凪 NAGI 3
耳鳴り
「ただいま。遅くなってごめんね。ちょっと細かい仕事が続いちゃってさ。」
そう言って、葵は履きつぶしたスニーカーを脱いだ。
「お〜。あおちゃん、お疲れ~。荷物置いてゆっくりしなよ〜。」
玄関からちらっと左側を覗くと、恋人の松田裕太はキッチンで洗い物をしている最中だった。
「うん。ありがと。」
そう言って、葵は裕太の言葉に甘えることにした。キッチンのすぐ後ろにあるリビングへ行き、適当にバッグを床に置いて、ソファーに腰を落とす。今日一日の疲れが、ゆっくりとソファーに染み込んでいく。葵は溶けていく意識に身を任せ、ゆっくりと瞳を閉じた。
裕太は葵より5歳年上で、友人の紹介で知り合った。今まで同い年としか交際をしたことがない葵だったが、初めて裕太と会った時からお互いの趣味で話が合い、その1ヶ月後には正式に付き合うことになった。葵は時々考え込んでしばらく沈黙する事がある。それが原因で、という訳ではないが、過去に交際した男からは「なに考えているか分からない」と言われたことがあり、その後振られたという経緯がある。だが、裕太はそんな葵に無理やり会話を強要することはなく、また彼もゆっくり話す性格なため、その関係性も葵には心地よく感じられた。今月で付き合って1年目になる。
「晩ごはん、何にしようか?」
その言葉で、はっと目が覚めた。ソファーに四肢を広げたまま座り込んだ葵を、少し可笑しそうな眼差しで裕太が覗き込んでいる。なんだかあまり食欲が湧かない。今日のお昼は結局、午後遅くになってしまったし、防犯カメラの映像をバックヤードからぼーっと眺めながらメロンパンを齧っていたら、あっという間に休憩時間が終わっていた。最近、自分を労る時間が取れていない気がする。
「なんか、あったかいものが良いな。寒いし。鍋とかどう?」
本当は鍋でも何でも、美味しく食べれる気がしなかったが、恋人がかけてくれた言葉を葵は無下にしたくなかった。ところが、返答したにもかかわらず、裕太は葵の顔をじっと見ていた。
「あおちゃん。今日何かあった?」
さっきまで微笑んでいたのに、気がつけば真剣な眼差しに変わっている。もしかして、顔に疲れが出ていたのだろうかと思い、葵は少し焦った。仕事の話は何度かしていたものの、疲れたという態度や愚痴を漏らしたくはなかったからだ。本当は唯一本音を話し合える関係の恋人になら、その日あったことや辛かったことを話して、心のわだかまりをほぐしたい。だが、折角の二人の時間を暗い話で台無しにしたくなかったのだ。それに、自分の話ばかりをする女だと思われても嫌だった。どちらかと言えば、嫌われたくないという気持ちの方が強いのかもしれない。
「あれ、疲れている様に見える?ちょっと仕事の量が多かったからかな。でも、寝たら疲れ取れるから!大丈夫!」
葵はいつもより明るく取り繕うとした。
「最近、笑わなくなったよね。あおちゃん。どうして?」
「え、そうかな。結構笑ってるよ。昨日とか寝る前にお笑い観てたしさ。はは。」
笑って誤魔化そうとしたが、裕太は笑ってくれなかった。
「あおちゃんってさ〜。あまり本音を話してくれないよね〜。」
本音、か。─何考えてるか分からない─その言葉が呪縛のように葵の頭を締めつける。本音を全て言ってしまえば、皆んな離れて行ってしまうじゃないか。どこまで本音を打ち明ければ許されて、どこからが許されないのか、その加減が葵には分からない。一番近くに居て欲しい恋人が、自分を脅かす未知の存在に思えた。安心だと思っていた世界の輪郭がぼやけて、遠のいて行く。
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