祝福と嫌悪のあいだ

付き合いの長い友人から、妊娠したと報告を受けました。
おめでとう、良かったね。体を大事にしてね、落ち着いたらまた会おうねという言葉を送りました。笑えていたかは自信がありません。むしろ裏切られたとすら、思っています。

私は、解離性同一性障害です。多重人格と言えば分かりやすいでしょうか。
ネットで調べていただければポロポロ出てくると思うのですが、体の本来の所有者である「基本人格」、トラウマやら何やらから身を守るために役割や意味を持ちつつ、個々の自我がある「交代人格」で私達は形成されています。
私は「基本人格のフリをする役割」を与えられた「交代人格」です。違うのは名前と、社会で生きる為に必要なコミュニケーション能力が備わっているぐらいです。
その他、味覚や趣味なども基本人格とだいたい同じようにできています。基本人格はかれこれ10年ほど眠りっぱなしで、家族や医者を欺く必要があるからです。

ただ、本当に仲の良い友人だけには話してあります。アカデミー賞を貰っていいぐらい頑張っているのです。たまには「ちはる」という自分の名前を、私の家族ーー他の人格以外の、まったくの第三者に呼ばれないと割に合わないのです。自分の役目とはいえ、疲れるんですよね。たまに自分がわからなくなる。
その数少ない友人が、先に話した祝福すべき彼女です。私が信頼し、彼女はそれを受け入れてくれた。それだけで奇跡です。
気分屋過ぎると思ってたけど、そういう事かー。とむしろ納得すらしていた彼女。気が抜けました。
むやみやたらに構える必要がなくなったおかげで頻繁に交代する事が減りました。代わりに彼女を気に入った人格数人と話し合い、私以外の人格と彼女が遊んだりすることも多々ありました。
ありのままに生きられることの楽しさは、彼女が教えてくれました。

ただ、男性人格に恋愛感情が生まれてしまい、彼女が受け入れたことは大誤算でした。
話し合った結果、どちらかに悪意が生まれたら離れようということでまとまりました。
私を含めた全ての人格には、差がありますが「第三者からの悪意を感じ取る」という第六感じみたものが普通の人より鋭敏にできています。そして防衛手段として、こちらの個人情報は出会った当初からいくつかダミーを混ぜていました。もし彼女に何かしらの悪意があるのなら、二度と会わないようにするぐらい簡単にできました。
そして私より年上として生まれた兄と呼んで差し支えない彼を消滅させること。人間のような言い方をすれば彼を殺してしまうことは、私達を束ねるリーダーの意志ひとつあればあっという間にできるのです。彼女は知らないままですし、知らなくていいのですが。

予想に反して、お付き合いは非常に順調。むしろ好意しかない。奇特というか、なんというか。我々としては実害がなければ良いので、見守りに徹していました。
中身は男性でも体は女性です。私達には結婚願望がないですが、彼女はわかりません。ただ、万が一にも彼女が彼と結婚したいと本気で望んだとしたならば、法的に寛容である地域に移り住む事も視野に入れていました。

まあ、移り住まずに済んだのは冒頭でお分かりですね。彼らはとっくに別れ、彼女は別の男性と結婚して妊娠しました。
自然の摂理です。こればかりはどうしようもないことです。なら何故私はこんなに嫌悪感を抱いているのか。

「結婚願望はないけど、子供は産みたい。最悪、子供さえいればいい。種は誰でもいい」

2年前の春。人でごった返す都内の駅前で随分とネジが飛んだことを言われた私は、何と返したのか覚えていません。
彼女は私の最悪な家庭環境を知っています。酒に溺れた父から生まれた事を否定され、ありとあらゆる暴力を振るわれ、お腹を蹴られた事で子供が出来にくい体になってしまったことを、かつてお付き合いしていた男性の子供を流産してしまい2度目の奇跡があるかないかの体質であることを知っているはずなのです。

それを知っていて、この人間はそんなことを言うのか。私より、私達より遥かに恵まれた環境で安寧に育ち、女としてもっと幸せになれる手段がたくさんあるはずのこの人間は、自分の願望のために、世迷言を吐くのか。

彼女に抱いたのは、はっきりとした嫌悪でした。
そしてそれを諫めたのは、彼女の恋人である私の兄。大丈夫だと言って、喫茶店で私と意識を交代し、戻ってきた時には別れた後でした。
彼女の願いを叶えてあげられない俺が悪いと言って、やがて兄は深い意識の中に沈みました。私達は名前を呼ばれれば応えられるように、外部の事を把握できる範囲の意識下で待機しています。意識の深くに沈むということは、呼びかけても簡単に応じないという事です。
兄は人格同士の諍いを宥める役目を持つため、穏やかで優しく、懐は深く、しかし必要なら人格を切り捨てる事も躊躇うことはない。全てに平等であるように生まれた兄は、第三者に特別な感情を抱くことはあり得ないはずでした。
前提が覆ってからずっと、いつか別れる日が来ると分かっていて、それは恐らく自分のせいになると分かっていて、それでも兄は彼女を愛した。付き合わなければ良かったのにと言うのは簡単です。それでも、私達は生きている。ひとつの体しかないけれど、ひとりの人間として成り立つ自我を持っている。それが私達という存在です。兄と慕った人の心を踏みにじられて平静を保てる人間が、世の中にどれだけいるのでしょう。

兄が眠ったことを知らない彼女は、結婚式を目前に控えたある日、私に言いました。
結婚するなら、彼が良かった、と。

その一言で、私はようやく知ったのです。彼女は悪意のない悪意を持ち合わせているために、私達はずっとそれに気付けず、今後も気付かないことを。悪意のない悪意は、悪意のある悪意よりも余程タチが悪いことを。

円満に別れたと思っている彼女は、時折兄のことを聞いてきます。私は元気だよと嘘を吐きます。これからもずっと。
私達の生まれた理由を知りながらも無意識に踏みにじり、悪意なく兄の全てをないがしろにした彼女。
いつか祝福できたらと思うけれど、ごめんなさい。今はただただ汚らわしいとしか思えない。

いつか消化できるのか、もう会わない方がいいのか。まだ答えが見えない私も兄と同じく愚かなのでしょう。

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