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第6章 課長の秘密

 雨に打たれ、濡れに濡れた二人は悲鳴を上げながら長谷部のアパートへと転がり込んだ。
「寒い寒い寒い。ひー。」
着ていたジャンパーを脱ぎすて、三谷は大げさに震えながら騒いでいる。彼は、かなりくたびれたジーパンにスタジャンを羽織るスタイルだったのだが、このジャンパーがもともとダボっとしていたこともあって、水を含むとかなり重そうに見える。長谷部は三谷にバスタオルを放り投げた。
「サンキュー。」
三谷は礼を言うとパンツ一丁になり、タオルで黒髪をガシガシと拭いていた。三谷先生に比べると、かなりの剛毛で、それでいてしっかりとした直毛である。
長谷部は脱ぎ散らかされた衣服を拾い上げ、ハンガーに吊るそうとしたが、服からまだまだ水滴が落ちてくるので、洗面台で軽く絞ることにした。
「なんか渋い上着持ってんじゃん。あ、先風呂入っていいよ。」
長谷部は深い焦げ茶色をしたジャンパーの水を切りながら、ユニクロでは売ってなさそうなそれを眺めた。
「おう、悪いね。いいだろパーソンズ。」
三谷はそう言うとそそくさと風呂場に消えていく。パーソンズってなんだ?長谷部はファッションに疎いのでまあどうせ言われても大抵わからないのだが、このジャンパーはなかなか三谷に似合っていて、好きだった。・・自分が着たら笑われるだろうが。一通り服を干し、体をあたためながら、長谷部は明日のことをぼんやり考えていた。時計の針はもう3時を回っているようだ。少しでも寝るべきか、このまま起き続けて仕事に行くか迷う。まあどちらにせよ営業中に寝ることは間違いないな、そう思ってゴロゴロしていると、風呂場から三谷の声がシャワーの音に紛れて聞こえてきた。思えば不思議な一日だった。旧友との再会、昔の夢、閉じ込められた終電、そして―――

 地下の旅を終え、トンネルの出口に着いた二人は、外の大雨を目の当たりにして、まず絶望していた。しばらく立ち止まったままどうするか考えたのだが、ふと辺りをよく見るとそこは長谷部のアパートから、歩いて15分ほどの住宅街であった。長谷部は、なるべく早く帰りたいこともあり、土砂降りの中、走る選択をした。三谷先生の息子を連れて。三谷は悪い奴には見えなかった。自己主張が強く、はつらつとしていて好奇心旺盛、少年のような目をした男だった。どことなく岡に似ているな、とも思ったが岡のようなお坊ちゃん、といった感じはまるでなく、実に庶民的な雰囲気が流れている。長谷部は基本的に人に乗っかるのが好きなので、岡や三谷のようなグイグイくるタイプの存在は一緒にいて割と心地よい。そんなことを考えている間に、三谷は風呂から上がってきた。
「ひゅー、生き返ったー。待たせてすまん。風呂どうぞ。」
下着姿の三谷は上機嫌な様子で長谷部の隣に座った。
「うん。冷蔵庫にあるもの適当に食べといていいから。」
そう言って長谷部も冷えた体を温めにいった。3月とは言え夜は寒い。しかも雨に打たれていた。
熱いシャワーが久しぶりに真冬を思い出させてくれる。気がつけば長谷部も柄ではなく、鼻歌を口ずさんでいた。

 郊外の、それも少し駅から遠い社宅。そこに香西は家族4人で住んでいた。一家の主といえば聞こえはいいが、実際にはほとんど家におらず、家族ともまともに話さない日々が続いている。そんな決して冴えることのない中間管理職の彼は、悪夢にうなされ真夜中に飛び起きた。
「なんだ・・夢か。」
二度寝する前に携帯電話を確認すると、そこにも悪夢は存在した。日付が変わってから午前4時までに、おびただしい数の着信履歴。香西はため息をついた。折り返すべきか、明日にするか。じわりと汗のかいた手で携帯電話を握り締め、台所へと向かう。冷蔵庫を開いて、麦茶を取り出し、コップに注いで一口。だいぶ胸の動悸も収まってきた。
 思えばこの地獄の日々に入ってから、もう3ヶ月が経つのか・・。香西はこの先よくなるとは思えない自分の人生を悲観していた。着信の相手、それは借金の取り立て屋である。朝から晩まで仕事中であろうが、夜寝てようが、ひっきりなしにかかってくる電話。何が辛いかというと、その中で、たまに、職場からの電話も含まれていることである。それがある限りはどうしても携帯電話をチェックしなければならなかった。それに、もし取立ての電話を無視し続けていれば、次は自宅に押しかけてくるだろう。家族に内緒で返せない借金をしていた父、もしそれがバレたら・・・。考えるだけでもゾッとする。香西は後悔していた。
1年前、付き合いで行った忘年会で、昼間から夜まで合計5時間半も、支店長をはじめとする会社の連中に飲まされ続けた。泥酔した香西は、結局朝まで公園で寝てしまって、その時の記憶がほとんどないのだが、あの夜に支払わされたのだろう。翌月になって、高級ダイヤや、ブランドもののカバン等、クレジットカードの請求が山のように届いたのである。もちろん家族になんて言えるわけもない。彼は逼迫する車のローンや娘の学費の支払いをなんとか工面するために、サラ金へ通い、その場をしのいだ。しかし、借りたところが悪かった。利子分の返済だけで精一杯になり、次第に借金を借金で返す、最悪パターンへと陥って、どうにもこうにも身動きが取れなくなってしまったのであった。このままの生活は長く続かないことは、香西もわかっている。もしこのまま奇跡でも起こらない限り―――彼は覚悟を決めようとしていた。深く深呼吸して、台所の灯りを切り、ベットへと残り僅かな現実逃避の旅に、再出発するのであった。

 結局中途半端に1時間ほど寝てしまった長谷部は翌日、さっそく地獄を味わうこととなった。異様なまでの体の重さを感じながら、いつもと変わらぬ朝を迎える。寝ぼけた目をこすりながら、スーツの上着に細めの腕を通す長谷部は、朝食も取ることなく、アパートの一室を後に・・・できない。いびきをかいて長谷部のジャージを着ている三谷が、この日はいたのである。三谷をたたき起こし、顔も洗わせないまま、家から連れ出した。そうしなければ、遅刻してしまう。寝ぼけた三谷はかなり不機嫌だったが、そんなことは知ったこっちゃない。まだ乾いていない靴を履いてブツブツと文句を言っている彼は、昨日の夜に比べて、さらに若く見えた。
「なあ三谷。」
電車に揺られながら長谷部は三谷に訪ねた。
「んー?」
三谷は窓から景色を眺めながらあくびをしている。昨日までの雨は嘘のように、雲ひとつない清々しい(休日ならば)青空だった。
「仕事はないのか?」
そう聞くと、三谷はパンをかじりながら頷いた。
「ああ、まあな。どっちにしろこんなジャージで職場なんか行けねえだろ。」
たしかにそうだが・・。ひょうひょうとした様子の三谷に、仕事の話が大嫌いな長谷部。これ以上その話題に触れることはなかった。
「じゃあ俺、その公園で寝とくわ。また後でな。」
長谷部の営業エリアの駅で、三谷は降りることにした。合流することにしたのだ。
「あ、外寒いだろ。これ。」
長谷部は自らが着ていたコートを三谷に手渡し、閉まる扉の向こうで手を振っている三谷を眺めた。ここから長谷部、しばらくの苦行である。なぜならば本日の彼はほとんど寝ていない上に、通勤カバンも持っていない。支店についたらどう切り抜けるか、残りの電車内、それしか考えられなかった。
 そして、待ちに待った5時間後。気温も上がってきた昼下がり、長谷部はようやく電話地獄から解放され、外回りへと脱出した。昼食の鮭おにぎりとチキンをコンビニで買いこみ、三谷の待つ例の公園へと急いで向かう。電車から降りると、駅は春の匂いがしていた。ふと、大学卒業間際のことを思い出す。一年前の今頃は、卒業旅行だったのか。一瞬そんなことを考えたがすぐにやめた。そんなこと、虚しくなるだけだ。公園へと足を踏み入れると、三谷は、真ん中の、コンクリートでできた大きなタコの滑り台で、ぐったり昼寝をしているように見えたので、長谷部は声をかけ、近づこうとした。声を出した瞬間三谷は長谷部に気がついたのだが、慌てた様子で、人差し指を口に当てている。こんな昼の公園で一体何を静かにしろというのか、不思議に思った長谷部だったが、三谷のジェスチャー通り、タコの滑り台の影へと身をかがめた。
「おい、一体どうしたんだよ。」
ヒソヒソ声で長谷部は尋ねた。
「あれ見てみろ。」
三谷はタコの向こう側のベンチをあごで指した。恐る恐る顔を出し、ベンチを確認すると、そこに座っていたのはなんと、香西課長だった。何やら電話をしている様子だ。
「あれ俺の上司だぜ?なんで知ってんの?」
長谷部が焦ってそう言うと、三谷はもっと驚いた様子で目を丸くしていた。
「うそだろ?そうだったのかよ。全然知らなかったぜ・・。」
どうやら嘘をついているようには見えなかった。三谷は本気でびっくりしている。
「そりゃますます面白いな。聴いてみ、ほら。」
三谷に言われるがまま耳を澄ます長谷部。香西課長はなにかをしきりに謝っている様子だった。支店からの電話か?一瞬そう思ったが、その声はいつもとは比べ物にならないくらい、落ち着きがなく、泣きそうであった。
「すみません、本当に、本当に何とかしますんで、来月、来月まで待っていただけないでしょうか、お願いします・・。」
何を待つんだ?電話の内容を考えていると、三谷がニヤつきながら教えてくれた。
「あれな、借金取りだぜ電話してんの。ドラマ以外で初めて見たわ」
まさか。長谷部は、もう一度顔を出して香西課長の表情を見ようとした。しかしそのときには既に電話を終えたらしく、ベンチを立ち上がるところであった。慌てて長谷部はタコの滑り台の中へと入り、公園の出口から死角になるように身を潜めた。
「あぶねー。」
香西課長が公園をでるのを三谷が確認し、長谷部にOKサインを出すと、長谷部はそう言って大きく息を吐いた。
「お前の上司大丈夫なのかよ、おい。」
三谷が面白がって長谷部に聞いてくる。長谷部自身もそのようなことは、初めて知り、驚いていた。課長がそんなことに手を出すようには全く見えない。複雑な顔をしていると、三谷が呆れた様子でつぶやいた。
「たく。借金つくった時点で負けなんだよな。」
やれやれといった感じで、三谷は長谷部の持ってきたビニール袋から鮭おにぎりを取り出し、立ち上がった。昼ごはんは一人分しか用意していない。
「あ、それ俺の・・まあいいや、半分こするか。」
三谷の行動は横暴だが、彼がやるとなぜか憎めないのが不思議なものである。
「おお、いいのか?ありがとう!」
三谷は満面の笑みを長谷部に向けた。予想以上に喜んでいたので、全部上げても良かったかな、とすら思えてきた。
「これから金持ちのとこに営業か?」
おにぎりをほおばりながら三谷が尋ねた。何やら興味があるような聞き方だ。
「いやあ、三谷もいるし、今日はもう適当に時間潰してもいいよ。」
長谷部はそう言ってあくびをした。とにかく眠かった。
「いやー、せっかくだしついていこうかな営業現場。」
まさかの申し出に長谷部は苦笑いした。こんなみっともない外回り営業を人に見られながらするなんて、罰ゲーム以外の何ものでもない。
「いいよいいよ。どうせ見たって面白くないし、腹立ってくるだけだぞ。」
長谷部は残った半分のおにぎりを三谷から受け取り、営業の愚痴を語り始めた。自慢ではないが、この手のネタなら尽きることを知らないのである。三谷は最初はかなり面白がって聞いていたのだが、昨日断られた老人の話になると、イライラした様子だった。
「はあ?そんなやつ本当にいるのかよ!信じられねえ!」
三谷が一緒になって怒ってくれたので、嬉しかった長谷部は、調子に乗ってその老人について、少々盛って話してしまった。すると、
「おい、そいつんとこ今から行こうぜ。案内してくれよ。」
しまった――そう長谷部が思った時にはもう遅かった。三谷はすっかりどんな奴かを確かめに行く気まんまんだった。こうなった彼はもう止められない。長谷部は段々と三谷の性格がわかってきていた。
「あぁ、わかったよ・・。でも家に居るかはわからないぜ。」
こうして昨日に引き続き、今度は二人で、レンガ造りの大豪邸へと再訪問するのであった。

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