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ゆるすこと。信じること。愛すること。

以前にゆるすことについて書いた。

あれには続きがある。あの記事を書きながら今から書くことはすでに頭の中にあったのだけど、

今朝(この記事は2021年3月20日土曜の午前に書いています)、母と話していてやっとその頭の中にあったいろいろが言葉になったので、

書き記しておこうと思う。


私は母の影響でお腹の中にいる時から教会に行きながら、神さまに祈るということを日常的にしてきた。日曜学校というこどもたちのための礼拝があるのだけど、毎週決まって「主の祈り」というのを祈る。その中にこういう文句がある。

「〜我らに罪を犯すものを我らが許すごとく、我らの罪をも許したまえ〜」これを読む度、唱える度に心の中で「私が許してるんだから私のことも許してよって、そいじゃこっちが先に許さな許されんの?」「え??神さま、そんなん意地悪でケチなん?」そう思っていた。

ある程度の年齢になり人生の経験も少しは増えた頃には「そんな神ならいらんわ!ボケ!」と天の神さまに悪態ついてエア胸ぐら掴んで「おんどりゃあああ!!」と張り倒していた。

誰でも、許し難いようなしんどいことが人生には時々起こる。星まわりの激しい人ならそれも度々起こるだろうと思う。(このあたりの理由は占星術を学び始めてなるほど、と今では確信に近い)

そんな時に率先してゆるすなんて、バカにならなければ、あるいはよほどの菩薩心でなければできないのが普通だ。

でも今はこんなふうに思う。

許し難きをゆるすというのは、自分を捨てる様な、自分自身を殺してしまう様な、人生を諦めてしまうような、大事なものを失うような、誠実に生きることや真理を蔑ろにするような、そして場合によって人によっては復讐心で辛うじて生きながらえてきた頼りの綱が切れてしまうような孤独感、虚無感、喪失感でいっぱいだと思う。絶望と言ってもいいと思う。

なぜそんな思いをしてまで許さないといけないのか、と本気で思っているうちは許さなくていいと思う。どうせ許せないから。許せない自分を責める必要もない。それだけの傷みを抱えているのだから。そんな今なのだから。

その傷みをわかってあげられるのは自分だけで、なんと壮絶なことに、そんな傷みを持ちながらもそれを一緒に感じてくれる人はこの世には一人たりといないし、やわらげてくれる人もいなければ、取り除いてくれる人もいない。ましてや語り合ったり、解決するなど到底無理だ。その傷みは他でもない選ばれてしまったその人自身だけのもの。

そして、そこから抜け出す力、それを癒す力、回復させる力、その出来事やそこに居合わせてしまった自分自身を超越する力は、その今まさに傷んでいる本人にしか与えられていない。

傷みを負った人の苦しみはそれだと思う。誰も代わりになれず、誰も助けられず、全くのひとりでそれを負うより他ない。

はっきり言う。神さまは役に立たない。天使も聖霊もだ。それじゃあ、その人たちはこっちが苦しんでいる間何をしているのかと言うと、ただ観てくれているだけである。

どう観てくれているのかというと、その人が望んだままになることを知っていて、その上で安心して観ている。ね、意地悪でしょう?趣味が悪いよね。


でも、観るだけで終わらない。実はその前にちゃんと仕込みを済ませてある。

神さまはすごいなと時々思う。

傷んだその人(自分)を回復させる力はその人にしか与えてなくって、しかも、自分の中にはちゃんと力が始めから与えられている〜なんて思っているうちは、その力は出てこない。それはどうやったら出てくるかというと. . . . 

そう、ゆるしてしまうのである。

よりにもよって、あの悍(おぞ)ましい出来事/人を、だ。

まあ、はっきり言って「もういいや〜」みたいな情けない、どうでもいいやみたいな全く自分のためにも世の中のためにもならないとしか思えないような、全然うれしくない上に損までしてしまったような境地だと思う。自分が微かに期待していた全てのことを投げ捨てることにもなる。どんな心の奥底に見えないように隠していたものも、一切合切容赦無く全部あきらめるのだ。


理不尽。

そんな言葉しか思い浮かばない。けれど少し後ろ斜め上方に下がって遠くに視点を離してみると観えると思う。

その空っぽ。そのゼロ。その真っさら。

善悪の境地から解放された自由。

プレゼントはそれだけで終わらない。

もう苦しまなくていいのだ。あの悔しくかなしい思いや、頭を後ろからハンマーで殴られたような衝撃や、切り裂かれたような悲痛さはもう、

ゆるした瞬間に消えてしまっている。

正確に言うと、記憶には残っているかもしれない。その情景やなんかは。

でも感覚がどこかへ行ってしまう。

ゆるした、とした瞬間に本当に爽やかな風が吹き、髪をすいていく。

静かな穏やかな時と空間が訪れ、それは温でもなく冷でもなく

ただそこに在ること、だけである。

一切の言葉がなく、ただ存在しているだけ。


一度その境地を知ったら、わかるだろうと思う。

勝利の本当の意味が。解放されるのは何からなのか。

勝利するのはその次元のすべてに対して。

解放されるのはその次元にいること自体から。

そうすると何が起こるのかと言うと、また起こるかもしれないというあの恐怖が

消える。防御からの「到底信じられない. .」というかなしい不信感がどうでもいいことになる。

自分自身がもうそこにいないからだ。

自分自身に起こることに対して、如何様にでもできる大安心なるものが生まれる。



「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく」

それは他でもない、ゆるした自分自身こそがその苦しみから真っ先に、誰よりも最優先で、解放されるためなのだと思う。

その時、自分自身がゆるされることは宇宙の真理として全き当たり前のことだと、はっきり確信できると思う。

誰も誰かにゆるしを乞う必要などないことをしっかりと感じると思う。暗闇だったところがいきなり、眩しくなるのをはっきり見ると思う。

私はそれは宇宙の、神の、そしてその人自身の中にある計り知れない大きな愛だと思う。

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