![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/42891621/rectangle_large_type_2_5bcd5acb545534576a1d4a9e97e4cf3d.jpeg?width=1200)
“ 許す(=愛する)ことからしか人は変わらない”
....んだって....。今朝いちばんに目にした言葉。
お互いのちがいや、「あーた、そりゃちょっとないぜ。」というところを愛を持って指摘し合い成長しようと頑張ったところでいつか息詰まらないかい?というのがその記事の主な内容だった。
そうか。そうかもしれないねえ。
それじゃ、どうしても許せない時ってどういう時かな..と考えてみると、「また起こるかもしれない..」「またあんな目に遭うかもしれない..」という過去の体験からくる恐怖の延長線上の、自分を守りたいというどうにも抗えない生命防御装置の変形バージョンが作動してる時なんじゃないだろうか、と思う。
理不尽に傷つけられたことで修復不可能なこの状態をなんとしてもでも守ってあげないと、という心の中の最後の砦というか。
どんなにトラウマを消去しても、
どれだけ潜在意識を書き換えてもらっても、
ある瞬間に「ゆるす」=「受け入れる」という決意を自らの意思でするまでは本当の意味での恐怖は消えないのかもしれない。
これは他者に対してであっても、過去の自分自身に対してであっても同じことだと思う。
ゆるすって「そのままでいていいよ」って言っちゃうようなことだ。変わることを相手に要求しない。自分にも。(成長しなくていいよ、というのとはちがう) 過去の出来事を別の形に変えようとしない。起きたことはそのまんまだ。ゆるす側ゆるされる側、どっちに立ってみてもちょっと立ち止まってしまう。
でも、よく考えてみるとこれはそうそう大したことじゃないのかもしれない。
まず自分がゆるされているのだから、その証拠にこうして生きているのだから、「ゆるされているわたし」のことを愛おしく眺めてみると、そうか、これとおんなじか..となんだかあっさり出来てしまう。
大きな海原に身を投げるように、えいっと勇気を振り絞らなければ、ゆるすきっかけなんかを待っていてはゆるす前に人生は終わってしまう。
ひとたびゆるしてしまえば、あとは感情の波が行きつ戻りつしながらも、愛のあるところへ心は勝手に帰ろうとする。
信じること= 希望への闘いの始まりだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?