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【ルーン語り】ひょっとして、そのルーティンは思考停止のなれの果て?

毎日の暮らしや仕事の中には無数のルーティンがある。

朝起きてから夜寝るまでのルーティン。

家事のルーティン。

仕事中のルーティン。

子育てのルーティン。

仕事を終え、帰宅してからのルーティン。

お風呂に入るときのルーティン。

…などなど。

振り返ってみると、それらの中には、自分で意識して決めたものもあるし、無意識に出来上がってしまったルーティンもある。

意識して決めたルーティンなら、それが今ひとつうまくいかない時に「どうしたらいいのか」「どこを直したらいいのか」と、再度検討しようという気持ちになるかもしれないが、無意識に決めていたルーティンはそうはいかない。だって無意識だから、自分がいつの間にか作った流れがそこに存在することに気付いたり、その流れを変えようとする気にはなかなかならないのではないだろうか。

最近、気づいて呆然としたルーティンはこうである。

私は、もうかれこれ10年以上、銀座にある「Aヘアサロン」へカットに通い続けている。自宅のある横浜からそこへ向かうには、新橋で銀座線に乗り換える必要があった。

その乗り換えの際、銀座線の改札を入ってすぐ、左右それぞれに階段がある。私はずーっとずーっと何年も、何も考えずに左の階段を使っていた。それこそ、何も考えず10年以上だ。

しかし、その階段を降りて電車に乗るよりも、右の階段を降りて先頭車両に乗るほうが銀座で降りて店に向かうまでもかなり楽(トータルの歩行距離が短い)と言うことに気がついたのがつい最近だった。

特に私が歩くのが好きだからとか、運動のために遠回りをしていたと言うことではない。ただ単に、ぼんやりしていたのである。10年以上も。

ぼんやりしながら体に染み付いたルーティンをこなしていたのである。これには我ながら呆れた。通い始めた頃に少し考えればわかりそうなものを、全く考えていなかったことになる。

名付けて「思考停止ルーティン」である。

思考停止ルーティンは私の生活の中にまだまだありそうだ。

でも、これって私だけだろうか。

10年以上ぼんやりしていた私の例は極端すぎるけど、生活の中の行動を、隅から隅まで無駄なく隙なく計算し尽くしている人でもない限り、似たようなことって、これを読んでくださっているあなたの中にもないだろうか。

あるに違いない。あって欲しい。

一方で、Youtubeでよく、「〜〜〜な私の、モーニングルーティン」などの素敵動画が流れてくるが、あれらからは「無駄を徹底的に排除しています!」という気合ではなく、ゆったりとした雰囲気を感じさせる(演出も多々あると思うけど)。

そうなると、ルーティンの全てが無駄のない一連の行動というわけでもなく、こう動くと気持ち良い!とその人が感じられればいいのかもしれない。

そうは言っても極端な思考停止はやはり考えものだなあ。仕事や生活の中で気づいたらいろいろ見直してみよう、と思う今日この頃である。

さて、ルーティンと聞いて浮かんでくるルーンは「ダガズ(ダエグ)」。

ダガズ(ダエグ)が現れた時は、ルーティン(地味な作業)を馬鹿にせず、淡々とこなしましょう、と言うメッセージにも取れるけれども、私は自分の思考停止ルーティンを疑う。たまには生活の中のルーティンを洗い出し、見直してみることで行動のサビ付きがなくなり、暮らしが予想以上にスムーズに運ぶこともあるのではないかと思う。

その逆に、地味ながら人生の時を刻んできた、宝物のようなルーティンもあるのではないだろうか。例えば、母親の姿を見ながらいつの間にか身についていた料理の仕方とか、衣類の管理の仕方とか。それもまた、ひっそりと存在していて気づきにくいものかもしれない。でも、ひょんなことでそのルーティンに気づいた時に、ありがたさを感じる瞬間が訪れたりするのだろう。

ちなみに、我が家は夫も息子も鉄道好きなので、A地点からB地点にいくならどこそこの駅で何両目の車両に乗ると乗り換えが楽だとか、そんな情報を嬉々として教えてくれる。最初から彼らに頼ればよかったのだ。

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