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【転載】姉が健常者だったらよかったのにと考えたことは数えきれない、けれど。/「家族に障害者がいる日常」前篇

サイゾー運営のWebメディア「messy」「wezzy」に寄稿した、2016年9月29日公開の記事の再録です。
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9月上旬、リオデジャネイロではオリンピックに続き、パラリンピックの熱戦が繰り広げられました。障害者への理解がさけばれる時期ですが、「オリンピック」の名を冠した世界大会は、もうひとつ存在しています。4年に1度、知的障害を持つひとたちが夏季と冬季のオリンピック競技種目に準じたさまざまなスポーツトレーニングなどを通じて自立と社会参加を目指す「スペシャルオリンピックス」です。

同じ障害者でもパラリンピックとスペシャルオリンピックスの区分けに表れるように、身体障害者と知的障害者ではさまざまな点が異なります。なかでも重度の知的障害を持つひとがどのような日常を送っているのかは、知る機会がないどころか存在に接したこともないのが一般的ではないでしょうか。

筆者には、重度の知的障害のある姉がいます。姉とともに送ってきた生活を、少しだけご紹介します。

自治体によって知的障害の等級の名称は違いますが、姉は「最重度」に区分されます。障害の原因は、難産の末の帝王切開で投与された陣痛促進剤の副作用ではないかと聞いています。病名などはありません。私よりも4つ年上で今年40歳になりますが、知能は2歳半くらい。自立生活は不可能で、食事やトイレ、お風呂の介助はもちろん、着替えも見守りが必要です。

姉の障害と、妹の存在と
物心がついたころから、姉が“普通”ではないことは、見た目からも行動からもよく認識していました。親の努力で身体は健康に育ち発語も問題ありませんが、意味のないことをずっと話しつづけています。語彙は少ないので何を言いたいのかは、家族や周囲は表情と状況、その言葉を過去どのように使っていたかの経験則で判断するしかありません。

発している言葉は、本当に突飛です。機嫌がよく突然歌を歌い出したり、何かに怒っていて同じ曲のワンフレーズだけを怒鳴っていたり。何に怒っているかの判断はいまだにむずかしいです。自宅にいるときはいくら叫んでくれてもかまいませんが、外出時にされると周囲の目が気になるのも本音です。

自分なりのこだわりがあり、外出したら必ずコンビニなどで缶コーヒーと袋菓子を買う、は構わないのですが、食品の包装紙を全部はがされてしまうのは結構不便です。家中のタオルを集めて自分のかばんに無理やりしまおうとし、入りきるわけもなく怒って泣き叫ぶのも困ります。慣れましたが。

私には姉のほかに、2つ年下の妹もいます。ふたりで仕事の愚痴を言いあっていたとき、満面の笑みの姉から「黙ってせっせと働きな」と言い放たれたことがありました。語彙が少ないはず、2歳児程度の知能のはずの姉から放たれた毒舌に大笑いするとともに、自分たちとの血のつながりを、確かに感じました。

姉に対する気持ちを整理してみると、妹の存在はとても大きいです。交流のある他の知的障害者のいる家庭はたまたまふたりきょうだいが多く、もし親やきょうだいに対して思うことがあったとしても独りで抱え込まざるを得ないでしょうが、「自分には同じ立場で相談でき頼り合える相手がいる」という心強さは、何物にも変えがたいもの。もっとも、単純にきょうだいの人数は多い方が楽しいよね、という気持ちもあるかもしれません。

4つという年齢差のほどよさと、私自身が父親似の外見に生まれたことでお父さん子だったこと、なにより妹との仲がとても良好だったことで、姉のことを子どもなりに冷静にとらえられていたように感じます。

半面、母に対する感情は、少し複雑だったかもしれません。母は一言で表せば「スーパー専業主婦」。おやつは手作りで、華道の師範資格を生かして玄関には常に花のアレンジメント。家族旅行はなかなか行けませんでしたが、そのぶん、ガールスカウトや山村遊学、ホームステイなど、子どもだけでもできる体験をたくさんさせてもらいました。

しかし母はとても“保守的”で、私や妹が仲よくなった友だちでも「よくない子」と判断した相手とのつき合いは制限してきました。ゲームや漫画、子どもに人気のテレビ番組の視聴も禁止。抑圧的ではという疑問や不満を持ちつつも、姉がいることによって「よそはよそ、うちはうち」という考えが身に染み付いていたため、表面上はおとなしく従っていた気がします。

母からの、ひと言
30歳を過ぎ、母ともいち社会人同士として接することができるようになって言われたのが、

「姉がいることを引け目に感じて媚びたりしないで、堂々としていて」

でした。本人としては昔からずっと言ってくれていたそうなのですが、そのころは私たちも子どもすぎて理解できていなかったのでしょう。交友関係への口出しも、姉がいるせいで友だちが作りにくく不本意な相手に無理につき合わされているのではないかという、母なりの心配だったようです。もう少し分かるように話してくれればよかったのに、とは思いますが、母も当時は子ども3人を抱えて、あれが精いっぱいだったのだろうとは想像がつきます。

それでも母の思いの根底がどこかで感じ取れたのか、周囲に姉を隠そうと思ったことはありませんでした。「ちょっとうるさいのがいるけど、うち結構イケてるから遊びにくる?」というノリで友だちを姉もいる自宅に誘う幼少期を過ごし、その子が姉を見て驚いたり時には泣いてしまったりする姿を見て、こっちも落ち込んだり。他人との距離の詰め方を見極める大切さは、姉のことをきっかけに覚えていったかもしれません。

姉は養護学校(当時、現・特別支援学校)の高等科を卒業した後、作業所へ通所するようになりました。知的障害は、障害そのものの重篤度は変わりませんが、症状は本人をとりまく環境や年齢によって良くも悪くも変化します。悪化すれば、髪や爪をむしる、壁に頭をぶつけるなどの自傷行為が激しくなったり、泣きわめいたりします。姉も何度か悪化した時期があり、私の高校時代がそうでした。

ふたりで過ごしていたあるとき、ずっと叫んでいる姉に我慢ができなくなって、姉の顔へ向かってお茶をぶちまけたことがあります。自分にとっては妹ととっくみあいするようなきょうだいゲンカの延長でしたが、姉が腕力で抵抗することは不可能な以上、虐待以外の何物でもなかったと思います。

ですが、後悔はしていません。

私は地元の、一応それなりといわれる大学へ進学し就職で家を離れましたが、卒業してずいぶん経ってから母に「姉がいなければ、進学時にもっと手をかけてあげられた」と言われたことがありました。潜在的に感じていたことでしたが、ショックでした。実は進学先が不本意で今に至っても学歴コンプレックスをぬぐえない自分にとって、大切な時期だったのにないがしろにされていた、いまだに劣等感にさいなまれる遠因が姉だったなんて。

でも高校時代に姉にやったことで、自分が被らざるを得ない一生分のとばっちりへの不満は、まあまあ解消できたと思うのです。結局は自分が努力しなかったのだし、三姉妹の真ん中というポジションは、だいたい似たようなものなのじゃないかと。

姉は幼いころ、人形のようなとてもかわいい外見をしていました。しかし今は、指をしゃぶる癖からくる開咬(かいこう=上下の歯がきれいに噛み合わないこと)や自傷行為からの頭部の変形などもあって、初対面のひとは少なからずびっくりする容姿だと思います。

姉の写真を、見せたことがない
一緒に育ってきた自分にとっては見慣れた姿で、笑顔はやっぱりかわいい。スマートフォンのフォルダにも写真はたくさん入っていますが、先日、十年来の友人に、妹の写真はよく見るけど姉のは見たことがない、と指摘されました。

障害者の家族がいることで敬遠するような相手ではないのに、見せることを無意識に避けていました。相手を驚かせたくないから、は建前で、本音は驚かれるのが当然でもやっぱり悲しいから、なのかもしれません。

この春に、妹が結婚しました。式は近親者だけが出席して海外で挙げ、姉は参列しませんでした。義弟は姉も出席できるならぜひにと言ってくれましたが、姉が参加したら私と母は介護でつきっきりになり、妹の晴れ舞台どころではなくなります。妹は、判断を両親にゆだねました。

両親は姉の一生を背負っていますが、同時に私たちの親として、それぞれの人生と幸せがあると尊重してくれています。健常者だったらいいのに考えたことは数えきれませんが、親のおかげで、姉のことを大切な存在だと思いつづけていられていると感じています。

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初出:wezzy(株式会社サイゾー)2016.09.29
2024.04.03修正、加筆

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