事をダラダラ話し、暗くならないうちに帰された。
いつ会ってもひょうひょうとしていて具合が悪い感じはしなかった。
私は進路とかバイトとか文化祭でのファッションショーの事とか恋愛とか人間関係とか、悩み多き思春期真っ最中であまり真剣にお父さんの病気の事は考えてなかった。何とかなると思ってた。元気そうだし大丈夫でしょって思ってた。

でもそうではなかったらしい。

ある日お母さんとお見舞いに行った時、お父さんも一緒に3人で先生に呼ばれた。診察室ではなく、テーブルがある白い部屋だった。たぶん。
そこで余命宣告と言うものを受けた。
初めての経験で頭は真っ白になった。先生の話はあまり頭に入って来なくて、よく覚えてない。隣にいたお母さんは顔が引きつってはいたが覚悟していた様子だった。私はひたすらボロボロ泣いてた。お父さんは笑って先生に御礼を言ってた。無理して笑ってる感じはなく、自然に笑顔だった。自然すぎて余計に泣いた。なんで?って思った。

そのあとも私は自分の生活を続けた。
やることは山ほどあったし、二度と戻らない大事な青春の中にいたし一応。
学校帰りに町の真ん中にある神社によく1人で行って、治してくれとお祈りしていた。

余命宣告の後の日々はあまり記憶にない。
焼きそばとポテトが食べたいって言ってた。

病室が一番上のターミナルケアの病棟に移った。変に静かな病棟だった。

7月のある日に、お父さんの具合が良くないからと遠方にいる叔父(ママの弟)に連絡がいった。その他色々ごたついてたけど記憶がない。
翌朝、私とお母さんが先に病院に向かった。お父さんは、鼻に呼吸管が入ってて意識はほぼ無かった。目は開いてた。私はずっと手を握って意味わからんくらい泣いてた。この時色々悟った。もうダメなんだと理解した。
その後しばらくして叔父家族とか、ママと弟が合流して家族が病室に集まった。なんかよく分かんない空気が漂ってた気がする。お父さんの意識は変わらなかった。
私は病室を出て、まだ小さい甥っ子と2人でフラフラしたり待合室で休んで過ごしてた。
気を紛らわさないと無理だった。

いくらか時間が経って、叔父が焦って私たちを呼びに来た。お父さんが最期だって言ってた気がする。覚えてない。

病室に戻ると家族みんながお父さんを囲ってた。
お父さんが一瞬、苦しそうに眉間にシワを寄せて大きく呼吸?をした。胸をグーっと上に上げる感じ。その後呼吸が止まった。
機械からピーって音がした。ドラマでよく聞くやつ。私は急いで廊下に出て看護婦さんに祖父の呼吸が止まったと伝えた。

弟が『じいじ!!』って叫んでお父さんを揺さぶって大泣きしてたのが今も忘れられない。その瞬間の家族の様子は全然覚えてないけど弟のそれだけは鮮明に覚えてる。

家に戻ったお父さんは、もう知らない顔をしてた。

葬儀には幼馴染も来てくれた。ハンカチも持たずにボロボロ泣く私にハンカチを貸してくれた。それ借りパクした。

後からママが教えてくれたけど
入院中のお父さんが言ってたらしい

私と弟に最後にできることは、人が死ぬところを見せることだと。

お父さんは確か7人兄弟だったけど3人幼くして亡くなってる。曾じいちゃんは戦争に行っていた。お父さんは食べ物がなくてイモムシとか氷柱を食べていたらしい。
昔は戦争や病気で死が近くにあった。
また、ばあちゃんやじいちゃんと一緒に暮らすのが当たり前だから、その死も間近で見るのが当たり前だった。

でも現代はそうではない。
死はどこか非現実で、実感がないものでしかない。どうやって人が死ぬかなんてテレビやネットの世界でしか感じられない。

そうゆう世代である私と弟に
お父さんは身をもって
人が老いて病んで死ぬという
絶対的な事実を教えてくれた

お父さんが死んでから、
色々色々色々あって
今の私の家族はあまり良い状況ではない
むしろ最悪。
みんなに心の余裕がない。
みんなで笑って話したり一緒にご飯を食べるなんて事はほとんどなくなった。
弟とは何年もまともに会話をしていないし、目を合わせる事も無い。

私は今もお父さんの誕生日や命日等には1人でお墓参りに行ってる。
そこにお父さんがいるとは一切思ってないので一応形式だけだけど。

お父さんがもし生きてたら家族はこうなってないだろうなと、思うことが多々ある。
家族で唯一、激情型でない呑気で穏やかな人だったので緩和剤になっていた。
お父さんが死んだから悪いんだ、と思う事もある。肝心な時になんでいないの?ってなる。
大人になってから話したかった事も山のようにある。ママやお母さんに本音を話すことはできない。友達にも言えない。

でもいないもんはいないんだから、
どうにかしていかなきゃならない。

これから人生長い。でも人は必ず死ぬ。
お父さんの死から3年後、犬のマルも死んだ。
マルの3年後、今度は団地で飼ってたウサギが死んだ。

むかし、弟が病気で死にかけたときママはどう思ったんだろう。弟が生きれたときどう思ったんだろう。
弟が生きてることって奇跡なんだよな。
それを死ねって言ってるの最悪だよね私。
お父さんが死ぬとこ見たのにね。最悪だな。

私が忘れかけるスパンで、思い知らせてくる。生きるものいつか必ず死ぬぞって事を。
お母さんもママも弟もミーコも友達も嫌いなやつらも、
絶対いつか死ぬんだよな。

私もな。

こいつらがもし明日死んだとしたら
私は何を後悔するだろうか。
全部を後悔するんだろうな。

それは嫌だな。

じゃあどうしたらいいだろう。
それをこれから考えてみるよ。

#コラム #日記 #おじいちゃん #生活

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