自分のすべてを捧げるほどやりたいことは何?

パリオリンピックの柔道で、まさかの負けてしまった詩選手が号泣したシーンは、あの時何回も何回もテレビから流れてきて、オリンピックなんてほとんど真面目にみていない私までもらい泣きするほどだったが、それと同時に「あそこまで泣くほど打ち込める好きなものがあるって羨ましい」と思っている自分がいた。

彼女はまだ若いし、これからきっとこれをバネにしてどんどん技を磨き活躍の場を広げていくのだと思うが、還暦に差し掛かった自分は果たしてどうなんだろう。と、ふと我が身を振り返ってしまったわけだ。

この「羨ましい」という感情って、普段はあまり感じたことがない。

すごく豪華な暮らしをしているとか、もう働く必要もないほど蓄えがあって何をしても自由、なんていう人をネットなどで見かけることもあるけど、羨ましいと思ったことはない。

それよりも、超忙しそうで寝る時間も惜しむほど楽しそうにひとつのことに打ち込んでいる人を見かけると、ちょっといいな、と思うことはあった。

でもあの詩選手の号泣は、ぼんやりしていた私にとってかなりのインパクトがあった。こっちのこっちの目が醒めるような気持ちになった。

私にももちろん好きなことはある。いろいろとある。

興味のあることは次々とやってきた。

しかし振り返ってみると、わたしは比較的諦めが早い方で、これまで色々なことを諦めてきた。子どもの頃は「親に反対されたから」とかいうのが理由になっていたけど、大人になったら親の反対なんてない。

幸い、理解ある夫と暮らしているおかげで、「妻だから」「結婚しているから」という理由でやりたいことを反対されたこともない。

大人になって諦めてきたことは、自分で早々に見切りをつけたものばかりだ。

でも、なんだか未練があるものもある。時々思い出しては

「なんであそこで諦めたんだっけ?」

と思うこともある。

最近、それをよく考える。

これが歳をとったということなんだろうか。

もしも私が、この先何年、何十年か経っていよいよ肉体を離れるという時、

「ああ、あの時、やろうと思えば続けられたのに、がんばらなかった自分って残念だなあ」

なんて思いながら息をひきとる自分の姿を想像するとすごく悲しくなる。そんなことにならないようにするにはどうしたらいいのだろう?と考える。

その答えはシンプルで、悔いのないように今すぐやればいいだけのことだ。

でも、時間は限られている。

「本当の本当に諦めたくないこと」を見出すべき時なんだろうと思う。

これひとつを成し遂げることができたら死んでもいいと思えることを、選ばなくてはいけないんだと思う。

今、夫が入院したことでスケジュールを調整したり、やれることやれないことを振り分けて淡々と暮らしているが、がっかりしたり、残念でたまらないと悔しく思っていることはない。

それは、その一旦中断したことよりも家族の方が自分にとっては比重が大きいからで、大切だから。

この静かな時間を過ごしているうちに、じゃあ、本当に諦めたくないことや、自分のすべてを捧げてもいいことってなんだろう?と考えてみたい。

北欧神話の中でオーディンは、ルーン文字を見つけた時に「最高神である自分自身に自分を捧げる」という修行を行なってやり遂げた。

他の誰にでもなく、自分に自分を捧げるってなんだか素敵な表現だな、と思ったものだった。

私も、いつか自分のすべてを自分に捧げてみたい。やり尽くしてみたい。

いつもの夜中のつぶやきでした。


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