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「正解」のない世界に耐えるということ

今日は某大の人工知能研究室の方々がロンドンにみえたので、パブでお食事。分野のちがう人々とお話しすると、世界観、価値観がまったくちがうということも多くて、あらためて驚いてしまうようなことも多い。

というより、こちらの方が、相手に対して、驚きなんである。

理系だけでなく、経済とか経営とかの分野の人に、何を研究しているんですか、と聞かれて、映画と文学文化です、というと、だいたい相手は、目が点になる。

それ、なんですか?映画を研究するって、どういうこと?

昨日お話しした人は、いろいろな事情で領域を変えていて、修士のときは文系の先生のところに入ったというのだが、いままで工学部で詰め込まれていた理系教育とまったく常識がちがうので、つらかったという話だった。

それ、どうやって「証明」するんですか?と、疑心暗鬼な日々だったという。

その人に、会計分析の人工知能の開発をしようとしたときの話を聞いた。

数字を人工知能に読ませて、コンサルや会計士がするようなアドバイスを、人工知能にさせる、というプロジェクトだった。しかし、うまくいかなかったという。なぜか?

それは、「正解」がないから。

でも、コンサルA氏とB氏とC氏がいたとすると、彼らはみんな同じ回答をするわけではないですよね?それと同じように、人工知能Dくんが、またちがう回答をしたということでしょう、とわたしは言った。

人工知能Dくん(勝手につけただけ)は、新卒3年目よりは使えるよ、と言われたという。そこであきらめず、もっと経験と、それに付随する知識能力のあるコンサルの考えを埋め込んでいけば、より適確なアドバイスをすることができる人工知能を開発することが、できるのではないのかな、と思った。それをどうやるかが大変だ、ということはわかる。

人間の知は、絶対的なものではありえない。だから、それを模倣するということは、そういう経験と知恵の累積を模倣させることでしかない。

しかし、工学部で理系教育を叩き込まれた彼女には、「正解」のない世界が、耐えられない、というのだった。

(断っておくが、この人はいろいろ苦労していて、わたしは彼女の話をとても興味深く聞いていた。)

人工知能の将棋ロボットが、プロ棋士に勝つことが多くて、話題になった。将棋にはたしかに、「勝つ」という正解があるように、みえる。しかしいうまでもなく、その勝ち方は、一通りではない。棋士は過去の名人の棋譜を勉強し、それに習熟することで、つまり人間の、先人の経験と知恵を勉強することで、強くなっていく。

人工知能の将棋ロボットが強くなったのは、人間が将棋を学ぶ過程を、シミュレートさせていったからだろう。そして実際、羽生名人をはじめとする現代の人間の棋士が、圧倒的な実力をつけていったのも、コンピューターを駆使して、そのプロセスを加速化させることによってである。

つまり、名人も、将棋ロボットも、基本的にやることは同じ。叡智を際限なく積み重ねていくだけなのだ。叡智に「正解」はない。将棋には、「勝つ」という正解があるけれど、勝利のためのプロセスは、正解というには、複雑すぎる積み重ねである。

将棋のみならず、会計コンサルについてはさらに何もわからないわたしだが、数字の読み方にすら、正解はない、ということはわかる。どの手を使っても、どの方法で行くことにしても、その正解のなさに耐えながら、細かい知恵と判断を積み重ねていくしかない。

いうまでもないが、映画や文学文化の研究に、正解はない。正解、特に政治的正解を求めるような論文の書き方をする人もいるが、わたしはそれは文学文化の深みを殺ぎとる営みのようにみえる。もちろんそれも、多様な考え方のひとつと言ってしまえば、そうなるが。

正解のなさに敢えて耐えることで、人間の深みと広がりを理解し、鑑賞し、分析し、考察することが、わたしの研究テーマである、ともいえる。

今度、何の研究をしているんですか、と聞かれたら、「正解」のない世界の研究をしているんです、と、言おうかな。

#正解 #人工知能 #将棋 #将棋ロボット #正解のない世界 #田中ちはる


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