見出し画像

暴動は正当化されるのか?<モラル・エコノミーの視点>

炎上する車や、割れた窓ガラスを見て悲しいなと思う。石を投げ合う市民と、警棒をかざす警官を見て、あまりの無惨さに落胆する。そんな感情を、ここ数年よく感じている。最近で言うと、アメリカで発生したBLM(Black Lives Matter)運動を「野蛮だ」と非難する人たちもいた。とにかく、私たちは暴力が絶えない世の中を生きている。

大学院で紛争と国際関係論を学ぶ人間として、暴力そのものを真っ向から否定していては、学が深まらない。もちろん一般的な人間として、争いごとは好きではないが、(ある一定の条件下においては)争うことにも価値(=社会的意義)があると思う。今のところはそう思っている。広く言えば、いつでも不服と不正義を訴えていい社会があることは、きっと必要なことだと思う。

今日は、ずいぶん前の哲学の授業で取り扱った、モラル・エコノミーという考え方を暴力の正当化に当てはめてみようと思う。

モラル・エコノミーを最初に提唱したと言われるのは、イギリスの歴史家のE・P・トムスンであった。彼は18世紀イギリスで発生した食糧暴動について、生死を争う窮地において、”共同体が公共の福祉を優先した正当で道徳的な行為”であるとし、この「モラル・エコノミー」という道徳的原理を市場の中に見出した。のちにこの原理は、ジェームズ・C・スコットによって、1930年代東南アジアにおける農民反乱の特徴分析へと適用され、特に農民たちが食糧難に陥った際、公共の福祉への優先度が高まることがわかった。彼は、このモラル・エコノミーという原理を、利潤を重視する市場経済において、従来の「生命維持倫理が犯されることに対する反発」であると説いた。

トムスンの初期モラル・エコノミー論では、群衆による反乱を突発的なものではなく、むしろ同一の道徳的観念のもとで必然的に発生した暴動だと捉えていた。つまり、食糧飢饉という生存の非常事態に際して、民衆の行動が伝統的な権利や慣習、道徳的コンセンサスという「正当性の観念」に根拠づけられている、というのである。当時の権威は、民衆の生存権を保障する代わり、民衆は権威に対して従順であることが前提であり、その互酬性に基づき社会契約が成り立っていた。しかしながら、食糧の欠乏という窮地において、政府が価格統制などの緊急措置をとらない場合、民衆が直接的に市場に力を加えなくてはならず、この際の行動は突発的なものではなくむしろ、互酬性が崩壊した結果の「正当性」を背景とした道徳的行為であるという認識であった。政府が法を執行できないのであれば、民衆が代わりに執行する、というのである。

最近の社会情勢を観察していくと、モラル・エコノミーの視点から分析可能な事例が幾らか観察することができる。

まず、2020年に発生したBLM運動の際の「略奪行為」について。BLM運動自体は、黒人青年が白人警官によって殺害されたことをきっかけに、黒人と白人が同等の生命の安全と自由を手にする必要がある、とはじまった社会運動だった。ある州でのデモからはじまった運動も、瞬く間に31州に広がり、中にはスーパーや雑貨店に押し入り物を略奪したり、物を燃やしたりする「暴徒化」の様子も伺えた。直接関係のない私たちは、「なんて野蛮なんだ」で理解を留めていてもいい。ただ、もう少し踏み込んでみるのはどうか。

そもそも、BLM運動自体は、アメリカ国民として、自らの生存権を権威に託した黒人たちが、警察という公権力の暴力によって、その「相互契約」を破られるという事態を根本にしている。公民権運動によって、自由と平等を約束された人達が、公権力による裏切りにあうことが物語の発端である。ここでいう「略奪行為」はただの突発的行動なわけではなく、生存権維持を脅かされる市民による、正当で道徳的な主張の表れなのである。もちろん、この暴動を適切な意思表示の手段として正当化し、推奨するわけではないが、この暴力の裏には、生存権の危機と事態に対する公権力の無策を嘆く、強い国民の怒りが存在している。

次は非物理的暴力の話。コロナのパンデミックにも、モラル・エコノミーの発現を観察できる。2020年、初の緊急事態宣言発布後、経済市場は混乱に陥って以来、マスクをはじめとする感染対策グッズや予防効果の高い商品などの買い占めが発生した。日本では、感染防止対策における政府の初動が遅れたため、市民はこぞって自らの身を自らで守ることに呈した。初めはマスクも着用の意思は自由とは言われていたものの、感染症などの他人の命をも脅かす「公共害」に対し、着用しないことを選ぶ人への社会的風当たりは強く、もはや着用はほぼ義務付いているかのようだった。この点では、共同体の生命維持という目的に対し、市民が互いを見張り合い、共通の「道徳的善」に従って行動を規律していたのである。これもまた、社会自体が、危機的状況において、公共の福祉を優先すべく個々人の自由すらも規律なしに制約可能であることを明示している。この時の経済は、人々の認識する”モラル”によって動いていた。

モラル・エコノミーという概念は、ポリティカル・エコノミーが主流の現在でも、特に危機的状況においての人々の行動を実にうまく説明している。何も、(物理的・非物理的)暴力がその目的次第で正当化されるという論は肯定し難いが、抑圧・恐怖に対する市民の衝動的行動(≒危機における道徳的原理)が、単なる「残虐性」や「野蛮さ」で片付けられてはいけないと思う。その背景にある、契約関係の破綻・社会的な抑圧が、市民を動かし経済を変えていくことだってある。

長くなってしまったけれど、多様化する社会の中で、世界各地で発生する暴力の実態をいかに社会・経済的枠組みにおいて理解するか、そのリテラシーが問われているように思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?