グローバル化のかけごえと、教育の現場でのギャップについて
ロンドンの家の近所のチャイニーズ、Green Cottageは、とても美味しくて安い。6人だったせいもあり、一人3000円で、いろいろ食べて堪能した。そのなかの一人は、ブライトンでワーホリをしている、20代後半の女性。彼女は私立の中学校で専任の英語の先生をしていたのだが、それをスパッとやめて、ワーホリにきたという。
わたしは日本にかえれば大学勤務なので、国際化、グローバル化のかけ声でいろいろなプロジェクトが立ち上がるのを、もちろん日々目の当たりにしている。それは中学校や高校でも、同じらしい。グローバル化社会だから英語は必要。英語の勉強をしましょう、世界に目を向けましょう。と、彼女も生徒たちに向かって言わなければならず、言いつづけた。
しかし彼女自身は、大学で英語を勉強しただけで、海外経験がない。そのことを矛盾に感じたというのを聞いて、わたしはハッとした。中学や高校の先生は、大卒でそのまま就職するわけで、留学経験のある先生は、それほど多くないだろう。つまりグローバル化というのがじつはなんなのかよくわからないまま、生徒にそれを伝えなければならない、ということだ。
大学で外国文化や語学を教える立場にある人間は、外国で勉強した経験のある人が多いはずで、異文化を知ることの面白さと重要さを、学生に伝えているはずである。しかし子供がもっと早い段階から、そういう教育を受けていれば、より世界に目を向ける人材の育成にとっては、たしかに望ましいだろう。
とはいえ、真摯に教育に取り組んでいる教師であれば、内容を知らないのにかけ声だけかけつづけなければならないということに、違和感を感じて当然だ。
教師志望の学生にいろいろな体験をしてもらうこと、学生に留学をすすめることは、今大学で取り組まれていることである。それはもちろんいいのだが、わたしはむしろ、彼女がこちらで仕事をしていて、ちゃんと定時に終わるのがうれしい、と言っていたことが、問題であるように思った。
会社でもそうだろうが、教師という仕事は、毎日残業の嵐である。残業しないようにしましょう、というかけ声はあっても、実際の仕事が終わらないので、土曜も出勤、みたいな話は絶えない。
外国文化について学ぶとか、見識を広めるには、気持ちの余裕が必要だ。疲れきっていれば、その疲れを取るためだけに、なけなしの余暇の時間は、費やされる。しかし定時に終わって余裕があれば、その後映画でも演劇でもコンサートでも落語でも、気持ちをリフレッシュして、いながらにして多文化的視点を身につけるような文化活動ができる。長い有給が取れれば、海外にいくこともできる。有給を取ることは罪のような文化に、日本はなっていないだろうか。
教育や文化の質を上げるには、人々がそうした余裕を持てる社会の仕組みづくりから、始めなければならない。職場の構造、社会の構造、そして人々の意識そのものを、ブラッシュアップすること。これからの日本社会がサバイバルしていくために必要なのは、そういう研究と実践なのだろう。
#教育 #国際化 #グローバル化 #田中ちはる
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