fallen leaves

 降りるべき駅に着いても僕は座席に座ったまま、やがて扉が閉まり電車が動き出した。次の駅で折り返したところで授業には間に合わない。でも家を出た時から、大学に向かう気分ではなかった。
 ただどこまでも、遠くへ行ってしまいたかった。
 ひとつ駅を過ぎ、ふたつ駅を過ぎ、みっつ、よっつ……と数えているうちに、だんだん人の数が減っていく。とうとう僕ひとりだけになり、長い長い橋を渡ったところで、終点に着いた。古くこぢんまりとした建物の中に駅員の姿はなく、自動改札がぽつんとあるだけだった。
 そこを抜けて外に出ると、坂道が左右に延びている。下っていく先を見ると、遠くにぼんやり海が見えた。上っていく先には鬱蒼とした森が見える。ひとまず、上っていくことにした。
 頬を撫ぜる秋の風はすこし寒いくらいだ。空の半分くらいは雲が浮かんでいて、太陽が見え隠れしている。今朝はほんとうに冷えて、押入れの奥からマフラーをひっぱりだしてきた。
 しばらく坂をのぼっていく。けっこうな勾配で、すぐに息が上がり、身体が熱くなってきた。それでも歩むのをやめなかったのは、ただ遠くへ遠くへという念にとらわれていたからだ。
「はぁ、」
 大きく息をついたそのとき、風の向きが変わって一枚の葉が目の前を通り過ぎた。飛んできた方角へ思わず目を向けると、細い道が森の奥へと続いている。引き寄せられるように僕は足を踏み入れた。
 木の根っこに躓きかけたり、濡れた草で足を滑らせたりしながら、狭い中をどうにか進む。やがて道幅が広くなり、視界がひらけた。
 その先で、リュックを背負った青いズボンの男の子がしゃがみこんでいる。目の前のカゴを持ち上げようとして、どうにもならないようだった。
「えっ」
こんなところで人、それも子供に出会うなんて。思わず上げた声に、男の子が顔を上げる。くりっとした目を何度かぱちぱちさせた後、にっこり笑ってみせた。そしてまた、カゴを持ち上げようとする。
ゆっくり近づいて覗くと、果物がいっぱいに入っていた。
「これを運ぶのかい」
「うん」
「どこへ?」
 カゴを持ち上げる。大人の僕でもひょいっと、というわけにはいかない。小さなこの子にはなおのこと無理だろう。
 彼が案内した先には小屋があった。中には大小さまざまなカゴが並んでいて、どれも果物が積まれている。ただひとつだけ、いちばん大きなカゴは空だ。
「こんどはあれ!」
 そのカゴを指さして、男の子が笑った。

 森の中を進みながら、彼はつぎつぎとリンゴやナシを拾っては僕に差し出してきた。それを抱えたカゴに入れて、僕は後ろをついていく。時おり振り返って僕を確認する男の子の仕草はとても愛らしかった。たまには僕も果実を見つけることがあったけれど、手に入れたものの大半は彼の功績だった。
 ずいぶん慣れているね、と言うと、ぼくのお仕事だから、と彼は胸をはった。
「お仕事」
「そう、秋のね」
「じゃあ……たとえば夏は?」
「海で魚釣りをするよ」
 言葉を交わしながらも、彼の手は休まらない。カゴはどんどん埋まっていく。
 僕も彼くらいの頃、祖母の後ろについて果樹園の手伝いをしていたな。ぼんやり記憶がよみがえり、息が詰まりそうになる。目の前の小さな背中に、むかし見上げた祖母の背中が重なる。
 無理やり顔を背けると、風に吹かれて木の葉が一枚二枚、通りすぎていった。
 ――まただ。
「どうしたの?」
 葉がやってきた方角へ、そうっと足を踏み出す。男の子も僕についてきた。ふわり、また一枚やってくる。歩を進める。ふたたび葉が飛ばされてくる。その繰り返しだ。
 やがて葉の出所は知れた。広場のようなぽっかり空いた場所に、ぽつんと紅葉した木が立っていた。ただほとんどがもう褐色で、赤い葉はまばらに残っているだけだ。そこからはらはらと落ち、あるいは風に乗って舞っていく。
 この周囲も、今まで通ってきた道も、木々の葉はまだ青々と茂っていた。この木だけが違う。太く高くそびえる様は厳かで、なにか特別な謂れでもあるのかもしれない。
 僕らはその木の下で、すこし休むことにした。男の子のおなかが鳴ったからだ。
「ちょうど十二時だね」
 懐中時計をたしかめ、彼は照れくさそうに笑った。そして背中のリュックからおにぎりを取り出し、おいしそうに頬張り始める。
 僕はなにも持ち合わせていなかったから、ぼーっと辺りを眺めていた。
「たべる?」
「いいよ、君の分がなくなるから」
 じゃあ、と言って、男の子はカゴからリンゴをひとつ、分けてくれた。
 けれど僕はどうも食欲が湧かず、もらった実を手の中で弄ぶ。俯いていると、嫌でもマフラーが目に入った。赤と茶のリバーシブル。よく見ると小さなほつれがあった。この森のどこかでひっかけてしまったんだろう。
「あー……」
 指先でほつれを撫でてみたところで、直るはずもない。
「そのマフラー、大切なものなんだね」
 男の子はおにぎりを食べ終えて、水筒のお茶を飲んでいる。
 僕は首を横に振った。
「一年前の誕生日にもらったあと、押入れに放り込んだままだったんだ。そんなの、大切じゃないってことだよ」
「だれにもらったの」
「……ばあちゃん」
 祖母は昔から編み物が好きで、こつこつ編んでは、出来上がったものを家族や知人にプレゼントしていた。幼かった僕にも、祖父のセーターを解いて手袋を作ってくれたことがある。それを僕は嬉しがった。だからこのマフラーも、きっと喜ぶだろうと思ったに違いない。
 けれど大学生になった僕は祖母の手編みなんてどうも恥ずかしく、そっけないお礼を言っただけで、一度も使うことはなかった。
「今さら、だよ。今さら巻いてみせたってさ」
「どうして? 去年はありがとうって、おばあちゃんに見せたら」
「できないんだ」
 その後に続けることばを、僕はしばし悩んだ。直接的な表現は、避けたかった。
「その、もう二度と……会えないから」
 昨日が四十九日で、祖母の納骨を終えたばかりだった。
「手の届かないほど遠くへ行ってしまったんだ」
 みるみる、男の子の顔がくしゃくしゃに歪んでいく。まんまるな瞳が潤んで、ぽろり、涙のつぶがこぼれ落ちた。
「ごめん、君は優しいね」
 葬儀での姉を思い出す。もともと感受性が高くてすぐに涙をこぼす姉だったけれど、祖母の棺を前に泣き崩れ、瞼は赤く膨れ上がってしまっていた。慟哭するってこういう感じなんだろう。一方で僕は、祖母の死から昨日にいたるまで一滴の涙も流したことはない。ただ、ヒトはあっけない存在なんだなと思っていた。
 薄情なんだと思う。祖母が入院したと聞いたときも、様子を見にいくことはなかった。姉は義兄と駆けつけたというのに。その前だって僕は自室にこもりがちで、祖母と会話らしい会話をした記憶もなかった。もしかしたら、去年の誕生日が最後なんじゃないだろうか。
 そんな僕が今さらこのマフラーを身につけたって、罪滅ぼしにもならない。
 ざあっと風が吹いた。たくさんの葉が枝から離れ、飛ばされていく。いずれこの木から全ての葉が落ちてしまって、寂しい姿になるんだろう。何もかも片付けられてがらんとしてしまった祖母の部屋が浮かび、思わずぶるっと身震いする。
「あのね、この葉っぱって、お手紙なんだって」
 風につぎつぎ飛ばされていく葉を指さして男の子は言う。
「ことば、とかはがき、とか、葉っぱの字を使うでしょ」
 言葉も葉書も、もとは葉ではなく端だった、と授業で聞いた記憶がある。でも僕は頷いて、彼が続けることばを待った。
「冬になると木はおやすみしちゃうから、その前にばいばい、またねって、お手紙出してるんだって……パパ、言ってた」
 手紙、と聞いて、僕は鞄の中を探る。しわくちゃになった便箋は、すぐに見つかった。葬儀の日、祖母の棺に別れの手紙を入れるからと、姉夫婦をはじめ孫たちはみんな書いていた。僕も便箋を渡されたけれど、どうにも上手く言葉にできず「ばあちゃんへ」で止まってしまった。
 名前だけでも書いて入れてあげたら、と義兄さんが言ってくれた。でも本文のない手紙はやっぱり気が引け、こっそり鞄にしまいこんで、捨てることもできずそのままだった。
 再び吹いた風が葉をさらって、すぐに見えなくなる。ざあっ、ざあっ、吹くたびに遠くへ、遠くへと飛ばされていく。
「だいじょうぶ、きっと届くよ」
 添えられた小さな手のひらはとても温かい。
「……うん」
 僕は立ち上がって、風が吹いていく先を見つめた。
「ばあちゃん」
 ますます強くなる風に、僕の声はかき消されてしまう。
「ばあちゃん!」
 負けないように声を張り上げる。いっそう風は激しく木の葉を散らせていく。踏んばらなければ僕自身、持っていかれそうだ。
「ごめん……ごめんね……!」
 もっと言葉を交わしたら良かった。一緒に出かけたりもすれば良かった。ばあちゃんは僕を気にかけてくれてたのに、僕は何にもしなくって。ばあちゃん、寂しかっただろう。
 ごめん。本当に、ごめん。
 指先がかじかんでくる。男の子は僕の足にしがみついて必死に耐えている。そうだ、ごめんねよりも、僕が伝えなくちゃいけないのは。
「ばあちゃーん!」
 ごおっと渦巻くように吹いた風に、僕の指先から便箋が離れていった。一緒に奪われてしまわないように、僕はマフラーをしっかりと巻きつける。マフラーの暖かさが胸に沁みた。
「ありがとう」
 木の葉と一緒に手紙が高く巻き上げられていく。
「ばあちゃん、ありがとう」
 その瞬間、堰を切ったように涙が溢れだした。僕はマフラーに顔をうずめて、子供のように泣きじゃくる。
 やがて風はぴたりと止んで、森は穏やかさを取り戻していた。けれどこの木にはもう一枚の葉も残ってはいない。すっかり丸裸の枝が血管のように伸びている。
 その向こうに広がる雲が一つも無い透き通る青空を、僕はじっと見つめて佇んでいた。

「お兄さん、帰らなくていいの」
 男の子が懐中時計をたしかめる。空は赤く染まり始めていて、はっとするほど鮮やかな青色は消えつつある。
「帰らなきゃ、だめだよ」
 諭すように言う彼の表情は、幼い顔のつくりにはあまりに不釣合いに思えた。
「そうだね、帰るよ」
 森の入り口まで行って、そこで別れる。最後に彼は、リンゴをいくつか持たせてくれた。
「ばいばい、気をつけて」
 海に沈む夕陽を眺めながら坂道を下っていく。駅は相変わらず無人で、明かりは灯されていたが薄暗い。古びて変色した時刻表を見ると、十分後の電車が最終だった。ホームのベンチで待っている間ほかには誰も来なくて、乗り込んだのは僕ひとりだった。
 長い長い橋を渡って、電車はもと来た道を戻っていく。ひとつ駅を過ぎ、ふたつ駅を過ぎ、みっつ、よっつ……と数えているうちに、だんだん人の数が増えていく。今朝降りるべきだった駅に着くと、一気に乗客で溢れかえった。その中に大学で見かける顔はあったけれど、友人と呼べるほど親しい人はなかった。ちょっぴりほっとして、座席に深くもたれかかる。
 この先はもう、見慣れた景色が続くだけだ。
 すこし暑くなってきて、僕はマフラーを緩めた。するとはらりと木の葉が一枚、ずっとひっかかっていたんだろうか。いくらか赤みの残る褐色の葉を、まじまじと見つめる。もちろん文字は書かれていない。けれど大切なメッセージに思えて、手帳のあいだにそっと挟みこむ。
 窓の外では夕焼けもほとんど姿を消して、夜が一面を覆わんばかりになっていた。その境目の紫がかったところに、ビルのシルエットがくっきり浮かんでいる。
 それを眺めながら、もらったリンゴのひとつにかじりついた。思えば今日はなにも口にしていない。みずみずしい果汁と果肉が喉を通りすぎたとき、唐突に、生きていることを実感した。


 あれから数ヶ月、こんどは夏に、あの場所を訪れようとした。けれどそれは叶わなかった。なぜって、この路線は長い長い橋の手前が終点になっていたからだ。橋の先の駅はずいぶん前に廃止されたと知った。
 でも手帳には、あのときの木の葉が今も挟まれている。もしかしたらまた、あそこへ行ける日が来るかもしれない。
 そう思いながら、今日も僕は電車に揺られている。