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今「デザイン」が楽しい。

ネットで「デザイン」の日本語の意味を引くと、設計とか意匠とか工夫とか出てきます。
僕は、この言葉を使って仕事をしているわけですが、
ずっと20年以上この言葉を履き違えていたというか、一つの方向からだけ見ていた気がします。
なんとなく、絵作り?笑
ポスターを作ること?CDジャケットを作ること?文字を作ること?
洋服のデザイン?プロダクトデザイン?パッケージデザイン?
デザイン家電なんていう変な言葉があったけど、
ざっくり言うと「見た目をよくする」ぐらいの意識で
この言葉を使っていたのかもしれません。

「映画制作をデザインする」と言う言葉は、2019年の1月1日。
苦し紛れに出た言葉というか、映画監督のプロジェクトをスタートするときに書いた企画書のタイトルですが、
「映画監督になりたい!」では、誰が言っても同じというか、
「デザイン」という言葉を足せばデザインをやってきた人である意味があるかなと、
他の人との差別化として使った言葉だったと思います。

「映画」をデザインするではなく、
「映画制作」をデザインすると書いたのは、
ストーリーや映画そのもののデザインのことではなく、
作る過程、制作のセオリーを変えて作りたかったから。
でした。

実際その企画書で走り回ってみると
「製作委員会を作りなさい」
「プロデューサーを立てなさい」
「幹事を決めなさい」
「テレビ局に持って行きなさい」
「ここは監督の出る幕じゃない」
「主題歌は今、旬の人を」
「今、カメラマンはこの人がいい」
などなど、セオリーがたくさんありました。
これでいいのか?でも、映画作りたいしな、、、なんて悩んで
この言葉通りに進めているとあっという間に2年経っていました。
どれもなかなかうまくいかず、2年間ほぼ進んでない、
むしろ映画作りは難しいことという事実だけが、日々日々浮き彫りになっていく感じでした。
コロナや、映画のヒット性や、初監督だとか配給が決まらないとか、予定していたキャストのスケジュールが合わない
など、さまざまな理由で、プロデューサーとテレビ局がスタートから2年目にして降りることに。

これまでの2年間がここで白紙になります。
2021年10月のことです。

ここで我に帰ったというか、
「ここまでの2年返せ!」ってなってもしょうがないというか、
あれ、僕タイトルに「映画制作をデザインする」って書いてなかったっけと。
作り方自体デザインする気だったでしょと。
自分のやり方でやればいいんだと。
ここから、
「自由にやってやる!」と腹を括ったのです。

お金集めや、制作チームづくり、キャストへの連絡、
配給会社へのプレゼン、PR広告のコラボなどなど、、、
全てを自分で連絡して、1個1個組み上げて行きました。
自分のフィールドに持って来ればいいということ、
やり方にセオリーなどないということ、
そんなことを噛み締めながら、解像度が急速に高まって行きました。

今、
映画の撮影自体はクランクアップし、
編集という作業に入っています。
ここでもデザインという言葉を意識します。
クランアップって、もっと「やりきったー!」というか、
感動の域に達するのかと思いきや、この後の編集のことで頭がいっぱいで
全然嬉しくないっていう笑
おめでと〜!なんて言われて花束もらっても、不安しかないというか笑
度々
「編集って誰がやるんですか?」って聞かれますが
「僕です」としか言いようがないんです。

映画の編集って監督がやらないんだね。
なんてことも初めて知りました笑

ここでまたデザインとはなんぞやという話に戻るのですが、
編集って、デザインのレイアウトに近いなと思います。
ポスターというフレームが、2時間という尺になった感じ。
撮った映像は、レイアウトのための素材集めという感覚。
ここから、文字をおっきくしたり、写真をトリミングしたりするポスターレイアウトのように、
映画も、映像を切ったり貼ったり、ときには大きくしたり、重ねたり削ったり、、、

編集はデザインに似てる。
だから、ここがいちばんの本領かもしれない。
そう思うと、デザインやってきたことで、
他の監督とは違った領域に行けるのかもしれないと、感じ始めました。
明日から宣伝美術のデザインも進めます。
グッズやコラボ、パンフレットなども進めて行きます。
(そこまでやった監督もいないだろう笑)

今、ようやく本当のデザインの言葉の意味が分かりかけている。
デザインは、絵作りだけではない、もっともっと無限の可能性がある。
監督をやってわかった、
今、デザインが楽しい。

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