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夜明けの鶏が鳴く前に


聖書にイエスに纏わるこういうお話しがある。

数々の奇跡を行い、多くの貧しく弱い人たちに真の幸福や霊的な解放を説きながら常に弱者と共に在った人イエス、時の権力者たちや正義をかざしてきた人たちは、次第にイエスの教えに熱狂していく民衆を見て恐怖を覚え、彼を十字架につけようとしていたその前夜。イエスの一番弟子だったシモンペテロは言われる。「あなたは夜が明ける前に三度私を知らないと言うであろう」と。

シモンペテロは、そんなことはない、私はあなたの忠実なしもべです、と信じて主イエスにそう答える。本気で心底そう思っていただろうと思う。思うだけでなく、事実イエスに誠実であったにちがいない。私が愛してやまない主イエスを、これほど主に愛されている私が裏切るなど出来ない。私には失うものなど何もない。全てを捨ててこの方についてきたのだから、と。

果たしてシモンペテロは捕まったイエスを追う途中で、顔を見られ、あなたも彼と一緒にいたではないか、と詰問される。

ちがう。私ではない。私はあの人が誰かを知らない。 

夜明けの鶏が鳴いた。シモンペテロは絶望に泣き叫ぶ。あれほど愛していた主を、自分の人生に希望を見出してくださったあの方を、裏切ったのだ。


昨年2020年の晩秋に渋谷である女性が路上で亡くなった。何度読んでもこの事に関する記事がSNS上にあげられる度、涙が出る。惨めでやるせなく、かなしい記事はいくらでもあるのに、なぜかこの女性の最後を取り巻く数々の言葉には涙が出てくるのだった。なんとなくその女性の置かれている立場が他人事では無かったからかもしれない。同時に腹も立ってくるのだった。

それは彼女が最後まで一人で頑張っていた事に対して「なぜ助けてと言ってくれなかったのか。」という受け取り方次第で悲痛な声にも、申し訳ないがある意味では無責任な声にも聞こえる言葉に対してである。本当に助けが必要な人は「ねえ、助けて」とは言わない。言葉など出てきはしない。その試練が今生、望んではいなくても、他でもない自分に与えられたものだと、意識はしていなくても身体のどこかで受け止めて生きている。

そんなギリギリの状態に至る前にも、願わくば自分にも助けてくれる仲間が欲しかった、もっと人と関わる術を素直に出せる自分でいられたらよかった、もっと早くにこうなる予感を自分の中に感じていたのに、それを無視せずにいられたらよかった、ほんの少しの勇気が自分にもあったらよかった、と思わなかったことはないだろうと想像する。しかし、ハナからそんな術も、環境も持たないのだ。でなければとっくに誰かに厄介になるなり、甘えるなりしている。


では本当に、「助けてほしい」とその人が呟いたら助けていたのか。

どんなふうに?何を?どういうことだったら自分にもできただろう…

助けるって…

コンビニでおにぎりと水を買って彼女に差し出す?一晩だけウチに泊めてあげると招き入れる?毛布を家から持ってくる?彼女の代わりに家族に電話をかけてあげる?

出来るかもしれない。出来そうな気がする。想像だけなら。

そしてよぎる。お節介かもしれない、と。


ペテロはあの時、何を考えただろうと思う。たった数時間前までは最愛のイエスをなんとしてでも守り抜くつもりでいたはずだ。いや、守ることは出来そうになくても最後まで自分だけは共にいる、と心に誓っていたはずだ。生涯をかけてこの方と共にいる、と。そこからしか自らの生きる意味や幸福はありえないと知っていたはずだ。自分の真っ直ぐな信仰心を疑いもしなかっただろうと思う。

夜明け前の暗闇で、1度、2度、3度と、「お前はあのイエスの弟子だろう」と素性を明らかにされる恐怖をじりじりと味わったのだろう。そして、無意識のうちに、気がつけば「わたしは知らない」と勝手に言葉が出てしまっていたのだろう。

SNSのあの記事を読む度に言葉にならず、もやもやとしていたもの。

あのシモンペテロ。イエスに直接に出逢い、この世に天国を見出し、彼から溢れるほどの愛を受けた彼でさえも、逃げてしまうほど人は弱い。なんなら、少し前まではあの裏切り者のユダ(イエスの12弟子のひとりでイエスを役人に売った人) を、「やっぱりお前はユダだ。」 と遠くに蔑んでいたかもしれない。

誰でも人は、かなしいほど弱くて、残忍で、薄情で、あっけなく無関心を装うことが出来る。その瞬間は自分を誤魔化すことが当たり前のように出来る。夜明けの前になら。夜が明けて暗闇に光がさした時、はじめて自分の心の中に潜んでいた信じがたく受け容れ難いその在り様に愕然とする。

そうしてやっと気がつくのだと思う。そうしてはじめて心の底から、あのユダをゆるすことができるのだろうと思う。

試されていると自分を奮い立たせる前に、人は、自分は、あまりにも弱く、薄情で、愛がないのだと思い知っていること、そのことから逃げずにいること、その自分を知っていること、それは絶望や嫌悪の渕に落ちていくことに近いと思う。

けれど、それを抱きかかえてこそやっと、夜が明けるのだと思う。

本当は最初から何もかもに愛があって、何もかも愛に包まれていて、いつでも、生きても死んでも、愛がない時などない。

夜が明けたら、光に全てが照らされたら、それがはっきりと観えるのだと思う。



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