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手料理だけが並ぶ食卓が苦手。


誰かのお宅に招待されて、出して頂いた料理が全てその方の手料理だったら最悪。という話ではない。

これは、我が家の話。
わたしは、食卓に自分が作った手料理だけが並ぶことが苦手なのだ。

例えば昨日の食卓。
夕飯に肉じゃがと菜の花の辛し和えを作った。
簡単なものだけれど、どちらも手料理。味付けはわたしだ。

それらをテーブルに並べる。
夫や息子が食べ始める。
途端にわたしは変な緊張感で心がざわつく。

おいしいかな
まずいかな
固いかな
濃いかな
どうかなどうかなどうかな

夫の顔色を伺い、気持ちを探る。
テレビを見ながら何も言わない夫。

どうなのどうなの
何か言って欲しい……!

「これ、少し固かったね」
「ちょっと失敗しちゃった」

耐えきれなくなったわたしは言葉を発する。
すると夫は

「そんなことないよ。おいしいよ」
と言ってくれる時もあれば
「ああ、少し固いかもね。でも全然おいしいよ」
などと言う時もある。

夫は一度もわたしの料理を否定したりけなしたことはない。
手料理を喜んでくれているし、
「お袋より旨い」
という妻としては最高の誉め言葉を頂くこともある。
(ただ夫は、食品関係の仕事柄、味には敏感なほうだと思う。)

まぁとにかく、わたしの気にしすぎ。
まずかったらどうしよう、と不安になり、手料理を出すことが怖くなってしまうのだ。

そんな時の対処法。
それがお惣菜の投入だ。

手料理の中に、買ってきた和え物、それに夫の大好きな刺身、つくだ煮。
それらがあるだけで、わたしは落ち着く。
例えまずくてもそれはわたしの責任ではないし、それがおいしければ、わたしの手料理がまずくても夕食全体の満足度は上がるだろう。

お惣菜は逃げ場であり、わたしの息継ぎなのだ。

けれど毎日お刺身ばかり買ってはいられない。家計が厳しくなる。
そんな時はそれの代わりになるものがあればいい。
切っただけの冷やしトマト、スティックきゅうり。開けただけのもずく、薬味を乗せただけの冷ややっこ。
それだけでもわたしの息継ぎの場となる。

手料理を出すことが苦手と言っても、比較的大丈夫なものもある。
唐揚げやとんかつ、豚汁に餃子、それにカレーやシチュ―。
味付けの良しあしがあまり問われないものや、市販のルーを使ったものならば、食卓に並べる時の緊張度は低い。
満足度は、わたしの味付けだけではなくて、本来持っている肉の品質や、ルーの種類にも大きく関係してくる。
責任は両者で担うことが出来る。


長々と書いてしまったが、とにかく手料理だけを食卓に並べることがわたしは怖いのだ。

でもこれは食卓だけの話ではない。
実生活もそうだ。

『ありのままのわたし』というものが、一体どういうものなのか分からなくなってしまうくらい、余計なものを付け足しすぎてきた37年。

肉じゃがのわたしでは自信がないから、人気者のお刺身の真似をして、
酢豚のわたしは少し固いから、そうだ、お野菜どうぞ。これはわたしじゃないからね。

わたしじゃダメよね。お醤油かけてもいいよ。
こんなわたし、嫌だよね。食べなくてもいいよ。

ああ同じだな。
肉じゃがも、ありのままのわたしも同じだな。
そのままを見せることが、本当は怖くてたまらないんだな……。


今日の夕飯はどうしようか。
人気者のお刺身に頼ってしまおうか。

でも肉じゃがだって、頑張って生きているよね。

美味しくてもまずくても、これがわたしだよ。
そう胸を張れる食卓になるといいな。











サポートありがとうございます。東京でライティング講座に参加したいです。きっと才能あふれた都会のオシャレさんがたくさんいて気後れしてしまいそうですが、おばさん頑張ります。