モールの中の魔物
土曜日の昼下り。
ショッピングモールの中にある書店で、以前から気になっていたハードカバーの本を購入した。
さて、目的のものは手に入ったし、家に帰ってゆっくりするか。
そう思いながら、私は本が入ったビニール袋を左手でぶらぶらさせながら出口へ向かって歩く。
コツ、コツ、コツ…。
履きなれたパンプスが、茶色いフローリングを小気味よく叩く。
コツ、コツ、コツ…。
沢山のお店が詰まったショッピングモールには、色んな人が色んな方向へと歩いてゆく。
皆それぞれ、なにか目的のものを得ようと歩いているのか。それとも、今から何かしらの目的を得たくて、さまよい歩いているのか。
ぎっしりと並んだ、きらびやかなアクセサリー、洋服、生活雑貨や化粧品ブランドのお店が
「此方へいらっしゃいよ」
と甘い空気をそこら中に漂わせ、客を絡め取ろうとしているようにも見える。
だが、そんな誘惑には私は惑わされないぞ。
なぜなら、もう「目的のもの」は手に入れたのだから。
私はなんだか、見えない敵に勝ったかのように思えた。
コツ、コツ…と歩きながら
あら、その洋服素敵。でも、流行りはすぐ変わっちゃうでしょう?
こんな可愛いピアスが安く売ってるなんて、ついてるわ!でも、楽しみはまた今度にするわね。
と、様々な甘い蜜達にサヨナラを告げる。
もうすぐ出入り口だ。
そこからモールの中へ入っていく人たちをリズムよく交わしながら、自動ドアへと近づく。
そこでふと、私の右斜め前にスッ…と現れたお店があった。
コツ、コツ…コツ。
先程まで軽快にリズムを刻んでいたパンプスの音が止む。
先程の甘い蜜達とは段違いの、脳幹に訴えかけるような、暴力的でいてとても甘美な匂い。
思わず、そのお店をまじまじと見つめてしまった。
人の理性を惑わすかのようなランプの明かり。
出口までは、もう少しなのに…。
左目でドアの方を見ると、ちょうど目の前の人がふらっとそこへ吸い込まれていくのが見えた。
その人の背中を、まるで誘導されているかのように目で追ってしまう。
どうやら、奥の方まで列をなしているようだ。
しまった。ここは…
黒い下地に、赤い"m"の文字で始まる看板。
確か、そこに棲み着く魔物は、妙なタテガミを持ち、人々の心臓を鷲掴みにしてくるという。
私は生唾を飲んだ。
「ミスター、ドーナツ…。」
思わずそう口にしてしまうほど、私の理性はもう、力を失いつつあった。
なんとか意識をそらそうと、後ろポケットにしまってあったスマホを取り出し、待ち受け画面を見た。
そのディスプレイに表示されている数字は"14:45"
その刹那、
"もうすぐ3時のおやつだよぉ!"
あどけない、舌っ足らずな声が、突如として脳内に響く。
店内の奥へ目をやると、やはりあの獣が「してやったり顔」で此方を見ている。
「ポン・デ・ライオン。やはり、貴方だったのね。」
なんとか抗おうとする理性とは裏腹に、私の胃袋は情けない音を立て始めた。
"コバラがすぃたときには、ドーナツポップがぉすすめだょぉ?"
よだれを垂らしている私の胃袋に一撃を食らわそうと、ポン・デ・ライオンが忍び寄ってくる。
「やめて。私はもう…貴方に用は無いのよ。」
強く言い放ったつもりが、その言葉には全く力が入っていないのが自分でも分かった。
私のするべき事はただ一つ。目の前の自動ドアをくぐりぬけ、まっすぐ自分の車へと戻ることだ。
そのはずなのに、出口をくぐり抜けることよりも、今日一日に摂取したカロリーと、財布の中にある小銭の残り具合の両方を、どう折り合いをつけるかということで頭がいっぱいになっていた。
お昼は軽めにしたから、1個ぐらい問題ないはず。それに小銭が増えすぎて財布も膨らんできちゃってるし…。
と考えたところではっと我に返り「違う、そうじゃないでしょ」と頭を振る。
だが、足元を見たときにはもう、パンプスの先がお店の入口を向き始めていた。
「足が勝手に…」
戸惑う私に対し
"いいや。君の体は君の本能に従って動いてるのさ。"
と黄色の魔物は静かに言った。
「え?」
"毎日毎日、カロリーと体重を気にして、味気のない犬の餌のような食事ばかりを口に運ぶ。テレビに映るきらびやかなスイーツから目をそらし、気休めのコーヒーを何杯も飲んで胃はボロボロ"
図星だった。1グラムでも痩せたくて、奇麗になりたくて、毎日美味しそうな食事やデザートを私は我慢ていたのだ。だが、こんな努力を積み重ねても、体重はなかなか減らないし、ストレスが貯まる一方だった。
「そうよ…。」
私はうなだれた。言い返す言葉もなかった。
だが、もしこれでタガが外れたようにドーナツを食べてしまったら?今までの努力は?
魔物の目は先程よりも鋭くなっていた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。先程吸い込まれていった客が、恍惚の表情で出てきた。右手には茶色い紙袋を掴んでいる。
どうするべきかと未だ踏みとどまる私に業を煮やしたのか、とうとう魔物が目を赤く光らせ、唾液の絡んだ牙を上下に大きく開きながら
"人気定番8個セット、税込み1340円!お買い得となっております。いかがでしょうかー!!"
と咆哮した。
途端に目の前が真っ白になり、所詮ヒトは魔物に抗えないのだということを思い知りながら、私の記憶はそこで途絶えた。
気がつくと目の前にはアパートのドアがあった。どうやら、魔物からはなんとか逃れられたようだ。
あの後の記憶はすっかりと抜け落ちているが、ふと手元を見ると、くゃくしゃになった書店の袋と、ドーナツ8個入りの箱が握られていた。
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