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其の父の死

父が死んだ。

59歳という享年は確かに早いし、僕からすれば、30年弱しか一緒にいられなかったのはとても寂しい。


父は2015年に仕事場で倒れてから半身が完全に動かせなくなり、それからはずっと隣県の施設で生活していた。当時僕は大学4年で、教育実習をしているときに一報を受けたのだった。

一命はとりとめたものの、なにぶん脳疾患だったものだから、運動障害に加えて言語障害も残った。口は上手く回らないうえ、そもそも頭で文章を作ることも難しくなっていたようだった。

もちろん自宅介護などできるはずもなかった。


父が入った施設は、うちから電車を乗り継いで片道1時間半、さらに駅から徒歩30分(バスもあるが僕は苦手なのであまり利用しない)という、非常にアクセスの悪い所だった。

大学卒業後、僕はフィリピンに行ってしばらく会えなかったけれども、帰国してからは月に1回くらい会いに行くようにしていた。
が、それも2017年夏ごろを最後に足が遠のいてしまっていた。

遠くて面倒だった、というのももちろん原因ではあるのだが、父が僕にかけてくれる期待が、僕にとっては少々重すぎたのだ。

折しも日本語教師としての就職がうまくゆかなかった頃の話である。
「たくさんお金を稼いで、結婚して、立派になるんだよ」と、一息ずつ時間をかけて話す父に、『いや俺にそういう生き方はできねえよ』と笑いながら軽口をたたけない自分がいた。

なにより、大学まで行かせてもらっておいて、結句どうしようもない人間になり下がってしまったことが情けなくて後ろめたくて、そんな姿を父に見せたくないと思ってしまっていたのだった。


その後も何度か細かい手術はしたと聞いている。まだ若いとは言っても、ほとんど寝たきりに近い状態になっていたから、内臓がどんどん弱っていったらしい。特に腎臓はかなり悪いとかいうことで、医者にかかるたびに連絡が来たのを母づてに聞いてはいた。

そのころにはもうコロナが流行っていて、ふと心配に思っても面会は一切許可されなくなっていた。


容体が極端に怪しくなったのは昨年末のことだった。

腸が破れて緊急手術をした、という連絡が母から来て、医師とのカンファレンスに僕も同席することとなった。

電話では、もうかなり危ない状態なので覚悟をしておいてほしい、みたいに聞こえたのだが、幸いにも術後の経過は良好で、術後数日して面会した時には会話ができるまでに回復していた。

僕が「しばらくです。悪かったね、なかなか来られなくて」というと、「どれくらいぶりかな」と言うので「3年半ぶりってとこかな」と答えた。

その後いくつかやりとりはしたが、やはり言葉こそなかなか出てきにくいものの、以前あったときと比べても、さほどボケたという印象はなかった。ひとまずは安心したけれども、久々に面会が叶ったのは嬉しくもあり、同時になんだか虚しくもあった。


結局それが父と言葉を交わした最後になってしまった。


3月6日、日曜。

ちょうど夜勤から帰ってきたところに母からラインが入った。父が施設から緊急搬送されたので、すぐ来てほしいと連絡があった、と。

急いで向かう道すがらラインで状況を確認すると、嘔吐した際に吐瀉物が気管の方に入ってしまい、いわゆる誤嚥性肺炎を発症しているということだった。

2時間ほどかけて到着、母と落ち合って面会させていただくことにした。


酸素マスクをつけた父はとても苦しそうだった。

目は開いているが焦点が合っていない。どころか、瞬きもままならないようで、瞳が完全に乾ききっているのが痛々しかった。

なにより、モニターに映し出されたグラフで血中酸素濃度が常時80を割っているのを見て、僕は父がもう助からないのを悟った。

医師からの説明でも、酸素をめいっぱい送ってこの血中濃度なので、もともと体力が弱っていることを考えると、元の水準まで回復することはほぼない、治療するとしてもただ生きながらえさせることしかできない、と言われた。


父はもともと延命措置を嫌がっている人だった。変に長生きするよりはスパッと死ぬ方がいいという考えを持っていたのだ。

そうはいっても、治療を決めるのは僕らである。治療を辞めるという決断は、意識的には父を見殺しにすることに近いわけで、実際にそう易々と決められるわけがないだろう、と僕はかねてから思っていた。

しかし、いま目の前にいる父はあまりにもつらそうだった。全身の力を振り絞ってようやく息を吸い込んでいるような状態がずっと続いていて、僕らが話をしている間に、血圧も80とか70まで下がってきてしまった。

僕は、「苦しそうなので、あまり無理させないであげてください」と医師に告げた。


本来ならコロナなので面会の類は一切できないのだが、医師の計らいにより、特別に病室で家族だけにさせてもらうことができた。

目はやはり潤いを失っているからたぶん見えてはいないだろうが、耳はきっとまだ聞こえているはずだ。そう考えて僕は、父に言いそびれたことを伝えようとした。自然と、涙が溢れた。


親子仲がすごくよかったかというと、決してそんなことはない。酒ばかり飲んで癇癪を起こしては人に当たり散らすロクでもない父だったから、口を利かなかった時期もあったし、耐えかねて僕から手をあげたことだってあった。大学に入ったあたりから僕も大人になっていたので、関係は悪くはなかったが、尊敬できる父親とは程遠い人であることに違いはなかった。

だから、いくら実の父親とはいっても、死ぬときはそんなに悲しくないだろう。ずっとそう思っていた。

でも実際に死にゆく父を見ていると、楽しかったこと、感謝したいことばかりが思い出されて、ほんとうに悲しくなった。聞こえているかはわからないけど、あれもこれも、伝えたいことが頭にあふれて止まらなかった。

僕はけっきょく、父になにもしてあげられなかったのだ。


父が息を引き取ったのは、その日の夜23時半のことだった。




父は人脈の極端に少ない人で、親戚づきあいも皆無だったから、葬式はほぼ焼くだけで済ませた。参列者も僕と母のみだった(弟は研究発表でどうしても都合がつかなかった)。

火葬までの数日間は、仕事を休ませてもらった。独り暮らしで気が紛れにくいというのもあり、日常のふとした瞬間に父のことが頭をよぎって、そのたびに涙を流す日々が続いていた。この先僕が生きていくのは、もう父がいない世界なのだ、と。

荼毘に付してからはしかし、それも落ち着いた。骨壺は僕の家に持ち込み、仏壇とはいかないけれども、本の山をどうにか片付けて線香をあげられる環境は用意できた。

孝行は生きている内にしてやらなくては全く意味などない、とはわかっている。どうあれこれは僕の自己満足にすぎないのだが、供養ばかりは僕の手で懇ろにしてあげたいと思っている。


父のお棺には、少しばかり本を入れてあげた。宮本武蔵『五輪書』、『高村光太郎詩集』、トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』の3冊だ。一見すると妙な取り合わせだが、僕と父にとっては意味のあるラインナップだと思っている。

泉下での無聊を慰めるのに、少しは役に立つだろうか。

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