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創造とは、自分の世界観に新しい地平線をうちたてること

「フェリーニがピカソに憧れたとき」という展覧会を観てきたので、岡本太郎の『青春ピカソ』という本を読んでいたら、岡本太郎の言葉(そしてかれが引用するピカソの言葉)の方に、ぶっ飛んでしまった。

ピカソは自分の過去の芸術をつねに脱皮しつづけ、新しい芸術に進化させつづけた、偉大なるアヴァンギャルドである。ここには名人の持ち味である自足感はなく、不協和に躍動する圧倒的な凄みがあふれている。これがピカソ芸術の真面目(しんめんもく)なのだ、と岡本はいう。

もちろんピカソは、驚異的に巧い。しかしそれに眩惑され、ひっ込んでしまう必要は少しもない。ピカソの巧さなんて、超える必要はないのだ。おのれの現在的未熟を正視し、全責任を負うことが、芸術の本質だからである。

さらにうなずかざるを得ないのは、これはクリエイターだけでなく、鑑賞者にも当てはまる、と岡本が強調していることである。真の鑑賞とは同時に、創るということでなければならない。観ることと創ることは同時にある。

創るとはキャンバスに向かって筆をとることだけではない。自分の世界観に新しい地平線(ホリゾン)をうち開くことが、創造(クリエート)なのである。

ひとはなぜ芸術作品を鑑賞するのだろうか。へえ、すごいねー、と芸術家の力量にただ感心するためではない。ある芸術が鑑賞者を強く揺さぶることによって、彼/女の精神は、衝撃を受ける。そこで彼/女の世界観に、変容が起こる。それが創造なのである。

岡本はまた、ピカソのこんな言葉を引用している(かれの訳なので、日本語が岡本調だが、そのままにしておく)。

芸術家の作品が問題ではない。芸術家自体のあり方なのだ。たとえセザンヌが彼の林檎を十層倍も美しく描いたとしても、もし彼がジャック・エミール・ブランシュ(現代の著名な官展派画家)のごとき生活をしていたとしたなら私には少しも興味がないだろう。われわれにとって重大なのはセザンヌの懐疑、教訓であり、またゴッホの苦悩である。すなわち芸術家のドラマなのだ」。

ピカソの言葉にわたしが注釈をつけるのはおこがましいが、「ジャック・エミール・ブランシュ(が誰なのかわたしは知らないので、比喩としてあえてそのまま借りるが)」のように生きていたら、その絵はセザンヌの絵のようにはならないだろう。

「セザンヌの懐疑、教訓」や、「ゴッホの苦悩」は、かれらの絵のなかにあらわれている。われわれがかれらの絵に衝撃を受けるのは、絵からそれらがつたわってくるからだ。言いかえれば、そういう「芸術家自体のあり方」がつたわってこない芸術に、少なくともわたしは、心を打たれない。

岡本訳ピカソの言葉のつづき。

「結局のところ、頼りになるのは自分だけだ。それは無限の光を投げる腹の中の太陽だ。その他は全部、虚妄である。太陽を腹に持っているからこそ、本当に何かがあり得るのだ。作品とは日記を書くようなものだ

日記という比喩は、芸術が、芸術家自体の日々脱皮していくあり方の表象である、ということなのだろう。

つまり逆にいえば、生きることは日々脱皮しながら、創造していくことなのである。だれもがみな、芸術家なのだ。

(写真はフェリーニの描いたピカソのマンガ)

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